木村貴氏から『空想的實務主義を排す』といふ批評を頂戴した。何につけ反應があるのは嬉しいものだが、どう返答してよいのか私は長い間よくわからなかった。
論旨は「私は現状で不便ない」「誰かが考へてくれるさ」のやうである。しかし表記法の本質的な出番は「どう書いたらよいかわからぬ時」「困った時」であるのではないか。木村氏が「音の表記」を持出すのは、じつは「歴史的假名遣では多くの近代的事象が書けない」からなのである。だから私としては微笑とともに「はあ、それはよろしおすな」と返事するしかない。
また昭和21年の内閣告示「現代かなづかい」は、何よりもまづ行政のため、近代國家のためにある。「現代かなづかい撤廢」を叫ぶなら對案が必須で、できれば近代的な業務に耐へ得る實證もほしい。木村氏が「帝力何ぞ我にあらんや」と考へるなら、それはそれで筋が通ってゐるのだが、また同時に「現代かなづかいの事など興味がない」筈である。恰好だけ「お上」に楯突きつつ、行政サービスは享受するやうな不健全さを感じるといったら酷だらうか。國家齊唱に背を向けるのを生き甲斐とするやうな、精神的未熟さはないだらうか。
いはゆる國語國字問題の論は「うまくゆく例」ばかり出し、それ以外から目をそらす傾向が強い。運動や啓蒙が目的ならまあ頷けるとして、思想が前面に出たものはもういけない。表記法とは「うまくゆかない例」のためにあるのだから、必然的に議論は停滯する。だから私は「いはゆる國語國字問題」が嫌ひである。
[以下、『國語國字』第百八十七號から轉載]
『國語國字』第百八十六號に掲載された高崎一郎氏の講演録「これからの假名遣戰略を考へる」を讀んだ。當日所用で講演會に行けなかったので、他の會員諸氏からどのやうな意見が出されたか存じ上げないが、この場を借りて高崎氏の主張の問題點を指摘しておきたい。
高崎氏は「實務的な視點」を強調し、實務家を自負してゐる。しかし眞の實務家は現實を的確に把握すべきであって、空想に耽るべきではない。
「平成二十何年か、遂に我々長年の念願叶ひ、歴史的假名遣が公的に復活したと假定いたしますよ」と高崎氏は會員に語り掛ける。「平成二十何年」は假定の話にしても樂觀的過ぎると思ふが、それは問ふまい。問題はその後である。「さうすると内閣府あたりからきっと問ひ合せがあるでせう。市町村など地方自治體の正しい書き方の一覽資料はないか。郵政公社は郵便番號のついた地名の全データを質問してくるでせうし、NTTは電話帳の編輯に困惑するでせう。全國の住民票を手直しするため、日本人の姓名を網羅した客觀的な修正データが必要です。我々はさういふ想定をしてゐるでせうか」。
講演會場に「さういふ想定」をしてゐる會員は誰もしなかったと信じたい。餘りにも現實を無視した想定だからである。
第一に歴史的假名遣ひが公的に復活したとしても、郵便番號簿や電話帳や住民票にまで適用されるとは限らない。「利便性・繼續性に鑑み、例外的に現代仮名遣いを殘す」と政府や企業が判斷する可能性は高い。或いは現代仮名遣いよりも表音性を徹底させた表音記號が新たに導入されるかも知れない。語の表記と音の表記の混同が再び起こらぬやうにする爲には「語の表記は歴史的假名遣で、音の表記は表音記號で」と役割分擔を明確にする方が賢明だからだ。かつて橋本進吉や時枝誠記も、歴史的假名遣擁護の立場から表音記號の導入を提唱してゐた。表音記號と云っても實際はカタカナだから、普及は速いだらう。協議會はお呼びでない。
第二に、そもそも内閣府や日本郵政やNTTが「素人集團」である國語問題協議會に假名遣の問ひ合せなんぞして來る筈がない。私がもし内閣府の官僚なら、地名も人名も、まづは東京大學文學部に尋ねる。東大で地方の地名がよく分らなければ、地方大學に尋ねる。それでも駄目なら信頼出來る歴史資料館や博物館を紹介して貰ふ。日本郵政もNTTも右へ倣へである。地名や人名の假名遣ひそのものを研究してゐる學者は今でこそ少數かも知れないが、元々素養はあるのだから、歴史的假名遣ひが公的に復活すれば、忽ち我も我もと專門家が輩出するだらう。インターネットに無料の假名遣情報を公開する研究者も増えるだらう。判斷に迷ふ假名遣ひも勝手に話し合って決めて呉れるだらう。いつまで經っても國語問題協議會の出る幕なんぞ無い。
