平成疑問かなづかひ−假名遣標準化計劃

字音假名遣のおすすめ

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 『平成疑問かなづかひ(平成十七年版)』の附録部分。


  1. 前書
  2. 字音假名遣の讀みかた
        (一) 獨特の假名遣があること
        (二) 漢字一字が基本であること
        (三) 二通りの讀み方は無いこと
  3. 字音假名遣の分けかた
  4. 字音假名遣の探りかた
        (一)同じ形聲文字は同音または類音
        (二)漢音と呉音の間には規則的な對應關係あり
        (三)同じ漢字は同じ音(異體字)
        (四)近い漢字は近い音(同源字)
        (五)韻を踏んだ熟語あり(聯綿字、雙聲疉韻)
        (六)擬音語(オノマトペ)
        (七)古い固有名詞などに、假名遣の來歴を殘すものあり
        (八)近代の外國地名などに、假名遣のヒントあり
  5. 形聲文字と字音假名遣
  6. 形聲文字の法則、漢音呉音の法則
        【一】四つ假名(じぢずづ)
        【二】開合(ゐゑを)
        【三】長音(おう、よう、ゆう)
  7. 聯綿語、疉韻字
  8. オノマトペ
  9. 字音假名遣の決めかた
  10. 五重塔と二階建
        (一) 聲調は無視すること
        (二) 急いで拗音といふ「中二階」を拵へること
        (三) 五十音圖を二枚重ねること
  11. R と L
  12. 韻目一覽表を讀み解かう
  13. 吉川幸次郎氏の無關心
  14. 基本的な母音は二つしかない
  15. 「しう」と「しゅう」
  16. 『廣韻』と『韻鏡』を買はう
  17. 『廣韻』と『韻鏡』を引かう
  18. 『廣韻』と『韻鏡』を讀み解かう
        【一】四つ假名(じぢずづ)
        【二】開合(ゐゑを)
        【三】長音(おう、よう、ゆう)
        【四】撥音の「-む」と「-ん」
  19. 北京語でわかる字音假名遣
        【一】四つ假名(じぢずづ)
        【二】開合(ゐゑを)
        【三】長音(おう、よう、ゆう)
        【四】撥音(-む、-ん)
  20. 字音假名遣の參考文獻

一、前書


 歴史的假名遣によほど堪能な方でも、字音假名遣が自由自在といふ人にはまづ珍しいでせう。「高等女學校(かうとうぢょがくかう)」に正しい振り假名をつけよと言はれたら、誰でも嫌になりますね。でも例へば知合ひに「相良(さがら)」さんや「芳賀(はが)」さんがいらっしゃったとして、なるほど「(さう)」「(はう)」なのだな、字音假名遣は今でも生きてゐるのだなと氣づけば、面白くなってきませんか。

 我々の祖先は一千五百年に亙って漢字を熱心に研究してきました。その興味は現在なほ盛んです。ここは跳ねるのが正しいとか、いや字源に照すと跳ねなくてよいとか、時には病的なまでに旺盛な探求心を感じます。それにひきかへ字音假名遣は別段どうでもよいやうな雰圍氣が、時には專門家の先生まで含めて色濃いのです。もったいない話です。字音假名遣を少し意識するだけで、むづかしいと敬遠してきた漢字が、また漢詩漢文が、じつはリズムに滿ち滿ちてゐると感じ始めるでせう。どうです、やってみませんか、ものの見かたが少々變りますよ、といふお勸めが本稿の趣旨です。

 それにしても、「高等女學校(かうとうぢょがくかう)」のやうに、この字は「かう」、これは「こふ」などと憶えなければいけないのでせうか。それはまあ主な字だけでも記憶できれば好都合です。しかしその背後の原理を理解しませんと、肝腎のリズムが全く見えてまゐりません。漢字はもともと日本語のために設計されたものではありません。五十音圖に納まりきらない、漢字音獨特の雰圍氣を掴んでほしいのです。たとへば新しい語學に挑戰するとき、一週間やったがわからぬ、授業料を返せとは言はない筈。あまりせっかちに憶えようとせず、のんびりと構へてゆきませう。

