場所の問題


久しぶりに「スナックなな」に顔を出した。時計は午後 10 時をまわっている。

「あらぁ、高樹センセ、お久しぶりね。美貴ちゃんはどうしたの?」

ななママはいつも元気だ。

「誰かとデートするって言って、さっさと行っちゃったよ。おかげで、私一人で こんな時間まで残業だよ」

「あら、かわいそーに」

全然かわいそうには聞こえない。「今日は羽を伸ばすチャンスね」とでも 言いたそうだ。

私がいつも座るカウンター席の隣りには、既に若い OL 風の女性が座っていた。 その私の視線に気付いたのか、ななママは、

「あ、センセ、紹介するわね。こちらヨーコちゃん。横浜の出身だから港のヨーコ ってわけ、きゃはははは・・・」

おやじギャグだ・・・・ きっとかなり酔っているに違いない。

「最近よく来てもらってるのよね。センセとは初めてでしょ?」

「はい・・・」

ヨーコと紹介された娘は小さな声で言って、チョコンと会釈した。人見知りして いるのかもしれない。

「高樹です、よろしく。隣り、よろしいですか?」

「ええ、どうぞ」

私はヨーコの隣りに腰を掛けた。

「こちら高樹センセ、独身のお医者さんよ。がんばってね」

「???」と思う間もなく、ななママは続けた。

「センセもがんばってね、ハードボイルド路線がお好みらしいわよ」

「はぁ・・・?」

と聞き返す私は、ちょっと間抜け面だったかもしれない。少なくとも、ハードボイルド でないことだけは確かだ。

「だぁかぁらぁ、ヨーコちゃんはカレシ募集中なの! で、ハードボイルドに口説かれ たいんだって、わかった?」

「ななさん、いきなりそんなこと・・・・」

「でも、ほんとのことでしょ? さ、センセ、口説いて口説いて。ハードボイルド だからね」

それだけ言うと、ななママはさっさとテーブル席の別のお客のところに行ってしまった。 まったく、嵐を呼ぶオンナである。これもおやじギャグだから、ヨーコには言え ないが。

「あんな風に言われると、話しづらくなっちゃいますよね?」

ヨーコがニコッと笑いながら話しかけてきた。その瞬間、私の中でハードボイルド・ スイッチが入ってしまった。別名キザ・スイッチとも言う。

「そうだね、無口な時間を過ごすほどには、私たちはまだ親しくはないからね」

ヨーコはクスッと笑った。

「高樹さんて、何のお医者さんなんですか?」

「女心も理解できない、ヤブの精神科さ」

「精神科なんですか、じゃあ、相談に乗ってもらおうかな?」

「もし、恋愛や人生の悩みごとなら、私はカウンセラーじゃないからお役には 立てないと思うよ」

「そんなにマジにならないで。お役に立てるようなことなら、診察料が必要でしょ? タダで話を聞いてもらおうと思っているだけだから・・・」

「タダほど高いものはない、ということになってもいいのかな?」

ちょっとジャブである。こういう会話で反応を見るのは楽しい。ヨーコは案の定、 クスリと笑っただけで軽く受け流した。

「高樹さん、私の悩みが何か分かるかしら?」

普段なら「何も聞いてないのに分かるわけはない」と面白くも何ともないことを 言うところだが、ハードボイルドの場合はそうもいかない。

「悩みごとというのは、人が自分を認めてくれないか、自分で自分を認めることが できないかのどちらかと決まっているんだ。でも、このふたつは別々のものじゃなくて、 重なったり一体化したり、あるいは一方から一方に転位したり、お互いに増幅し あったりするんだけどね」

付け焼き刃にしては、マトモなことが言えた。

「なるほどね、きっとそうかもしれないわ」

「で、そういう悩みは人に話すだけで楽になることのほうが多いのさ。本質的な 解決じゃないけど、人に話して『うんうん』とあいづちを打ってもらうだけで、 随分違う」

「うん、それは分かるわ。で、その相手は必ずしも親しい友人である必要は ないのよね」

「そう、場合によっては会ったばかりの人でもいいし、会ったこともない メール友達でもいい」

「そうね、でもやっぱり今晩は、悩みごと相談はやめにするわ」

「何故?」

「そんなに深刻なことじゃないし、悩みは話すことでも楽になるかもしれないけど、 それを忘れるような楽しい経験をすることでも楽になるから」

結構鋭い切り返しだ。「楽しい経験をさせて」と言っているのだ。大歓迎の展開では あるが、ここで鼻の下を伸ばして口説いたら、ハードボイルドにはならない。

「なるほどね、でも、楽しい経験といっても色々ある。一人で経験すること、多人数で ワイワイやること、そして二人で経験すること・・・」

「どれがお好みか聞いているの?」

「好みの問題はあるだろうね。でも今この状況では、答えは決まっていると思うけど、 違うかい?」

「さあ、どうかしら?」

「私にとっては、人数の問題じゃなくて、場所の問題だね」

ちょっとしたワナを仕掛けてみた。

「ここじゃダメってこと? それはちょっと気が早いわよ」

「別にホテルに誘っているわけじゃない。この店では、ワイワイとやることに 決めているから、二人だけの楽しい会話が出来ないのさ」

ヨーコはちょっと赤くなった。

要するに、ななママには聞かれたくない、というか、美貴にチクられたくない だけなのだが、さすがにヨーコはそこまでの事情は知らない。

「じゃあ、他の店に行きます? 楽しい経験はそこから始まるってことね」

「楽しいかどうかは保証しかねるけど、楽しい経験にしたいとは思うよ」

「お店は決っているの?」

もちろん決めている。静かに落ち着いて飲めるバーだ。ここからなら、タクシーで 10 分もかからない。

「ああ。でも、その店でもまた、場所の問題が出てくるかもしれないことだけは、 あらかじめ言っておくよ」

ヨーコはクスリと笑った。






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