平成疑問かなづかひ−假名遣標準化計劃

伊藤・丸谷方式は可能か

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 歴史的假名遣に堪能な人でも、字音はよほど鬼門のやうである。大抵「そこまではちょっと」と敬遠される。話が彈むことはまづ無い。氣持はよくわかる。たとへば「きゃう・けう・けふ」三種がどう異るのか、説明は簡單ではない。さうはいふものの、字音假名遣など全く不要であると頭から否定もしない。曖昧なままである。

 「字音だけは現代假名遣を支持する」と明言した稀有な例が
・『國語の姿勢』(伊藤正雄著、昭和45年)
である。伊藤氏は歴史的假名遣擁護の立場から、字音のみ現代假名遣支持と表明した。また丸谷才一氏はこれを全面的に踏襲し、「わたしの表記法について」をまとめた。しかしこれが廣く支持されてゐるのかどうか、どうもよくわからない。

 なぜ曖昧な態度の人が多いのか。「上代の文獻尊重」の建前と「現在の秩序の實態」との間で板挾みになり、自分の考へ方がまとまらないからではないか。つまり字音假名遣はどうにも難解なのだけれども、「何とかならないか」といふ思ひだけが先走り、自分の信念として固らないのではないか。

 通説では、歴史的假名遣とは「主として平安中期以前の文獻用例に從ふ」ことになってゐる。したがって字音假名遣だけ特別扱ひすることはない。市販の辭書を見ても和語と字音を區別しない。唯一の例外は『岩波國語辭典』だが、追隨する辭書は今のところないやうだ。

 一方で「表記法」とは語の表記を安定させる世俗の取りきめであり、それも主として現代の言葉のために存在する。定家・契沖・宣長などの先哲は尚古、つまり上代の研究によって現世が秩序だてられると考へた。この考へ方はかなりの程度まで成功し、明治以降の近代的な國語の基盤となったし、またこれに伴って國語學上の發見も多くあった。

 しかし上代と現代と、兩者の間には必ずしも整合性があるわけではない。またあったとしても、却ってそれが重荷になるかもしれない。字音假名遣について、筆者は「きゃう・けう・けふ」などの區別には明確な意義があると思ふが、未だそれは社會共有の知識ではなく、秩序づけに成功したとは言へない。

 それにもかかはらず建前上、「主として平安中期以前の文獻用例に從ふ」といふ定義は動かせず、あくまで上代を中心にした歸納法になってゐる。字音假名遣が如何にわかりにくからうとも、それは後世の我々の都合であり、平安時代には「きゃう・けう・けふ」は互に全く異った言葉だったのである。

 「表記法」の觀點からすると、「そこまではちょっと」や「後世の考察に待つ」といった意見は當座の參考にならない。「どう書く」か全く判斷できないからである。贊否はともかく、伊藤・丸谷方式の考へ方は明確である。この方式で困る場面は本當にないのか、一時の「思ひつき」でないかどうか、仔細に點檢することができる。


 「わたしの表記法について」で、字音假名遣に關聯する項目を要約すると

  1. 字音は原則として現代假名遣支持。
  2. 特定語「さう」「やう」のみ「和語も同然」と看做す。
  3. 促音化は元來の表記で
  4. 四つ假名は書き分ける。
の四條になるだらう。戰前であっても、實態はこのやうなものだった筈である。

 和語は歴史的假名遣で、字音は(現代の)發音式といふシステムは、かなり異った時代の書き方を混在させることになる。歴史的假名遣ならびに現代假名遣の書き方が安定してゐる前提條件に加へ、和語と字音語が明確に區別できるかどうかが鍵になるだらう。丸谷才一氏が自説の開陳にあたって「和語と字音語の見分け方」といふ一文を用意したのは周到な準備である。ただし未だ委細をつくしてゐないと筆者は感じる。

