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父はとうとう死んでしまった。 あたりまえだが、初めて父を見送った。 死目には会えなかった。離れているので仕方なかった。新幹線に飛び乗り駆けつけたときには既に顔色は、生きているそれとは全く違う。父を見て、「あー、死んでしまったんだね」と、まるで、大事にしていたものがばらばらに壊れてしまったような、そこに体は完全なままであるけれど、こう、「取り戻せない」という後悔に似た、強い悲しみが襲ってきて、走り寄らずにはいられなかった。それは、家に帰り着くまでの道々、わざわざ、タクシーを拾わず小雨がしびしび降る中、逝ってしまった父に再会したときの気持ちを想像しながら、それでいて再開を恐れつつ、涙が流れるまま長い間歩き、覚悟を決めて、玄関を開けたにもかかわらず、それをはるかに上回る、静かな衝撃とも言える悲しみそのものの塊だった。 父に触れたくて仕方がなかった。頭を撫で、頬に触り。大切な子供に触るときと良く似た衝動だった。ただ、涙しているか、微笑んでいるかの差はあるけれど、愛しいと思う気持ちは同じように思う。胸やお腹にドライアイスをたくさん抱かされていた。父はものすごく冷たかった。冬、とても寒く足先から冷えてジーンとしびれ、骨までが冷え切ってなんだかどーんと重く痛い感じ・・・。その感覚を思い出し、父がかわいそうだった。死んでしまったとはいえ、なんとなく、だからって、突然、人間でないような扱いになってしまうのが哀れだった。暖かくしてやりはしなくとも、居心地よくしてやりたかった。 肉体に宿る唯一無二の魂、それを受け入れて“いた”(子供の場合は“いる”)肉体。その人という生き物の在り方が、素直で健気に思えるのだ。 命と体が別の物であるのは一目瞭然。心臓が止まっても肉体は同時に消え失せるわけではないのだから。すべての体の機能を停止しましょう、と誰か(父の魂自身かもしれないし、他に存在があるのかも)が決めたのだろう。しかし、よーく考えてみると、心臓を動かしていたのはいったい誰であろう。そして、何のために動いていたのだろう。そういう考えに思い当たるのは、ごく自然なことと思う。 この体の中に82年宿っていた命は、この世よりもっと平和な空間に放たれたような気がしてならない。また、会えるのかな? きっと会えるのだろう。 |
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高田ひろ子 2007.08.27 |