[以下、『國語國字』第百八十六號から轉載]
「これからの假名遣戰略を考へる」の題は、英文學者の鈴木孝夫先生が二十五年ほど前になさいました講演「日本の言語戰略を考へる」から拜借いたしました。日本語を國聯の共通語にすべしといふ壯大な主張で、入會したばかりの私はいたく感動しました。それにくらべますと今日は隨分見劣りしますのは御勘辨ください。
さて皆樣も御承知のとほり、本年五月、紀伊國屋書店から『平成疑問假名遣』が出版されました。今日はその御禮と内容の説明にまかり越した次第です。これまで假名遣の早解りとか入門教科書の類は多かったのですが、「これが判斷基準だ」と謳ったものは意外にも無かったのですね。そのあたりいささか自負するところです。皆樣よく御承知の假名遣の沿革とか意義などはあまり觸れず、ひたすら「具體的にどう書くのか」「現代の社會で歴史的假名遣は本當に實踐可能なのか」といった實務的な視點に絞って考へてゆきませう。
題名の元にした、「平成」がつかない本來の『疑問假名遣』とは、大正初めに文部省國語調査委員會から發行された書籍であります。假名遣に諸説あって一つに決めかねる言葉が少からずある、それを一語一語、當時としては最高の國語學的な知見に基いて決定したものです。これで近代的な假名遣が完成したといふ、地味ではあるけれどじつは大切な本なのです。しかし私は考へたのです。果して國語學上の知見だけで萬事うまくゆくのだらうか、と。
といふのは、どうも最近の辭書は新しい學説をよく反映するために、出版社により却って歴史的假名遣が異る例がはなはだ多い、それからまた地名人名や新語など假名遣に迷ふ言葉が少なからずある、これでは困るではないかと思ったのです。あるいはまた私は小書き假名を使ってをりまして、これには御承知のやうに贊否兩論あるのですが、そもそもこれは「假名遣」の問題なのだらうか、最終的にどういふ文獻を見ればよいのかよくわからないが何とかならないか。少し格好よく申上げますと、「歴史的假名遣の標準化」を目指したといふ事になります。本書は便覽といふ形ではありますが、むしろJIS規格に近い存在になってほしいといふつもりです。
私が一應の取りまとめを致しましたが、かういふ作業はとても一人でやれるものではありません。電腦文字研究會といふ、有志の集りがありまして、かれこれ數年がかりで檢討を重ねた成果であります。方針に何か誤りがないか、故石井勳先生や、林巨樹先生に何度もお伺ひしましたのも、忘れられないところです。そのお蔭で、表紙には「國語問題協議會」の名前が大きく入ってをります。そして皆樣も連帶責任者になってしまったやうなものです。いささか下世話な譬へをしましたが、じつは大切な事だと私は考へます。その理由もまたおひおひ申上げます。
さて、我が國語問題協議會の結成以來の目的は「ひとまづ昭和二十一年以前の正常な状態に戻して、改めて考へ直す」ことだと常々承ってをります。まことに具體的かつ穩健な目標であり、この意義は今日いささかも薄れてゐないと思ひます。
國語の音韻は、江戸時代中期から今日までさほど大きく變ってはゐません。何も慌てることはないのです。契沖や宣長以來、『和字正濫鈔』から明治大正昭和まで、假名遣教科書の數々を今でも違和感なくそのまま使へるのはこのためです。
しかしまた昭和二十一年からすでに六十年近く經ちました。ちゃうど明治維新から大正の終りまでが同じ六十年ほどになります。譬へとして適切かどうかわかりませんが、過ぎ去った年數だけ比較するならば、昭和初年ころに江戸幕府の再興を願ふやうな運動を我々はやってゐるとも言へるのです。
