読書録 司馬遼太郎 ホーム

 

No. 題名

感想

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3

項羽と劉邦 
上・中・下

新潮文庫

 司馬さんの著書の中で一番初めに読みました。

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燃えよ剣 上・下

新潮文庫

 己のすべてを新撰組にかけた土方歳三。司馬さんの本で二番目に読んだのがこの「燃えよ剣」だった。若いときに読んだものだから、土方歳三の熱き生き方にとにかくあこがれた。

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翔ぶが如く 
全十巻

文春文庫

 西郷と大久保の対立、西南戦争を起こした桐野、薩摩の下級武士出身で大警視となった川路など旧薩摩藩士を中心に明治初期を描く。

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竜馬がゆく 全八巻

文春文庫

  これだけ多くの人に読まれた長編小説は、他にないと思う。

 坂本竜馬は司馬さんが小説に描くまで、人気があるわけではなかった。そういう話を司馬さんが亡くなられた後、耳にした。

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坂の上の雲 全八巻

文春文庫

 幕末、明治の小説を書きつづけた司馬さんにとってこの作品が総決算と言っていいのではないだろうか。日清戦争から10年準備をし、日露戦争に挑んだ日本。それでも準備万端という訳ではなく、シベリア鉄道開通前の駆け込み開戦であった。そんな中、予想以上の戦果を挙げられたのは、陸軍においては兵士一人一人の力によるものだと思う。しかし、このときの、成功体験が後々の不幸のひとつの原因になったことは間違いないと思う。
 ひとつの大きな目標を達成した後の脱力感というものは、国家という大所帯でも経験する。日露戦争後の日本は脱力感とともに、なにやら傲慢な態度をとるようになり、その後の国際社会から、少しずつ仲間はずれにされていった。尊敬される国になる絶好の機会を自ら消してしまった。

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菜の花の沖 全六巻

文春文庫

 淡路島出身で函館を開いた船乗り高田屋嘉兵衛の物語。
 司馬さんの作品の中でこれが一番好きです。封建社会の江戸時代は、何をやるにも規制だらけだったと思うのですが、そんな時代でも、成せば成ることを教えていただきました。
38 幕末

文春文庫

 幕末の暗殺劇を集めた短編集。

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義経 上・下

文春文庫

 悲劇の主人公という視点から脱却し、戦はできるが政治がさっぱり、という現実的で冷淡な視点から義経を描く。感動的な内容ではなかった。

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夏草の賦 上・下

 長曾我部元親という一見地味な武将を描いた作品。

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十一番目の志士 上・下

文春文庫

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関ヶ原 上・中・下

新潮文庫

 石田三成と島左近を主人公に関ヶ原を描く。

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城塞 上・中・下

新潮文庫

 大阪冬の陣、夏の陣を豊臣家よりに描く。
 滅亡というものには、はかなさとともに、幾ばくかの美しさもある。豊臣家滅亡となった大阪夏の陣についても、負けると分かっていながら、天下を相手に散っていった数多くの武将に美学を感じる。

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峠 上・下

 長岡藩家老河井継之介を主人公に幕末を描く。

53 ロシアについて

文春文庫

 「坂の上の雲」と「菜の花の沖」の続きのつもりで書いたというこの「ロシアについて」。

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この国のかたち 一〜五

文春文庫

 物理学を学んでいた私としては、東京物理学校の創設話が一番印象的だ。

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播磨灘物語 全四巻

講談社文庫

 秀吉の軍師黒田官兵衛孝高の物語。

63 アームストロング砲

講談社文庫

 短編集。

64 戦雲の夢

講談社文庫

 長曾我部元親の四男、盛親の物語。関ヶ原から大阪夏の陣まで。

65 酔って候

文春文庫

 短編集。

66 殉死

文春文庫

 乃木将軍について考える。

67 余話として

文春文庫

68 木曜島の夜会

文春文庫

69 八人との対話

文春文庫

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日本人への遺言

71 人斬り以蔵

新潮文庫

 幕末、人斬り以蔵との異名をとった土佐の下級藩士岡田以蔵を描く。無学な岡田以蔵も、人を斬るときは他人に認められ、頼りにされた。

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風神の門 上・下

新潮文庫

 司馬遼太郎の作品は何冊も読んでいるが、忍者小説を読むのはこれが初めてだった。「梟の城」について直木賞選考委員だった吉川英治に勉強不足と言われたという話があるが、この「風神の門」を読むと、まだまだ駆け出しの頃の作品だという印象を持つ。

