解説
巌流島の決闘当時、細川藩家老で門司城代であった沼田延元が残した記録を子孫がまとめたものである。延元は決闘当時の生き証人であり、武蔵を小次郎の弟子達から救った事件の当事者でもある。巌流島の決闘の真実に関しては、『小倉碑文』などの諸史料よりもはるかに信ぴょう性の高いものといえる。延元の証言は、剣術者同士の純粋な勝負と信じられていた決闘が、もっと複雑なものであったことを教えてくれる。

下関市彦島の弟子待付近の山中から巌流島を望む
延元様門司に被成御座候時 或年宮本武蔵玄信豊前へ罷越 二刀兵法の師を仕候 其比小次郎と申者岩流の兵法を仕是も師を仕候 双方の弟子ども兵法の勝劣を申立 武蔵小次郎兵法之仕相仕候に相究 豊前と長門之間ひく島(後に巌流島と云ふ)に出合 双方共に弟子一人も不参筈に相定 試合を仕候処 小次郎被打殺候
小次郎は如兼弟子一人も不参候 武蔵弟子共参り隠れ居申候
其後に小次郎蘇生致候得共 彼弟子共参合 後にて打殺申候
此段小倉へ相聞へ 小次郎弟子ども致一味 是非とも武蔵を打果と大勢彼島へ参申候 依之武蔵難遁門司に遁来 延元様を偏に奉願候に付御請合被成 則城中へ被召置候に付 武蔵無恙運を開申候 其後武蔵を豊後へ被送遣候 石井三之丞と申馬乗に 鉄砲之共ども御附被成 道を致警護無別条豊後へ送届武蔵無二斎と申者に相渡申候由に御座候
口語訳
延元様が門司にいらっしゃった時、ある年、宮本武蔵玄信が豊前へ参上して、二刀流の剣術の師範をいたしました。その頃、小次郎と申す者がいて岩流の兵法を遣い、これも師範をいたしておりました。双方の弟子共が師の兵法の優劣を申し立て、武蔵と小次郎が兵法の試合を致すことに決まり、豊前と長門の間の彦島(後に巌流島と言う)で出合った。双方、弟子は一人も連れて参らぬことに決まり試合を致しましたところ、小次郎は打ち殺されてしまいました。
小次郎は約束通り弟子は一人も参りませんでしたが武蔵の弟子達はやって来て隠れておりました。
その後、小次郎は息を吹き返しましたがあの弟子達が集まってきて後で打ち殺してしまいました。
このことが小倉へ伝えられ、小次郎の弟子達は徒党を組んで、是非とも武蔵を討ち果たそうと大勢で舟島へ押し渡りました。このため、武蔵は難を逃れて門司へ逃げてきて、ひたすら延元様をお頼り申し上げますので(延元様は)お引き受けなさって、(武蔵を)城中へお置きなさったので武蔵は無事に運をお開き申し上げました。
その後、武蔵を豊後へ送り遣わしなさいました。石井三之丞と申す馬乗りに鉄砲の者どもをお付けになられて道を警護いたしましたので無事に豊後へ送り届け、武蔵を無二斎と申すものに渡し申しましたということでございます。
「豊前叢書」所収