『かなづかい入門 歴史的仮名遣VS現代仮名遣』白石良夫著、平凡社新書426、平成20年6月13日を讀んで些か感想を。
副題がよくない。「歴史的仮名遣VS現代仮名遣」の部分は陳腐で、それ以外の記事に見るべきものが多いと感じた。著者の意圖ではないかもしれないが、じつは歴假名と現假名は似たもの同士だ、といふやうに私には讀める。
著者の論點は次のやうに整理できると思ふ。
歴史的假名遣の信奉者はなぜ「信奉者」になるのか。文化的・政治的な興味を別にすると、殘りは壓倒的に「文法上・語彙上の整合性」である。もちろんそれは平安時代の文法・語彙ではなくて、現代のものである。つまり出發點はあくまで現代であり、平安時代中期以前の文獻用例を「利用」すれば現代の諸事象が見事に整頓できる、そこに感動するのである。
從って例へば「濁音はやめよう」とか「促音は無表記がよいのではないか」などとは決して考へない。「平安時代中期以前の文獻用例」を無條件に尊重してゐるわけではない。定義とは逆方向なのである。古語に「〜しませう」がなかった云々(119n)といった批判に心を動かす事は決してないと思ふ。
また
假名遣が社會的な約束であるかぎり、それぞれの「社會」の假名遣は、それぞれの「社會」固有の事情があってしかるべきだろう(58n)
定家にとって、みずからが必要とする假名遣の規範は普遍的でなければならない、というようなものではなかった(82n)とあるやうに、「信奉者」の多くは通常の漢字假名交り文のみ書ければよしとする。『疑問假名遣』などに記された破綻例(117n)は、それが文法事項をゆるがすほどの影響がなければ氣にかけない。字音假名遣も「漢字に隱れる」からあへて考へない。
人工的にどちらか一方に統一させ、それを空間的にも時間的にも守ってゆく、これが社會に通用すべき規範假名遣の規範たるゆえん(84n)とあるとほり、たとへ現假名でも、なにがしか「權威にひれ伏す」傾向はあるだらう。個人的にはかういふ表現が嫌ひだし、『かなづかい入門』も思ひ入れたっぷりの箇所は概して面白くない。
「平安時代中期以前の文獻用例に從ふ」といふ定義は間違ひではないが、限られた一面しか表してゐない。しかも「信奉者」はこれに無自覺である。恐らく『かなづかい入門』はさっぱり理解されないだらうし、感情的な反論が多く寄せられるだらう。だから私は「歴史的仮名遣VS現代仮名遣」の部分が陳腐だと思ふのである。
「中國字音」(123n)の考へ方はちょっとをかしい。「ヴァイオリン」の例(128n)などは
卷末の參考文獻(215n)に『全譯漢辭海』が唯一の辭書として擧ってゐる。同辭書は『學研大漢和』とならんで字音に定評がある。
漢音「春 スヰン」などには、我々の先人が、いかに唐代長安音を忠實にまねようとしたかがうかがわれて頭の下がる思いがする。などの記述を見て、著者は「古代漢字音(中國字音)を再現」(131n)と勘違ひしたのではないか。『全譯漢辭海』は「平安時代中期以前の文獻用例」に忠實であり、「中國字音」による豫斷を排した點で評價が高いのである。「唐代長安音を忠實にまねようとした」のは先人であって、現代の漢字學者ではない。
もし上述の私の推定どほりならば、「スヰン(春)は當時の外來語として未だ定着してゐなかった筈だ」と批判すべきであって、それは假名遣と全く關係ないことである。「バイオリン」と「ヴァイオリン」は同時代に併存した同義語であり、「バ」と「ヴァ」を「語によって使ひ分ける」事に該當しない。「ボーリング」と「ボウリング」なら、ひょっとすると「假名遣」として使ひ分けてよいかもしれない。假名遣はかな表記をすべて規定するものではない