習ふより慣れよ

 何も假名遣に限らぬことですが、先づは「習ふより慣れ」ることです。字音假名遣に慣れるためには、總ルビつまり全部の漢字にびっしりと振り假名をつけたものが不可缺です。戰前にはそんな本がいくらでもありましたから、古本屋を丹念に探せば入手は今でもさう難しいものではありません。文學作品でなくても、雜誌や實用書で十分です。氣をつけたいのは戰後の覆刻もの。何のつもりか、振り假名だけ現代かなづかいにしたものが少なくありません。これでは全く役に立ちませんのでよく注意してください。

 「おもふ(思)」とか「あふひ(葵)」などは和語、「かう・くゎう・こふ」などは漢字音といふ區別、これは誰でも自明のやうですが、じつは漢字音とは何か、きちんと説明するのは意外に難しいものです。先ほどの「相良さん」もさうですが、他にもたとへば「ゑのぐ(繪の具)」や「をちこち(遠近)」は字音かどうか、「ギョウザ(餃子)」や「シウマイ(燒賣)」はどうなのか、ちょっと答に詰りませんか。かういふ日常慣れきった言葉の中に、字音假名遣はひそんでゐます。どこに隱れてゐるか、規則的な漢字音つまり漢和字典にある漢音・呉音・唐音とどのやうな關係にあるのか、常に氣にする癖をつけてゆきませう。

知識の整理をするために

 字音假名遣に讀み慣れてくると、「かう・くゎう・こふ」などの區別にどういふ規則があるのか、ずいぶん複雜さうだが憶えきれるのか、そもそも區別することに意義があるのかどうか、心配になってきませんか。結論から申上げませう。とてもはっきりした規則がありますし、今日これを區別する意義も十分にあります。規則や意義を理解するためにも、最初から丸暗記しようとはしないでください。

 では始めます。


二、字音假名遣の讀みかた

 字音假名遣の讀みかたと言っても、和語と同じであって何ら特別のことはありません。ただ、いろいろ特色はあります。ここでは三つにまとめてみませう。

(一) 獨特の假名遣があること

 「くゎ」「をう」など、國語假名遣ではまづ見ることのない綴りが出てきます。「きゅう」「しょう」などは、現代假名遣で採用されたため今では違和感が少ないのかもしれませんが、これも和語の假名遣には滅多に存在しません。

  1. 「あい」「おう」などの二重母音
  2. 「きゃ」「くゎ」などの拗音
  3. 「あん」などの撥音
  4. 「にっ(ぽん)」などの促音

 これらはすべて漢字傳來以前の和語には無かった音なのです。

 初心者は特に「くゎ」「えう」「えふ」の三つはつまづきやすい樣です。「くゎ」は九州地方で「カイクヮイ(開會)」の發音が殘ってゐますし、「てふてふ(蝶々)」の語は有名ですから、どれもさう難しくない筈です。いづれもよく目にして慣れるのが一番です。

 それから「くゐ」「くゑ」「あむ」などの假名遣も、最近では正しい字音假名遣として廣く認められてきました。古典の原文や、江戸時代の經文などにはしばしば現はれますが、戰前の一般的な文章にはほとんど出てきませんので、注意してください。

 逆に和語しか現れないものもいろいろあります。注意したいのが「はう」。和語ですと、「〜思はう」など「はう」を「オウ」と讀む確率が高いのですが、「周防(すはぅ)」が「スオウ」などごく少數の例外を除いて、字音の「はう」は必ず「ホウ」と讀みます。「たふす(倒)」などで「ふ」を「オ」と讀むのも、和語特有の例外的なものと考へてよろしいでせう。

(二) 漢字一字が基本であること

 たとへば「切齒やくわん(扼腕)」を「ヤカン」と讀むことは絶對にありません。字音假名遣は漢字一字ごとに分れますので、必ず「やく」と「わん」なのです。大夫(たいふ)を「タユウ」、多武峰(たふのみね)が「トウノミネ」となるなどの例外はありますが、どれも和語に融合したもので、數も至って少ないのです。

 振り假名の字くばりによっては、慣れないと讀み間違へることがありますから、十分注意してください。たとへば「司會(しくゎい)」を二字づつ「しく+わい」と受取り、「シクワイ」と讀んではいけません。

(三) 二通りの讀み方は無いこと

 和語ですとたとへば「むかふ」を状況や意味によって「ムカウ」「ムコウ」二樣に讀みわける場合がありますが、字音にこのやうな事はありません。「(くゎ)」は必ず「カ」であって、時には「クヮ」と讀むわけではないのです。逆に「クヮ」の發音を殘してゐる地方の人にとっては必ず「クヮ」であり、「カ」と讀めばそれは「()」など別の言葉なのです。そもそもその地方の人にとって「か・くゎ」は未だ「假名遣」として區別すべきものではないのですから。

