緑の地球ネットワーク

緑の地球ネットワーク(GEN)は、中国山西省大同市の黄土高原で緑化協力をつづけているNGOです。
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中国黄土高原

大同の地理・気候・歴史

地理と地形

大同と北京 緑の地球ネットワークの緑化協力地、中国山西省大同市は北緯40度、東経113度のあたりにあり、面積は14,200平方km、人口はおよそ300万人です。山西省では省都太原につぐ第2の都市ですが、市街地はごく一部で、大部分は農村地帯です。

 大同市のほぼ中央を桑干河が西から東に横切り、河北省にはいって官庁ダムに流れ込みます。ダムから下流では永定河と名を変え、北京の西郊外を流れ、天津のそばで海河に合流し、渤海に注ぎます。官庁ダムは北京にふたつしかない水がめのひとつだったのですが、近年は水量の減少により水質が悪化し、上水にはつかわれていません。

 大同盆地は桑干河の流域に広がり、ここが大同市の中心です。盆地の標高は1,000m前後です。

 大同盆地の地下には、その周囲を含めて、膨大な石炭があり、埋蔵面積は1,800平方km、埋蔵量は400億t近いといわれ、現在も中国一の産炭地ですが、中国でもエネルギーの転換がすすみ、石炭産業はかつての勢いを失いました。それらの石炭を利用し、火力発電がおこなわれ、かなりの部分が北京などに送られています。

浸食谷と段々畑 大同盆地を除く大同市の北部は黄土丘陵です。山には樹木がなく、山腹や丘陵の急斜面まで段々畑が切り開かれています。夏の雨によって刻まれたガリ=浸食谷が縦横に走り、小型のグランドキャニオンともいえる景観をつくりだしています。

 大同市の南部は、太行山脈とその支脈である恒山山脈とからなる山地と、黄土丘陵とが入り組んでいます。太行山脈にもほとんど樹木はなく、すでに土壌が失われて、岩盤の露出しているところが多くみられます。

 大同市全体でみれば、盆地、丘陵地、山地がそれぞれ3分の1くらいずつの割合です。

 その盆地、丘陵地、山地はどのように分布しているのでしょうか。市全体でみると、大同盆地が中心になっていますが、その下の県でも県城(県政府所在地)はすべてが盆地にあり、県と県の境界はほとんど例外なく高い山か丘陵です。お皿のようなものをズラッとならべた状態を考えてもらえばいいでしょう。

 そのような地形では、降った雨はお皿の底に集まります。地表水だけでなく、地下水もたいていはお皿の底に多いものです。土も水といっしょにそこに集まります。降った雨はいったん県城を中心とする盆地に集まり、そこから1本か2本の河川となって、山のあいだを抜けて、華北平原に下っていきます。水と土の豊かさが人間活動のキャパシティになるので、盆地には人口、経済、文化が集中し、政治の中心ともなっていきます。その逆に、お皿の縁にあたるところは、土がやせ、飲み水にさえ困る状態で、たいへん貧しいのです。

 郷や鎮のレベルでも、お皿構造になっており、お皿の底にあたる比較的大きく豊かな村に、郷政府がおかれることになります。そして丘陵や山、ときとして河川などが郷と郷との境界になっていますが、お皿の縁にあたるところの村は貧しくて小さいことになります。

 農村人口の6分の1〜3分の1(年によって大きく変わります)が、中国の貧困ライン=1人あたり年間所得500元(1元=約15円)以下で暮らしていて、中国でも有数の貧困地域です。沿海の北京、上海などとの地域間格差は開くばかりですが、あわせて地域内の格差も深刻です。

気候

年降水量グラフ 気候区分からいえば、大同は大陸性の温帯モンスーン気候に属し、年平均気温は6.4℃ほどですが、年較差が大きく、いちばん寒い1月の月平均気温が−11.3℃(平均最低気温は−17.0℃)、いちばん暑い7月の月平均気温は21.8℃(平均最高気温は28.1℃)です。

 年間降水量は平均400mmほどですが、地域や年によって変動が激しく、少ない年は220mm前後、多い年は620mmほどになります。平均400mmの降水量は、乾燥地、半乾燥地としては少なくないのですが、問題はその降り方です。作物や植物の芽生える春に少なく、農民は「春の雨は油より貴重だ」といって待ちこがれますが、その時期にはほとんど降りません。夏の一時期に集中する雨が深刻な水土流失をもたらすことは、すでに述べました。