 主人公の霧隠才蔵のように、組織に属さず自由闊達に生きてみたいものだ。産経新聞社を退社して作家の道へ進んで行った司馬さんもこう思ったに違いない。

 「城塞」で主人公的役割をする小幡勘兵衛がこの本では悪役となっていた。

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箱根の坂 上・中・下

司馬遼太郎

講談社文庫

[上巻]

 戦国時代は北条早雲が小田原城を奪取したときから始まった、と言われる。その北条早雲の半生を描いた作品。物語の中での北条早雲こと伊勢新九郎は、40過ぎの当時としては平均寿命を越えたさえない中年として登場する。

 上巻は、応仁の乱当時の京都を舞台に物語が展開される。八代将軍義政の弟義視のそば近くに仕える伊勢新九郎も、特に志を持っているわけではなく、日々漂白しているような人生を送っている。

 司馬さんの晩年の作品にあたるこの箱根の坂は、志を描いた幕末ものとは違った味がある。気楽さを感じる。

[中巻]

 妹が駿河の今川家に嫁いで行ったのがきっかけとなり、その妹に請われて駿河に向かった伊勢新九郎。興国寺城の主となり、善政を敷き民の心をがっちり掴むこととなる。

 伊勢新九郎には野心など何もなかったかのような書き方がされている。まだ下克上の戦国時代が始まっているわけではないので、主君に取って代わろう等、誰も思っていなかったそうだ。ただ、上に頂く主君を力ずくで選ぶことは多々あったようだ。

 戦国時代への向かうこの時期は、百姓が力を付けてきた時代であり、山城の土一揆、加賀の一向一揆は代表的なもので、駿河でもそのような一揆の危険性は少なからずあった。

[下巻]

下巻は伊勢新九郎の伊豆侵攻そして小田原奪取の場面となる。

 司馬さんはこの作品の中での伊勢新九郎の立場を「旅の者」としている。旅の者故、気分が軽くなり、何も遠慮せずに大森氏の小田原城も奪い取ることができた、というように書いてあった。

  • 「箱根の坂」という題は、さまざまな象徴性をこめてつけたつもりであった。連載の最後のくだり、早雲がようやく箱根の坂を越えてあずまに入ったときには、書いている作者自身まで足腰の痛みをおぼえた。早雲は越えがたき坂を越えたのだと思った。(あとがき 367頁)
77 ペルシャの幻術師

司馬遼太郎

文春文庫
文庫版初版
2001年2月10日

 司馬遼太郎のデビュー作が表題となっている「ペルシャの幻術師」ということだ。昭和31年の作品なのだが、その後の作品と似ているとは思えなかった。司馬さんが小説を書き始めたのは戦争体験がきっかけで、「昔の日本人はもっと偉かったのではないか」という動機があったのだが、デビュー作がペルシャを舞台にした物語だったとは。

78 歴史を紀行する

司馬遼太郎

文春文庫
文庫版初版
1976年10月25日

 「文藝春秋」の昭和43年1月号〜12月号に連載された紀行文。「街道を行く」のはしりになったものでないだろうか。

■会津について
 会津人は人の悪口ばかり言うそうだ。意外であり、今まで会津に対して持っていたイメージが少し崩れた。会津出身者がよその土地で大成しかけると、やたらと足を引っ張るそうだ。

■大阪の陣に参戦したアイヌ人
 奥州の南部家が大阪の陣に出兵するとき、思うように兵が集まらなかったので、海岸地方に住んでいたアイヌ人を徴募し連れていった。アイヌ人は勇猛である、と言われていたので、合戦での活躍を期待していた。しかし、合戦がはじまるや、鉄砲の音に驚きにアイヌ人は四散してしまった。彼等を収容することに南部家は苦心したそうだ。

■郵便
 前島密が"mail"を郵便と訳したのだが、郵という字は明治の頃には、一般的ではなかったので、読める人が少なかった。街角の「郵便箱」を「タレベン箱」と読み、便を足す箱と思った人もいたようだ。