 「敵機」を「テキキ・テッキ」、「早急」が「ソウキュウ・サッキュウ」、「三位」が「サンミ・サンイ」などは讀み方が一つに定りませんが、これは「促音化」や「連聲」といふ現象によるものです。これらをどう假名遣で表現するかの問題は、★★ページ「促音と連聲の書き方について」を參照してください。


三、字音假名遣の分けかた

 假名遣の要諦は、發音が同じになったものを區別することにあります。

 『正假名遣』(冒頭★★ページ參照)では、區別すべき假名を九種類掲げました。字音假名遣に限って申上げますと、これらの項目は更に四種類に整理できます。

種 類 『正假名遣』の説明 (一部改變) 讀 み 方
【一】(一) 「ぢ・づ」と「じ・ず」 ジ・ズ
【二】(二) 「ゐ・ゑ・を」 と 「い・え・お」 イ・エ・オ
(三) 「くゎ・くゐ・くゑ」と「か・き・け」カ・キ・ケ
「ぐゎ・ぐゐ・ぐゑ」と「が・ぎ・げ」ガ・ギ・ゲ
【三】(六) 長音の「あう」と「おう」と「あふ」と「おふ」オー
(七) 長音の「いう」と「いふ」と「ゆう・いゅう」ユー
(八) 長音の「えう」と「えふ」と「よう・いょう」 ヨー
【四】(九) 撥音の「-む」と「-ぬ」と「-ん」-ン

 字音假名遣は、必ずこの四種類のどこかに分類されます。中には二つ三つと重なりあふ場合もあります。だから字音假名遣は難しく感じますが、ほどいて考へれば、必ず四種類に納ります。

 では從來からある「字音假名遣一覽表」を見てみませう。たとへば「ジョウ」。何だかややこしさうですね。「じゃう」から「でふ」まで、いきなり五十音順にならべるからわからないのです。絡みあってゐる三つの要素をほぐしてゆきませう。



じゃう情靜上尚常成讓
じょう茸蒸丞乘繩仍冗
ぜう橈蕘饒遶繞擾
ぢゃう長場娘孃貞廷亭
ぢょう
でう條嫋
でふ滌帖疉躡鑷聶
【一】の(一)ザ行・ダ行
    ×
【三】の(六)ゃう・ょう
    ×
【三】の(八)えう・えふ・ょう
    =
じゃう、じょう、ぜう、ぢゃう
ぢょう、でう、でふ、

 同じやうに「オウ」はどうでせう。こちらは分類上、二つの要素となりますが、やはり本質は三つの要素から成ります。


あう奧鏖媼・櫻央鶯
あふ押鴨壓
おう歐謳・應鷹
わう皇凰黄王泓旺
をう翁甕
【二】の(二) ア行・ワ行
    ×
【三】の(六) あう・おう・あふ・おふ
    =
あう、あふ、おう、わう、をう

 和語の假名遣は何事も五十音圖に照せば理解できますが、字音の場合はかへってわからなくなります。かならず【一】から【四】の四種類に分析して考へる癖をつけませう。


四、字音假名遣の探りかた

 國語假名遣を考へる時、何といっても五十音圖が基本になります。これと全く同じ意味で、字音假名遣は漢字音のための枠組みを知らねばなりません。前項で示した【一】から【四】の分類がどういふ意味を持つか、考へてゆきませう。

 さらに「相良さん」や「繪の具」などの實例が、枠組の中でどの位置にあるのかを知れば、漢字音の構造が自然に會得できます。前者を系統的な座學とすれば、後者は實例の探索と言へませうか。實例にはいろいろあります。私は八種類に分けました。

 區別は四種、證據は八種あります。

系統的座學『廣韻』『韻鏡』の解讀
實例の探索(一)同じ形聲文字は同音または類音
(二)漢音と呉音の間には規則的な對應關係あり
(三)同じ漢字は同じ音(異體字)
(四)近い漢字は近い音(同源字)
(五)韻を踏んだ熟語あり(聯綿字、雙聲疉韻)
(六)擬音語(オノマトペ)
(七)古い固有名詞などに、假名遣の來歴を殘すものあり
(八)近代の外國地名などに、假名遣のヒントあり

