- RCサクセション結成まで
- 1950年10月9日
- 仲井戸麗市(本名・加藤秀明)、東京新宿区戸山ハイツに生まれる。
- 1951年4月2日
- 忌野清志郎(本名・栗原清志)、東京中野区に生まれる。ほぼ同じ年に林小和生(本名・小林和生)、破廉ケンチ(本名・桶田賢一)生まれる。
- 1965年
- 忌野、林小、田中利和でエレキ・バンド「No Names」結成、その後破廉も加わる。
- 1966年6月頃
- 忌野、林小、破廉で「The Clover」結成。
- 1967年
- The Clover解散。
- 1968年7月
- 忌野、林小、武田清一(後に「ひぐらし」結成)で「The Remainders of The Clover」結成。はじめてギャラ(交通費程度)をもらってフォーク喫茶で演奏。
- 1968年11月
- 「The Remainders of The Clover」解散。忌野、林小、破廉でフォークトリオ、「The Remainders of The Clover Succession」→「R.C.サクセション」結成。
- 1969年
- 4月
- TBSテレビ「ヤング720」のオーディションに合格。R.C.サクセション初ステージ。「ヤング720」にテレビ初出演。
- 7月
- ジュニア・フォーク出演。
- 8月
- 一時解散したらしい?
- 8月29日
- 渋谷公会堂で東芝主催によるカレッジ・ポップス・コンサートが開催され、RCは「どろだらけの海」で参加する。審査員のウチガイドさん(音楽評論家・桜井ユタカ夫人)の強力な推薦で辛うじて3位に入選。後日、東芝音工(現EMI)と契約。
- 1970年
- RCは、前述のウチガイドさんや、ヤング720で知り合ったマネージャー役の金田氏の紹介でラジオ番組や、フォークコンサートなどに出演することもあった。また、後に所属事務所「りぼん」の社長になる奥田氏と出会い、ホリプロと契約する。給料は3万円。
- 仲井戸は加奈崎芳太郎とのフォーク・デュオ「古井戸」としてエレック・レコードよりデビュー。
- 3月5日
- RCサクセション、シングル「宝くじは買わない」でレコードデビュー。制作時、レコードに貼るレーベルシールに載せる名前を、本名でなく忌野清志郎にしてくれと言って新田和長ディレクター(現レコード会社ファンハウス社長)を困らせた。
- 12月5日
- 2ndシングル「涙でいっぱい」発売。
- 1971年
- 渋谷のジャンジャン、青い森などでライブ活動をこなす(?)。
- ホリ・プロダクションと契約を結ぶ。
- またこの頃、忌野は仲井戸麗市と知り合う。きっかけは楽屋でチョコレートを渡したこと。お互い「あれはお前からくれたんだ」と言い合っている(笑)
- 古井戸が出演した愛川欽也司会のフジテレビの番組「リブ・ヤング」の本番中、仲井戸がTVカメラに向かい「こんなところじゃ歌えねー、俺達の違う他の歌も聞きやがれ」と叫んで出ていってしまう。元々司会者が嫌いだったのと、同じ歌ばかり歌わされることに腹を立ててのことだった。白い視線が投げかけられる中、唯一「お前良かった。俺も頭にきてたんだ」と声をかけたのが泉谷しげるだった。
- 1972年
- TVK(テレビ神奈川)の番組・ヤングインパルスなどによく出演する。
- ラジオ番組「ライオン・フォーク・ビレッジ」に出演、決めゼリフの「バイタリス!」をライバルメーカーの「MG5!」と言ったため問題になる。
- 2月5日
- 3rdシングル「ぼくの好きな先生」、1stアルバム「初期のRC・サクセション」発売。「ぼくの好きな先生」は初のヒット曲となる。
- 7月5日
- 4thシングル「キミかわいいね」発売。
- 12月5日
- 2ndアルバム「楽しい夕に」発売。しかしぜんぜん売れなかった。
- 12月20日
- 5thシングル「三番目に大事なもの」発売。
- 1973年