79 最後の将軍

文春文庫

 良く書かれたり、悪く書かれたりする慶喜公。本書では、優れた人物ということになっている。鳥羽伏見の戦いの後、こっそり大阪城を抜け出したのが、慶喜の評価を落とす最大の理由だが、何故そんなことをしたのか、後の世に悪評を残すことを何故してしまったのか。こういった慶喜の絶対恭順の姿勢は水戸学の影響だと司馬さんは結論付けておられる。足利尊氏のようになるのは避けたい、という一心からの行動であったようだ。
 もし、薩長と徹底的に争っていたら、その後の慶喜の評判はどうであったか、徳川家はどうなったか。あえて弱虫と汚名を着ることを慶喜が覚悟したことにより、大政奉還後も徳川宗家は存続し、さらに、大正時代、第十六代徳川家達が、総理大臣候補になるようなこともあった。戦って滅んだ豊臣家を教訓にしたのではなかろうか。

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世に棲む日々 全四巻

文春文庫

 前半は吉田松陰、松陰死後の後半は高杉晋作を主人公に幕末を描く。
 幕末の長州藩がなぜあれだけの行動力を発揮できたのか、この本を読んでも不思議に感じる。なにやら可笑しささえ感じてしまう。外国船打ち払い令が出るや、馬関海峡を通る外国船をかったぱしから撃ち始めるなど、何考えているのかよく分からない。こんなことをしていた以上、「攘夷は倒幕のための方便だった」ということは、長州藩にとっては言えないのではなかろうか。長州藩全体がまさに「口よりも手が先に出る」体質だった。新しい世を作るためには、後先考えずに、無謀なことをやり続ける役目をどこかが、負わなければならないのだろうか。

84 風塵抄 二

中公文庫

 産経新聞に連載されていた風塵抄の文庫版第二巻。1991年10月8日から1996年2月12日掲載分を収録。1996年2月12日産経新聞掲載の風塵抄が司馬遼太郎さんの最後の原稿となった。病気をおして書かれた最後原稿は未来に対して希望のある内容ではなかった。日本の未来に不安を持ちながら逝ってしまわれた。
  • (昭和初期の日本について)現実の日本は、アメリカに絹織物や雑貨を売ってほそぼそと暮らしをたてている国で、機械については他国に売るほどの製品はなかった。(24頁)
  • (1929年からの世界恐慌について)ソ連だけが社会主義経済をとっていたため「大恐慌」は及ばなかったとされた。そのことが、世界に左翼思想がひろがる強烈な原因になった。(237頁)
  • 「この辺で、ボチボチやっています」とは、言葉というより、人間の風韻が鳴る音なのである。いまの世にこういう風韻をもつ人がどれだけいるかと思えば、心もとない。(274頁)
  • 住専の問題がおこっている。日本国にもはや明日がないようなこの事態に、せめて公的資金でそれを始末するのは当然なことである。その始末の痛みを通じて、土地を無用にさわることがいかに悪であったかを…思想書を持たぬままながら…国民の一人一人が感じねばならない。でなければ、日本国に明日はない。(司馬遼太郎最後の言葉 282頁)
85 この国のかたち 六

文春文庫

 文芸春秋に連載されていた「この国のかたち」の文庫版。これが最終巻となる。司馬さんが亡くなられたため、文言春秋連載分では一冊の本に満たなくなったので、「司馬遼太郎全集」月報から随想集も収録。

 「この国のかたち」最後のテーマとなり未完となった「歴史のなかの海軍」。日本海軍についてペリー来航から、日清戦争、日露戦争そして、ロンドン軍縮会議までの話が記されている。

 日本海軍の分岐点は、燃料が石炭から石油に変わったところのようだ。質は悪くとも日本にある資源だった石炭と違い、石油は海外に産地を求めなければならなくなった。

  • 第一次大戦後、艦艇は石炭から石油で動くようになっていた。その石油はアメリカなどから買いつづけなければならない以上、対米戦など、万が一でもおこせるものではなかった。(歴史のなかの海軍 52頁)
  • 日本文化のおもしろみのひとつは、過去からの連続性が濃厚なことである。(声明と木遣と演歌 74頁)
  • モンゴル語は同じアルタイ語族に属しているから、覚える上で快感があった。ヨーロッパのある国の学生が他のヨーロッパ語を習得するときにはこういう快感があるのではなかと思ったりした。(言葉についての感想 92頁)
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北斗の人