それほど六十年の間に社會は大きく變りました。一寸と個人的な話を交へませう。數年前になりますが、私の知人がある時ふと歴史的假名遣について調べたいと思ったのださうですね。今は何でもかんでもインターネットの時代ですから、彼もまづ「かなづかい」で檢索し、そこそこの知識は得られた。しかし、何だかもう一つ足りない気がする。はっと氣づいて「かなづかひ」で再び檢索したところ、今後は歴史的假名遣の復興を目指すホームページばかりで、全く別の世界のやうだったといふのです。「期待以上の成果でびっくりしたよ、ネットの世界はじつに奧が深いものだ」と彼は喜んでゐましたが、私はこの話を聞いて「やはりこれはまづい」と感じました。
人間の目には「かなづかい」でも「かなづかひ」でもたぶん同じものだなと判斷できる、いや綴りが違ふことさへ意識しないかもしれません。しかし機械は一文字違っても別物です。これからは我々がどんなに情熱を込めても、「かなづかい」以外の書き方は社會から彈き出され、誰も發見できない「存在しないも同然」になる、いはば究極の國語統制が完成したとも言へます。
つまり今や現代假名遣は「インフラストラクチャー」の一種、つまり産業や生活の基盤になってしまったのです。現代社會は地名にせよ人名にせよ、さまざまな索引によって順番づけられてゐます。索引があればこそ携帶電話一つで待ち合せの場所を調べたり、電話番號や地圖まで確かめる、さういふ便利さを我々は既に滿喫してゐます。銀行でお金を引き出すのも、新幹線の指定席を取るのも、すべて現代假名遣が基礎になってゐます。善し惡しは別にして、「果して歴史的假名遣はこれにとって替り得るか、本當に六十年前の世界にひとまづ戻れるのか」を一應は疑ってみた方がよろしいでせう。
しかし決して希望を捨てる必要はありません。あまりに杓子定規な世界は、機械には都合がよくても、人間には窮屈なものです。よく引かれる例が、格助詞の「の」でせう。「の・ノ・之・乃・廼」どれも同じことですね。横綱の「貴ノ花」と「貴乃花」が別人であったら困ります。ひところ「お茶<の>水」や「自由<が>丘」など地名を統制してきたのも、機械處理に都合よくといふ思想を徹底させた結果なのです。しかし最近は「強制的」は何かと嫌はれますし、そこまでしなくてもよくなってきました。ためしにネットワークで檢索してみてください。「みずほ銀行」でも「みづほ銀行」でも同じ結果が出ます。
やれ嬉しや歴史的假名遣でも大丈夫なのだ…といふわけではありません。さうではなくて、國語の能力が劣る人はジヂズヅの四つ假名がうまく入力できない可能性がある、それでもうまく辿りつけるやうにといふ、有難いやうな、考へやうによっては大きなお世話の配慮です。機械もだんだん賢くなってきてゐるのですね。といふ事はこれを逆手に取りますと、「かなづかい」と「かなづかひ」は同じものなのですよ、別系統のシステムがあるのですよと教へ込めるのです。
ただしそのためには、きっちり嚴密なデータが必要です。機械は「あとは類推」など絶對にしてくれませんから、つまらぬ作業だとぼやかず、何から何まで全部説明しなければいけません。だからこれまでの假名遣教科書だけでは不完全なのです。また今まで無かった銀行名「みづほ銀行」が新しく誕生したら、即座にデータを追加する機敏さも必要です。
理念としては「ひとまづ昭和二十一年以前の正常な状態に戻し、考へ直さう」かもしれませんが、既に現代假名遣で構築された社會のシステムは厖大です。我々はこれを歴史的假名遣に「修正する」といふ手段しかあり得ないのではないかと感じますし、それは決して無理ではありません。「現代假名遣などといふ存在は認めない」と口では言ふのは結構ですが、我々自身がさう信じてしまったら絶對いけないのであって、むしろ人一倍よく現代假名遣を研究すべきです。
ここでちょっと想像をたくましくして下さい。平成二十何年か、遂に我々長年の念願叶ひ、歴史的假名遣が公的に復活したと假定いたしますよ。當然ながら公文書や教科書、それから新聞なども全面的に歴史的假名遣となります。鐵道の驛名、バス停の名、高速道路の案内などももちろん書き替へられる筈です。