 漢字音の枠組は五十音圖のやうに古來決った表があるわけではなく、『廣韻』『韻鏡』などを分析して得られるものです。これについては、★★ページ『廣韻』と『韻鏡』を買はう 以下を參照してください。

 實例の探索について、もう少し説明してゆきませう。

(一) 同じ形聲文字は同音または類音

 字音假名遣を考へる上で最も基本的なものです。どれも同音か、かなり近い音ですね。

 時にはうまくゆかないものもあります。たとへば次のやうなものです。

工攻貢空鴻こぅ
江腔項かぅ

 また、文字の構成には氣をつけませう。

 など間違ひやすいものがあります。

(二) 漢音と呉音の間には規則的な對應關係あり

 たとへば

となるなどのパターンがいくつかあります。必ずしも漢音呉音の兩方を思ひつかないかもしれませんが、さきほどの例なら
漢字漢音呉音
工攻貢空鴻こぅく(くぅ)
江腔項かぅこぅ
と、綺麗な對應關係があります。

(三) 同じ漢字は同じ音(異體字)

 この項目は便覽本文の〔同源〕のついた語などを參照してください。

(四) 近い漢字は近い音(同源字)

 この項目は便覽本文の〔同源〕のついた語などを參照してください。

 同じ「あきらか」といふ意味の漢字には「章・晶・昌・杲・晧・皓・皋」などさまざまありますが、

といふ共通點があります。これだけの事からただちに「章・晶・昌」は元々同じ漢字だったと言へるわけではないのですが、何らかの共通性があった可能性はあるでせう。

(五) 韻を踏んだ熟語あり(聯綿字、雙聲疉韻)

 從容(しょぅよぅ)逍遥(せうえう)といった熟語は、一字目と二字目が類似した音になってゐます。從容(しょぅよぅ)はまた慫慂(しょぅよぅ)とも書くので、(じゅぅ)(よぅ)(よぅ)などの字音假名遣が、間接的に覺えられます。

(六) 擬音語(オノマトペ)

 郭公(くゎっこぅ)といふ鳥の名の由來は、「クヮッコウ」または「クヮッコン」といふ擬音語にあるさうです。さうであれば「公」の假名遣は「こぅ」で間違ひないでせう。漢字音にも擬音語に由來するものは豐富なのです。

(七) 古い固有名詞などに、假名遣の來歴を殘すものあり

 この項目は便覽本文の〔地名〕〔姓名〕などを參照してください。

 相良(さがら)さんや芳賀(はが)さん、また武藏(むさし)相模(さがみ)など、上代から續く人名地名は間接的に字音假名遣をよく保存してゐます。いはゆる「難讀地名」の多くがすんなりと解釋できます。

(八) 近代の外國地名などに、假名遣のヒントあり

 この項目は便覽本文の〔外來〕などを參照してください。

 上海(シャンハイ)東京(トンキン)紐育(ニューヨーク)など、近代以降の外國地名や人名には字音假名遣と關連するものが少なくありません。いはゆる「現地讀み」や、外國地名に宛てられた漢字には、日本語で失はれた區別を保存してゐる場合が少なくないからです。

 以上、八種類に分類いたしましたが、この便覽ではなるべく多くの實例を盛込みました。附録で『廣韻』『韻鏡』の解讀方法を參照しながら、それぞれの實例がどの位置にあるのかを確かめてゆくと宜しいでせう。


五、形聲文字と字音假名遣

 たとへば「清(せぃ・しゃぅ)」は「水」と「青」を組合せた字です。「水」は意味を、「青(せぃ・しゃぅ)」は發音を表し、このやうな方式を「形聲文字」と呼びます。漢字を組合せて新しい字を作る方式には、他に「指事文字」や「會意文字」があり、それぞれ「刃」や「相」などがこれに相當します。形聲文字の特色は何といっても發音も繼承する事にあり、數からいへば他のものより壓倒的に多いでせう。未知の漢字でも、ある程度まで讀み方が推測できるのですから、便利といへば便利です。

 「青」から成る漢字は「青鯖錆情晴清精請靖倩睛菁蜻静靜瀞猜」があり、そのほとんどが 漢音せぃ 呉音しゃぅ で揃ひます。つまり 青(せぃ・しゃぅ)だけ憶えておけば、他にも類推が利くわけです。ただし「(さい)」だけは會意文字であって、「青」は讀み方と何の關係もありません。それでもつい「せぃ」ではなからうかと思ひがちですので、例へば「(さい)疑心」などの讀み方が國語の試驗問題でよく問はれます。

