考察4 巌流島の決闘


真説 巌流島の決闘

 A 『沼田家記』 口語訳

 延元様が門司にいらっしゃった時、ある年、宮本武蔵玄信が豊前へ参上して、二刀流の剣術の師範をいたしました。その頃、小次郎と申す者がいて岩流の兵法を遣い、これも師範をいたしておりました。双方の弟子共が師の兵法の優劣を申し立て、武蔵と小次郎が兵法の試合を致すことに決まり、豊前と長門の間の彦島(後に巌流島と言う)で出合った。双方、弟子は一人も連れて参らぬことに決まり試合を致しましたところ、小次郎は打ち殺されてしまいました。
 小次郎は約束通り弟子は一人も参りませんでしたが武蔵の弟子達はやって来て隠れておりました。
 その後、小次郎は息を吹き返しましたがあの弟子達が集まってきて後で打ち殺してしまいました。
 このことが小倉へ伝えられ、小次郎の弟子達は徒党を組んで、是非とも武蔵を討ち果たそうと大勢で舟島へ押し渡りました。このため、武蔵は難を逃れて門司へ逃げてきて、ひたすら延元様をお頼り申し上げますので(延元様は)お引き受けなさって、(武蔵を)城中へお置きなさったので武蔵は無事に運をお開き申し上げました。
 その後、武蔵を豊後へ送り遣わしなさいました。石井三之丞と申す馬乗りに鉄砲の者どもをお付けになられて道を警護いたしましたので無事に豊後へ送り届け、武蔵を無二斎と申すものに渡し申しましたということでございます。

 B 決闘の真実

 この記述を見る限り、門司城代沼田延元は武蔵が助けを請うて門司へ来た時に初めてこの一件に巻き込まれたようだ。即ち、沼田延元はこの決闘の当事者ではなかった。『丹治峰均筆記』では「門司の城主何某(細川越中守殿家臣失姓名)」が決闘に立ち会っていたように書かれているが誤りだろう。では、この決闘の立会人は誰であったか。おそらく小倉から派遣された重臣であっただろう。もちろん、藩主忠興の密命を帯びている。密命とは「小次郎暗殺」である。
 順を追って考察しよう。
 武蔵が小次郎を打ち倒した後、集団で小次郎を打ち殺した者達がいる。延元は状況から判断して「武蔵弟子共」と言っているが、おそらく武蔵の弟子ではないだろう。武蔵が小次郎を殺すつもりであったなら自ら手を下せば足りることであるし、弟子どもの独断であるとしたら師への裏切り行為である。正々堂々の試合に勝った武蔵が一転卑怯者として小次郎の弟子達に命をねらわれたのは彼等の責任である。どう考えても「武蔵弟子共」では有り得ない。
 一方、小次郎の弟子達の行動も尋常ではない。彼等も細川の藩士であったはずだが、門司城代の威光でも彼等を押さえることが出来なかったのだ。鉄砲隊まで付けて豊後の父の元へ送り届けている。細川藩士の中でも過激な集団であったことが想像される。
 さて、では武蔵が正々堂々の決闘であると信じていたにも係わらず、後から小次郎をよってたかって撲殺したこの集団は何者であったのか。試合にかこつけて小次郎を抹殺しようとした者がいるはずである。しかも、細川家の家老門司城代沼田延元ですら真実がつかめないほどの極秘の企みであった。とすれば、その黒幕は決闘の主催者、細川藩主忠興ということになる。おそらくは、藩主とその周辺どが極秘に進めた暗殺計画であったのだろう。無二之助が係わっていた可能性はある。そうすると、長岡(松井)興長も陰謀に加わっていたかも知れない。すなわち、延元が「武蔵弟子共」と誤認した集団は密命を帯びた細川藩士であったのだ。もし、この一件に父無二之助が係わっていたとすれば、その弟子であった可能性はある。
 つぎに殺される側の小次郎、そして小次郎の弟子達の素性である。すでに考察したが、小次郎は一介の剣士という立場ではなかった。もし、小次郎がその剣技を見込まれて忠興に仕えた剣士であって、なにがしかの無礼があったため殺されたのだとしたら、こんなに手の込んだことをする必要はない。上意討ちにすれば済むことである。事実、小次郎の後任である松山主水大吉はそうやって殺されている。そういう時代である。
 とすれば、小次郎は、決闘によって命を落としたかのように細工せねば、藩政を揺るがしかねないような重要人物だということになる。そこで豊前佐々木一族説が現実味を帯びてくるのだ。歴代の支配者も英彦山勢力の支配には手を焼いた。殊に佐々木一族は堅城岩石城に依って一揆に参加した前科もある。慎重に対応しなくてはならない。小次郎が藩内で人望を集めるにしたがって佐々木一族、そして藩内の反主流派の勢力が増してきた。小次郎には罪がないのだけれど、彼を除かねば藩政の安定は望めない。かと言って罪もないのに上意討ちで殺してしまっては反主流派が一斉蜂起しかねない。あくまでも「不幸にして」命を落としてもらわねばならない。小次郎弟子達の過激な行動は佐々木一族を筆頭とする反主流派の存在を物語るものである。
 結論として次のように整理できる。