高崎氏はきっと反論するだらう。「だからこそ政府や企業に信頼されるやうに研究を進めておく必要があるのだ」と。實際、高崎氏は講演で、實質的な自著である『平成疑問假名遣』の「對抗馬としてもっとよいまとめを作ってほしい」と會員に呼び掛けてゐる。しかしそれは本當に協議會や會員がやるべき仕事だらうか。
協議會の役員も會員も仕事の合間の貴重な時間を割いて活動してゐる。それでも本來の目標、すなはち歴史的假名遣ひの復權は實現の兆しすら一向に見えない。高崎氏個人が好奇心の赴く儘に地名人名の假名遣ひを追究するのは自由だが、それを協議會全體の「連帶責任」などと云って押附けるのは、唯でさへ足りない時間と人材の無駄遣ひを強ひるに等しく、本來業務の妨げですらある。それでは肝腎の歴史的假名遣復權は遠退くばかりではないか。
高崎氏個人の研究熱心さには敬意を拂ふし、地名によって歴史的假名遣ひの面白さを感ずる事も少くない。だがその面白さは何も郵便番號の附いた全ての地名を調べなければ味はへない譯ではない。そこまでやるのは個人的趣味に過ぎない。高崎氏は自らの研究を單なる趣味と片附けられたくないから、實務上必要な知識だと力説する譯だが、その主張は「空想的實務主義」とでも呼ぶべきものであらう。既に述べたやうに、もしも歴史的假名遣ひが復權するのなら、地名人名商品名その他諸々の假名遣ひを國語問題協議會が自ら研究する實務的意義は存在しないからである。
勿論、個々の會員が個人的關心から地名人名その他の假名遣ひを研究するのは自由である。だが貴重な時間を費やしてやるべき事は他に幾らでもある。個人的には、インターネットで所謂ホームページを開設し、ペットの紹介でも旅行の記録でも何でも良いから、歴史的假名遣ひの文章を書く事を勸めたい。今は技術的に簡單だし、費用も安い。歴史的假名遣ひを實際に使ふ人間が一人増えれば、復權に一歩近づく。これぞ地道な「實務」ではないだらうか。
(きむらたかし・新聞社勤務・本會評議員)
[轉載終り]
地名人名の重要性について、私が下手な解説をするよりも、『JIS漢字辭典』(芝野耕司編著、平成9年、日本規格協會)を手に取る方が理解が早いだらう。この辭書はJIS漢字(日本工業規格)の解説として編輯されたもので、用例のほとんど全部が地名と人名から成ってゐる。なぜさうなったかといふと、從來の辭書類で大きく缺落した分野だからである。同字典では
手近の漢和辭典で、親戚の住所の讀みや、知人の名前の讀みが得られないのは別段珍しくないが、このやうな現状は、規範的な字典として考へた場合でも、日本語の字典としては、異樣である。(原文略字現假名)と辛い評價を下してゐる。
なるほど漢和字典とは本來「漢籍を讀むため」のものであって、日本のしかも小さな地名だけに使はれる字など最初から視野にない。また國文の方面では古典に現れる地名人名をこそ考察すれ、同じ町内に住む人の名など興味を示さない。いはゆる難讀地名は昔から採集されてきたが、隣近所の「俗」な地名人名まで系統的に分析しようといふ企てには思ひ至らなかったやうだ。だから
何かの字典の文字を全部入れればよいなどといふ安直な姿勢で「JIS漢字」が作られてゐたなら、「JIS漢字」では我が子の通ふ小學校名すら書けないといふ體らたくになってゐたはずなのである。(原文略字現假名)
などといふ批判は豫想だにしなかったわけである。
歴史的假名遣にも同じやうな視線の偏りがある。定家假名遣は和文和歌だけのために存在したし、契冲以來の國語假名遣も記紀萬葉など古典文中心であった。多くの假名遣便覽に「遠江 」「逢坂山 」「赤穗」など表示はあるものの、それは現實の地名といふより、半ば空想上の歌枕のやうな扱ひだったのではないか。もし本氣で地名人名の事を考へたのだとしたら、例語が絶望的に不足である。
