第65回(H16年度第3回)いたばしボランティア・市民活動フォーラム
「板橋がもし100人の村だったら」から考える
100人のうち、3人が外国人です。
さて、この外国人の方たちは、どのような国の人なのでしょう。
そして、ともに暮らす人と人として出会い、互いに尊重しあい、
幸せに暮らし生きるためには、どうしたらいいのでしょうか。

 地域は、そこに住むたくさんの人びとの営みと関係性から成り立っています。しかし、地域に住む私たちの多くは、そのたくさんの人びととは無縁か、あるいは関心の外にあるかのようです。
 そのような私たちでも、家族や友人のことになれば、態度は違ってくるでしょう。私たち自身が気にとめる家族や恩師や友人たちなどの数を、例えば、あなたの携帯電話の番号入力数や、年賀状を出す相手の顔を思い浮かべながら、数えてみてください。100人くらいは、いるでしょうか。100人いなくたっていいのです。大切なのは、100人という数値は、身近なこととして感じられる単位なのではないか、ということです。
 「世界がもし100人の村だったら」をご存知でしょうか。これを読んだ多くの人が、世界を凝縮して考える発想と内容に共感したように、私たちもまた共感したのです。
 そして、板橋の様々のこと≠ノついて、身近な事柄として捉えるための方法として、『板橋がもし100人の村だったら』から考えてみました。板橋における問題や私たちの関心事が、より明確になるということに留まらず、多くの皆さんの関心と共感が得られることを願いながら。


  ■ 日   時 平成16年11月27日(土)13:30〜16:30
  ■ 会   場 大原社会教育会館 第1講義室
            板橋区大原町5−18(都営三田線本蓮沼 A3出口徒歩5分)
  ■ 定   員 50名(参加費無料)

◆ プ ロ グ ラ ム◆

1)板橋における外国人について
            NPO ボランティア・市民活動推進センターいたばし 蕪木 孝
2)朗読
  「もし世界が100人の村だったら」、および「もし板橋が100人の村だったら」
            NPO ボランティア・市民活動推進センターいたばし 飯島 弘
3)日本に生まれて暮らす外国人として
  〜子どもたちの教育を通して、地域とつながる〜
                     アボジ(おやじ)の会 金 容星(キム・ヨンソン)

                       −休    憩−

4)外国人とともに住むまちづくりを、市民が考えすすめる
  外国人ととともに住むまちづくりを考える機関紙「おおくぼ」編集部代表
  、及び共住懇(外国人ととともに住む新宿区まちづくり懇談会)代表 山本 重幸

6)まとめ
                           人権教育ファシリテーター 相馬 淳子


主   催 板橋区立大原社会教育会館
       /NPO ボランティア・市民活動学習推進センターいたばし
企画・運営 ボランティアフォーラム企画・運営委員会


フォーラム記録概要
 板橋の外国人について
「100人のうち、3人が外国人です。」

1.板橋の外国人登録者数 資料;第35回板橋区の統計

  平成16年:3人=0,03025=15,364人÷507,845人
 @主な国籍の変化
中  国 韓国・朝鮮 フィリピン
昭和58年 438 2,382 23
平成16年 7,830 3,483 1,400
※ 昭和58年に比べると、中国人・フィリピン人の増加が目立つ。
 A増加率(前年比)
平成12年 平成13年 平成14年 平成15年 平成16年
総 数(人) 12,377 12,936 13,971 14,748 15,354
増加率(%) 4.51% 8.00% 5.56% 4.11%
※ 平均増加率:5.545%=(4.51+8.00+5.56+4.11)÷4単純計算ではあるが、この平均増加率を20年間かけ続けていくと45.183人(=45.1829746)、すなわち20年後には、現在の3倍の外国人が板橋に住むことになる。