1)佐々木小次郎は豊前岩石城主佐々木氏の一族。藩内で人望を集めたために反主流派の台頭を招いた。
2)小次郎暗殺を計画したのは藩主忠興、家老杵築城主松井興長、宮本無二之助一真。
3)家老門司城代沼田延元は計画には無関係。
4)「武蔵弟子共」は密命を帯びた細川藩士を延元が誤認。
5)「小次郎弟子ども」は佐々木氏を中心とした細川藩反主流派。
6)武蔵は小次郎撲殺を目撃するまで陰謀には気づいていなかった。

 C 決闘の詳細

 このような陰謀があったにせよ、決闘そのものは尋常に行われた。『武芸小伝』や『西遊雑記』に記事によれば小次郎は薄々この暗殺計画に気付いていた節がある。また『丹治峰均筆記』には武蔵の加勢(本人は見物に過ぎないと言っているが)に動揺する小次郎の姿が描かれていて哀れである。どこまでが史実かは判断できないが孤立無援の小次郎の姿が浮かび上がる。しかし、死は覚悟の上である。過剰な同情は小次郎に対して失礼であろう。決闘の様子を出来うる限り再現しよう。
 まずは二人の獲物である。小次郎が真剣を用いたことは各史料に共通するところである。また、それが三尺余の大太刀であることもほぼ共通している。一方、武蔵は木刀である。二刀を用いたという説もあるが、おそらくは一刀であろう。武蔵が使用した木刀の写しというものがいくつか残っている。有名なのは松井文庫蔵のものと雲巌寺蔵のもの。形状は異なるが、長さは四尺二寸ほどの長大なものである。五尺に及ぶものもあるそうだが、これは武蔵が晩年持ち歩いたと言われる杖(じょう)のことであろう。
 小次郎の太刀も柄の部分を加えれば、武蔵の木刀とほぼ同じ長さであっただろう。

 武蔵と小次郎は、どちらが先着したかはともかく刻限通りに立ち会った。小次郎の技はおそらく水平斬りの返し技「虎切」。同時に降り出した両者の剣であったが小次郎の剣は武蔵に見切られ、武蔵の木刀は小次郎の頭蓋を砕いた。武蔵の打ちは片手打ちであったかもしれない。片手打ちなら間合いを稼ぐことが出来る。武蔵は二刀を用いて鍛錬する理由を「片手にてとりならはせんため也(兵法三十五箇条)」と言う。さらには「両手にて太刀をかまゆる事、実の道にあらず(五輪書)」とも言っている。武蔵の剣は二刀流ではなくて片手剣法なのである。
 小次郎の計算では、武蔵は一撃目を後ろに引いて交わすはずであった。水平振りの利点は後ろに下がるか受け止めるかしか避ける術が無いところである。そして計算通り武蔵は引いた。が、計算外だったのは武蔵が間合いを切りながら片手で長大な木刀を振り下ろしてきたことである。次の瞬間、小次郎の意識は途絶えた。
 しかし、小次郎の身体は反射的に虎切を完遂した。すなわち、決め技となるはずだった振り返しの一撃である。その切っ先が武蔵の袴を斬ったかどうかはわからないが、武蔵はこれも間合いを外してかわし、即座に二撃目を打ち込んだ。武蔵に罪はない。小次郎の返し太刀に反応したに過ぎないからだ。尋常の勝負はこれで終わった。武蔵はとどめを刺さなかった。当然のことである。武蔵にとっては純粋な腕比べであったのだから、おそらく両者に交わされていたであろう「一撃の約」を守ったはずだ。