- 忌野、同じ事務所の井上陽水のアルバム「氷の世界」に「帰れない二人」「待ちぼうけ」の二曲を提供する。清志郎はわずかな給料と、陽水に提供した曲の莫大な印税(この当時で5〜600万だったらしい)、そして彼女やグルーピー(清志郎が言うところの便利女)らに貢いでもらったりして生活する。陽水の印税は楽器を買ったり、遊んだりしてあっと言う間に使ってしまったらしいが。
- アロー出版より、初のRC本(楽譜紹介集)「RC・サクセションのすべて」発売される。評論家による解説のページは間違いだらけの無茶苦茶な内容だったらしい。
- 1974年
- この頃はやむを得ず自分達でブッキングして活動をしていた。この頃の住所は福生市。
- この頃よりフォークギターからエレキギターに持ち替え始めた。破廉ケンチが煮詰まり始め、ギターが弾けなくなり始める。
- 久々のワンマンコンサートツアーの「邪魔者・RCサクセションコンサート」は客の入りが悪く、横浜教育会館ではとうとう公演中止になる。
- アルバム「シングルマン」のレコーディングに入る。
- 奥田氏がホリプロから陽水を連れて独立し、プロダクション「りぼん」を設立。しかし奥田氏子飼いのRCはホリプロから契約を切ってもらえず、奥田氏へのあてつけ的に仕事を干されるハメになる。
- 古井戸がパーソナリティをつとめるラジオ番組に出演。スローバラードなどのデモテープをかけ、ヒッピーに捧ぐなど数曲をスタジオで生演奏する。
- 1975年
- 「シングルマン」は完成するが、ホリプロの契約が残っていたため1年間出せないことに。圧倒的に暇な時期の到来。
- リンコは芸大のベース科に、清志郎は近所のピアノ教室に通う。
- それでも時々はライブをおこない、仲井戸も徐々に参加するようになる。
- 1976年
- ようやくホリプロとの契約が切れ、奥田氏の事務所「りぼん」へ移籍。レコード会社も東芝からポリドールへ移籍。陽水の前座などの仕事をこなす。
- 鈴木ウータンらのドラムが加入するなど、徐々にエレキバンド化してくる。しかし、特に破廉ケンチはエレキギターに馴染めず、徹底的に欝状態になってしまい、1年間暇をもらうこととなる。
- 前座で出演した矢沢永吉のコンサートで、「矢沢B吉でーす。永ちゃん今楽屋でクソしてるからボクらが代わりにやります」と言って矢沢ファンの罵声を浴びた。
- 1月21日
- 6thシングル「スローバラード」を発売。
- 4月21日
- 3rdアルバム「シングルマン」発売。シングルもろともまったく売れず、すぐに廃盤になる。
- 10月11日
- 7thシングル「わかってもらえるさ」発売。しかし世間にはわかってもらえなかった。
- 1977年
- 7月
- 休養を明けるが一層弾けなくなったギターの破廉ケンチが脱退。
- 1978年
- 忌野髪を切り、パンクヘアーにする。
- カルメンマキ & OZのギタリスト春日“ハチ”博文らが参加し、ロックバンドとしてのサウンドがかたまりつつあった。
- 現清志郎夫人・石井景子さんの父、清志郎のもとに怒鳴り込む。チャボに相談し、とりあえず会って話し合うことに。給料を訪ねられた清志郎は、本当は7万円なのに10万円と見栄を張る。石井さんの父は「お前なんかにうちの娘はやれん。娘と別れろ!」と怒る。清志郎は「やっぱり売れなきゃ認められないんだ!」と、売れることを真剣に考え始める。
- 1979年
- 霞ヶ関にあった久保講堂にて古井戸解散コンサート。仲井戸はそのステージで今後RCのメンバーになることを紹介される。
- 7月21日
- 8thシングル「ステップ!」発売。東京御茶ノ水・日仏会館にて久しぶりのワンマンコンサート。しかしライブハウスと違う勝手に、ちょっと空回り。
- この頃よりロックバンドとして、渋谷・屋根裏を中心に人気が出始め、徐々にテレビにも出演するようになる。
- 何かの番組に出てステップ!を歌った時の映像。メイクも衣装も踊りも、どこか垢抜けない。
- 8月
- 千葉県の神野寺(じんやじ)で飼われていた虎2頭が逃げる騒ぎがあり、付近のマザー牧場でのライブが中止になる。清志郎は警察関係に「虎を殺すな!」と電話したが、その甲斐なく2頭とも射殺される。