司馬遼太郎

講談社文庫
文庫版初版
1972年10月15日

 北辰一刀流の開祖千葉周作の半生を描いた作品。

 北辰とは北斗七星のことであり、仏教では妙見菩薩が北斗七星にあたり、その妙見菩薩が千葉氏の守護神であったことから、千葉周作は自らの流派を北辰一刀流と名づけた。
 その他の流派が、難しい表現を用い自らの技を神格化したのに対し、千葉周作の北辰一刀流は、分かり易い表現で技を解説し、弟子に指導した。よって上達も早く、どんどん発展していった。

 北辰一刀流はまず上州で広まった。よって上州(群馬県)のことが詳しく書いてあった。黒白をはっきりつける、復讐心が強い、ばくち好き等々いろいろ書いてあった。

87

新史太閤記 上

司馬遼太郎

新潮文庫
文庫版初版
1973年5月25日

 司馬遼太郎の本を結構読んできたが、87冊目にしてはじめて太閤記を読んだ。

 高校時代によく読んだ司馬作品だが、28歳となった今読んだみると、感じ方も違ったきたような…。司馬作品がビジネスマンに受ける理由がなんとなく分かってきた。

 忠義と謀略、このふたつが『新史太閤記』の上巻では、強調されている。

 美濃三人衆の寝返り、姉川の合戦の際の浅井方の宮部祥善坊の撤退など秀吉の謀略について詳しく語られている。

 武功夜話などの資料が発見される以前の太閤記なので、寧々という最近「おね」に取って代られた名前が登場してきて、何やら懐かしさを感じた。

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新史太閤記 下

司馬遼太郎

新潮文庫
文庫版初版
1973年5月25日

 下巻は、秀吉の毛利攻め、中国大返し、山崎の合戦、清洲会議、賤ヶ岳の合戦、小牧長久手の合戦、そして家康が秀吉に臣下の礼をとるところで終わる。天下統一後の秀吉については、触れられてない。太閤記だが、太閤になる前に物語は終わる。

 下巻は天下取りの野望むき出しの秀吉像が描かれている。倒すべき敵は倒し、味方にするべき敵は、なんとか味方に引き込もうと謀略を巡らす秀吉が、詳細に描かれている。

89

国盗り物語 一
斉藤道三 前編

司馬遼太郎

新潮文庫
文庫版初版
1971年11月30日

 油売りから身を立てて、美濃一国を支配するに至った斉藤道三を描いた小説。

 もっとも、最近の『歴史群像』や小和田哲男氏の著書によると、油売りだったのは斉藤道三の父で、その父が土岐氏に仕え、その死後、斉藤道三が美濃を土岐氏から簒奪したとのことである。

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国盗り物語 二
斉藤道三 後編

司馬遼太郎

新潮文庫
文庫版初版
1971年11月30日

 「楽市」「楽座」を美濃に取り入れた斉藤道三は、寺社勢力に狙われていたことなどが書いてあった。「楽市」「楽座」を最初に導入したのは、斉藤道三であり、織田信長はその考えの後継者である。

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国盗り物語 三
織田信長 前編

司馬遼太郎

新潮文庫
文庫版初版
1971年12月20日

 この巻から『国盗り物語』の主人公は、織田信長と明智光秀となる。

 明智光秀の流浪時代を丹念に描いた小説を読んだのは、初めてだった。明智光秀という人物は、結構好きなので、本書も非常に興味深い。もっと早く読めばよかった。

 自分の才能信じつつも、不遇を嘆く明智光秀。足利義輝に仕える細川藤孝と懇意になり、自信の能力を足利幕府に尽くすことになる。義輝が松永久秀に殺された後は、足利義昭と苦労をともにする。