「ヴァイオリン」論は「信奉者」が字音假名遣を説明する際にもよく使はれる。だが私には逃避としか思へない。もし字音假名遣がもう少し憶えやすく、もう少し意義がわかりやすければ、きっと「貴重な傳統」と評價してゐる筈である。
「應(おう)ong」「央(あう)ang」「押(あふ)ap」「王(わう)wang」(114n)などは、いづれも平安時代には全く異った發音、異った漢字であった。それが音韻の合流によって現代人には區別できなくなったといふ意味で、和語と何らの差はない。「出自が異る」だけである。「すゐん」と「しゅん」が音韻合流したといふ話は聞いたことがない。
私は字音假名遣が好きである。「契冲」といふ日本語入力IMEソフトが速くできるし、いろいろ日本語の觀察ができる。ただ、「規範」に學問的合理性や正確性はかならずしも必要でない(12n)とあるやうに、字音假名遣は上代の實態と一致するわけではない。しかし「單なる枠組」だと心得れば、上代の實態との距離が測れて便利である。それは「自分自身を納得させる振り分けのよりどころ(73n)」に過ぎないといふ批判は甘んじて受けるが、とりあへず便利である。「この惡魔の規範(112n)」と思ふ著者は、きっと字音に興味がないのであらう。それならそれでよいではないか。
20.07.24記。あとは氣づいた事へ
『かなづかい入門』に對して、反論はなかなか難しいだらうと私は感じてゐる。發行から二ヶ月も經たないから何とも言へないが、仄聞する限り筆鋒は極めて鈍い。『かなづかい入門』斜め読みなど、どちらかといえばぼやきの段階だらうか。
この記事を書いた平頭通氏とは、平成17年にある掲示板で接觸したことがある。私にとっては「こんな考へ方もあるのか」と驚きの連續であった。殺伐とした應酬で、讀み返したくない。私は「この言葉はどう書くか」とだいぶ具體例を出したが、反應はなかった。これでは話にならない。この頃から運動としての國語問題がいっそう嫌ひになった。
彼らの特色を拾ふと、
第二に、漢字仮名交じり文で書く場合、漢字で書かれる部分よりも、かなで書かれる部分のはうが仮名遣として重要になります。具体的には、テニヲハと呼ばれる助詞や助動詞と、動詞や形容詞の活用語尾とです。此の部分は漢字仮名交じり文を書く限り、必ずかなで書かれます。逆に名詞や活用語の語幹などは、通常漢字で書かれますので、かなで書く場合にしか仮名遣は問題にされません。正かなを批判する反対論者は必ずと言つていい程、名詞や活用語の語幹の仮名遣を突いて来ます。最低限漢字が読解できれば十分な部分です。の部分は「ああ、相變らずだな」と感じた。一言で表現すると「中世の感覺」である。
表記法とは「どう書くか」を示すために存在する。もちろん活用變化がうまく説明できる方がよいだらう。しかし「重要ではない箇所はどうでもよい」とはゆかない。まして「統制」云々は運用上の問題であって、表記法そのものの責任ではない。彼らは歴史的假名遣の全體像をまったく掴めてゐないのではないか。
それとも「定家假名遣と同樣に、歌物語だけ書ければ十分」と考へてゐるのだらうか。それなら漢字に隱れる部分など氣にしなくてよい。ただ、それでは近代的國民國家の共通基盤にはなり得ず、「現代かなづかい廢止」の説得力には著しく缺けるだらう。據って立つものが異るから、『かなづかい入門』への反論はできないだらうし、ひょっとすると何が書いてあるか讀み取れないのかもしれない。國民年金の納入記録が大問題になったが、氏名の讀み間違ひを原因とするものが少なくなかったらしい。これも「どうでもよい」範圍なのだらうか。
「重要ではない部分」をどう考へてゐるのか、私はとても興味があります。ネット檢索もずいぶんされてゐる樣子ですから、この記事も早晩氣づかれるでせう。私も數日に一度ぐらゐは覗いてみますので反論をどうか宜しく。
20.08.03記。
