序説 巌流とは


 「ガンリュウ」は「巌流」「岩流」「岸流」、また「岸柳」「岩龍」など、様々に表記される。『沼田家記』に「小次郎と申者岩流の兵法を仕」とあるのだから、「ガンリュウ」は岩流剣術という流儀の名称であることは明らかである。にも係わらず、「流」が「柳」「龍」などと表記されるのは「ガンリュウ」という号が小次郎の号であると誤解されたためである。「佐々木岩龍」とか「佐々木岸柳」などと呼ばれる。

 武蔵史料の中では信憑性が高いとされる『手向山武蔵顕彰碑(小倉碑文)』が、この混乱の元凶となっている。『小倉碑文』は、武蔵の養子で小倉小笠原藩の家老に上りつめた宮本伊織が、武蔵の死後九年目に建立したものである。武蔵に最も近い人物の建立であるから信憑性が高いのももっともだ。しかし、この碑文では小次郎のことを「岩流」としか呼んでいないのである。
 普通、剣術者を流名で呼ぶことはあり得ない。武蔵を「宮本円明流」とか「宮本二天一流」とは呼ばない。『撃剣叢談』ではこの混乱が高じて「岸流」は本当は「岸流流」というべきだ、などと言っている。つまり、「岸流」はこの剣術者の号であって、「岸流」の流儀だから「岸流流」だという主張である。苦しい解釈だが、「ガンリュウ」を号とする以上はそれ以外に解釈のしようがない。
 けれども、「ガンリュウ」を号とすること自体が誤りなのだから、無理が生じるのが当たり前である。では、何故伊織は小次郎の正しい名を碑文に刻み込まなかったのか。眼下の島で命を落とした剣士の名を刻むことを避けたという解釈も出来るかもしれないが、おそらく伊織は小次郎の姓名を知らなかったということだろうと思う。

 伊織は慶長十七年、巌流島の決闘の年に生まれている。彼が小次郎の名を知るには武蔵から直接尋ねるしかなかったであろう。しかし、武蔵は語らなかった。そこに小次郎の生い立ちや決闘の背後にあるものを解明する糸口がある。
 顕彰碑を建立するにあたり、自らが家老を務める小倉城下で嘗て行われた「巌流島の決闘」を外すことは絶対に出来なかった。けれども偉大なる養父武蔵は生前、この決闘について多くを語らなかった。やむを得ず、土地の人々が島の名として呼び慣わしている「岩流」を彼の剣術者の称として用いたのであろう。

 ここから様々な混乱が生じたわけだが、史料価値の高い『沼田家記』や『丹治峰均筆記』『二天記』などが名を「小次郎」、流名を「岩流(巌流)」としているので間違いはないだろう。


※当サイトでは鳥取藩に伝わった「岩流」と区別するために史料からの引用を除いて、小次郎の流儀を「巌流」と表記します。「岩」と「巌」は意味も通じ同字と考えます。たとえば「岩石城」を「巌石城」と表記することもあります。