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国盗り物語 四
織田信長 後編

司馬遼太郎

新潮文庫
文庫版初版
1971年12月20日

 四巻は、信長の美濃攻めから本能寺の変まで。

 司馬遼太郎の影響力は凄いもので、大河ドラマなどで描かれる信長像は、みんなこの『国盗り物語』を参照しているようだ。

■甲斐の恵林寺の快川紹喜の有名な言葉
 安禅かならずしも山水を須(もち)いず
 心頭を滅却すれば火も(亦)また涼し

■本能寺の変直前、愛宕山にて行われた連歌の会
 
時は今 雨が下しる五月哉・・・光秀
 
水上まさる庭の夏山・・・威徳院行祐
 花落つる流れの末をせきとめて・・・里村紹巴

■明智光秀が本能寺の襲撃を前に、心情をつづった詩
 心知らぬ人は何とも言はば言え
  身をも惜しまじ名をも惜しまじ

93

花神 上

司馬遼太郎

文春文庫
文庫版初版
1976年8月30日

 長州の村田蔵六=大村益次郎を描いた小説。

 上巻は、医学の話が中心となる。村田蔵六が主人公となっているため幕末といえども、政治的な話より、文化や科学に関する話が多くなっている。

■適塾
 大阪北船場にあった蘭方医緒方洪庵の「適塾」は大阪大学の前身だったそうで、その門下には、村田蔵六、福沢諭吉、橋本佐内、大鳥圭介などがいた。

■シーボルト
 長崎の鳴滝に塾をかまえて医学その他を教えたシーボルトには、長崎丸山の遊女との間にイネという娘がいた。イネが幼いときにシーボルトは、シーボルト事件で国外追放になるのだが、日本に残った娘のイネは、シーボルトの教え子に守られて大事に育てられた。
 そのイネは、村田蔵六から蘭医学を学ぶことになる。

■ヘボン
 ヘボン式ローマ字のヘボンのフルネームは、James Curtis Hepburnという。

■村田蔵六の性格
 村田蔵六は、夏に「お暑うございます」と挨拶されると「暑中はあついのがあたりまえです」と答えるような人だった。

94

花神 中

司馬遼太郎

文春文庫
文庫版初版
1976年8月30日

 中巻では、禁門の変、第一次長州征伐、第二次長州征伐などが書かれている。村田蔵六が主人公なので、幕末期の医学や技術の進歩についても詳細に描かれている。

■政治家と官僚の違い
 幕末、長州藩はイギリスに5人の留学生を派遣したが、長州藩の危機を知り、留学途中で急ぎ帰国した伊藤俊輔と井上聞多は政治家になり、留学を続行した3人は明治政府の官僚となった。

95

花神 下

司馬遼太郎

文春文庫
文庫版初版
1976年8月30日

 下巻は戊辰戦争、そして村田蔵六の暗殺について。

 人を小ばかにする態度を無意識のうちにとってしまう村田蔵六は、自分自身の役目を終えるとすぐに、暗殺されてしまった。最後の役目は、来るべき西郷の反乱にそなえて、大阪に兵器を配備することであった。

■大鳥圭介
 戊辰戦争のとき、旧幕府軍で陸軍を率いていたのが大鳥圭介である。彼は、大坂の適塾で村田蔵六と同門であり、オランダ語に詳しいという理由から、洋式化を進める幕府軍の中で、取り立てられ、五稜郭まで戦うはめになった。大鳥本人には戦意が薄かった、という書き方がされていた。

■上野寛永寺
 上野寛永寺は大名への金貸しで潤った。幕府の菩提寺なので、その権威を利用して、諸大名へ無理やり金を貸し利息をつけて返済させることを繰り返していた。

96

王城の護衛者

司馬遼太郎

講談社文庫
文庫版初版
1971年10月15日

幕末に関した短編集。

王城の護衛者
加茂の水
鬼謀の人
英雄児
人斬り以蔵
の5つからなる。

■王城の護衛者
 王城とは京の都のことであり、護衛者とは京都守護職松平容保のことである。
 会津藩は、白虎隊などで有名なのだが、本書の内容は、京都守護職時代、孝明天皇と会津藩主松平容保の関係が描かれている。
 天皇に忠誠を尽くし信頼の厚かった人物としては、楠木正成に並ぶ松平容保が、逆賊の汚名を着ることになるとは、、、

