
ここでは、巌流島の決闘に関わったとされる人物に関する簡単な紹介をしています。いずれは武蔵や小次郎に関わる人物全ての紹介をしたいと思いますが、何年先のことになるやら(^^ゞ
宮本武蔵玄信(円明流・二天一流)
天正10年(12年説もあり)播州(今の兵庫県)に生まれる。父は田原家貞。後に宮本無二之助一真の養子となる。13歳の時に新当流の有馬喜兵衛という兵法者にうち勝って以来、60余度の勝負をして一度も敗れることがなかった。主な戦歴としては京の吉岡一門との三度の戦い、舟島(巌流島)に於ける巌流小次郎との決闘などがある。父の十手術を学んだが、後に自ら工夫して二刀の兵法を創案した。壮年の頃は円明流、晩年は二天一流を称えた。武蔵は兵法以外の工芸にも優れ、絵画や自作の鍔などが現存している。晩年の武蔵は、養子の伊織を小倉の小笠原家に出仕させ、自らは熊本の細川家に客分として身を寄せた。寛永17年『兵法三十五箇条』を藩主忠利に献上。正保2年『独行道』『五輪書』を残してこの世を去った。辞世の言葉は「天仰実相円満兵法逝去不絶」。
もっと詳しく知りたい人は→『宮本武蔵玄信伝』(諸史料) 「宮本武蔵年譜」(年表)
「五輪書」「小倉手向山武蔵顕彰碑」「武公伝」「二天記」
「兵法大祖武州玄信公伝来」「宮本家系図」その他
小次郎(巌流)
出自、生年などいっさい不明。姓は「佐々木」とするのが一般的だが、『兵法大祖武州玄信公伝来(以下『伝来』)』には「津田」とある。豊前小倉の舟島で宮本武蔵と決闘して命を落とした。慶長17年4月13日とするのは『二天記』の記述だが、これも確証はない。決闘当時18歳だったというのが通説になっているが、これも信じられない。『武公伝』によれば18歳の時に巌流を創始したとあるのでそちらが正しいのかもしれない。三尺を越える太刀を使っていた。諸史料によれば、武蔵には加勢があったらしい。しかし、小次郎はそのことを察知しながら単身決闘に赴いたという。
もっと詳しく知りたい人は→「小次郎の謎」(考察編) 「資料集」
「小倉手向山武蔵顕彰碑」「沼田家記」「武公伝」「二天記」
「兵法大祖武州玄信公伝来」「本朝武芸小伝」その他
宮本無二之助藤原一真(当理流・実手当理流)
作州の剣士。もとは平尾太郎右衛門と言った。新免家の家老平田武仁と同一人物とする説も根強いが別人と考えた方が妥当だと思う。十手術の達人で伝書が現存している。武蔵の養父。将軍足利義昭の御前で吉岡憲法と仕合をして三本勝負の二本を取り、「日下無双兵術者」の称を賜った。新免家を離れた後、九州に下って中津の黒田家に仕えた。関ヶ原の戦いの時には豊後戦線に従軍した。巌流島の決闘の後、小次郎の弟子に追われる武蔵を豊後の地に保護した。慶長18年には日出藩の木下延俊に仕えていたらしいが、その後のことはよくわかっていない。播州で没したとも、筑前秋月で没したとも言われている。
もっと詳しく知りたい人は→「宮本無二之助・武蔵」(解説) 「無二・武蔵の史料」
「小倉手向山武蔵顕彰碑」「兵法大祖武州玄信公伝来」「泊神社棟札」
「沼田家記」「慶長十八年日次記」「黒田藩分限帳」「当理流伝書」
宮本伊織貞次(小笠原藩家老)
慶長17年10月21日播州印南郡米堕村に生まれる。父は田原久光(武蔵の実兄)。母は小原上野守源信利の娘。武蔵の養子となる。寛永3年小笠原忠真公に仕え、8年には家老職となる。寛永15年島原の乱の際には士大将として活躍し、黒田忠之より刀を賜る。四千五百石。武蔵の没後に手向山に顕彰碑を建立する。当然、巌流島の決闘には直接関与しないが、顕彰碑の記録が後世にこの決闘の存在を知らしめることとなった。伊織自身の墓も手向山の麓に現存する。延宝6年3月28日没。享年67歳。
「小笠原藩諸氏系図」「泊神社棟札」
細川忠興(小倉藩藩主)
細川幽斎藤孝の嫡子。細川家は代々足利将軍家に仕えたが、後に織田信長、豊臣秀吉に仕えた。忠興は明智光秀の娘を妻としたが、本能寺の変の際には光秀には従わず、秀吉の配下に加わった。関ヶ原の合戦の際も妻のガラシャ(明智光秀の娘、玉子)を失いながら徳川方に与して戦功を立て、豊前一国と豊後国国東郡及び速見郡を与えられた。忠興は文事に加えて武事をも好み、自ら天下夢想流捕手を櫻場釆女正藤原広正に学び、新陰流疋田豊五郎、当理流塩田浜之助、二階堂流松山主水らを召し抱えたとされる。巌流島の決闘の際、その許可を出したというが、実際にどこまで関わっていたかは不明。正保2年没。
松井(長岡)興長(細川家家老・豊後杵築城城代)
細川家の名臣松井康之の次男。天正10年に生まれた。『武公伝』や『二天記』によれば武蔵の父無二之助の門弟であったらしい。決闘当時豊後杵築城の城代であった(ただし慶長16年冬以降、それ以前であれば父の康之が城代)が、『二天記』に見える武蔵から興長への書状は創作である。決闘後、武蔵は沼田延元の家臣に護衛されて豊後に送り届けられたことが『沼田家記』に見える。決闘の際、興長は武蔵の父無二之助と共に杵築にあったものと思われる。決闘の一切を取り仕切ったかのように描く『武公伝』『二天記』の記述は創作であろう。寛文元年6月没。
沼田(長岡)勘解由左衛門延元(細川家家老・豊前門司城城代)
巌流島の決闘当時門司の城代を勤めていた。決闘に関する貴重な目撃証言を残している。『沼田家記』は後世の成立ではあるが、沼田家の公式な文書でもあり記述の信憑性は高い。その内容は「(1)双方の弟子達が師の優劣を争ったことが勝負の発端であった。(2)武蔵には加勢がおり、決闘に敗れた小次郎が蘇生した後、武蔵の弟子達が小次郎を撲殺した。(3)小次郎の弟子に追われた武蔵は延元に助けを求め、護衛されて豊後の無二斎の元へ届けられた。」などである。万治元年12月18日没。享年60歳。
『沼田家記』を読みたい人は→「沼田家記」本文(武蔵小次郎関連部分)