| 友達のキス、恋人のキス |
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私はタンカレーのロックを飲み干し、グラスをかかげて、バーテンのおにいさんに 「もう一杯」と合図を送った。 ここはニューヨークにある某ホテルの最上階のラウンジ。私は学会に出席するために、 ニューヨークに来ていた。といっても、今日で学会は終了し、明日は帰国である。 いや、正確に言えばフライトは今日になる。時計の針はちょうど 12 時を 回ったところだ。 美貴は「一緒に連れてって」と言っていたのだが、さすがにそういう訳にもいかない。 そのかわり、エルメスのなんちゃらというのをおみやげに買っていく羽目になって しまった。 ピアノの演奏が聞こえていた。 黒いイブニング・ドレスに身を包んだ若い女性ピアニストの演奏だった。おそらく、 日本人かあるいは日系人だろう。ラウンジの入り口には、演奏時間と奏者が書いて あったが、それによると彼女の名前は Chiaki ということだから、 まず間違いなかろう。 私はちょっとしたいたずらを思いついた。手帳を1ページ破くと、そこに「月光」 とだけ書いて、タンカレーのロックを出してくれたバーテンに頼んで、Chiaki に 渡してもらった。 漢字で「月光」と書いたのである。日本人ならば、私の意図を察してくれるだろう。 バーテンは曲の合間を選んで Chiaki にメモを渡してくれた。私の方を指し示して、 「あのお客さんから」と説明しているようだ。彼女は怪訝な表情でこちらを見た。 Chiaki と目が合った。私は窓の外を指さした。そこにはくっきりと満月が出ていた のだ。Chiaki は私の指さす方を見て、私の意図を理解してくれたようだ。 演奏が始まった。ベートーベンの「月光」である。まさに降り注ぐ月光のような ピアノの旋律に、私はしばし身を委ねた。
「先ほどはどうも、こちらよろしいかしら」 Chiaki だった。さっきの演奏が今日の最後の演奏だったのだろう、着替えをすませて、 カジュアルな服装になっている。 私は隣りの椅子を示して、 「どうぞ。突然あんなことして、失礼しました。」 ということで、私は幸運にも、隣りに座ってお酒のお伴をしてくれる美女をゲット したのだった。 彼女のためにカシス・ソーダを注文して、お互いに簡単な自己紹介。 Chiaki は本名で、漢字で書くと千晶である。ここはアメリカなので「千晶」と ファースト・ネームで呼ぶことにした。そのかわり、千晶も私を「アキラ」と 呼ぶことになった。ちょっとくすぐったいが、悪い気はしない。 千晶は東京の音大を卒業後、さらに音楽を勉強したくて渡米。今はここでピアニストと して働きながら、音楽学校に通っているということだ。 千晶はピアノを演奏していたときのイメージとは違って、とてもフランクで ノリのいい娘だった。 「アキラはアメリカには良く来るの?」 「そうでもないね。年に一回あるかどうか・・・」 やはりファースト・ネームはこそばゆい。自分で女性を呼ぶときは、全然抵抗ない のだが。 「千晶はこっちに来て、もう半年以上経つんだ。どう、こっちの生活は?」 「うーん、やっぱり食べ物がね・・・ 日本食のレストランもあるし、日本の食材も 手に入るからそんなに辛くないけど」 たしかにアメリカの食事はヘビー過ぎるし、あまり旨いものじゃない。 「そうそう、私、これまでアメリカに来たことなかったんだけど、実際に暮してみて、 ちょっと意外だったことがあるのよ」 「?」 「ほら、アメリカの映画とかドラマとか見ていると、当たり前のようにキスする じゃない? だから私、こっちで生活していたら、一日に何人もの人とキスしなきゃ ならないかと思ってたの。でも、実際はそんなに誰とでもキスするわけじゃなくて、 かなり親しい間柄じゃないとしないのよ」 「そう言われてみれば、私もアメリカには何回か来ていて、女性の友人もいるけど、 誰ともキスしたことはないなぁ」 「でね、キスすることがほとんどないので、ほっとした部分もあるんだけど、ちょっと がっかりでもあるの。私ってキスが嫌いじゃないから・・・ もちろん、軽いキスの ことよ、それに、誰でもOKってことじゃないけどね」 「つまり、親しい友人なら、友達のキスはOKってことだね」 「友達のキス?」 「そう、キスには友達のキスと恋人のキスがある」 家族のキスもあるかもしれないけど、どうでもいい。 「どう違うの?」 「舌を入れないのが友達のキスで、舌を入れるのが恋人のキス。または、女性が 目を閉じないのが友達のキスで、目を閉じて迎え入れるのが恋人のキス」 「きゃははは・・・、前半はわかりやすいけど、後半のほうがグッドね。でも、 そんなこと初めて聞いたわ。そうね、親しい人なら友達のキスはOKだわ」 「千晶と私は親しいと言えるのかな?」 「会ってから間もないけど、私の好きな月光をリクエストしてくれて嬉しかったから、 うーーん、親しいってことにしましょう」 私は千晶の肩を抱き寄せた。千晶は目を閉じて・・・、ということはない。 友達のキスだから、軽くチュッとしただけだ。 「私にアメリカでの初キスをプレゼントしてくれてありがとう」 「どういたしまして。で、プレゼントのお返しは?」 お返しは恋人のキス、と言いたいところだが、それはあまりオシャレじゃない。 「どこか他の店で、おいしいカクテルをご馳走しようか?」 「あら、お返しは恋人のキス、なんて言うかと思ったわ」 「女性の仕事場で恋人のキスをするほど、気のきかない男じゃないつもりだよ」 だから他の店に誘った、とまで言葉に出すと、ちょっとイヤミだが、千晶は理解した ようだった。 私と千晶はラウンジを出て、エレベーターに乗った。 ガラス張りのエレベーターはニューヨークの夜景の中に降りていった。 私はポケットからルーム・キーを取り出して、千晶のハンドバッグの中に放り込んだ。 千晶は何も言わなかった。 夜景もかすむような月の光が、二人の乗ったエレベーターのなかにも降り注いでいた。 「月の光は友達を恋人に変える、って誰かが言っていたなぁ」 私はつぶやいて、千晶を抱き寄せた。 「そうね、確か高樹っていう人だったわ」 そう言うと、千晶はそっと目を閉じた。
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