『平成疑問假名遣』の發行以來、いろいろな御意見をいただいた。樣々な考へ方に接するのは一般的に樂しいものである。以下の引用はいろいろ寄せ集めで、一人の發言ではない。いづれも匿名にしておかう。
歴史的假名遣(正かなづかひ)を「人工的」と稱したりする點が、小生のみならず大方の諸氏の逆鱗に觸れてゐると思ひます。
日本人の生理であり論理……歴史の自然な生成發展の結果、即ち必然……契沖や宣長といつた大天才は、日本人を代表してゐる、いや我々自身の一部、守るべき傳統……
うーんこれはまあ、なるほどさうかもしれませんねえ、契沖や宣長はよい仕事を作りましたからと苦笑できるし、歌人や詩人の方の御發言なら、私も納得。ただ、本當に我々の「生理」であり「必然」なら、さう肩いからせなくてよいのに。
それにしても、「まいまいず」などと云ふ誰も知らない言葉の表記をさも重大さうに主張し、それを出版物にまで載せて仕舞ふ(しかも意味の説明を何もせずに!)高崎さんは常軌を逸してゐます。事の輕重の區別がつかない……
紙と時間の無駄としか思はれません。高崎さんが特に御執心らしい地名にしても、聞いた事もない場所ばかりで、「京都」も「東京」もありません。……
福田恆存先生は何と仰るでせうか。
たとへば『古言梯』などにも「聞いた事もない」地名が多數輯録されてゐる。それはもちろん假名遣の問題にかかはるからである。「京都」や「東京」はどちらも規則的な字音語で、注目する意味は少ない。
どうやらこの批判者は『私の國語教室』などにある語彙だけが大切で、言葉そのものへの興味はないらしい。「事の輕重」とは、恐らく使用頻度や機能語の話になるのだらうが、「輕」だから「紙と時間の無駄」とは何ともはや。
さてどう書きますか? 「書かない」と云ふ選擇が最善です。
下手な「考へ方の整理」に基づいて…どちらか一方の表記を流通させて、そちらだけが「正しい表記」だと云ふ偏見を世間に廣めるよりは、歴史的假名遣で表記出來ない語が存在すると云ふ事實をそのまま提示する方が將來に混亂の種を殘さないと思ひます。分らない物は分らないと率直に認め、技術的問題は表音記號の活用により處理すべき
これには仰天した。觀念先行の弊ここに極れり。足を靴にあはせるやうである。
高崎さんの議論が混亂してゐるのは、實務家を標榜しながら、表音記號と云ふ方便を一切拒否していらつしやるからです。何が何でも歴史的假名遣一本槍で行くと仰る。それは假名遣に表音記號の一人二役を強いる事であり、「現代かなづかい」論者と本質的に同じ發想です。
「語の表記」「音の表記」と云ふ異なる機能を一つの器に一緒くたにしては萬事駄目なんですよ。
私は「この言葉はどう書くか」のみ問うてをり、拒否などしない。「本則」を語らず「方便」ばかり強調しても、話は始らないだらう。
私はこの問題を、「表音記號」を利用する事によつて解決出來ると考へます。表音記號と云つても歐米の發音記號のやうな物ではなく、実際は假名です。例へば次のやうな方式で大本となる「國語表記データベース」を作ります。(左より語例、假名遣、表音記號)
- 海…うみ…ウミ
- 川…かは…カワ
- 潮…しほ…シオ
- 山…やま…ヤマ
- 田舍…ゐなか…イナカ
假名遣の確定が難しいものは、「げぢげぢ」「げじげじ」等複数を擧げておきます。データベースの對象は基本的な語から始め、徐々に特殊な語に廣げる方針を取ります。新潮國語辭典の項目數が十四万語。少なくもこれらの語の假名遣については假名遣はほぼ確定濟と考へる事が出來ます。
データベースを基に樣々なアウトプットが可能です。基本的な語の範圍内であれば、假名遣による竝べ替へが可能でせう。假名遣を確定出來ない語が相當多い場合は、表音記號で排列すれば宜しい。假名遣のみならず、語の表音表記を學問的に研究する誘因になると云ふ利點もあります。音を合理的・體系的に表記する方法です。