 主として上に掲げた四種類の問題點が考へられる。通常の國語辭典の範圍に限れば、和語と字音語の境界線は比較的明瞭であり、注意すべきものはさう多くはない。戰前の『廣辭林』は見出しを字音のみ發音式でならべ、大いに好評を博した。

 最もむづかしいのが宛字の問題である。時代によってさまざまな姿を見せるからである。上代の「甲斐」「阿波」などは歴史的假名遣に合致するが、近世のものになるほど現代假名遣に近づく。たとへば「由井正雪」はまた「由比正雪」とも書くが、字音だけ發音式にしたとしても齟齬は殘る。「えびす(夷)」は「惠比須」を經て「ゑびす」へと誤るやうになった。「ヱビスビール」はその影響を蒙ったものである。地名人名には大量の宛字が含まれてゐるが、これまで假名遣の檢討はほとんどなされてゐない。從ってどんな難問がひそんでゐるか、筆者もよくわかってゐない。

 伊藤・丸谷方式で殘りの三項目はどうだらうか。

 まづ
 2. 特定語「さう」「やう」のみ「和語も同然」と看做す。
は限られた個別の語についてであるから、これはこれでよいだらう。

 3. 促音化は元來の表記で
は、なぜこれだけを採上げたのかよくわからないし、實行可能とも思へない。たとへば「ニチホン(日本)」「コウコウ(恰好)」とはできないだらうし、「ソウキュウ(早急)」と「サッキュウ(早急)」を同一視するのも困難であらう。促音化だけ元の表記としながら、ウ音便の「コウシ(格子)」は發音どほりなのもをかしいだらう。

 4. 四つ假名は書き分ける。
日本人には恐らく字音假名遣の中で四つ假名だけがすんなり理解できるためであらう。しかし問題點が二つある。まづ「ぢゃう(定)」が「ヂョウ」になり、從來にない假名遣を創作してしまふ事。ただし丸谷氏の著作を見ると、どうやらこれは容認してゐるらしい。次に「ぢょ(女)」「じょ(汝)」などの分岐がとても多い事。「だ(蛇)」と「じゃ(蛇)」のやうなものも含めると相當に多い。四つ假名の書き分けは意外に困難なのである。

 以上、伊藤・丸谷方式の技術的な問題點について考へてきた。この方式への贊否はさて措き、自分の考へ方を客觀的にまとめた點で、非常に價値が高いものだと思ふ。いはゆる國語國字問題は「思想」として語られる事が多く、基礎的かつ具體的な作業が少ないのが殘念である。


 字音假名遣の扱ひが混迷してゐるのは、「上代の文獻尊重」の建前と「現在の秩序の實態」の板挾みであらうと先に述べた。「難解だから何とかしよう」といふ動機で、しかも「思想的」もしくは「學術的」な解決をはかっても、うまく行かないやうである。

 たとへば「漢字に隱れるから考慮不要」「何も無理に統一しなくても」といっても、それでは「表記法」としては不完全であらう。日常生活で漢字かな混り文が多いのは事實であるが、すべてではない。「もっと大切なものがあるだらう」といった價値觀は教育上で有效かもしれないが、表記法にはなじまない。「大切ではない」言葉など存在しない。「寛容さに缺ける」かどうかは運用の問題である。たとへば清朝では康煕字典に異をとなへる者は死罪になったといふが、これと康煕字典そのものの價値とは關係ない。自らの考へ方が眞に確立した者は、およそ他者に寛容なものである。

 「字音假名遣は未解明の部分が多いから後世の整備に待つ」といふ意見は愼重な態度かもしれないが、當座の役にはたたない。近年、漢字音の「解明」は長足の進歩を遂げたが、「整備」の動きは至って鈍い。なぜなら「整備」はすでに學術上の要請ではないし、また表記法は表記の安定のためにあるのだから、最新の知見を逐一反映させる必要性はさう高くないためである。