さうすると内閣府あたりからきっと問ひ合せがあるでせう。市町村など地方自治體名の正しい書き方の一覽資料はないか。郵政公社は郵便番號のついた地名の全データを質問してくるでせうし、NTTは電話帳の編輯に困惑するでせう。全國の住民票を手直しするため、日本人の姓名を網羅した客觀的な修正データが必要です。我々はさういふ想定をしてゐるでせうか。あるいはまた、「みずほ銀行」といふ名前は不適切だから、行名變更のための行政指導をすべきかどうか、線引きを求められるかもしれません。
何より一番身近な國語辭典が、揃って現代假名遣順のままではくやしいといふものではありませんか。二十年ほど前でしたか、『大言海』を現代假名遣順にならべ直したものが出版されました。あの時、誰一人として「本來のものの方が引き易かった、なぜ改竄するのか」と抗議しませんでした。假名遣を正すとは、單に「わ」を「は」に戻すだけに止らない事を認識しなければいけません。今や社會全體の基幹を搖がす、大きな影響があるのです。
正漢字や正假名遣だから時代遲れなのではありません。臺灣では何らの不自由なく正漢字でネットワークができてゐます。申申閣の日本語入力システム「契冲」は字音假名遣も含めて快適に使へます。要は時代の變化にどう應へてゆくかです。かなりの勞力が要りますが、不可能ではありません。十萬種以上の漢字を集めた「今昔文字鏡」など以前ではできなかった、現代ならではの成果だと思ひます。
私がかういふ事を考へ始めたのは何時ごろだったか、もうずいぶん前ではっきりしませんが、一つ鮮明な記憶があります。ある日、宇野會長がふと仰いました。東京と甲府を結ぶ特急列車に平假名書きの「かいじ」といふのがあるが、どうも困ったものだ。せめて「かいぢ」でなければ「甲斐への道」でなくなってしまふ。
その時はなるほどと思っただけでした。ところがそれから程ないころ、東海林太郎の「赤城の子守唄」を聽きながら「
本棚の古い資料を探してみますと、平成十一年ころから協議會でいろいろ發言を始めたやうです。たとへば協議會の名簿を槍玉にあげて、これは現代假名遣の五十音順ではないか、けしからんと發言いたしました。小うるさい事で、さぞお氣を惡くされた方も多かったかと改めて御侘びいたします。でも大切な事なのです。
手許の資料にいろいろ思ひ出深い言葉をならべました。「まんばう」とは「滿方魚」であるとは山森さんが教へて下さいました。「飜車魚」がなぜ「まんばう」なのか、國語辭典では全くわかりません。また松岡さんから御指摘ありました「
その一方で、どうしても肯ひ難い御意見もありました。
これらには正直戸惑ひました。假名遣とは八百年前の定家卿の時代から、融通無礙に書かれては困るから決めた規則なのです。假名遣とは表記法の一種です。表記法とは語の書き方を安定させるための社會的な規範です。協議會の誰それに聞いたら「くぢら」だが、別の人は「くぢら」がよいといふ、それでは「かつて存在した不完全な表記法」に過ぎません。
御參考まで「工業標準化」の解説を掲げます。參考になるとは思ひませんか。
「日本工業標準調査會:工業標準化-工業標準化について」(http://www.w3.org/TR/html4/loose.dtd)
標準化(Standardization)とは、「自由に放置すれば、多樣化、複雜化、無秩序化する事柄を少數化、單純化、秩序化すること」といふことができます。また、標準(=規格:Standards)は、標準化によって制定される「取決め」と定義できます。標準には、強制的なものと任意のものがありますが、一般的には任意のものを「標準(=規格)」と呼んでゐます。[原文略字現假名]