- 1980年
- この年、とうとうRCは暗黒時代から脱出し、一大ブレイクした。
- 1月21日
- 9thシングル「雨あがりの夜空に」発売。
- 1月19日〜22日
- 「雨あがりの夜空に」発売記念ライブを渋谷・屋根裏でおこなう。4日間とも超満員で、それまでの屋根裏の観客動員記録を塗り変える。
- 4月5日
- 東京・霞ヶ関にあった久保講堂において、「RHAPSODY」のライブレコーディング。サンプル映像としてビデオ撮影も行われる。音源はアルバム「RHAPSODY」として、映像は後年「RHAPSODY THE VIDEO」として発売される。
- 5月21日
- 10thシングル「ボスしけてるぜ」発売。勤労青年の労働意欲を削ぐとして中小企業経営者に嫌われ、赤坂界隈の有線放送で放送禁止になる珍事も。
- 6月5日
- ライブアルバム「RHAPSODY」発売。
- 8月1日
- 音楽評論家・吉見佑子が中心となり「シングルマン再発売実行委員会」を結成。自主制作で発売の後、とうとうポリドールより正式に再発された。レコードの帯には「こんな素晴らしいレコードを廃盤にしていて誠に申し訳ありません。」と言うポリドールのお詫びが掲載された。
- 10月28日
- シングル「トランジスタラジオ」発売。
- 12月5日
- アルバム「PLEASE」発売。
- 1981年
- この年も人気はうなぎ昇り。パンクや竹の子族のムーブメントと重なったのも勝因の一つであろう。逆に言うと、それだけ勘違いしていた人も多かったように思われる。
- 杉並区のボロアパート松風荘からようやく鉄筋コンクリートのマンションに引越し。後には宮崎からやって来たローディーの三宅伸治が住み着く。
- 静岡市民文化会館で行われたライブで、ステージ上でビニ本を広げて客に見せたため、会場側、教育委員会などから抗議される。
- 5月30日〜31日
- 日比谷野外音楽堂でワンマンライブ。
- 9月
- キティレコードから、新しくできたロンドンレコードに移籍。自らのレーベル「BARCA(ばーか)」を設立。
- 11月21日
- アルバム「BLUE」発売。
- 12月24日
- 日本武道館で初のクリスマスコンサート。以後毎年解散するまで毎年恒例に。この模様はLD「RC SUCCESSION AT BUDOHKAN」として発売される(後にビデオ、DVD化も)。
- 1982年
- キティレコードからロンドンレコードへ移籍。
- 清志郎の知名度を決定的にした「ルージュマジック」発売など、社会現象とまで言える一大ブームとなる。音楽雑誌だけでなく、一般の新聞や、朝日グラフなどでも取り上げられ、文化人の方々をも巻き込んで評価を受ける。
- 連日のプロモーション活動、から騒ぎするファン、マスコミ、文化人らに清志郎は嫌気がさしてきて、対人恐怖症の傾向を見せ、サングラスをマジックで塗りつぶしてかけるといった行動を取るようになる。また、母親の危篤も追い打ちをかける。
- 2月14日
- YMOの坂本龍一と組んでの資生堂のCMソング、シングル「い・け・な・いルージュマジック」を発売。風に吹き飛ぶ万札の中での教授とのキスシーンのCFも話題に。
- 日本テレビ、歌のトップテンか何かに出た時の映像。今見ても、メイクがいつにも増して厚化粧のおばさん。チャボもギターで参加している。
- 6月23日
- シングル「サマーツアー」を発売。テクノ、ニューウェイブを感じさせる詞と曲に、古くからのファンは戸惑いつつも、セールス的には大成功する。
- 8月7日〜8日
- チャック・ベリー、サム・ムーアとともに横浜スタジアム、大阪住之江競艇場において「The Day of R&B」を開催。感激のあまり、清志郎はステージにキスする。後に同名のアルバムとして発売される。
- 10月25日
- アルバム「BEAT POPS」を発売。タイトルとは裏腹に、非常にサイケでヘヴィーなナンバーが多い。