 その上、ただでさえ少ない春の雨に異変がおきています。左のグラフは、大同県の年間降水量をあらわしています。90年代にはいってから、降水のパターンが変化しています。もともと少なかった春の雨がより少なくなり、夏から秋にかけての雨が増えているのです。過去平均の黒い線とくらべてみてください。年間をとおしての数字ではわからない気象の変化が、こんなところに現れています。

 これは地球温暖化の影響かもしれません。気象を決める要素は複雑にからんでおり、証明・予測は困難だけれども、従来から雨が多いところ(たとえばバングラデシュ)はより多くなり、少ないところはより少なくなるだろうという説があります。黄河流域はより少なくなる地域として警告されています。それを季節におきかえてみたら……。雨が少ないときはより少なく、多いときはより多く。グラフと見事に符合するではありませんか。ほんのわずかしかエネルギーを消費せず、温暖化の原因とは最も遠い生活をおくっている黄土高原の人びとが、まっさきに温暖化の影響をうけているのかもしれません。

 大同市陽高県の北部に「高山高」という民謡があり、その一節に「山は近くにあるけれど、煮炊きに使う柴はなし。十の年を重ねれば、九年は日照りで一年は大水……」とあります。この地方の自然と生活の厳しさがみごとに表現されています。 90年代以降をみても、まずまずの年は94年、96年、98年、2000年しかありません。その他の年はすべて旱魃でした。なかでも深刻だったのが99年、2001年で、それぞれ「建国以来最悪」「100年に1度の旱魃」といわれ、種を播くこともできなかった畑が多く、大同市全体で収穫は平年の2割を切るほどでした。

旱魃 アワ くずれた窰洞

 95年は春から夏にかけて深刻な旱魃でしたが、8月の後半から雨が降りつづき、農村の土造り住居、窰洞(ヤオトン)に雨がしみこんでつぎつぎに倒壊し、6万世帯24万人が住居を失う惨事につながりました。これほどのことはまれですが、畑が流されるようなことは、めずらしくありません。

 無霜期は盆地で130〜140日、山地では90日ほどになります。遅霜や早霜の害が少なくありません。

 そのほかの自然災害として、春の暴風や砂嵐があり、ときには死者がでます。夏には集中豪雨のほか、雹や落雷があり、冬には凍害があります。

 風は年間を通して強く、地元では「1年に1度風が吹く。春に吹きはじめて冬までつづく」と言い伝えています。

歴史

 歴史の長い中国においても、大同は名だたる歴史をもっています。

 陽高県にある許家窯遺跡で発掘された人骨の化石や多数の石器は、10万年前のものといわれています。

 『史記・匈奴伝』には、春秋時代(前770〜前403)前期に北方の少数民族・楼煩がここを占拠したとあります。胡服騎射などの改革で名を残す趙(前403〜前228)の武霊王もこの地方で活躍しました。霊丘県の名前は、武霊王の陵墓がここにあることから名づけられたものです。漢代(前206〜紀元8、25〜220)には平城県となって、雁門郡に属し、高祖・劉邦が匈奴に包囲され命からがら逃げ延びた白登の戦い(前200年)の舞台となりました。

 4世紀末には鮮卑族の拓跋珪が魏(386〜534)を興して、398年都を今日の大同におきました(平城京)。それから洛陽に遷都する494年までのおよそ1世紀、大同はその中心になったのです。最盛期には100万を超える人口を擁し、中国最大の繁栄した都市であったといわれます。

 北魏は漢族をはじめとする諸民族の融和と支配のために仏教を重んじました。ユネスコの世界遺産に指定された雲崗の石窟(洛陽遷都により竜門の石窟に継続される)や北岳恒山の懸空寺はその遺産です。

雲崗の石窟 石窟内部 懸空寺

 日本の飛鳥時代から奈良時代初期の仏教は、朝鮮半島をへて、この北魏の仏教の影響をつよくうけたとみられ、のちに北魏様式と呼ばれるようになりました。奈良の都が平城と称されたのも、北魏の都・平城にちなんでのことと考えられています。

 これほどに輝いていた文明がいまのように沙漠化して荒涼とした大地に成立したのでしょうか?