 松平容保は京都守護職就任当時は、過激な志士たちと対話を試みようとしていた。それが「足利将軍木像梟首事件」によって、態度を一変させ、反幕府の志士たちを弾圧するようになり、恨みを買うこととなった。

97

馬上少年過ぐ

司馬遼太郎

新潮文庫
文庫版初版
1978年11月27日

 伊達政宗を描いた『馬上少年過ぐ』などを収録した短編集

 表題の馬上少年過ぐとは伊達政宗が晩年に詠んだ詩の第一句

 馬上少年過ぐ
 世平らかにして白髪多し
 残躯天の赦すところ
 楽しまざるをこれ如何せん

■道頓堀
 安井道頓が掘りはじめ、彼が大阪の陣で戦死した後は、幕府が援助し道頓の一族に工事を続行させた堀、というより運河。

98

真説宮本武蔵

司馬遼太郎

講談社文庫
文庫版初版
1983年7月15日

 宮本武蔵について資料を調べなおした『真説宮本武蔵』、宮本武蔵にコテンパンにやられたと伝えられる吉岡一門を描いた『京の剣客』などを集めた短編集。

 通説では、京都の吉岡一門は三度戦い三度敗れたことになっているが、実際は一度しか戦っておらず、その勝負も引き分けであった、ということが資料を調べると分かってくるとのこと。

99

手掘り日本史

司馬遼太郎

文春文庫
文庫版初版
1990年11月10日

 本書は司馬氏が江藤文夫氏に語った内容を一冊にまとめたもの。

■山陽本線
 明治時代、参謀本部の川上操六は防衛の観点から山陽本線は山間部に通した方が良いと言ったが、大山巌に、「鉄道は軍隊のためではなく、国民の為に敷くものだ」と言われ、結局、山陽本線は、一部は山間部を通して造られた。

■上忍、下忍
 『梟の城』の中で、司馬氏は、上忍=地侍、下忍=地侍に飼われている小作人の忍者、という意味で使用した。これ以後の忍者小説は、みなこれに従っている。もともとは、上忍=善、下忍=悪という意味だった。

  • 大阪の人間は戦争に行くと弱いと言われます。”またも敗けたか八連隊”などと言われた。(31頁)
  • 出雲が、そういう朝鮮美人の産地なんです。松江大橋からずっと賑やかなところまで、夕方にでも歩いてみてごらんなさい。一丁歩くあいだには、少なくとも一人はズキッとする人に会いますよ。私は出雲に三回行って、三回ともそんな感じを受けたんです。(76頁)
  • 南北朝について書き出すと、作家は必ずくるしくなる。なぜかというと、みな水戸史観で訓練された目で南北朝を見ようとする。吉川さんも、残念なことに、水戸史観を頼りにこの時代を見ておられます。(108頁)
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故郷忘じがたく候

司馬遼太郎

文春文庫
文庫版初版
1976年7月25日

 秀吉の朝鮮出兵の際、島津家によって薩摩に連行された朝鮮人の子孫について述べたエッセイ。

■ソウル大学の講演の最後に、沈寿官氏は、
 「これは申し上げていいかどうか」
と、前置きして、私には韓国の学生諸君への希望がある、韓国にきてさまざまな若い人に会ったが、若い人のたれもが口をそろえて36年間の日本の圧制について語った。もっともであり、そのとおりではあるが、それを言いすぎることは若い韓国にとってどうであろう。言うことはよくても言いすぎるとなると、そのときの心情はすでに後ろむきである。あたらしい国家は前へ前へと進まなければならないというのに、この心情はどうであろう。
 そのように言った。(58頁)

101

城をとる話

司馬遼太郎

光文社文庫
文庫版初版
2002年11月20日

 昭和40年に公開された石原裕次郎製作主演の『城とり』という映画の原作用に書かれた小説。
 石原裕次郎が直々に司馬遼太郎に頼んで書いてもらった、とのこと。もっとも、小説の方が映画よりも後に完成したので、司馬さんは映画用のシナリオを提供した程度らしい。