2.日本、東京都および他区の外国人登録者数 
        資料;法務省大臣官房司法法制局司法法制課「出入国管理統計年鑑」、
        東京都総務局統計部統計課
外国人登録者数 主な内訳 100村換算
日本全体 1,851,758
(H14年)
1人
=0.01453=1,851,758
÷127,435,000
東京都 306,154
(H12年)
韓国・朝鮮=99,409
中国=99,045
その他=41,166
フィリピン=25,970
アメリカ=17,715
3人
=0.02537=
306,154÷12,064,101
港 区 15,701
(H12年)
米・英=5,650
その他=4,032
韓国・朝鮮=2,570
中国=1,771
10人
=0.09850=15,701
÷159,398
新宿区 24,149
(H12年)
韓国・朝鮮=9,462
中国=7,607
その他=2,844
8人
=0.08422=24,149
÷286,726
豊島区 14,781
(H12年)
中国=7,629
韓国・朝鮮=3,240
その他=1,191
6人
=0.05935=14,781
÷249,017
 100村換算でいえば、100人のうち、日本全体では1人、東京都は板橋区とおなじ3人。また、板橋区よりも外国人の比率が多い他区例でも、内訳の国籍に差異があることがわかる(ただし、資料は平成12年度である)。

3.世界各国の外国人人口比率
 外国人人口が全人口に占める割合をみると、ベルギーやドイツなどでは、人口の7〜10%に達しているが、イギリスでは3%である。1980年代後半以降に外国人労働者の流入が本格化した日本やイタリアなどでは、外国人人口の比率は上昇傾向にあるものの、1〜2%程度にとどまっている。また、アメリカでは、外国生まれ人口の全人口に占める比率は次第に上昇し、1999年には10%を超えた。
            (資料;独立行政法人労働政策研究・研修機構「データブック国際労働比較2004」)

4.「板橋の外国人」に関するフォーラムを開催するにあたって
 板橋区の外国人登録者数と国籍の変化は、1の表にも書いたとおりです。歴史的背景をもつ在日韓国・朝鮮人≠竅Aいわゆるニュー・カマーにあたる外国人労働者や留学生≠ネど「板橋の外国人」のことを理解するためには、このどちらにも通じる事柄について考えることが大切なのではないでしょうか。そして、このことを考えるにあたり、私たちが持ちたい視点とは、ともに暮らす人と人として出会い、互いが尊重しあい、互いに幸せに暮らし生きるためには、どうしたらよいか≠ニいうことであるようにも思うのです。
 今回のフォーラムは、日本で生まれ暮らしている在日韓国・朝鮮人≠フ方に、子どもたちの学校を通じての地域社会への取り組みなどをお話しいただくとともに、板橋の未来であるかも知れない新宿区百人町・大久保地区、100人村換算で言えば23人もの外国人が暮らす地域での共生への取り組みもお話ししていただきます。
 先に「板橋の外国人」を理解すると言いましたが、世界がもし100人の村だったら≠フ中にも『村にはいろいろな人がいることを、なにより知ることがとても大切です。』とありますように、今回のフォーラムも、板橋にもいろいろな人がいることを、まずは知ること≠ゥら始めたいと思っています。このフォーラム以降、フォーラム参加者それぞれが、理解をするための出発点にしていただきたいと、私たちボランティアフォーラム企画・運営委員会では願っています。


 日本に生まれて暮らす外国人として
■ 今日のフォーラムでは人権教育ファシリテーターということで進行役をさせていただくのですが、ファシリテーターというのはあまり聞きなれない言葉ではないかと思います。一言でいう適当な言葉が日本語にはないのでカタカナのまま使っていますが、直訳すれば学習を進める手伝いをする人ということで、先生とか指導者とかではないということです。ですから、これから発言する方たちのお話しを引き出しつつ、私の経験の中で考えてきた人権のこと、人権問題のこと、人権について学ぶこと、そういうことを活かしながら、皆さんと同じ目線で考えていく進行役だとお考えください。
 フォーラムのテーマへの切り口はいろいろあると思いますが、本日の中心になることは2つ、1つは、「日本に生まれ暮らす外国人として〜在日という生き方〜」ということでキム・ヨンソンさんにお話しいただきます。もう1つは、その後にお話しいただく「外国人とともに住むまちづくり」です。
 最初に、「日本に生まれ暮らす外国人として〜在日という生き方〜」というテーマで、生まれた時から日本で暮らしているけれども、日本国籍ではない父親たちの学校での取り組みをお話しいただきます。
                                    (人権教育ファシリテーター 相馬 淳子)■


            学校のバザーを通じて地域社会と取り組む
                                               金 容星(キム ヨンソン)