- 12月10日
- ライブアルバム「The Day of R&B」を発売。
- 12月15日
- シングル「つ・き・あ・い・た・い」を発売。
- 1983年
- 暗黒時代の不摂生、ここ数年の激務とドラッグ、ストレスなどから、清志郎は肝臓を病む。
- そんな中、事務所はハワイでのレコーディングを強行。曲もないままハワイに渡った清志郎は、一人部屋で曲作りを行う羽目になる。そんな中事務所への不信感が芽生え、後の独立騒動へとつながる。
- 忌野清志郎詩集「エリーゼのために」(弥生書房)発売。
- 「RCサクセション写真集」(撮影・おおくぼひさこ)(ロッキンオン社)発売。
- 3月7日〜4月28日
- アルバム「OK」のレコーディングでメンバー全員ハワイへ。同時にG2のソロ(正式にはG2&GL名義)12インチシングルの制作、写真集「I FEEL GOOD」の撮影なども行われる。
- 6月1日
- シングル「Oh!Baby」を発売。
- 7月5日
- アルバム「OK」を発売。
- 11月7日
- シングル「ベイビー!逃げるんだ。」を発売。三菱自動車とのタイアップ。ミラージュのCFには清志郎が出演。
- 「三菱ってぇのが作ったんだぜ」
- 12月5日
- ライブアルバム「THE KING OF LIVE」を発売。渋谷公会堂でのライブの模様を収録。そもそもは、清志郎が慢性肝炎のためツアーをやめたかわりとして制作された。
- 1984年
- 肝臓の疾患で一時は医者にもう治らないと言われた清志郎だが、自ら東洋医学を研究、実践し、数カ月後には全快する。その後もお灸などを継続している。
- とうとうこの年、事務所から独立することとなる。活動に見合わない不明朗な会計や、事務所のスタッフの「RCもいつか人気が落ちる日が来るから、その時は店の一つでも持たせてやりたい」などという発言に不信感が重なった上でのことである。そのトラブルのためにアルバムの制作が年末になってしまった。
- 4月13日
- 清志郎は独立の件で事務所の奥田社長と会談する。しかし完全な独立を希望するバンドサイドに対し、原盤制作だけでもと譲歩を求める事務所側に会談は決裂、社長の「今度は俺がお前らを干してやる!」の暴言に、清志郎は過去にホリプロで干された時の苦しさと悔しさに怒りと涙が込み上げ、「冗談じゃねー!」とタンカを切って飛び出した。
- 7月21日
- ロンドンレコードの解散にともない東芝EMIへ移籍。第1弾シングル「不思議」発売。ヘヴィーなサイケデリックサウンド。「俺は資本主義の豚で」という歌詞が、なぜか放送コードにひっかかったらしく、一部で放送禁止になる。資本主義へのマイナスイメージはすぐに共産主義につながるとでも思っていたのだろうか?
- 同日、松山千春が設立したNEWSレコードから、メンバーに無断でベストアルバム「EPLP-2」が発売される。メンバーはライブ会場などでも「買わないように!!」と怒っていた。
- 11月23日
- 前事務所への怨みが詰まったアルバム「FEEL SO BAD」発売。内容が内容だけに、名誉毀損の抗議を受けて発売が少し遅れたらしい?
- 12月31日
- 年末恒例の渋谷陽一キャスターの「サウンドストリート・私が選ぶロック大賞」(NHK-FM)で、毎年1位だったRCがとうとう爆風スランプに首位の座を明け渡す。思えばここからが、いい調子で来ていたように思えた日本のロックの、衰退の始まりだったような気がする。
- 1985年
- 事務所からの独立問題も片が付き、晴れて活動を再開。しかし暮れにハートのエースを出した以外は、メンバー個々の活動が目立った。
- 4月1日
- 自らの事務所「うむ」を設立し、独立記念コンサートを渋谷の西武劇場でおこなう。ゲストは泉谷しげる、金子マリ、三浦友和、坂本龍一、矢野顕子ら。
- 4月21日
- 独立記念シングルとも言える「すべてはALRIGHT(YA BABY)」発売。メンバーが出演したPARCOのCFソングとして使われる。
- 7月?