そもそも言葉は自然のものであり、恣意的な取決めそのものを否定する御意見はわからぬでもありません。何と言っても戰後の國語統制こそ未だ醒めない惡夢です。ただ、それが行過ぎて「表記法」そのもの否定になるのは如何なものでせう。もちろん言葉といふものは、さう何でも一つにきっちり決るものではありません。「くじら」といふ用例があるのなら、一切合財が歴史的假名遣でよいぢゃないか、とするのも一法です。しかしそれならそれで「兩方とも可、ただし從來からの慣例は くぢら」などとしておかないとすぐに「多樣化、複雜化、無秩序化」してしまふ。それでは困るから我々は集ってゐるのではなかったでせうか。
もう時間がありません。一擧に結論を申上げます。まづ「假名遣は濫りに改めず、次代に受け繼ぐのが基本」、これは言ふまでもない大前提です。では何を受け繼いでゆくのか、これが曖昧なのですね。悲しいことに明治以來、それを端的に説明した文書は一つもないのです。昭和二十一年以前、假名遣が社會全體に定着してゐた時代にはともかく、これからは絶對さうはゆかない。またきっちり説明できないものは、何となくわかったつもりでも、じつはよく理解してゐない場合が多いのです。『平成疑問假名遣』の冒頭に『正假名遣』といふ一節があります。これこそ假名遣とは何か端的に説明するため、電腦文字研全員が多年苦心をはらった成果です。
そして先程まで紹介してきましたやうに、目の前の事實として、假名遣に迷ふ語が少からず存在します。歴史的假名遣は延喜天暦時代の用例に基いて判斷するといふ定義になってゐますから、學術上の成果によって判斷するのが當然の基本であります。ところが最近の辭書は「最新の學説」を競ふあまり、甲社は「くぢら」だ、乙社は「くじら」だと意見が別れてしまってゐるのです。これでは却って「多樣化、複雜化、無秩序化」ですね。もし「くぢら」か「くじら」か判斷できなければ、愼重に「未詳」と結論づけるべきなのでせう。しかしそれでは極端にいへば「その言葉は歴史的假名遣では書けない」のです。
つまり表記法といふ立場では、「とりあへず」でよいから何らかの座標軸を決めることが殊の外大切なのです。もし間違ひがあれば、心ある人から指摘があるでせうし、そしたら次の機會にきちんと訂正すればよいのです。そのために判斷基準を標準化させるのが肝要です。語源重視なのか、漢字とのつながり重視なのかといった事だけで假名遣が變ってしまふ言葉が少くありません。『正假名遣』でなるべく簡潔に示したつもりですが、なほ御批判をあふぐところです。
つまり「歴史的假名遣は學術の成果を基礎とするが、學術そのものではない」といふことです。また思想や精神運動そのものでもありません。學術や思想を輕視せよと言ってゐるのではありません。區別して考へるべきなのです。場合にもよりけりですが、イデオロギーが伴ふと目が曇るやうな氣がしてなりません。先程の「俗語流行語のやうな浮ついたものは考へるに及ばず。」といふ意見など、氣持はよくわかるのですが、やはりそれは別の次元の問題だらうと言はざるを得ません。
では誰がとりあへず「くぢら」か「くじら」か決めるのか。それは斷然、我々を含めた日本國民全員です。中でも歴史的假名遣に關心ある我々は、いはば「ユーザ代表」であります。よく勘違ひされるのですが、歴史的假名遣は現代の文章のための假名遣です。先人の成果を咀嚼した上で常によく整理を心掛け、不明があればよく補ひ、時代の要求を滿してゆくのは國民全員の責務であります。
『平成疑問假名遣』はそのための試作品です。今はまだ奧付に私の名前が載ってゐますが、私ごとき者の個人的な著作に終っては困るのです。冒頭で「皆樣も連帶責任者」だなどと申上げましたが、ぜひ本書を徹底的に批判してほしい、または對抗馬としてもっとよいまとめを作ってほしいと切に願ってゐます。「平成十七年版」と謳ってゐますやうに、少くとも數年ごとに必ず改訂を續けますが、いづれ國民全員の共通理解となるやう期待してゐます。その頃には私の書いた内容など全く無くなってゐてもよいですから、統一見解が定着しますやう祈る次第です。