 アンニョン・ハシュニカ。杉並(阿佐ヶ谷)村から来ましたキム・ヨンソンと申します。今日はこういう楽しいフォーラムに招いていただいて有難うございます。プログラムのなかにある肩書きにアボジ会とありますが、阿佐ヶ谷にあります朝鮮第九初級学校、九番目にできた小学校ということなんですが、もう子どもたちはそこを卒業していますので、アボジ会のOBという立場で参加させていただきたいと思います。
 さて、板橋がもし100人の村だったら、100人のうち3人は外国人です。その3人を子どもと想定し、そのうち2人が在日韓国・朝鮮人の子ども、もう1人は他の外国の子どもということで、お話しをさせていただきます。

 この村には、小学校が駅の近くにあります。一方で在日の子どもたちが通う朝鮮小学校が村のはずれにあります。広さは村の小学校の4分の1程度でしょうか。当然、運動場は狭く体育館もプールもありません。生徒数も少なく、この村の2人の子どもをはじめ、となり村またそのとなり村から電車やバスで通っています。1時間ぐらいかけて来る子もいますけれども、子どもたちは楽しく学校生活を送っています。
 村の小学校と朝鮮小学校は近くにありながらもほとんど交流がありませんでした。朝鮮学校ってどんな学校なんだろうねぇ。何を教えているんだろうねぇ、という声も聞こえてきます。朝鮮学校自身も地域に対して開いてなく閉鎖的なところもありました。そんななか、アボジ会の何人かがいろいろと話をしているときに、一人のアボジの「学校でバザーを開こうよ。地域の人々が来てくれるようなバザーを」という一言から、朝鮮学校の地域との積極的な取り組みが始まりました。

 以下、キム・ヨンソンさんの資料(月刊社会教育2001.3.N0545)から、転載します。

 日頃、使い慣れたり見なれたりしている言葉・ニュートラルで透明な伝達能力しかなくなって色あせた言葉が、今までとは異なった状況や文脈の中で急に輝き、新たな喚起力の言葉として活性化し、意識や行動を能動的にさせる、そういう覚えはないだろうか。
 東京阿佐ヶ谷にある東京朝鮮第九学校(第九小)のアボジ(父親)会にとって『地域』という言葉はまさにここ数年来、交流の手ごたえを実感させる言葉となってきた。
 テポドンやその他緊張する報道がなされるたびに起こる欧米の人々に対してはけっして起こり得ない排他的な嫌がらせ。とくに立場の弱い朝鮮学校の女生徒への刃物での卑劣な暴力。父母の抱く危機感の増大とともに比例する社会への閉塞感。そのような中で、アボジの一人が「うちの学校でバザーを開こう。地域の人々が来てくれるようなバザーを」。この一言から地域社会への積極的な取り組みが始まった。

 地域に開かれたバザー
 新たなテーマは、「地域社会に開かれたバザー」。これまで個別的なつきあいしかなかった近隣小学校の生徒、父母たちとの輪をひろげ、お互いの交流と理解を深めること。そのためにはまず自分たちから門を開かなくてはとの思いが父母たちを動かした。住宅街の中にある小さな学校の門の前には開催当日、朝早くから日本の人々の列ができた。五年前のこの光景は第九小の50年の歴史の中でも忘れ得ぬものになった。バザー開催中、教室の一室では、近隣の区立小学校のPTA、父母の方々を招いて懇談会が開かれた。この会が地域住民の朝鮮学校への理解を深めることにつながり、他校のおやじの会の人たちとの交流が始まる一歩となった。年ごとに拡がっていくバザーは、地域での私たち在日の絆をも強めてくれる。地元に根ざして生活している第九小のOBや同胞、また商店街や生徒たちの交通手段の一つであるバス会社の方々のバザーへの協力は、地域性に厚みを増した。学校では、教育の内容を理解してもらうことも大切なことであるとの思いから、バザー当日、開始前の二時間の授業を開放参観とした。
 初めて参観した日本の方は、日本の小学校とはほんど同じ授業内容や韓国籍の子どもたちが通っていることに驚く。バザー会場には近くに住んでいる韓国、中国からの留学生、アメリカ人の親子、車椅子の人たちの姿もある。地域との交流と理解だけでなく、地域へのささやかな貢献をとの父母の願いからバザー収益金の一部を少額ながらも福祉活動にと区に寄附を行うようにもなった。
 地域社会との積極的な交流から理解を深めようと、一つの言葉から始まった開放型バザーは、東京をはじめ全国の朝鮮学校に拡がっている。

