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題名 |
感想 |
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続 会津士魂 八 甦る山河
早乙女貢
集英社文庫 文庫版初版 2003年1月25日 |
「歴史読本」昭和46年1月から30年にわたって連載されてきた『会津士魂』『続 会津士魂』の最終巻。全21巻という大長編小説。
会津の立場から薩長の非道を追求した本書には、鹿児島県や山口県の方々から、父祖のあやまちが分かった、という手紙が早乙女氏に寄せられた、とのこと。 |
| 20 |
続 会津士魂 七 会津抜刀隊
早乙女貢
集英社文庫 文庫版初版 2002年12月20日 |
ガス灯や鉄道ができる時代になっても、会津出身者は白い目で見られていた。 |
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続 会津士魂 六 反逆への序曲
早乙女貢
集英社文庫 文庫版初版 2002年11月25日 |
山川健次郎、日下義雄は、賊軍呼ばわりされている会津藩出身ながら、アメリカ留学を許されることとなった。
また、留学とは別に、移民としてカリフォルニアに移っていった人たちもいたが、農業がうまくいかずに失敗に終わった。西川友喜のように日本に戻ってきた者もいたが、多くはアメリカで亡くなった。 |
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続 会津士魂 五 開牧に賭ける
早乙女貢
集英社文庫 文庫版初版 2002年10月25日 |
斗南で生活の糧を得るために広沢安任のように、牧場を作ろうとする者もいた。英国人ルセー、スコットランド人マキノンといった外国人も仲間にし、開牧社という組織で牛の放牧をすることとなった。 |
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続 会津士魂 四 不毛の大地
早乙女貢
集英社文庫 文庫版初版 2002年9月25日 |
会津から斗南へ移住した藩士は、2793人。家族を含めると約1万7千人が移住していった。
斗南という土地は、南部家の領地だったが、不毛の大地であったので、手付かずであった。小さな農村、漁村の集まりであった。そこに1万7千人が移住していっても、住む所も食べるものもない状態となるだけであった。
■偽札作り 北越の戦いの折、太政官札の印刷機と紙幣の用紙を会津藩士が分捕っていたので、それを利用して偽札をつくり、会津藩士を家族の貧窮を救った。 |
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続 会津士魂 三 斗南への道
早乙女貢
集英社文庫 文庫版初版 2002年8月25日 |
箱館戦争と会津藩の斗南への転封について。
箱館戦争について著者は、榎本武揚に批判的である。五稜郭陥落の寸前、榎本が切腹する際、介錯人としてわざわざ部下を呼んで、その部下に切腹を止められて、生きて降伏することを選んだことについて、切腹はただの演技である言い切っている。フランス帰りの榎本はすっかり武士道をなくしてしまったらしい。 |
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続 会津士魂 ニ 幻の共和国
早乙女貢
集英社文庫 文庫版初版 2002年7月25日 |
蝦夷へ向かった榎本艦隊には、幕府の軍事顧問として派遣されてきたフランス人が10名ほど同行した。彼等はフランス陸軍の支持ではなく、自分の意思で旧幕府軍と行動を共にした。
箱館へ死に場所を求めていった新撰組土方歳三、旗本伊庭八郎にフランス人は共感を覚えたらしい。 |
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続 会津士魂 一 艦隊蝦夷へ
早乙女貢
集英社文庫 文庫版初版 2002年7月25日 |
一巻は会津若松城開城から、榎本艦隊が蝦夷を目指す場面まで。
賊軍の汚名を着ることとなった会津藩は、降伏後、遺体を埋葬することすら許されなかった。 |
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1 |
会津士魂 全13巻
早乙女貢
集英社文庫
第 1巻 会津藩京へ 第 2巻 京都騒乱 第 3巻 鳥羽伏見の戦い 第 4巻 慶喜脱出 第 5巻 江戸開城 第
6巻 炎の彰義隊 第 7巻 会津を救え 第 8巻 風雲北へ 第
9巻 二本松少年隊 第10巻 越後の戦火 第11巻 北越戦争 第12巻 白虎隊の悲歌 第13巻 鶴ヶ城落つ |
幕末から明治初期の歴史をある程度知っている人なら「会津」と聞いただけで、何がしか感慨深いものを感じるに違いない。「士魂」という言葉が加わればなおさらだ。幕府にも朝廷に忠節であった会津藩。しかし、結局は幕府に見捨てられ、さらに朝敵という汚名まで着せられ、賊軍として官軍と戦わなければならない立場に追いやれた。
この小説には、会津ではこんなにも薩長土が憎まれているのか、と驚嘆してしまう個所が多々見られる。長州の高杉晋作や伊藤博文のみならず、土佐の坂本竜馬までもが非難の対象となっている。坂本竜馬が、拳銃や万国法を携帯していたのは、その先進性を評価されこそすれ、非難されるものではなかったが、会津士魂では、武士の魂の分からぬ輩と酷評されている。さらに非難は進んで行き、東北人に比べ西国人は軽薄な性格で謀略好きで…、というようなことも言われている。
物語が進むにつれ、なぜここまで西国人を憎むのか、その理由が分かってくる。会津藩は朝廷に逆らうような行為はいっさい行っていない。にもかかわらず、長州藩と薩摩藩の陰謀により、いつの間にか朝敵の汚名を着ることとなった。江戸城が無血開城され、年号が慶応から明治に改元された後も会津藩は攻撃され続けた。
一方的に賊軍呼ばわりされ、故郷を蹂躙された会津の気持ちはどういうものだったのだろう。 |