今日からできる事で、皆樣に御願ひがあります。言葉さがしをしてください。『平成疑問假名遣』出版直前に、「
よく「しっかりした國語辭典が一册あれば、假名遣に迷ふことはない」と言はれますが、私には到底信じられません。少し言葉に注意してゐれば、いくらでも出てきます。大勢で力を合せ、言葉を集めてゆかうではありませんか。皆樣それぞれの專門分野など、まだまだ面白い言葉が眠ってゐます。
次に協議會に御願ひがあります。何らかの手段で標準化を推めてほしいのです。協議會の從來からの戰略は「内閣告示の撤囘」だったと思ひます。それもよいのですが、また一方に「defact standard(事實上の標準)」といふ手法もあります。たとへば各種辭書の出版社に對して、歴史的假名遣の統一を勸告できるやうな團體は本會を措いて他にありません。ぜひ宜しく御願いたします。
もう言ひたいことはあらまし言ひ盡くしました。嬉しいことに『平成疑問假名遣』へ、既にいろいろ御意見が寄せられてゐます。「あむ」「くゐゃう」などといふ假名遣は見たことない、といふ御批判が多くありました。最近になってやっとこれを採用した辭書がいくつか出てきましたが、確かに「見慣れない」のは事實です。ただ國語學上では常識的なことですし、何より假名遣の定義上これが正しいといふ事になってゐますので、積極的に採上げたまでです。
また「變な言葉ばかり入ってゐて、本當に探したい言葉が無い」といふ感想もありました。お氣持はよくわかりますし、もっと親しみやすい辭書を作りたいと願ってゐます。ただ、今囘の目標は「假名遣の性格をよく浮き彫りにする」ことにあります。從ひまして基本語と難しい言葉しか收録してゐません。具體的には『私の國語教室』と『假名遣ちかみち』の收録語を基礎としてゐます。基礎語にも「
「變な言葉」が増えたのは、今囘「假名遣を理解する助けとなる語」を收録したためでもあります。たとへば茨城縣の「
お手許の資料で、いくつか例を擧げました。「
「法」は「漢音はふ・呉音ほふ」で、特に佛教語は呉音讀みいたします。なるほど「
後日、木村貴氏から『空想的實務主義を排す』(國語國字187號)といふ批評を頂戴した。またその後の感想を下に示す。
お蔭樣で『平成疑問假名遣』出版から三年ちかく過ぎました。よりよい改訂を目指し、最近は改めて各種の辭書を讀み直してをります。最近は言葉の來歴もじつによく研究されてゐますが、その結果として歴史的假名遣が不安定になる例が目立ちます。それにもかかはらず我々は「學術」に期待し、一時的な學説の對立はあってもいづれは明快になるだらう、自然變化に任せればうまくゆく筈だと樂觀してゐないでせうか。そんな事を考へましたので、しばらく御説明いたします。なほこの話の中で、歴史的假名遣とは「平安時代中期以前の書き方に倣った表記法」としますので御承知ください。
「歴史的假名遣は理論的、學術的」といった表現、これは多くの場合、文法上の整合性や通時性があるといった意味あひです。つまり動詞や形容詞などの活用が五十音圖に照して綺麗にならぶとか、古文から現代口語文までの一貫性を肌で感じられる、などですね。私も假名遣の存在目的からして、これらはとても優れた點だと思ひます。わざわざ「ハ行轉呼音」みたいな難しい用語など勉強しなくても、日常の感覺として納得できるのはやはり素晴しい事です。
しかし言語學や國語學の「學術的な公式見解」はしばしばこれと正反對ですね。平安時代と現代と「自然の變化」はまことに大きい、昔の書き方をそっくり今に當て嵌めようとしても、表記法として全體の統一感を持たせるのは難しい、そんな意見が多いでせう。