- 日本テレビ「天才たけしの元気が出るテレビ」の「元気が出る音頭」を作り、番組内で発表。レコード化も予定されていたが中止に(後年「元気が出るテレビ」のベストアルバムにのみ収録)。演奏はDANGER+金子マリ。
- 7月20日
- 清志郎+どくとる梅津バンド=DANGERによる「DANGERU」発売。
- 8月?日
- DANGERとしてライブエイドの日本版(フジテレビ)にもVTR出演して「はたらく人々」を歌う。しかしCMばっかりのひどい番組でメンバー一同、後でブーブー。演奏もカラオケだった。
- 8月31日
- チャボの傑作ソロアルバム「THE仲井戸麗市BOOK」発売。チャボバンドのツアーもおこなわれる。
- 9月21日
- チャボのソロシングル「ONE NITE BLUES」発売。
- 11月21日
- ニューアルバム「ハートのエース」発売。いい曲も多いのだが、「歌いたいことがなくなってきた」(清志郎)そうで、事実アルバム全体の出来は今一つの印象を受ける。
- 12月21日
- シングル「スカイパイロット」、ビデオ「スペードのエース」発売。ビデオの方はRCでは珍しいプロモーションビデオ集のような作り。CFディレクターの川崎徹がプロデュース。
- 1986年
- この年も個々の活動が目立つ。夏には久しぶりに日比谷野音でライブを行う。
- 3月21日
- ジョニー、ルイス&チャーと共にアニメ映画「県立地球防衛軍」のテーマソング「S・F」を発売。20日にはそのサントラ盤「県立地球防衛軍」も出ている。こちらには「プライベート」も含まれているが、ほとんどは羽田健太郎作曲のアニメ用のサントラ。
- 4月23日
- 4曲入りミニアルバム「NAUGHTY BOY」発売。
- 8月
- 日比谷野音にて4日間ライブを行う。アイドル・岡田有紀子の自殺騒動をきっかけに再び演奏された古い曲「君はそのうち死ぬだろう」が注目を集める。
- 10月12日
- 夏の野音の模様を収録したライブアルバム「the TEARS OF a CLOWN」発売。レコードは2枚組。11月21日にはそれのビデオも発売。
- 12月24日
- 桑田佳祐プロデュースによる番組「Merry Xmas Show」に清志郎のみVTR出演。「Come together」「セッションだ!」「ベートーベン第九」などを歌う。桑田は最初、アルフィーとセッションさせるつもりだったらしいが(おそらく“アルフィー・サクセッション”というネタだったんじゃないだろうか?)、清志郎がそれを拒否したため、桑田とのセッションになったらしい。
- 1987年
- RCはロンドンでのレコーディングを企画するが、清志郎以外のメンバーが嫌がり、やむを得ず清志郎のみ渡英してソロアルバムを作ることに。イギリスでは運良く、イアン・デューリー&ブロック・ヘッズらのメンバーをバックバンドにすることができた。アルバム完成後、メンバーを引き連れ“来日”、King of Promotionと称してマスコミに出まくる。数カ所でRAZOR SHARPSのライブも行う。
- 2月4日
- ソロシングル「AROUND THE CORNER」発売。
- 2月25日
- ソロアルバム「RAZOR SHARP」発売。
- 6月5日
- ソロライブアルバム「HAPPY HEADS」発売。
- 9月5日
- ソロシングル「E-JAN」発売。この曲はデュプロという会社のCFに使われた。
- 12月24日
- 昨年に続き、「Merry Xmas Show」に清志郎のみVTR出演。歌った歌は昨年とほぼ同じ。
- 1988年
- 久々のスタジオアルバムを発売後、すぐにスタジオ入りしたRCメンバーは、反戦反核コンセプトカヴァーアルバム「COVERS」のレコーディングにかかる。
- 2月25日
- 3年ぶりのニューアルバム「MARVY」発売。全16曲でレコードは2枚組。
- 3月25日
- MARVYからのシングルカット「NAUGHTY BOY」発売。
- 6月(?)
