鏡ごしに目が合うという経験は誰にでもあることと思います。
鏡ではなくとも、夜の電車に乗っていて窓に映った人と目が合ってしまうとか。
鏡を介在せずに直接目が合った場合は、お互いに「目が合った」
と認識出来るわけですが、鏡が間に入った場合はどうなのでしょう?
なんてことを、過去の一時期において、真面目に考えてみた事がありました。
なんつーか、どうでもいいことの典型のような話ではありますが、
気にしだすと気になるものです。
鏡ごしの場合は、こちらからは目があったと思っているけど、
相手は全然そうは思っていないのかも・・・、などと考えると、
なんとなくそんな気がしないでもありません。でも、どう考えても、
お互いに目が合ったと認識してるんですよね。頭の中で幾何学的な絵を書いて、
「うん、間違いない」と納得した覚えがあります。自分の目から相手の目まで、
鏡の反射を考慮して線を引くと、それは相手の目から自分の目への線に一致します。
だから、鏡ごしでも目は合っているのです。当たり前です。
しかしながら、人間には目が二つあるわけで、そのことも考慮しなければならないと
思うのです。
人と人が向かい合って立って、目と目が合った状態とはどのような状態でしょうか?
自分の右目と相手の左目、自分の左目と相手の右目が合った状態でしょうか、
それともその逆で、たすき掛け状に右目同士、左目同士が合った状態を
指すのでしょうか?
まあ、どちらでも良いのですが、ここでは仮に前者のような状態を「目が合った」
状態としておきましょう。以下、この仮定で話を進めますが、仮定を逆にしても、
同じような議論になります。
さて、ここで鏡ごしの場合を考えてみましょう。上の仮定をそのまま適用すると、
自分の右目と鏡の中の相手の「左目に見えるが実際は右目の虚像」、
自分の左目と鏡の中の相手の「右目に見えるが実際は左目の虚像」が合った状態を、
我々は「目が合った」と認識することになるはずです。
つまり、直接向かい合った場合とは違う目が合っているのです。面妖なことです。
だからどうこうという程のことはないのですが、妙に面妖なのです。
面妖なんて言葉は死語なのかもしれませんが、面妖と言いたくなるのです。
目と目が合うことは、人間のコミュニケーションにとって、それなりの意味を持つことが
多いわけです。ガンを飛ばしたり、愛する二人が見つめ合ったり、
意識して目を合わせる時には、なんらかの意志を表現しています。
鏡ごしでも、我々は直接目が合ったのと同様に感じますが、
実際は目と目の対応関係が入れ替わっているのです。
これはしごく当たり前な話ですが、鏡ごしに目が合った経験は数あれど、
そういうことを感知したこともありませんし、意識したこともありません。
考えてみたら目と目の対応関係の入れ替わりに気付いたということに過ぎません。
目と目が合うという、ある種特別な状態において、
鏡ごしの場合の対応関係の入れ替わりを感知出来ていない、
ということが妙に不思議なのでした。