確かにさうなのです。國語學上で「この言葉は平安時代には未だ存在しなかった」とか「平安中期の中でも樣々に表記が搖れてゐる言葉がある」といった實證的な考察は重要です。しかし「だからこの言葉は歴史的假名遣では書けないよ」と判斷するのは滑稽な話です。もちろん實際にはそこまで嚴密に「平安當時の實例のまま」でないからこそ、表記法として成立ってゐるのです。それぞれに「學術的」の意味がだいぶ異るやうですね。
歴史的假名遣は「平安時代中期以前の書き方」だといふものの、どうやら我々は無條件に昔を尊重してゐるわけではないらしい、現在の言葉がうまく解釋でき、よく秩序だつ部分だけ利用してゐるのだとも言へるのです。皆樣も周知のとほり、字音假名遣などはどう理解すべきかわかりにくいですから、同じ「昔の書き方」でもあまり尊重する氣になれませんね。たとへば『岩波國語辭典』は歴史的假名遣を和語に限って掲載してゐますし、戰前でも『廣辭林』など字音に限って發音順の見出し排列でした。實用上の方便ではあるのですが、これは明らかに「平安時代の實態」の一部を無視してゐるのです。
一方、現在の國語學は各時代の實態ありのままを解明する事を目標にしてゐます。趣旨徹底のため、最近では「日本語學」に改稱の動きも活溌ですね。そして「古語にもとづいて現代語を秩序だてる」研究は決してしない筈です。これはイデオロギー云々といふより、そんな事をしても學術として稔りある結果は得られない、だから別の場所でやってくれといふ判斷です。たとへば平安時代には「拗音(ッ)撥音(ン)は表記しなかった」とか「ヤ行のエが存在した」わけですが、皆樣は「ぜひ眞似したいな」と思はれますか?
かういふ差異は江戸時代、つまり假名遣解明の草創期にはまだはっきり見えませんでした。平安時代と(江戸時代當時の)現代と、まづ先に日本語としての共通性が解明されていったからです。上代の言葉を研究すればするほど現代も秩序だつ、じつに幸せな頃であったと思ひます。しかし今、明らかに道は二筋に別れてしまひました。表記法は表記法に徹すべきなのです。第一に現代の言葉を迷ひなく書けるやうに、第二はできるだけ簡潔な規則で、そして第三に上古以來の國語の變遷をゆるやかに包み込める、そんな優先順位かと私は考へます。
ひょっとして我々は江戸時代のイメーヂのまま、學術的な完璧さを求めてゐないでせうか。しかし今後、古文獻の解明が進めば進むほど、假名遣が安定する保障はどこにもありません。最近の辭書をよく見ると「典型的古用例の展示場」的な項目が増え、假名遣としての統一感が靜かに崩れつつあります。それにもかかはらず、「なるほど新しい辭書には學術成果がよく盛込まれてゐるな」と早合點してゐないでせうか。
「古語にもとづいて現代を秩序だてる」意義は第一にもちろん表記の安定にあるのですが、大まかな整理法としての明快さも重要です。その典型例が辭書の排列 ― 特に古語辭典にとって致命的です ― や、國語辭典の親見出しにつけられた歴史的假名遣の記述です。書店にならぶ辭書には歴史的假名遣の否定論者の編輯にかかるものも少なくありません。しかし實際に印刷された辭書は從來どほりに歴史的假名遣を守ってゐます。「自らの信念」にもとる行爲を少しは恥入ってほしいものですが、それにしても何故なのでせう。
それは辭書といふ小世界を統一的に記述するため、やはり何らかの整理法が必要だからです。もし彼らの「信念」どほり、各時代の實態ありのままに辭書を作ったらどうなるか。たとへば「遮る」は時代ごとに「さいぎる」「さへぎる」「さえぎる」と三ヶ所に分れてしまひます。專門家には調法であり、さういふ編輯目的もあってよいのですが、國語全體としての見通しがきかず、一般的用途としては不向きでせう。
辭書とは生の材料の寄せ集めではありません。『平成疑問假名遣』の經驗ごときでかう申上げるのは烏滸がましい限りですが、系統的な編輯方針、つまり「ものの見かた」がしっかりした辭書ほど結局は使ひやすく、また相互批評も樂なのです。歴史的假名遣は國語の大まかな把握に今も有效です。