ああそんな單純素朴な「ひらめき」ではいけません、現代かなづかいを「完全な表音化」に改訂しようといふ試みはことごとく頓挫したのです、「分析できる」から「便利に使へる」と錯覺してはいけません、何なら基本的な語彙だけでも自作してみませんか、と呼び掛けたが、「その資料は紛失した」「私の任ではない」などと逃げられた。そりゃないでせう。
愛してゐないから問題なのですよ、
高崎さんの主張に「統制狂」と云ふ言葉を思ひ浮かべるのは私だけでせうか。
イスラム原理主義よりもっと惡質。
どうやら私は「表音への怨恨」を核にした擬似宗教を相手にしてゐるらしい。理由は以下のとほり。
20.08.11記。
『かなづかい入門』に對して、反論はなかなか難しいだらうと私は感じてゐる、と書いた。殘念ながら今のところ豫想どほりである。寂しい。
冒頭で「歴史的仮名遣VS現代仮名遣」といふ副題がよくない、と書いた。私の感想はこれに盡きる。
假名遣にかぎらず、「規範」というものに學問的合理性や正確性はかならずしも必要とは考えない。すくなくとも常識で考えられる「學問」や「合理」や「正確性」は、規範であることの絶對的必要條件にはならない。(12n)に私も大贊成である。規範といふ枠組に、學術成果を漏さず盛込む事などできない。他にも參考になる記述が多かった。
ところが「歴史的仮名遣VS現代仮名遣」の部分になると、とたんに「英語と日本語どちらが優秀か」のやうな、「合理性」を求めた思ひ入れたっぷりのつまらぬ話になる。國語問題には、何かさういふ狂氣をはらむ性質があるのかもしれない。私はこりごりである。
「歴史的假名遣は無理をしている(122n)」などに對する囘答こそ、我がホームページの設置目的である。稚拙ではあるが、これからも探究を續けてゆきたい。
20.08.28記。
國語問題協議會で、國家は國語から手を引け--白石良夫『かなづかい入門』を讀んでが出てゐた。
正論のやうにも見えるが、「手を引け」とはどういふ事か、どうも文意がよくわからない。
1. のやうな状況はちょっと考へ難い。上古から「車同軌、書同文」といふやうに、王朝は文字・暦法・度量衡などの標準化を天下統一の證とした。人々の生活に大きな便をもたらすからである。ただ、近代國家ではそれが生活のすみずみまで滲透してくるから、恩惠も多いが、一旦束縛感を覺えるとつらい面はあるだらう。「政府は義務教育を通じ、契沖假名遣を國語表記の規範として國民に事實上強制した」のは事實かもしれないが、他にどういふ方法があったのか、私は想像できない。
2. の立場ならよく納得できる。しかし「定家假名遣を含む複數の表記法を併存させ」はどうだらう。そもそも木村氏は定家假名遣で文章が書けるのか。恐らく無理であらう。教本がない、辭書がない、つまり標準化がまるでなされてゐないからである。「一部アクセント表記」であった事が解明されたのは近年の話であり、明治初年には「定家卿以來の傳統」以外の合理性はなかっただらう。
たとへば「西鶴の文章に見られる假名遣」といった分析も確かにあるのだが、それは『かなづかい入門』にもある「記述假名遣」に過ぎず、「規範假名遣」としての客觀性を備へたものではない。またこれとは逆に、江戸時代は集團ごとに規範が異る場面も多かった。古本屋で宗門ごとに佛典を比べてみれば容易に理解できるだらう。かういふ多彩さが、近代國家としての日本國でも引き繼がれ、「それぞれ自律的な發展に委ね」得たかどうか、私には極めて疑問である。