 また「工」から出た漢字は、「工仝功攻江紅項鴻虹扛杠汞矼缸肛訌噐昂貢槓熕空控腔倥啌椌箜恐蛩跫鞏」など實に多くあります。そして

漢字漢音呉音
工虹功攻紅汞訌鴻貢箜こぅ
空控倥こぅくぅ
江項扛杠矼缸肛槓腔跫かぅこぅ
などと、大きく三つ、または二つの系統に分れます。

 「江」は「漢音かぅ、呉音こぅ」ですので、同じ發音に異った假名遣が呈示されて困りますね。この場合、通常は漢音が優先されますので「かぅ」で宜しいのです。しかし佛教關係の語は呉音が優先されます。「法律」は「はふりつ」だが「佛法」は「ぶっぽふ」であるとしばしば強調されます。本當は「江」や「項」なども文脈により、佛教關係かさうでないかで使ひ分けるべきなのです。ただ、佛教の語彙といってもたとへば禪宗では唐音が多く、必ずしも一定ではありません。

 このやうに字音假名遣が分れてしまふのは、漢字が傳來した波が何度もあったからであって、どうにも致し方ありません。他にも「溝(こう・く)」と「講(かぅ・こぅ)」、「女(ぢょ)」と「汝(じょ)」などいろいろあります。「蛇」は「だ」「じゃ」二つの音を持ってゐますが、これなどもよく考へれば ダ行 と ザ行にまたがりながら、字音假名遣としては問題にならないだけです。

 ではなぜ同じ形聲文字でありながら讀み方が異ってしまったのか。これまた「時代が異るから」といふのが理由です。ではもっと昔には「(こぅ)」と「(かぅ)」が必ず同じ發音だったかどうか、それはそれでまた大きな問題ですが、同じ(だったらう)といふことになってゐます。つまり「(こぅ)」と「(かぅ)」に分れた音は、現代日本で再び「コウ」に合流したのだとも言へます。少なくとも漢音と呉音が「こぅ・く」「かぅ・こぅ」と、綺麗な對應關係にあるのですから、でらために變化したものではありません。これらの對應關係は次項「形聲文字の法則」を御參照ください。

 漢字音の歴史をごく大雜把に分けますと、詩經時代の「上古音」・隋唐時代の「中古音」・そして「現代音」の三つになります。隋末に編纂された漢字の發音字典『切韻』が、ほぼ當時の姿のままに殘ってゐますので、「中古音」はかなり精密に復元されてゐます。日本へ漢字が初めて傳はったのはちゃうど中古音の頃ですね。特に漢音は人工的に移植されたらしく、『切韻』から少し後の時代の漢字音をよく反映してゐます。まああまり細かい事は考へず、字音假名遣の世界はすなはち中古音の世界、それは『切韻』にかなり近い、と憶えておきませう。

時代名稱 基本文獻 時代の特色
殷周上古音『詩經』形聲文字發達
隋唐中古音『切韻』漢字發音字典の確立と日本への傳來
現代現代音  

 形聲文字はすでに甲骨文字にあり、上古音の時代に發達しました。中古音との間には、一千年から二千年ほどの時代差があります。また日本に漢字が傳はってから一千年あまり經ちました。ですから上古音と中古音にはかなりの差があり、したがって同じ音符の形聲文字でもさまざまな讀み方があって、何ら不思議はありません。「女(ぢょ)」と「汝(じょ)」に分れたものは、とりあへずそんなものだと憶えておくしかないでせう。本便覽では字音枠の中で詳細に解説しましたし、字音の一覽表では特に強調しておきましたので、十分留意してください。

 このやうに、字音假名遣と形聲文字の關係に一定の限界があるのは事實ですが、漢字を理解する上で役立つ場面も多いのです。

 音符を同じうする漢字を一覽できれば便利ですね。漢和字典によっては解説を加へたものもありますが、必ずしも徹底してゐません。次に示すものは使ひやすいかと思ひます。


六、形聲文字の法則、漢音呉音の法則

 國語假名遣に比べて數は少ないが、字音假名遣にも修得のための教科書が存在ましした。その中では次の二著が白眉といへます。

 内容が優れてゐる理由は二つあります。形聲文字や漢音呉音と字音假名遣の關係をよく整理してあること、また地名人名や近世の外來音などへの言及がある點です。特に前者はよくまとまってをり、改めて付け加へるべき事はあまりありません。明らかな誤りのみ正し、兩書の要約をここに示しませう。後者については本便覽の本文を參照してください。

