at Gallery Kitamura


*舟越桂さんが期待の作家を選んで応援するという贅沢な企画展にて*

 

 

 

 

高畑 一彰 展

2001年9月4日〜9月30日

 私の仕事場に高畑君の作品がひとつある。「 Melvin 」と名づけられた男の首。(頭像:彫刻の人は首と呼ぶ。ちなみに英語では Head となる。 Neck ではない。) シャツのえりまでのセメントの頭部。えりだけが白く塗られていて、その下からやはり白く塗られた鉄の棒が床まで伸びている。彼はその作品を画廊の壁の角に立てかけていた。その首の魅力とその置き方で私はすぐに気に入った。首という彫刻の方法にまだ誰も見つけていなかったものが、ここにある……。そんな気がした。見せ方もそうだが、彼の作る首の、空間を切り裂いてくるような細身の顔とその小ささ、そして肩の力の抜けたような力まない造形が魅力的な特徴となっているのだろう。

 人間の形を手で作る喜びのようなものが、作家が手を止めた後も、名残りとして像のまわりに漂いつづけているのかもしれない。手を止める瞬間までの苦しい時間や我慢の時間を、そっと隠して……。

                     2001年    舟越 桂

 

 

 

 


 

高畑さんってどんな人?……初対面の時の彼は、シャイなのか辛辣なのか自信家なのか謙虚なのか捉えどころのないわかりにくい人という印象だった。そこで無理にお願いして作品についての文を書いて貰った。

 

素材について

最近、私はセメントを彫刻の素材として使っている。これは必ずしも彫刻の素材として適しているとは思えない。だが今までも多くの作家が使ってきた素材のひとつだ。ただ私がそれらを見て思うことは「鋳物にするお金がなかったのかな」という様なくだらない感想だった。また自分がセメントを使った理由もそれに近かったからだ。

私のやっている塑像という手法は、その性質上まず粘土でつくりそれを何か別の実材に変換しなければ作品をのこすことができない。主流はやはり鋳物だろう。またFRPなどの合成樹脂あるいは石膏。作家や作品によって選ぶ実材は多種多様だ。

しかしどれも「何かがちがう」と感じていた。もちろんブロンズにはすごい存在感があり、石膏には他にかえがたい手軽さがあり、どれも魅力を感じている。でも「これだ」 と思ったことは一度もない。そんな時、家庭用セメントの袋がアトリエにあった。袋には「水で練るだけ」と書いてある。女性が作業している絵がかいてあるやつだった。冗談半分で、これで頭像をつくってみようと思った。セメントを流しこんで数日後、型をこわし型から出す時が来た。石膏の時も同様の作業をするが何度やっても毎回ドキドキする。結果は惨々だった。まず細かい部分は全くなくなり、耳がぶっとび鼻がもげた。「やっぱりこりゃだめだ」と思った。しかしそのままにするのも惜しいのでセメントを直につけたりしていじりはじめるとなぜかとても心地良く遠くへ行ってしまった作品が少しづつこちらにもどってくる様な感じだった。一度ふられた女性に再度好意を寄せられている様な感じともいえる。もちろん私にそんな経験はないが、とにかくいい感じだった。

粘土でつくったものをセメントにするということはある意味とても乱暴な行為だと思う。ボロボロになり元が何だかわからないこともある。セメントを直につけたり、けずったり色をぬったり完成するころには粘土のときとは全くの別物になっている。

セメントが彫刻の素材として適しているかいないかは別にして、少なくとも私には適している素材といえるだろう。 なぜなら私はあの時の何ともいえない感覚が忘れられず、またあの感じを味わいたいと思っているからだ。

                     2001年     高畑一彰   

 

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