 『水経注』、『雲中郡志』などは、北魏時代の大同を草木が生い茂った秀麗なところとして描き、都のなかには大きな池や用水路がつくられ、清らかな水が流れるようすを書いています。

 『山西通志(第9巻)林業志』(山西省地方志編纂委員会編・中華書局出版・1992年7月)は山西省の森林被覆率の歴史的な推移を以下のように推定しています。秦(前221〜前206)以前:50%、唐(618〜907)宋(960〜1127):40%、遼(916〜1125)元(1271〜1368):30%、清(1616〜1912):10%未満、中華人民共和国成立時(1949):2.4%。

 ずっと以前の黄土高原にかなりの規模の森林があったことはまちがいないようです。宋(960〜1127)金(1115〜1234)以前の木造建造物は山西省に106か所残っていますが、それは全中国の同時代の木造建造物の70%以上を占めるといわれます。

 大同のすぐそばの応県には世界でも最大規模の高さ67mの木塔(仏宮寺釈迦塔、1056年)が現存しており、その近くで伐られたカラマツやニレの巨木が用いられています。また明代の北京の紫禁城(故宮)建設にあたって、大同よりさらに西の呂梁山脈から木材が運び出されたことを示す記録も残っています。

 それが今日の姿に変わった原因として、中国でも気候変動説と人為説とがありましたが、最近では人為説に落ち着いてきたようです。気候変動の要素を認めるにしても、人為的な要因を否定することはできません。上に引用した『山西林業志』も人為説を採用しています。都市の成立による人口の集中、食糧生産のための森林破壊と耕地の造成、レンガ焼成や金属精錬のための森林伐採、生活燃料としての柴の利用、過剰な放牧、繰り返された戦火などが、森林を消滅させ、今日の姿の黄土高原をつくりだしたということになります。

 戦火のなかには、もちろん日中戦争がふくまれます。1937年、蘆溝橋事件の直後から、日本軍は「山西作戦」を展開し、交通の要衝である大同にも攻め入りました。その年の12月、霊丘県の平型関で八路軍(中国共産党軍)が日本に対する最初の勝利をおさめました。その後日本軍は、報復の意味もあり、山西省全域において徹底した尽滅作戦(中国では三光作戦と呼ぶ)を展開したため、この地方の人びとは大きな犠牲をはらったのです。それらの戦闘のなかで失われた森林も少なくありません。

 大同の石炭も日本軍の狙いのひとつでした。日本軍の占領後、各地から大同炭鉱に集められた労働者は、過酷な労働と栄養不足、不衛生などによって6万人が犠牲になり、「人命をもって炭にかえる」といわれました。その遺骸が廃坑に投げ込まれ、万人坑となりました。伝染病患者のなかには生き埋めにされた人もいるといいます。そのような場所が大同には20余りもあります。戦時の記憶は、いまもなおこの地方に根強く残っているのです。

小老樹 日中戦争と国共内戦で荒れはてた国土をよみがえらせようと、中国は1950年代、熱心に植林に取りくみました。北はポプラ、南はコウヨウザンの2種類の木で、あの広大な国土を緑化しようとしたのです。大同にもポプラがたくさん植えられました。県の面積の20〜30%に植えたところもあるほどです。植樹後10年ほどはすくすくと育ちました。

 ところが、ポプラは水をたくさん必要とする木です。成長するにしたがって水分要求量も増大し、周囲の木と水を奪い合うようになりました。旱魃の年には水が足りずに先枯れをおこします。次の年には別の枝が枯れた幹の代わりに伸び、また旱魃で枯れてと、そんなことを何度もくりかえし、ぐにゃぐにゃにねじまがった姿になったり、ひこばえでブッシュのようになったり、あるいは右の写真のように風で曲がってしまったり。「植えてしばらくはよく育って嬉しかった。10年後ぐらいから育ちが悪くなり、どんどん縮んでしまった」。子どものころに植樹に参加した運転手の馬さんはこう語ります。木材としての役割も期待されていたのに、なんの役にもたたないひねこびたポプラの林……地元の人は「小老樹」と呼びます。

 その小老樹も、毎年葉や枝を落として土を肥やしてきました。小老樹を伐った跡地はいい畑や果樹園になるのです。
 いまも各所にのこる小老樹の林は、「なんでもいいからとにかく植えろ」では緑化は成功しないことを教えてくれます。しかも、10年、15年たたないと、失敗したとわからないのです。緑化のむずかしさを痛感させられます。


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