《感受性にふたをしてはいないか?》
 まず、そこでライヴをやっていることを知っていてそこに居る。そしてそこで生身の人間が、聴く人に届け!と懸命にエネルギーを込めて音楽を作っている。それを感じる事に集中しようとしている聴き手が間近にいる。しかし、共有する狭い空間の中のそんな空気の真只中で、仲間との話題に喚声を上げている人がいる。明らかにその喚声はその空気を切り裂いている。目に見えるようだ。感受性にふたをしてはいないか?
 数ヶ月前の小さいライヴハウスでの事。店主の立場も考えて、かなり長い間耐えたが、我慢しきれずに、MC中に、言う羽目になってしまった。とても辛い事なのだ。音楽を「演奏する+聴く」というやり取りには、まず、そこに居る人の、聴こうとする意志が必要だ。(音量や、音数、速さなどの技で驚かせて注意を引くようなことは、私には出来ない。)“聴こうとする意志”と言うほどの事でもないかもしれない。耳と心を開き、感じる、と言う程度の事だ。(音楽を聴くと言うのは、音に集中すると言うよりも、音や空気を感じている自分に集中すると言う事かもしれない。)
 いつから、人の真面目な気持ちや情熱を、茶化し、受け取らない振りをするようになってしまったのだろうか。それどころか、皆持っているはずの、自分自身のそういう自然な気持ちさえはぐらかすようになってしまってはいないか?なーんちゃってと、軽く流してしまい、人の―そして自分の―正直な、真剣な気持ちに気づかない振りをするのは、やめましょうよ。お仕舞いにはもともと持っている感受性を紐解く糸口さえ失くしてしまうような気がする。
 軽やかな人間関係は、悪くないと思うし、私も好きだ。価値観の違いを認め束縛しあわない、嫉妬しない・・。でもその人の真剣な気持ちは、きちっと受け止め、自分も真剣に考える。そういっためりはりのある関係は美しい。たとえその日たまたま、演奏者と聴き手となっただけだとしても、同じ空間を共有する時、貴方と私は、関係無くはない。
 演奏していて、先のような状況に時々、遭遇する。頭にくるのを通り越して、悲しくなる。絶望感に襲われ、人間不信になる。
 そこにある音楽を無視できる、と言うのは、目の前の人の話を聴かないという事と何も変わらない。そういった人が結構多いのはどうした事か。
 ずっと感じている事だが、特にヨーロッパに行くようになって、確信した。
 日本はどこもかしこも、音にあふれていて、私達は日々音の避けられない暴力にさらされている。スーパーでは、全館かなりのヴォリュームで刺激的な音楽が流れていて、しかもコーナーごとに、「さかなさかなさかなー」とか「おにくにくにく」とか(耳についてしまっているのがまた腹立たしい)、それを聞いたからと言って魚や肉を買うわけはないのに、およそ音楽的とは言えないものが、小さいラジカセの音が割れるほどの大音量で、エンドレスで流されている。それらが交じり合う醜悪な音状況に、私は耐えられなくて、そのコーナーに近づけない。店の人に、訴えるけれども、改善されない。平気でそこで黙々と働いたり、買い物をしたりできるのには、驚く。その醜悪さに気がつかないのは耳と感性にふたをする習慣がついてしまっているということだろう。
 スイスやドイツでは普通、レストランやスーパーに、BGMはない。街の騒音が聞こえない分、かえって静かだった。声を張り上げる必要など無い。レストランでは談笑する低い声と、食器の音がBGMだ。音があふれていそうなアメリカ・ニューヨークでも、音が気になったことがなかったと、翠さんは言う。日本に帰って来て、そのうるささに閉口し、町を歩く時には耳栓をしていたらしい。私も耳を実際にふさぐ事はしばしば。
 そして、テレビ。一旦、テレビを点けるとその情報量の多さに消すのが不安になる。テレビはあちらからこちらへの一方通行。有無を言わさずどれだけ人をそこに惹きつけるかが何より大事なわけで、内容もやたら刺激的で、軽薄なものにかたより、見る人のため、と言うのは、二の次になっている事が多いのを忘れてはならない。もっと注目させるために、刺激的に、音や音楽が利用されている。耳にふたをせずにはいられない。(全てがそうと言っているわけではない。念のため。)
 この問題は、実はものすごく大きな問題なのではないかと思う。近頃の想像を超える殺伐とした、子供たちの事件は、ゲームなどの影響も大きいと思うけれど、音の問題を社会全体で考えれば、必ず、大きく変わるような気がしてならない。スーパーや商店街の音楽を止めてみてはどうだろう。活気を装うよりも、客が、落ち着いて買い物が出来るほうが、有益だと思うけど。学校の運動会なども、始終大音量で音楽を流すのをやめたらどうだろうか。音楽が欲しければ、自分達で奏でる、あるいは歌う。そうすれば、応援する声も選手に届くし、マイクでがなりたてる必要も無くなる。家庭でも、テレビを点けっぱなしにするのはやめ、それが今ほんとに必要か、意識してみてはどうだろう。車を停車する時、エンジンを切ったらどう? こんな事はごく瑣末な事のようだけど、無意識に感じていた音のストレスから開放されるのに気づくはずだ。色んな所で、無駄な音を出さないようにすれば、皆、聞き流したり、耳にふたをする必要も無くなる。(又、視覚に関しても全く同じ事が言える。)
 自分の子供に望む事は、と聞かれて、思いやりのある子に育って欲しい、と言う意見は大多数を占める。思いやりとは、共感できる事だ。それは、人の話を聴けて、受け止められる事が出来なければ、有り得ない。そのためにはまず、当然声や音そのものが聞こえていなければならない。当たり前の事のようだが、聞き流す事、耳にふたをすることに1日中慣らされた耳が、そう簡単に、「聴く」方に切り替え出来るだろうか。体の自然な自己防衛の果て、今、「聴く」事は、特別な事となってしまっていないだろうか。
 音楽を作る者として、なるべくたくさんの人にいい音楽を聴いて欲しいと思う。人の心の深い所を、揺すぶりたいと思う。音楽などの芸術に揺さぶられると、人の心は柔らかく、豊かになる。そういう音楽家の役割などを考えていくと、私達の身の回りにある音やその影響についても、思い巡らすことになる。子を持つと尚更である。
 ツバメはとても美しい歌を歌う。都会でも季節により、ほかに、メジロ、シジュウカラ、ひばり、そして、すずめなど美しい歌声を聞かせてくれる鳥は、意外にたくさん日常的にいる。それを聴く楽しみを逃す手はない。

高田ひろ子
2004.08.02

このページでは、高田ひろ子からのメッセージを不定期(目標月1回)に掲載しています。

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