- 6月25日に発売予定のシングル「LOVE ME TENDER」、8月6日発売予定のアルバム「COVERS」に関し、東芝EMIは新聞紙上に「すばらしすぎて発売出来ません」という広告を出し、発売中止を告げる。公式には原発を扱った内容が商用レコードとしてふさわしくないとされるが、原発の製造を手掛ける親会社東芝の圧力であるという見方が一般的。東芝EMIは原盤をRC側に返却、RCは古巣のキティから発売することに決定。表現の自由、原発問題をめぐり大問題となる。メンバーは怒り爆発、そしてもううんざり。
- 8月15日
- アルバム「COVERS」、シングル「LOVE ME TENDER」がキティレコードから発売される。夏の野音は怒りに異様な雰囲気となる。
- 夏、広島でおこなわれた平和コンサートから、謎の覆面バンド・タイマーズ登場!各地のコンサート、イベントを荒らし回る。
- 12月16日
- アルバム「コブラの悩み」発売。夏の野音の模様+αの内容。
- 1989年
- COVERS事件で、レコードがまともに発売されないことにあきれた清志郎は「新曲なんて客がテープ持ち込んで勝手に録音すりゃいーんだよ」と発言。以後、ライブ会場で堂々とウォークマンを持ち込むファンが増える。
- 1月25日
- ビデオ「コブラの悩み」発売。
- 1990年
- 音楽性の違いなどの理由により、Key.のG2、Dr.の新井田耕造が脱退する。代わりにDr.春日博文、Key.厚見玲(ex.VOWWOW)が参加。
- コピーライター糸井重里が作詞、作曲・歌が清志郎の清水建設CMソング「パパの歌」がお茶の間に流れる。話題に。
- 2月21日
- 仲井戸麗市セカンドソロアルバム「絵」発売。前作と打って変わって、大人の匂いがするアルバムとなった。
- 7月25日
- 野音のイベント「ロックの生まれた日」に、清志郎は演歌歌手・坂本冬美、三宅伸治、小林和生らとのユニット・SMIとして出演。
- 9月5日
- 西武セゾングループのCMソングにもなった、シングル「I LIKE YOU」発売。
- 9月27日
- 事実上のラストアルバム「Baby a Go Go」発売。
- 11月28日
- 夏の野音でのライブや、72年のヤングインパルス出演時の映像などを収めたビデオ「ミラクル」発売。
- 12月25日
- ちょうど10年目、10回目のクリスマス日本武道館ライブ。これを機に、RCサクセションは無期限活動休止、つまり事実上の解散となる。
- 1991年
- 清志郎は坂本冬美、細野晴臣とのユニット・HISを結成。シングル、アルバムを発売。
- 清志郎、若い無名のバンドマンと組んでの新バンド・「忌野清志郎&2.3's」結成。以後、数年間活動する。お笑い的演出が多いステージングなどに、古くからのファンの間でも批判も多かったと思う。
- 清志郎、オーティス・レディングのバックバンドだったBooker.T & THE MG'sをバックに、テネシー州メンフィスでソロアルバムをレコーディング。メンフィス市からは名誉市民の称号を授与される。
- 5月2日
- 「パパの歌」発売。
- 1992年
- 3月25日
- 清志郎、Booker.T & THE MG'sをバックにメンフィスでレコーディングしたソロアルバム「Memphis」発売。ライブもおこなう。
- 1993年
- 2.3'sでの活動続く。
- 1994年
- 清志郎、竹中直人監督の映画「119」の音楽を担当。
- 8月13日
- RC解散後ほぼ初めて清志郎とチャボが共演したワンナイトライブ「GLAD ALL OVER」が、日比谷野音で行われる。この日の前売りチケットは10分で完売された。他のメンバーはBa.早川岳晴、Dr.湊雅史、Key.KYON、Sax.梅津和時、片山広明、Cho.ミキ、マチコ。
- 12月7日
- 「GLAD ALL OVER」のCD、ビデオが発売。
- 1995年
- 6月25日
- 清志郎のこれまでの活動をまとめた百科事典「忌野清志郎画報 生卵」発売。
- 1996年
- 1997年
- 1998年
- 1999年
- 法律で国歌と制定されたばかりの「君が代」のパンクバージョンが問題とされ、忌野清志郎、Little Screaming Revueのアルバム「冬の十字架」がポリドールからの発売中止になり、社会的に注目される。アルバムはインディーズレーベル・Swim Recordからリリースされる。
- 2000年