 拡がる地域との交流
 地域でのいろいろな交流を深めようとする思いは私たちだけではなく第九小の両隣りにあるおやじの会の人びとも思いは同じであった。通学路の途中にある区立小のおやじの会では夏休みの終りにデイ・キャンプを開く。親、子どもに校庭でグループごとに料理を作り、一緒に食べた後ゲームをして体育館で一泊する。毎年参加するアボジ、オモニ、子ども、教師は朝鮮料理を作り、子どもたちは日本の子どもたちに混じってゲームを楽しむ。また、少し離れた区立小学校では毎冬地域の小中学生が集まっての焼きいも大会が開かれる。近くの公園で子どもたちが掃除をかねて集めてきた落葉でいもを焼き親たちは大鍋でとん汁をつくる。リクエストでつくった朝鮮料理のトックも大人気でメニューの一つに加わった。
 この会の特徴は参加校の子どもたちが何か一つ催しものを披露する。第九小の男子の朝鮮の農樂。女子の舞踊は定番となった。バザーから始まった交流が点から線となり、学校間の交流に結びついた。さらに町会の親睦旅行、防災訓練への参加は面的な交流への拡がりとなった。その後子どもたちはお互いの学校訪問、学芸会への友情出演といった形で少しずつ知り合うようになっていった。
 学校や子どもたちを中心に動いて来た近隣小との交流は次第に親同士の交流へと発展していった。PTAの母親とオモニ会とのキムチ教室や料理交流会。おやじの会、アボジ会の区民体育祭つな引き大会への参加、一昨年初参加のアボジ会は堂々の四位、他校の父母、オモニたちの過激な応援もあって特別賞受賞の快挙。つな引きに嵌った親たちは子どもをも巻き込んで三校の親子合同のつなひき交流会への突入する。数年来の交流の中でお互いの状況も少しずつ理解されていく。玄関チャイムのボタンを押して逃げる悪戯をしていた第九小の子どもがその家のおとうさんを知ってからは玄関にいる犬と仲よしになったり。通学途中に見知った方々に挨拶をするようになった。交流をずっとサポートしていただいた公立小の校長先生の計らいで、プールのない第九小の生徒のために、体育授業の一環として自校のプールを開放してくださった。親子の交流の次は教師同士の番だと、先生同士の交流も始まった。
 ここ数年感じることは、地域社会では人びとの心情がよく見えたり、判ったりする。大きな声で主張や表現をしなくても、小さな声ででも願っていることや大切なことを語りかけたり、行動したりして、自分を少し変えるだけでも、社会はずいぶんと変わっていくんだなと実感している。

 多文化主義を問い直す
 最近の考え方の一つに、どの文化もいわば横並びであって、どちらがすぐれているとか、どちらがより普遍的であるとかいうことではなく、どの文化もみな同じ価値があるという考え方がある。人権というものの定義でさえ、文化によって異なる定義がある。これは一般的に文化多元主義と呼ばれる考え方である。しかし他方では、基本的な理想、価値、目標は同じであり、同じであるべきだという考え方、つまり価値の普遍性に対する信念、価値の普通主義がある。多元主義は、特殊性、多様性と結びつき、普遍主義は普遍性、進歩性、先進性と連なる。多元主義と普遍主義という二つの考え方は対立し、私たちが何かをつくりだそうとする時、必ずぶつかる問題ではある。最近の多文化時代、共生時代を生きるという背景には多数者側のみの論理を感じている。多数者は少数者に対して常に同化への枠組を強要するが、それが成り立たなくなると、平等や普遍性のもとに多文化主義へと枠組を変える。ところがこの多文化主義は、少数者への全体を把えなおすものではなく、ある程度の文化的多様性を認めるに止まっているように思えてならない。問題は、特殊性や多様性の意味を文化という狭い範囲に閉じこめ、日々の具体的な生活や権利の問題に拡がっていかないことだ。表層としてきれいになった言葉、優しく手ざわりのよい言葉、受けとめに努力を要しない言葉は、確かに心地良く響くが、現実や実体との距離はますます遠くなってしまう。
 開放から交流へと展開した地域との関わりは、昨年の夏に、事業づくりと発展した。日本の小学三年生の教科書に載っている朝鮮の昔話「三年とうげ」をうた芝居として上演している劇団を招いての観劇会の企画をおやじの会、アボジ会の合同主催、区の教育委員会、文化・文化交流協会後援を得て区公会堂で開催した。父親たちの素人の運営となったが、PTA・オモニたちの手助けもあって近隣小の多くの生徒や父母に観ていただいた。観劇した隣校小の三年生たちは秋の学習発表会で自分たちが「三年とうげ」を演じた。観劇会の準備で苦戦していた時、打合せ会で、「一番近いとなりの学校同士、お互い楽しくやろうよ。」とのおやじの会の方の言葉が胸にしみた。自分たちの特殊性をずっと意識していたアボジ会の肩が軽くなった。それからつきあいがいっそう気軽になった。
 おやじの会の人たちが、私たちの学校やアボジ会を呼ぶ時の「ちょうせんさん、ちょうせんさん」という言葉が私は好きである。その言葉に、特殊性へ対して負ではない多文化への響きを感じるから。