 丸谷氏の論は冷靜な方だと思ふが、それでも結論を急いだものか、だいぶ勇み足をしてゐる。

古人は懸命に努力して隋唐の音を寫さうとしてゐるが、これはちようど、「ラジオ」ではなく「ラヂオ」と書けと言ふやうなもので(事實、昔はさう書いた)、無理な話だから、整理統合するほうがいいし、また、それで日本語の體系をゆがめることはない。シヨウ、シヤウ、セフ、セウなどといふ區別は、漢字が移入された當座はともかく、その後の日本人には因襲の墨守にすぎないのである。(『言葉と文字と精神と』)

これは明らかに「表記の搖れ」と「假名遣」の混同である。「ラジオ」と「ラヂオ」は同じ言葉の「搖れ」だが、平安時代には「ショウ」と「シャウ」などは全く別の言葉だった。ひょっとすると今から一千年後には「ラジオ」と「テレビ」が同じ發音になってしまふかもしれない。しかし現代の我々は、「ラジオ」と「テレビ」を「整理統合する方がよい」などとは決して考へないだらう。

 確かに「シャウ・ショウ・セウ・セフ」などは隋唐の音の寫しである。しかしこれらの外來語は平安末期までに日本語として定着し、日本獨自の音韻變化によって合流した。その出自を理解するために些か外國語の知識が必要であるものの、現象そのものは和語と何らの差はない。「くゎ」など字音獨自の音形もあるが、たとへば千葉縣の「カンノウ(桑納)」といふ地名が示すやうに、「くゎ」を「カ」と發音するやうになったのは「日本語の體系」の範圍内である。

 私自身は現行の「歴史的假名遣」の全貌を知りたいと思ってゐるから、伊藤・丸谷方式に與するわけではない。しかし「自分はどのやうに考へてゐるか」「實態はどうであるか」具體的な意見表明はとても好感が持てる。表記法は思想や學術を反映するかもしれないが、思想や學術そのものではない。「この言葉はどう書くか」に盡きるのである。


 丸谷才一氏の所論は
・「日本語の世界」第16卷『國語改革を批判する』(中央公論社、昭和58年)
に詳しい。同書は
・『國語改革を批判する』(中公文庫1048、平成11年)
で再刊された。以下、「わたしの表記法について」のみ引用する。

わたしの表記法について

a 1. 漢字は常用漢字とか音訓表とかにこだはらないで使ふ
2. 字体は原則として新字。ただし新字のうちひどく気に入らないもののときは正字。例。昼→晝。尽→盡。蔵→藏。芸→藝。証→證。
b 1. 仮名づかひは歴史的仮名づかひ。例。会ふ。をかしい。あぢさゐ。
2. 從つて促音・拗音は小さくしない。例。あつさり。キヤツキヤツ。
3. ただし片仮名の外来語の場合は促音・拗音を小さくする。例。ヨーロッパ。カチューシャ。
4. 歴史的仮名つかひのうち、特に誤りやすいもの。「あるいは」(アルヒハとしない)。
c 1. ただし字音の仮名づかひは、原則として現代仮名づかひに從ふ。例。怪鳥(カイチヨウ←クワイテウ)。草稿(ソウコウ←サウカウ)。
2. しかし「嬉しさう」などの「さう」(相)、「花のやう」などの「やう」(様)は、字音ではあるが、もはや大和ことばも同然と考へて、「さう」「やう」と書く。(「相似」はソウジ、「模様」はモヨウ。)
3. 熟語のせいでの促音は漢字の原音を尊ぶ。例。学校(ガクコウ←ガツコウ)。牧歌(ボクカ←ボツカ)。
4. チヂ、ツヅの清濁両音のある漢字の場合、ヂヅを認める。例。地獄(ヂゴク←ジゴク)。連中(レンヂユウ←レンジユウ)。僧都(ソウヅ←ソウズ)。
5. 字音の仮名づかひのうち、特に誤りやすいもの。「――のせい」(セヰとしない。「所為」の字音ソイの転だから)。
d 1. 送り仮名は送りすぎないやうにする。例。当る←当たる。受付←受け付け。