2. の立場を徹底させれば、『かなづかい入門』と全く同じ結論になる。戰前における幾つかの試案、そして民間にひろく普及しつつあった表音式假名遣をよく檢討し、整理したものが現代假名遣である、昭和40年ごろまで再檢討の動きもあったが、現在は安定してゐる、つまり百年ほどの時間をかけて「假名遣は十全な進化を遂げた」のだ、と。たぶんこれに木村氏は同意しないのだらうが、では具體的にどんな姿や形を目指してゐるのか、結局よくわからなかった。
私は常々「規範は必ずしも強制力を伴はない、強制性は運用の問題である」と考へてゐる。たとへば清朝の康煕字典は、批判者を死罪に處すといふ究極の強制力を發揮したが、それゆゑに内容拙劣なのだと評價する人はゐない。定家・契冲・宣長・保科孝一など、假名遣といふ規範には個人名がつきまとふ。自然言語のやうな變化はたどらないし、またできれば無用の強制力など發揮してほしくないと私も思ふ。
ただ、國語問題にしばしば見られる「強制への怨恨」だけでは、あたかも國旗國歌への反撥と同じやうな停滯を招くだらう。だから私は「いはゆる國語問題」を嫌ふ。それにしても「いづれにせよ決めるべきなのは日々言葉を使ふ個人であつて、政府ではなかつた」といふくだりは「戰後民主主義」的な初々しさを感じた。「昔の人」はそんな事など夢にも考へなかっただらう。さういふ意味でとても面白く讀んだといへば、皮肉が過ぎようか。
20.10.13記。
平頭通さんの「平成廿年十月十五日」に遲まきながら氣づきました。お手をわづらはせ恐縮です。「反論をどうか宜しく」は意識的にぼかして書いたのですが、私へではなくて、白石氏に對してもっと上手に反論しませうやといふつもりでした。出版からもう四ヶ月以上も經ってゐますが、未だにまとまった批判が出ないのはどうも情けないですよね。
で、いろいろ御質問も頂戴したわけですが、最初の頃に書いた
「こんな考へ方もあるのか」と驚きの連續であった。の理由から御説明するのが早いかと存じます。やはり氣になるのは
「正かなを批判する反対論者は必ずと言つていい程、名詞や活用語の語幹の仮名遣を突いて来ます」のくだりなのですね。
「漢字に隱れる部分」は語の識別にほとんど寄與してゐないのは事實です。ただそれはあくまで結果の分析であって、だから「どう書くか」といふ答には全然ならない。單純に教育上の優先順位といふ事なら私も大贊成ですし、あるいは假名遣が自然發生的なものであるか、それとも戰前のやうに社會で生きて使はれてゐるやうなら、かういふ問掛けは野暮かもしれませんが、とにかく假名遣がよくわからない、どう書いてよいかよくわからない言葉が系統的に相當數あるのです。
たとへば何か言ひ直す時や、あるいは體操の號令で使ふ感動詞「モトイ」はどう書くのでせう。格助詞といふ「大切な」語が入ってゐますし、漢字に隱す?こともできない、でも「もとひ」で間違ないといふ自信がありますか?ちょっとためらひますよね。四段動詞なら連用形の名詞化はどうするのかといった「嫌な質問」を、少し訓練された國語學者ならたちどころにする筈です。「福田恆存の思想」などもよろしいのですが、やはり氷山の下も理解だけはしておくべきでせう。「字音は別」だけではすまないのです。
もちろん日常生活でこの種の言葉に立ち往生する場面は少いでせう。しかし「滅多にない」「そんな俗語は」で自分を納得させるのが「中世の感覺」だと私は考へます。近代國民國家に生きる我々は生活のあらゆるものが標準化され、たとへば定家假名遣に從って「和歌の世界」だけで生涯を終へるわけにはゆきません。たとへ國家が表面に出なくても、その趨勢はますます強くなってゐます。これを「統制」と感じる氣持もわからぬではないですが、規範と強制力とは何の關係もありません。