ただし歴史的假名遣はかなりの部分を經驗則に頼ってをり、必ずしも標準化された表記法ではありません。方向によっては「ものの見かた」がずいぶんぼやけてしまひ、秩序だってゐないのです。さういふ穴は「實態どほり」の古用例で埋めてゆくのが無難でせう。「平安時代中期以前の書き方」を客觀的に追究するのは國語學の本來の業務ですので、結果として相互の矛盾を抱へた不規則な項目が次第に増えてゐるのは前述したとほりです。
近年、國語學の進展は著しく、歴史的假名遣は新しい知見の整理に追ついてゐません。『私の國語教室』などの入門書は典型的な語例を示すだけですから氣づきにくいのですが、結局これが直面する最大の問題だと私は考へます。
歴史的假名遣が不安定な語は、大きく三種に分類できます。
たとへば「くぢら・くじら」など、從來から注目されてきたものは多く(一)に屬します。これらは今後の國語學的な探究に期待しませう。また複數の語で不統一なものもあります。『日本國語大辭典(第二版)』に、「かふち(河内)」「かうの(河野)」の二項目があります。それぞれさう書く理由もよくわかるのですが、では「河本」さんならどうなのか類推が利きません。
次に(二)の漢字音について、たとへば三省堂の『全譯 漢辭海』は最新の漢字音研究を意欲的に盛込んでゐます。「春」を「スヰン」とし、「出」を「スヰツ」とするのが目新しいところです。しかし「蠢」は「シュン」のままですし、「述」は「シヰツ」だとなると、系統的にどう理解したものか惱みますね。あくまで私の推測なのですが「蠢」は古用例を採取できなかったのではないか、だから「シュン」とせざるを得なかったのではないか、そんな氣がします。「典型的古用例の展示場」のままでは、なぜ書き分けるのか意味が讀み取れないのです。
最後に(三)。東京都墨田區の「向島」は「むかふじま」か、それとも連用形イ音便の「むかうじま」か、どちらなのでせう。多くの辭書では「むかうがは(向側)」「おほむかう(大向)」とします。また全國に「ムカイジマ」といふ地名はありますが、「ムカウジマ」はありませんから、『日本國語大辭典(第二版)』の「むかふじま」には疑問が殘ります。明らかに江戸時代に入ってからできた地名ですから、時代を遡った「架空の假名遣」となり、「文獻の用例」は期待できません。
ちなみに「學術」志向のためなのでせうが、「架空の假名遣」といふ言葉は近年まことに嫌はれるやうです。しかし墨田區の地名だけ「むこうじま」としてもをかしいでせう。「かふち(河内)」と「かうの(河野)」もそれぞれ明確な根據に基くものですが、表記法としての不統一感は否めません。
それどころか漢字音そのものが半ば架空の存在である事をご存じでせうか。たとへば「皿」の音讀みは何でせう。漢和字典には「漢音ベイ、呉音ミャウ」などと書いてある筈ですが、本當にそんな讀み方でせうか。これは一千四百年ほど前の漢字發音辭典に「明」と同音と書いてあるから、現代でも同音(たるべし)と斷定した「架空の音」に過ぎません。ちなみに戰後「明」は「漢音メイ、呉音ミャウ」と改められたから、新しい漢和字典では「皿」も「漢音メイ、呉音ミャウ」に變身しました。「實證的であれ」と叫ぶのは容易ですが、そこまで潔癖にして得られるものは何でせう。
國語國字問題は明治維新と共に始りました。それは教育や文藝より、むしろ行政としての標準化の仕樣論爭なのだと私は思ひます。「河内」さんが「かふち」「かうち」どちらであらうとも、江戸時代以前は何も不便はありませんでした。しかし今、ひょっとすると「カフチ サマ」への振込送金は屆かないかもしれません。なるほど近代的國民國家とは、現實世界をまるで辭書のやうに編制してゆくのだなあと私は感じました。言葉は自然に變ってゆきますが、意識的な提案がなければ標準化の仕樣は改りません。殘念ながらたとへば個人識別すら不安定なのが歴史的假名遣の現状なのです。