 以下、フォーラム時の発言に戻ります。

 朝鮮学校は、各種学校です。学校教育法による一条校(幼稚園・小学校・中学校・高等学校・大学)ではなく、分かりやすくいうと‘そろばん学校’とか‘洋裁学校’とかいう意味合いのような各種学校になります。各種学校ですから、助成金がありません。ただ一つあるものとして外国人学校児童生徒保護者軽減負担金、これは教育委員会や教育課からお金が出るものではなくて、朝鮮学校に通わせてる子どもたちの授業料の負担にしてくださいということで、区民費として親ごさんの方へ入ってくるものです。確か、板橋村では8千5百円/月、杉並村では6千円/月です。大雑把にいうと、だいたい全国平均で1万円/月ぐらいです。杉並村の議会に行って調べたところ、村の小学校では、一人の子どもに対する予算が年間で80万から90万円くらいです。朝鮮学校は、日本の学校の約半分ぐらいの予算で運営していますので、先生たちの給料が安い、また必要な教材が買えない、学校のメンテナンスができないというしわ寄せのなかで、年間50万円、二人の子どもがいると100万円の学費がかかります。その他に村の在日の方からの寄付とかなどをいただきながら運営しているわけです。
 もう一つは子どもたちの将来に関してですが、十条にあります朝鮮高校を卒業しますと、国立大学の受験資格がありません。一条校として認められていない各種学校ですので、朝鮮高校は高校ではないということです。大学を受けたかったら大学検定をとって受けてくださいということなんですが、試験に落ちて通らなければ能力の問題ですからしかたありませんが、受験資格までないというのは、のびのびと育っていく子どもたちの未来を考えたときに、私たち親としては非常に残念な気がします。

 さて、この村の外国人3人が村の97人を見たときに、どうなるんだろうと考えてみました。この村に生まれこの村のなかで暮らしていこうと思ったときに、この村は一体何を基にして、外国人を受け入れるのだろうか。民族なのか、人種なのか、それとも言葉なのか、宗教なのか、文化なのか、歴史なのか。同じ民族でも私たちの国は、二つに分かれています。同じ英語をしゃべるからといって、アメリカやイギリスが一つになるのか。イスラム教やヒンズー教や仏教を信じている人たちが、宗教ごとに一つの国になるのか。歴史的な事実を共有したからといって、それが一つの国になるのか。また文化・芸術、ピカソやマチスが好きだといって、ピカソの国やマチスの国になるのかと、いろんなことが考えられます。それでも、小さな村・地域のなかで生活しようとする意思、ここでよりよい生活を目指し、ともに生きていこうという願い・思いが、恐らく100人の村を形づくっていく基ではないかなと思っています。

                              以 上

 外国人とともに住むまちづくりを、市民が考えすすめる
■ 前半は、今、日本でお子さんを育てている在日の方に、教育ということを軸にお話しを伺い、そういう思いを持っている方がいるということが分かった訳ですが、後半は、板橋の外国人についていえば、20年前に比べて中国やフィリピンの人たちが増えている状況、このあたりに視点をあてて、お話しを伺いたいと思います。
  「外国人とともに住むまちづくりを、市民が考えすすめる」というテーマで、このまちの未来を考える・多文化コミュニケーション情報紙「おおくぼ」の代表である山本さん、情報誌の名前でも分かるように、新宿区百人町大久保地域を活動の拠点にされている方です。
                                      (人権教育ファシリテーター 相馬淳子)■


