第3回 日本バイク映画の光と影(その1)




 カーチェイスを描いた映画は数多いけど、モータースポーツを描いた映画となると、その数はかなり少ないです。四輪レースの映画は『グランプリ』や『栄光のル・マン』、今でも『ドリブン』と忘れた頃に新作が登場するけど、二輪のレースを描いた映画は、80年代に入るまでこれといったものが見当たらない。四輪と比べても二輪はファンの数では劣らないはずが、果たしてこの差はどこで出てきたんでしょうか?

 答えは簡単、ハリウッドは車のアクションに様々なカメラワークや効果を蓄積してきながら、2輪走行にシフトしたアクション・コレオグラフが立ち後れ、映画が実際のレースの臨場感に肉迫できなかったのです。だから2輪レース映画のほとんどは『ポール・ポジション』や『ウイニングラン』など、実際のレースをドキュメントで追った作品でお茶を濁してます。
 おまけに、これらの映画もCSデジタル放送といった多チャンネル化によって、モータースポーツが日常あたりまえのようにTVで見られるようになりました。技術が熟達した頃には既に需要がなくなった……というワケです。

 ところが、日本ではちょっと事情が違ってきます。
 邦画界はなぜか80年代を迎えようとするあたりから、二輪レース物の映画の企画が次々と登場する、面白いムーブメントがありました。

 その口火を切ったのは、悪名高きあの男……。
 
 『宇宙戦艦ヤマト』で知られる悪名高きプロデューサー、西崎義展が大藪春彦の代表作『汚れた英雄』映画化を発表したのは、79年4月16日のこと。
 この日は「大藪春彦スーパー・ジョイント」と称された記者会見が帝国ホテルで開催され、その席上で角川事務所社長・角川春樹『蘇る金狼』の製作を記者団に告知。さらには角川+西崎のコンビで『傭兵たちの挽歌』を製作し、そのうえ西崎+徳間書店・徳間康快で『汚れた英雄』を製作すると発表したのです。
 西崎、角川、徳間という日本映画界屈指のクセ者連合による一大プロジェクトに、当時の映画界は色めき立ちました。しかしこの大風呂敷、当然ながら頓挫の憂き目を見るのです。
 角川映画製作の『蘇る金狼』は予定通り79年に公開されました。けど西崎の『汚れた英雄』は『ヤマトよ永遠に』(80)の公開時、劇場で順調な製作をアピールするフライヤーが大量配布されながら、プロジェクトはなかったかのごとく葬り去られたのです。
 
『汚れた英雄』の映画化が一筋縄でいかないのは、原作を読んだ人なら誰でも痛感するでしょう。主人公・北野晶夫が美貌と肉体を武器に伸し上がり、レーサーとして世界に君臨する様を、戦後日本の台頭とを交錯させて描く壮大な物語です。西崎版『汚れた英雄』はやはりというか、製作初期の段階でストーリー作りが難航してたのです。そして製作がもたつくうちに契約期間が満了し、プロジェクト自体が立ち消えになったのです。

 そんな西崎から、『汚れた英雄』の映画化権を獲たのは角川でした。
 角川春樹は『蘇る金狼』に続き、同じ主演(松田優作)&監督(村川透)コンビによる『野獣死すべし』のヒットに気を大きくしてか、83年の正月映画として『汚れた英雄』(『伊賀忍法帖』との二本立て)の製作を即座に発表。しかもメガホンを取る監督の名に、当時の映画ファンはビックリ!!
 その監督とは、製作者である角川春樹その人だったのです。『犬神家の一族』以降、日本映画界の寵児として名を馳せる春樹でしたが、監督としての力量に関しては全くと言っていいほど未知数。そんな男が、邦画界初のモータースポーツ劇映画に着手するのです。

 ハリウッドですら踏み込めなかった、本格的二輪レースムービーの領域……。角川版『汚れた英雄』は映画ファンのみならず、バイクマニアたちもその動向に注目せざるをえませんでした。
 

 というワケで82年12月18日、遂に待望の『汚れた英雄』は封切られました。
 当時中学生だったオレは、この歴史的作品を公開初日にビデオで観ました。あの頃の邦画は劇場公開とビデオ発売が同時という、信じられないアクロバティック・リリースを展開したんですが、そんなことはもはやどうでもいいこと。角川春樹監督作品『汚れた英雄』は、二輪レース描写がどうとかの次元を超越した、信じられない映画だったのですよこれが!!

(以下、次回に続く――)

(2002年9月10日掲載)










BACK | | MAIN