一方で漢字の字音假名遣は主として僧侶の經典讀誦のためといふ、これまた日本の文化とかけはなれた場所で發達した。漢學者に至っては假名文字そのものに興味がなかったやうである。しかし歌詠み・國學者・僧侶・儒者などはそれぞれ別個の世界に住み、それぞれ定型的な文章を書き、互に干渉する場面は少かった。たとへ他者の文字づかひが大きく異らうとも、それはそれでよかった。だから幕末以前に「國語問題」は存在しない。
明治維新といふ近代化でこれらの垣根は一擧に消滅し、いくらかの紆餘曲折の後、漢字假名交り文が國民共通のものとなった。しかし字音假名遣は「漢字に隱れる」から、あまり注目されなかった。地名人名に至ってはその實態すらよく調査されず、今日に至った次第は先に述べたとほりである。日常生活はそれで構はない。江戸時代の續きで一向に不便はない。
吉川幸次郎博士の文章に、あるとき電報を打たうとして自分の名前が「カウジラウ」と正しく書けず、うろたへたといふ囘想がある。全國民から全國民へ、飛脚より遙かに迅速かつ確實にに文面が屆くといふ、近代化の果實を享受するためには、これまでは「隱れ」てきたものが俄かに重要な鍵になってきたのである。京都府「向日 市」に住む「向田 さん」が「私の名前や住所はどう書くのかな」と惱む場面は今日とて少なからう。しかしながらそれを調べる手段は至って乏しく、時に途方に暮れるのはまさに「異樣である」と評すべきであらう。「利便性・繼續性に鑑み、例外的に現代仮名遣いを殘す」のは、歴史的假名遣がもはや現代社會の用に耐へない證左ではないのか。
「インターネットで所謂ホームページを開設し、ペットの紹介でも旅行の記録でも何でも良いから、歴史的假名遣ひの文章を書く事を勸めたい」といふくだりも、私は大贊成である。しかし「かなづかひ」と表現した途端、「かなづかい」とは無縁の誰からも檢索されない「存在しないも同然」な扱ひをうける現状は認識してほしい。
私は「趣味の研究」などしてゐない。歴史的假名遣でどう書いてよいか、さっぱりわからない言葉がいろいろあるから困ってゐるだけである。昭和天皇が「雜草といふ草はない」と仰せられたやうに、地名人名などどうでもよいとは思ひたくない。いやしくも「近代的な表記法」なら、地名人名だらうと均しく適用できる筈である。
歴史的假名遣を愛する人の中には、
「現代假名遣は根本的に誤ったものだから、存在そのものからして認めない」
と力説される向きも少くない。それなら國語辭典や百科事典にどのやうに接せよといふのか、私はかねがね得心がいかなかった。
細かい異同はあるものの、現行の辭書類の多くは見出しを現代假名遣の五十音順にならべてゐる。「存在そのものを認めない」となれば
「そのやうな辭書は一切使はない。」
または
「不滿であるが、やむなく使ってゐる。」
といふ意見の表明があってよささうなものだが、寡聞にしてさういふ話は聞いたことがない。まして
「これが理想の國語辭典だ。」
などの提言はもっとない。
問ひ詰めてゆくとどうやら
「實用上の便宜だからよいではないか。」
といふことらしいのだが、さうだとすると現代假名遣の御蔭を蒙ってゐるわけで、言行不一致の謗りを免れまい。さう指摘したら今度は
「いやあれを發音順と思へばよい、たまたま現代假名遣に似てゐるだけだ。」と返事がくるかもしれない。だんだん神學論爭めいてきた。
國語問題協議會ではつねづね「ひとまづ昭和21年以前の正常な状態に戻して考へ直さう」といふ方針であると伺ってゐる。では戰前の實態はどうであったか。五十音順の辭書排列は、大まかにいって三種類あった。
「すべて發音順」とは「歴史的假名遣に據らない」といふ意味であって、完全な發音順でないものがじつは多い。また「ヰはイの欄を見よ」だけの簡易式は、法則として未熟だからここでは採上げない。
『大言海』は今なほ評價が高い近代的辭書の一つであるが、檢索の難澁さでも定評があった。昭和57年、見出しの順番を現代假名遣順に改めた『新編 大言海』が出たが、その時に
「なんだ新版ではかへって引きにくいぞ」