        外国人とともに住むまちづくりを、市民が考えすすめる
                                                共住懇代表 山本 重幸

 共住懇の山本です。今からお話しをするにあたって、先ほどから「外国人って、どういう人だろう?」というような質問が出ていますが、話しを円滑に進めていくために、先ほどお話しされた方たちのように日本で生まれ暮らしている背景を持たれた外国人に対して、便宜的に「オールドカマー」という表現を持ちたいと思います。また、1980年代から日本に増えつつある外国人の方がたを、「ニューカマー」という表現にしたいと思いますので、そのようにご理解ください。

 1980年代の中頃から、世界的に人の流動が活発化してきます。ヨーロッパやアメリカ、そして日本も例外ではなく、東京では豊島区池袋や新宿区大久保周辺地域(歌舞伎町を含む)に、さまざまな海外からの出身者が集まることになりました。当時、韓国や中国では海外渡航が自由化され、例えば1988年にはソウルオリンピックがあったり、日本では1983年に中曽根内閣が「留学生受入れ10万人計画」を出すなど、海外渡航が活発化してきた時代でもありました。その頃から、周辺国の中国や韓国、東南アジアのフィリピン・マレーシア・シンガポールなどの出身者が、日本を目指すようになりました。今、それぞれの国は経済も活発化していますが、80年代後半の日本がバブル経済の余韻に浸っている頃は経済格差も大きく、労働目的として日本を目指す人たちが多かったのです。
 日本の社会は、今までこういう事態を経験したことがなく、また、一つの町のなかに急激に外国人といわれる人が増えたのですから、元から住んでいる人たちにとっては不安とか混乱ということがおこるわけです。現在、新宿区の総人口30万人のうち、3万人が外国人登録をしていますので、100人村換算すれば、「100人のうち、10人が外国人」ということになります。さらに、私たちの活動拠点となっています大久保1・2丁目、百人町1・2丁目界隈に限定しますと、33%、「3人に1人は外国人」ですし、大久保1丁目では世帯数にすると50%を超えました。「2世帯のうちに1世帯は外国人」、お隣さんは外国人というような町になりました。

 そのような状況が90年代から始まってくるのですが、91年11月に新宿区が区民向けのセミナーを開きました。このセミナーのテーマの中に「福祉」、「ゴミとリサイクル」と並んで「外国人とともに暮らす」というテーマがあり、40名くらいの方が集まりました。そこで話し合われた内容は、日本人としては、「この町にこれ以上外国人が増えると困る」という一方で、留学生とか地域のなかで生活している外国人の方たちも、「日本で暮らしていくうえで困ることがいろいろある」という問題提議がありました。では「互いにより良く暮らすにはどうすればいいか」という問題になるわけですが、これはなかなか難しい問題なので、1・2回の講座では充分にお互いを理解できないし、解決策も見い出せない。そこで、自主的に継続的な学習会をやることになり、92年の4月に「外国人とともに住む新宿区まちづくり懇談会」という学習活動を始めますが、名称が長いので「共住懇」という略称を使いました(02年から正式名称となった)。始めの2年ほどはテーマを決めて毎月学習会を重ねてきましたが、2年ほど経ちますと外から得た情報だけでは納得できなくなってきました。当時、マスコミは、「大久保の町は、暗い・怖い・きたない」という情報を流し続けるのですが、大久保地域住民にとっては大変心外なことです。
 そこで、地域に住んでいる人や外部から見る人に対しても、自分たちが考える町の実態を伝えなくてはいけないと考えました。そこで、増え始めた外国料理の店・エスニックレストランに注目し、地域を知るための資料としてレストランガイドマップ「おいしいまち<Kイド」というものを作りました(今現在、大久保周辺地域ではレストランだけで100店舗を超え、さらには様々な業種も展開していて、300事業所ぐらいの外国人ビジネスの拠点になっていますが、10年前は30店舗に満たなかった。また、韓国料理の店というのはほとんどなく、タイとかマレーシアとか台湾のお店が主だった)。これが外部の反響を呼ぶことになり、「大久保は、エスニック通りで面白いぞ」という話が序々に広まり、女性誌などにも取り上げられるようになりました。
 この町の大きな特徴は多民族・多文化であり、外国人という言葉だけではその内容を窺い知ることができません。新宿区には、世界に百数十ヶ国あると言われている中で百ヶ国以上の地域からニューカマーと呼ばれる外国人登録があります。それに加えてオールドカマ―と呼ばれる方々がいます。共通することもあるのですが、ニューカマーとオールドカマーにはそれぞれの問題があって、外国人というククリで一緒に語ることはできないと思います。私たちの活動は、地域生活者の立場として、外国籍区民の方々とどのような町・地域を築いていけるかというような活動をしています。そこで、地域にどのような問題提議ができるかということで始めたのが、レストランガイドマップ調査であり、その成果をもとに「大久保というのはこんな町ですよ、こんな人が住んでいますよ」というような連続セミナーやミニ・シンポジュ―ムをやるようになりました。
 しかしながら、町の変わりようが激しいので、なかなか町の全容を知ることができません。例えて言えば、町はパイの皮のように幾重もの層になっており、そのパイの皮を一枚一枚剥がすような作業をしているわけですが、その枚数が多すぎて剥がしきれない。一方で、下の方から新しいパイ皮が積み重なっていくような状態なので、一体いつになったら中身が分るのだろうという状況のなかで、今後とも町を知り続けていく、知ったことを皆さんにお知らせしていく活動を続けていくことになります。