- ライブハウスのことを批判した歌を含む「夏の十字架」をレコーディングする。批判されたライブハウスには出入り禁止となり、そのライブハウスのオーナーが、本作をリリース予定だったUKプロジェクトの役員を務めていたことから、またも発売中止に。アルバムは自主制作でリリース。
- 清志郎、マジカデ・ミル・スター・ツアーと題して、全国ライブハウスツアーを敢行。
- 3月3日
- 忌野清志郎デビュー30周年記念ライブ「RESPECT!」を日本武道館で行う。チャボ、泉谷、スティーブ・クロッパーから、ゆず、ロリータ18号まで出演しての大イベントとなる。それを収録したCD、ビデオも発売される。
- ?月?日
- 仲井戸麗市デビュー30周年記念4枚組アルバム「Works」発売。古井戸、RC、麗蘭、ソロのそれぞれのセルフカバーを収録。
- 2001年
- 清志郎、土砂崩れに埋まった息子を救出した老人の話を聞いて体力作りに目覚め、自転車で九州まで行くことを敢行。チーム名はLSD(Long Slow Distance)。
- 昨年のラフィー・タフィーのライブハウスツアーの模様を中心とした映画「不確かなメロディー」公開。
- 3月25日
- 忌野清志郎、トークライブハウス・新宿ロフトプラスワンにて初のトークライブをおこなう。
- 2002年
- 清志郎は新バンド・LOVE JETS結成。遠い星から来た宇宙人という設定。またイベントなどでは、昨年9.11の米国同時多発テロをおちょくったようなバンド・アルカイダーズで登場。ファンの間でも結構顰蹙を買ったようである。また、及川光博とのコラボレーション“ミツキヨ”で「強烈ロマンス」を発売。
- 5月20日
- チャボのエッセイ「ロックの感受性」発売。
- 7月17日
- RCサクセション時代のビデオがDVDで再発売される。
- 11月25日
- RCの貴重な未発表ライブCD付きのムック「ロック画報」10号が発売される。
- 12月16日
- 屋根裏などのライブハウス時代の写真を中心に収録した清志郎写真集「清志郎」(撮影・岡部好)が発売される。
- 2003年
- 2004年
- 清志郎、自転車で転んで左の鎖骨を骨折。さいわい大事にはいたらなかった模様。
- 2005年
- 10月26日
- ファン待望の1980年久保講堂ライブの完全収録盤、RHAPSODY NAKEDが発売。
- 2006年
- 7月13日
- 夏の野音、そしてツアーで久々にチャボやコーちゃんと共演するはずであった清志郎だが、公式サイト“地味変”において、喉頭がんにかかっていることを告白し、ツアーやイベントへの参加をすべてキャンセルし、長期の入院と治療に専念することを発表した。どの程度の進行なのかは不明だが、無事な復帰を祈っている。
- 11月17日
- サム・ムーアの来日公演を見に行った清志郎、ステージ中に2階席の清志郎のもとにムーアがやってきて、一緒に一曲歌おうと誘われ、その後ステージへ。「I thank you」をデュエットした。 抗がん剤の副作用で頭髪などはまだ薄いが、歌声は健在であった。がんの方もだいぶ小さくなってきたという。
- 2007年
- 2月10日
- 清志郎は、日本武道館にて「完全復活祭」を行い、満員のファンを前に元気な姿を印象づけた。
- 7月
- 清志郎のがんが左腸骨に転移していることが判明し、再び活動休止、療養生活に入ることになった。
- 2008年
- 2009年
- 5月2日
- 清志郎はこの日午前0時51分、がん性リンパ管症のため都内の病院で息を引き取った。先月2日に誕生日を迎えたばかりの58歳の若さだった。体調不良で2週間前に都内の病院に入院したが、1日午後に容態が急変。血圧が急激に下がり意識が混濁し、眠ったまま静かに息を引き取ったという。
チャボはかたわらで親友の最期を看取った。 - 5月3日
- 清志郎の通夜が都内で近親者のみ行われた。チャボや陽水、坂本龍一、三浦友和、竹中直人ら120人が最後の別れに訪れた。
- 5月4日
- 清志郎の葬儀が近親者のみの密葬で行われ、亡骸が荼毘に付された。
- 5月9日
- ファンも参加できる告別式「青山ロックンロールショー」が東京・青山葬儀所で行われた。故人の遺志として紅白の幕と色とりどりの花が飾られた。この日も葬儀所中に清志郎のナンバーを大音量で流し続けた。
12時からロック葬としてバンドメンバーによる演奏、そして竹中直人、大竹しのぶ、甲本ヒロトによる弔辞が読まれた。
全国から集まった43,000人のファンが4km以上にわたって列をなし、献花できるまで4〜5時間待ちであった。
親族と葬儀所の厚意で、終電近くまで弔問と献花が受け付けられた。 
- ファンがごった返す青山ロックンロールショー会場と、祭壇に飾られた清志郎の遺影と遺骨