とか
「以前は確かに引きづらかったが、前後の項目の見通しが利いてよかった」
などの意見は、殘念ながら出なかった。なに昔の人は學があったからこれぐらゐ平氣だったのだ……といふわけでもなかったから『廣辭林』や『辭苑』は發音式を導入したのである。
しかし大言海式は今日でもすたれたわけではない。「古典を讀む」ための古語辭典は完全な歴史的假名遣順であり、しかも學校教育であたりまへに使はれてゐる。歴史的假名遣とは「主として平安時代中期以前の文獻用例に基く」書き方なのだから、やはり大言海式こそ「正統」に違ひない。現代語としての發音順は、あくまで現代人のための都合によるものである。
それにしても今日、古語辭典に對して「引きにくいぞ」と批難する聲は至って少ない。理由の第一は「古語辭典とはさういふものだ」といふ社會通念が出來上ってゐること。第二に學校の古典學習は和文が主であり、漢語の比率は現代よりも相當に低い。第三に地名人名の種類もさほど多くない。裏返していへば、これが大言海式の弱點である。
たとへば漢和字典の部首も檢索しづらいと批判されつづけてきた。しかし今なほ廣く活用されてゐる。その理由の一つは、漢字の造字原理に基いてゐると社會的に認識されてゐるからである。辭書檢索は能率さへよければ優れてゐるとは限らない。しかし大言海式の場合、たとへば「ちゃう」と「てう」と「てふ」が本質的にどう異るのか、それを區別する今日的意義は何か、理解してゐる人は極めて少い。
地名人名など固有名詞も意外に難事である。根本的に假名遣がわからないものがあるからである。もちろん延べ語數としては微々たるものであるが、辭書のやうに異なり語數では意外に多くなる。「箕面」「向島」「龜戸」など、身近なものでもじつはよくわかってゐない。戰前の百科事典がほとんど發音式であったのも仕方ないのだらう。
「てふてふ(蝶々)」のやうな特殊な?假名遣はいづれも字音であって、漢字の蔭に隱れるから日常生活では無用のものである、などといった説明をよく見かける。しかし上述のとほり辭書を使へば必ず字音もあらはになる。「けふ(今日)」「戀すてふ」など、和語でも同樣の書き方はあり、決して特殊なわけではないだらう。
最初に述べたやうに、國語辭典や百科事典に接する時の考へたが私にはよくわからない。
「いやあれを發音順と思へばよい、たまたま現代假名遣に似てゐるだけだ。」
などと推測したのは、木村貴氏の「空想的實務主義を排す」に
現代仮名遣いよりも表音性を徹底させた表音記號が新たに導入されるかも知れない。語の表記と音の表記の混同が再び起こらぬやうにする爲には「語の表記は歴史的假名遣で、音の表記は表音記號で」と役割分擔を明確にする方が賢明だからだ。かつて橋本進吉や時枝誠記も、歴史的假名遣擁護の立場から表音記號の導入を提唱してゐた。表音記號と云っても實際はカタカナだから、普及は速いだらう。協議會はお呼びでない。と書いてあったからである。
「現代仮名遣いよりも表音性を徹底させた表音記號」とはどのやうなものかよくわからないが、結局そのやうなものは系統的には作れないし、表音化を無理に徹底させる價値は少ないといふのが、現代假名遣を運用した經驗による結論ではなかったか。また昭和40年ごろの辭書編輯の經驗による結論ではなかったか。辭書の見出しに「高利」「小賣り」がならんでゐても格別の不便はないし、『辭苑』のやうに「言ふ」を「ユウ」とする必要性は低いのである。「バレーボール」が語の表記で「バレイボウル」や「バレエボオル」が音の表記などとする「役割分擔」に意味はあるのだらうか。
繰り返しになるが、大言海式こそ「正統」である。檢索の能率はともかくも、歴史的假名遣としての「ものの見かた」を體現した排列整理法だからである。しかしこれが社會的に受け容れられるには、二つの課題がある。一つは「ちゃう」と「てう」と「てふ」を區別する知識の普及。いま一つは固有名詞などに多くのこる假名遣不明語の大規模な考察である。二つとも、拙ページ『平成疑問かなづかひ』の重要な目標である。