 この地域には様々な方がたが暮らしていますので、その方がたとのコミュニケーションをとるということがとても大事なわけです。一つのマンションのなかでお隣さんは外国人というようなことが日常的にありますし、この地域の集合住宅では平均1割程度の外国人の方が住んでいます。また、地元の2つの大きな商店街では顧客の7割が外国籍の方という一方で、外国人の経営するお店のお客の半分以上が日本人という、地域のなかではお互いがなくてはならないという存在になっていますが、元々持っている生活背景とか言葉の違いにより、お互いが理解し合えるということがなかなか難しいわけです。それでもお互いを理解しようということで、レストランガイドに続いて地域の情報誌を4年前から作るようになりました。「おおくぼ」というタイトルで隔月で発行していますが、「おおくぼ」というタイトルは地名ではなくて、多文化・多民族の人たちが暮らしているまちの象徴として捉えています。26号から、日本語・中国語・韓国語の3言語で発行できるようになりました。コストの問題もあり、当初はできるだけ簡潔な日本語にカナをふるという対応をしていましたが、地域的に中国語と韓国語の需要が多いことから、ようやくこのようなスタイルにたどり着くことができました。
 また、お互いの交流の場として、シンポジュームのような難しい企画ばかりではなく、楽しいイベントも開催しています。02年には、ピョンヤンまで落語をやりにいった日・韓落語(同時通訳ではなく、日本語と韓国語訳を交互に同時進行させるスタイル)をやる人が知人(古今亭菊千代)がいましたので、大久保で「おおくぼ寄席」という古典落語の会を催しました。また、大久保地域を生活の拠点にしている外国人の方が、どういうことを考えて暮らしているかをテーマにした「おおくぼ芝居」というものを企画しました。今年04年は「OKUBOアジアの祭り(日本の盆踊りや伝統芸能とミャンマーの芸能など)」を企画し、今後はこのようなプログラムを増やして発展的に楽しいイベントにしていきたいと考えています。

 最近の大久保の町についてお話しします。今、大久保職安通りというところは、ヨン様グッズが氾濫しています。昼間の時間帯は、今までに見られなかったような年齢層の高い女性たちが増えてきました。半年前にはあり得なかった現象です。大久保周辺は「暗い・怖い・きたない」と思われていたわけですから、女性には近づきがたい町であったわけです。「冬のソナタ」ブームの火付け役の一つであったお店が職安通りにありまして、ここが韓流(ハンリュウ)文化、いわゆるKポップ・Kムービーなどの情報拠点としてのお店であったわけです。身近で見ていて、このブームはいつまで続くのかなと思っていましたが、まだまだ続いております。
 今はニューカマーの韓国人が多いのですけれども、この方たちの多くがいつ日本に来たかといいますと、90年代半ばぐらいからです。事業経営者の多くは80年代に留学生として来ていた方たちで、現在の年齢は50代前後の人が第一世代であり、次の世代は30代中程、そして今、留学生で来ている20代、という非常に若い民族集団です。そういう様々な方が大久保地域をビジネス拠点としています。日本と韓国の距離、羽田と金浦(キンポ)空港間の移動時間でいうと2・3時間ととても近いわけで、これは国を超えるというよりも国内の移動距離と変わりありませんので、そのくらい往来が容易になっています。