以上のやうな前提を共有しないと、恐らく『かなづかい入門』を理解できません。たとへば118ページ前後など「何をしち面倒な」と思っていらっしゃいませんか?このあたり白石氏の書き方はねちねちとして、私も好感を持ちません。ただ、「看板と中身が違ふぢゃないか」との指摘は正確なのですよ。
私ならかう批判する、と考へてきた事だけ手短に書いて終ります。『かなづかい入門』の最大特色は、「學術上の正確さと、表記法としての合理性は必ずしも兩立しない。」と言ひきった點にあると思ひます。だとすれば「歴史的假名遣も現代假名遣も現に存在するから同等」で、優劣をつけなくてよいぢゃないかと私は讀んだのです。ところが著者は「いや現假名の方が學術的で合理的」と力説するあたりが「いはゆる國語問題」的で、「日本語と英語どちらが優秀」みたいに陳腐であると思ひます。その外の記述はとても面白く有益なのですけれど。
なぜ陳腐な議論が繰り返されるのか、それは「歴史的假名遣はかういふシステムだ」といふ説明が決定的に不足してゐるからだと私は考へます。これからは字音假名遣を除外しよう、といった考へ方でもよいだらうと私は思ってゐます。ただし「字音とは何か」よく考へなければ、それは單なる「ひらめき」に過ぎません。「モトイ」みたいな言葉の歴史的假名遣について、國語學者はまづ注目しませんから、できる範圍で自分で考へるしかないのです。
いづれにせよ決めるべきなのは日々言葉を使ふ個人であつて、政府ではなかつた。には大いに共感しますが、同じ人が
地名も人名も、まづは東京大學文學部に尋ねる。と權威主義なのはどうにも悲しくて。
20.10.30記。
過日、知人と『かなづかい入門』に話が及んだ。
「なかなか面白いのだけれど、學術的な檢討として腰くだけの感がある。ほら、意外な基本文獻が參考文獻一覽から拔けてゐるでせう」との事で、ああなるほど專門家はまづそちらに目が向くなあと敬服した。
「信奉者」的な發想による「學術的な檢討」とは、假名遣を材料にした國語史の探究であるとか、更にその成果によって假名遣を正すといった事が多い。あるいはまた思想醇化を願ふ向きもあらうか。しかし專門家はそんな事を微塵も考へないだらう。「表記法」と「國語史の研究」では、目的が全く異る。まして思想的な應酬などかかはりたくない筈。
歴史的假名遣は「平安中期以前の用例に從ふ」客觀的歸納主義の定義であり、現代の學術研究として上代の實態を研究する指標としてもとりあへず通用する。江戸時代には假名遣研究を契機として國語の解明が進んだ記念碑的な存在でもある。ただ、それを元に優れた表記法ができるかどうか、現代の事象がうまく秩序だつかどうかはまた別だらう。
じつは歴史的假名遣は「平安中期以前の用例」の實態を必ずしも正確に反映してゐない。現代假名遣もまたさほど「表音的」ではない。それでよいのである。難詰するのは野暮である。表記法の目的は語の表記を安定させる事にある。現代の事象を合理的に説明できるかどうかで價値が決る。白石氏が「定義どほりではないぞ」と批判するのはわかるが、私は「さういふ流儀だ」と開き直ってよいと思ふ。國語の變遷を概論としてなかなかよくとらへてゐるのだから。
問題は誰も歴史的假名遣の全體像を把握してゐない事。字音ばかりでなく、和語にも假名遣不明の語は多く、誰も説明してくれない。日常生活では「漢字に隱れるから氣にしなくてよい」だらうが、それでは近代的なシステムになり得ない。「そんな俗語は書かなくてよいですよ」「地名人名などさほど大事ではない」から、「貴方の名前など特に價値もないし、假名遣不明でもよいのです」と言ったら怒られるだらう。「今後の學術的知見に期待する」のは、きっと假名遣が學術研究の顯現だと信じてゐるのだらう。とりあへずさういふ貴方はどう書くのですか・・・本來の定義からだいぶずれてゐるのだから、具體的な細則説明がほしいと思ふのですが。
21.02.24記。