 小説の舞台は、関ヶ原前夜の伊達家と上杉家の国境。佐竹家からの流れ者が上杉家のために、伊達家の城を奪い取る、という内容。

102

大盗禅師

司馬遼太郎

文春文庫
文庫版初版
2003年2月10日

 初出「週刊文春」1968年7月〜1969年4月
 単行本 1969年7月 ポケット文春収録

 浦安仙八という剣豪を主人公に、由比正雪の幕府転覆計画、鄭成功の忠義を描いた小説。

 この小説、『坂之上の雲』と同時期に連載されていたとのこと。

103

人間というもの

司馬遼太郎

PHP文庫
文庫版初版
2004年4月19日

司馬遼太郎氏の作品中の名言集。

■いまの日本の企業社会で、同種企業と気が狂ったように競走しているサラリーマンたちの70%以上は、祖父の代まで、太陽の下でスゲ笠をかぶりながら畑の草をとっていた。たった二代で大変化をおこしたこの社会で、われわれはわりあい平気で生きているというのがこっけいなほどだが、しかし心のどこかで、かつての人間らしい社会へ回帰したいという思いがたえずあるらしい。『人間の集団について』(33頁)

104

功名が辻 一

司馬遼太郎

文春文庫
文庫版初版
1976年3月25日

 山内一豊とその妻千代を主人公とした小説。

 第一巻は、永禄十年(1567年)、信長が尾張から岐阜へ居城を移した場面から、一豊が安土城下で黄金十枚で名馬を買う場面までが描かれている。

 一豊夫妻の名馬の話は、戦前の国定教科書に載っていたのですね。

105 功名が辻 二

司馬遼太郎

文春文庫
文庫版初版
1976年3月25日

 第二巻は、一豊が秀吉の配下として、勇躍してゆく姿が描かれている。

 よき将に仕え、よき嫁をもらうことが、出世の秘訣のようです。

 豊臣家滅亡後、伏見城の城跡に付近の人が紅桃三万本を植えたことがきっかけで桃山と呼ぶようになったということは、恥ずかしながら知らなかったです。

106 功名が辻 三

司馬遼太郎

文春文庫
文庫版初版
1976年4月25日

 第三巻は、秀吉の晩年とその死、そして、家康の上杉征伐まで。

 天下が定まると、出世は止まります。

107 功名が辻 四

司馬遼太郎

文春文庫
文庫版初版
1976年4月25日

第四巻は、小山の陣から一豊の土佐統治まで。

 小山の軍議での「掛川城を家康にあずける」という発言が、後々まで語り継がれ、これが土佐二十四万石の基にもなりました。しかしながら、華々しい武功をあげて獲得したわけではないので、幕末まで土佐藩士は、肩身が狭かったとのことです。

 種崎浜での虐殺は後味悪いですね。

108

空海の風景 上

司馬遼太郎

中公文庫
文庫版初版1978年1月10日

真言宗の開祖、空海についての本。天台宗最澄についても述べてある。

■密教は釈迦の思想を包摂しはしているが、しかし他の仏教のように釈迦を教祖とすることはしなかった。大日という宇宙の原理に人間のかたちをあたえてそれを教祖としているのである。(14頁)

●山上憶良の死ぬときのうた(59頁)
 をのこやも むなしかるべき よろづよに 語りつぐべき 名は立てずして

●空海の記した『三教指帰』(86頁)
 儒教、仏教、道教を比較した著書で、仏教がすぐれているという結論となっている。

●『語遺告』にでてくる室戸岬での空海の体験(122頁)
 土佐の室生門崎に寂留す。心に観ずるに、明星口に入り、虚空蔵光明照し来つて、菩薩の威を顕す

●西川如見(241頁)
 18世紀初頭、『天文義論』にて、天体が人の吉凶を感じるわけがないと、占星術のおかしさを説いた人。

109

空海の風景 下

司馬遼太郎

中公文庫
文庫版初版1978年2月10日

 中国から密教を持ち帰った最澄だが、遅れて日本に戻ってきた空海が正当な密教を受けついでいた。最澄は、空海から密教を習おうとするが、空海は小出しにして教えない。随分空海は最澄に意地悪し、また、出世に恵まれた最澄に含むところあったように書かれている。人間空海の実像に迫ろうとした結果であろう。真言宗の方が読んだらどう思うのだろうか。

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