 私たちが最も重要に考えていますのは、日本人とか外国人とかではなく、地域のなかでいかにともに暮らすかということであります。が、最近使われる「多文化共生・多文化共生社会」という言葉の「共生」というイメージが理想主義的に語られることがあります。うまくいって当たり前とか、お互い手をたずさえにこやかに暮らしていけば何とかなるというように。ちょっと気を付けなければいけないは、大久保での事例のように、いきなりの衝突もあるということです。急激に地域のなかに新しい人たちが増えることで混乱がおき、そのなかでビックリしてドカーンとぶつかってしまうこともあるわけです。その時に、もうイヤだから、困ったから徹底的に相手を排除していくのではなくて、いかに折り合いをつけるかという知恵≠ェ必要だと思うのです。
 10年前、急激に増えた外国人と言われる人たちは、いずれいなくなってしまうだろうと思われていましたが、現実には増え続けています。新宿区全体の外国人比率では10%、地域によっては30・40%になるなかで、単純予測でこのまま増え続けていくと、半々の状況になってしまいます。その時には、日本人だからとか外国人だからとか言っていられないでしょう。先ほど、10年前には池袋と新宿周辺に外国人が集まってきたという話しをしましたが、近年は都心周辺の大田区とか江東区、板橋区、そして荒川区とかに分散、または新たな拠点ができるというような傾向にあります(2004年10月現在、第1位=新宿区、次いで足立、江戸川の順)。2050年には日本全国が大久保状態なるというような説があって、そのあたりの真意はどうか分らないのですが、いずれしても、どこで生活をしていても、やがてはそういう生活環境になっていくということで、板橋の状況も考えていく必要があると思います。

                              以 上


【 ま と め 】

 最後に進行役として感じたことを言わせていただいて、終りにしたいと思います。
 容星(ヨンソン)さんや山本さんと最初にお会いしたのは5年以上も前になるのですが、その頃からまた町も変わってきていますし、取り巻く人びとも変わってきていますし、ご自身がたも変わってきているというなかで、とかく東京都とか日本とか大きな枠のなかで考えがちですが、地元のすぐ隣に住んでいる人だとか、同じ地域に学校がある人だとか、同じ地域の商店街を利用する人たちがこういう風に繋がっていけるという良い事例を聞けると同時に、抱えている矛盾というものも聞く事ができたと思います。
 本日は、板橋村の100人のなかに3人の外国人がいることを考えることが主題になっていたと思うのですが、逆に3人の側から見たら97人の日本人とどう向き合っていくかを考えるキッカケにもなったという容星さんのお話しがいい問題提議になったと思いました。3人から見て97人は敵対してしまう関係なのでしょうか。在日として、今の日本に対して、制度などについて言いたいことが色々とあるでしょうが、両者の間にある壁・垣根を3人の側から乗り越えていこうとするお話でした。であれば、97人の私たちも乗り越えられないことはないと思うのです。
 そしてその垣根を乗り越えるには、例えば山本さんは一緒に食べながら乗り越えたり、町を歩いてマップを作りながら乗り越えたりしてきたのだと思います。またこういう場で出会って始めて乗り越えられたりすることもあるでしょう。地域という自分に一番身近なところでできることはたくさんあるのではないかと改めて思いました。
 この国・この町にいると、いろいろな国・民族の文化を知ることができます。例えばイタリア料理やトルコ料理を食べたいと思ったら明日にでも行けますし、いろんな国の踊りや音楽を聞きたいと思えば行くこともできます。しかしながら、それをもって多文化と言ってしまっていいのだろうか、本当に開かれていると言えるのだろうかと、私自身が心の中に思っています。それをみなさんにも宿題としてお持ち帰りいただけたらと思います。私たちは文化に対しては開いているように見えて、本当に私たちの心の中まで開いているのだろうか、閉じているのだろうか、理念とか理屈だけではなく、一緒にこの町に暮らしている人に対して開いているのか、閉じているのかを、今日をキッカケに考え続けていただければと思います。

                                      (人権教育ファシリテーター 相馬 淳子)


 

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