平成疑問かなづかひ−假名遣標準化計劃

伊藤・丸谷方式は可能か(續)

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 戰前の『廣辭林』は、見出し表示を和語のみ歴史的假名遣にし、字音は「發音式」を採用して江湖に歡迎された。『大言海』など完全に歴史的假名遣に忠實なものは、特に漢語で目的の語を探しづらかったのである。また丸谷才一氏は「字音に限り現代假名遣を支持する」と表明し、その後も類似の意見はさまざま提出されてゐる。しかし丸谷氏を除いて、多くは觀念的な作業に止り、本當にそれは實行可能なのか、何か扱ひに困る言葉はないのかといった考察は至って乏しい。

 「和語」や「字音」の概念は比較的明瞭であり、兩者の區別は多く直觀的に行へるだらう。しかし中には見分けのつけにくい融合した語もあり、境界線は必ずしも明確ではない。管見でそんな言葉を集めてみた。このうち「上代以來の宛字」は地名人名に多く、此處に示しきれない。つまり『廣辭林』がとりあへず成功したのは、固有名詞など百科事典的項目がまださほど多くなかったからであると、私は考へる。

種類これがかうなる
規則的字音ではないぢかに、はうじ茶じかに、ほうじ茶
語源不明硫黄いわうたう蜀黍、のんかう(樂茶碗)
じつは和語 小督 こがう 、兄 ぢゃ 、松 たふ 谷、早 をと 女、夜 、ハシビロコフ 
じつは漢語ゑがく、蕗のたう、漆くい、眞っかう(抹額)えがく、蕗のとう、漆くい、眞っこう
上代以來の宛字生甲、安多武たふの峰、遠敷をにふ(小丹生)、さは良親王、藤原宇かひ生甲、安多武とうの峰、遠敷おにゅうさわ良親王、藤原宇かい
音訓混用の語なふてふのうちょう
音便變化かう子、御らうず、眞ったう(全う)なこう子、御ろうず、眞っとう
新しい使ひ分け築地ついぢ築地つきぢ一羽いちは一把いちは築地ついぢ築地つきじ一羽いちは一把いちわ

 字音假名遣について、以下の文獻二篇が參考になる。最初のものは江戸時代以來、最も標準的な解釋であらう。あくまで「假名遣」の定義に從ひ、平安中期の字音表記體系の學術的な再現を視野に入れたものであり、必ずしも「現代の表記法」について考慮したものではない可能性がある。

『平安鎌倉時代に於る日本漢字音に就ての研究』沼本克明著、昭和57年、武藏野書院、

(原文正漢字・現代假名遣)

一、歴史的假名遣と字音假名遣

(1131ページ)今日一般的に「歴史的假名遣」とは和語に關してのものであり、これに對するものとして、「字音假名遣」といふ術語が用ゐられる。「假名遣」といった場合、

  1. 表記の規範として假名を使用して語を如何に表記すべきか、
  2. 言語表記の事實の歴史として、現在に至るまで、假名が語を表記するのにいかに使用されて來たか、
の二つの意味があるが、「歴史的假名遣」は、(1)を定めるために(2)を根據とした所に成立したものといふことが出來る。定家假名遣・行阿假名遣・契沖假名遣等、歴史上「假名遣」と呼ばれるものは、(1)を定める根據として(2)を求めたものであり、いづれも「歴史的假名遣」の一種といふことができる。定家假名遣・行阿假名遣と契沖假名遣との違ひは、前二者が(2)についての規範を平安中期以後の時代に置いたのに對し、後者が、音韻變化があまり起ってゐなかった平安中期當時に置いた、といふ點に存しよう。契沖假名遣は、今日言ふ所の「歴史的假名遣」の基礎となったのであるが、そこでは平安中期以前に區別されてゐたア行の衣(e)とヤ行の江(je)の區別がされてをらず、上代特殊假名遣も區別されてゐない。したがって、「歴史的假名遣」は『和語について、平安中期の假名の使はれ方を規範として歸納的に定められたもの』と定義することが出來よう。

「字音假名遣」もまた、基本的には、歸納的な方法によって、つまり、(2)を根據として(1)を定めようとされたものである。したがってそれは、「字音についての歴史的假名遣」と言ひ換へることのできるものなのである。ただ、和語の場合と大きく相違するのは、その「假名遣」意識の發生が非常に遲いこと ― 字音假名遣の考察は江戸時代の釋文雄に始まり、宣長によって定まり、寛蔭によって大成されたが、その後若干の補正を加へて今日に引き繼がれてゐる ― と、江戸時代の前記諸學者が假名遣を定める際、實證のための古代文獻の缺如により、その原據を「韻鏡」に求め、歸納的方向を目ざし乍らも結果として演繹的にならざるを得なかった、この二つの點である。


 次は「字音假名遣は假名遣にあらず」といふ文獻である。字音は「ことば」ではないといふ分析が面白い。ただそれはあくまで明治大正までの話で、音訓が急速に融合し、字音がしばしばむき出しになる今の環境で、「假名で書くべきでない」とは時代錯誤の氣がする。執筆者は字音語の假名書きを「臨時の、病理的な局面」であると評してゐるが、たとへば動植物の片假名書きについて「病理的」とは思ってゐないだらう。これから歴史的假名遣を使ってゆかうとする際に、「どう書けばよいのか」參考にはならないのではないか。

『日本語の歴史7(世界のなかの日本語)』全8卷、昭和38年〜41年初版、51年二版、平成19年平凡社ライブラリー收録

(原文略字・現代假名遣、この部分の執筆擔當は不明だが、シリーズ全體に龜井孝氏の考へ方が反映されてゐるといふ)

<字音假名づかい>とはなにか

(230ページ)契沖が國學者であったから漢語にしめだしをくはせたためではなく、もし、漢字に<音・訓>といふ區別があるかぎり、その<音>については、これの<音標>に對して、なんらか矛盾のない一貫した假名による表記はあるべきであっても、<訓>が、もともと<ことば>であるのとは、性質がやはりちがふ。假名づかひは、<ことば>すなはち語のレベルでの問題である。

字音假名づかいは假名づかいではない

宣長は、いはば漢字の<名>としての、この<オン>に對する假名表記たる字音假名づかひのその方式の根據を歴史主義の立場にもとめたのであった。したがって、その意圖は、固有日本語の假名づかひの場合におけると同じく、漢字の假名表記に對しても、これを古代の慣用に復原しようとしたのであった。しかし、どのみち、字音假名づかひは、じつは、<漢語>を假名で書くための假名づかひではなく、<漢字>を假名に書きかへるための飜寫(トランスリテレイション)の方式であるとみなしうるかぎり、それは、嚴密には、假名づかひとはいひがたいものである。漢語は、本來、漢字で書くからこそ漢語なのであり、したがって、當然、漢字で書かるべきものであって、假名で書くべきではない。實際生活のうへで、字音假名づかひの知識は、用のないものである。