【一】四つ假名(じぢずづ)

(たい)、治()(ちう)()()給仕(きふじ)
(でい)(ぢつ)仲尼(ちゅぅぢ) ・圖() ()()
(どぅ)(ちょぅ)(ぢゅぅ) ・途() ()門司(もじ)
・豆(とう)、饅頭(まんぢう)()杜撰(づさん)()()
(ちん)沈香(ぢんかぅ)(とう)()(せぃ)(じゃぅ)
(ちん)(ぢん) ・食(しょくじき)
・直(ちょくぢき)  (じゅ)壽司(すし)
(ちく)(ぢく) (せん)(じゅん)
(てき)(ぢく) (そん)(じゅん)
  (せき)(じゃく)
  (しゅく)(じゃく)
  (せい)(じゃう)

 四つ假名には、連濁現象によって生じたものもあり、元の漢字音を思ひ出せば容易に推定できます。

大臣(だいじん)寢所(しんじょ)心中(しんぢゅぅ)杏子(あんず)
人參(にんじん)冠者(くゎんじゃ)執着(しふぢゃく)融通(ゆぅづぅ)
郡司(ぐんじ)新宿(しんじゅく) 坊主(ばぅず)琴柱(ことぢ)
   人數(にんずう)

 四つ假名には、同じ形聲文字音符でありながら假名遣が分れるものが多くあります。

(たん)(ずい)()(ずい)(じゃぅ)(ぢゃぅ)(じゃく)(とく)
()(じゃ)()(すい)(じょ)(ぢょ)(じゃく)(でき)
(とん)(じゅん)(じょ)(ぢょ)(しゅ)(ちゅう) 
(とん)(じゅん)(じょ)(ぢょ)(しゃぅ)(ぢゃぅ) 

【二】開合(ゐゑを)

 同系の字で「わ」のあるものは「ゐ」「ゑ」「を」となります。

()()・穢(わい) 例外
()(くゎ)(わく)(ゐき)(くゎく) (くゎい)(かい)
()(くゎつ)(わん)(くゎん)(わい)(いう)
(わい)()()(わん)(ゑん)(をん)(あう)(ゑい)
(わい)() (あい)()()()は慣用音

 「わ」「ゐ」「ゑ」「を」の間で變化するものがあります。

(ぐゎ)(くゎく)・外(ぐゎいぐゑ) (ぐゎん)(ぐゑん)(ゐん)(ゑん)
・化(くゎくゑ) (くゎい)(くゑ)(くゎん)(ゑん)(ゑん)(ゑん)(くゎん)
・華(くゎくゑ) ・囘(くゎい) (くゎん)(ゑん)(ゐん)(くゎん)
(くゎい)()・會(くゎい) (わぅ)(くゎぅ)(をん)園猿轅(ゑん)←遠は「を」の原字
・快(くゎいくゑ) ・壞(くゎい) (わぅ)(くゎぅ)(くゎく)  

 これに對して あ行・や行の間で變化するものもあります。

(あぅ)(えぃ)(あつ)、乙(いつおつ)・遊(いう)(「ゆう」と誤りやすい) (えう)(よく)()
(おん)(えつ)(あむ)(えむ)(いち)(えつ)(えい) (かい、げ)
(あふ)(えむ)(あむ)、音(いむおむ)(いん)(えん)・碍(かい)
(えん)(よく)()(えき)・陰(いむおむ) ()腋液(えき)
(あい)、衣()()(えい)・飮(いむおむ) (やく)(えき)
(あい)(えつ)()(おく)・隱(いんおん)、(おん)(やく)(えき)
(あい)()埃及(エジプト) ・遺(ゆい) ・有(いう)、(いく)・熊(ゆう)
(あい)()、益(えきやく) (いう)()・右(いう) (ゆう)(よく)
(あく)(おく)(いう)、「悠基田(ゆきでん)(えい)(い/え) 

【三】長音(おう、よう、ゆう)

 この項目は複雜で、相互の變化も多彩です。次に示す表では假名遣として區別すべきものを縱行にならべましたが、まづは横方向の關係を考へるとよいでせう。

 -ng-u-p(入聲) 
オーあぅ
ang
おぅ
ong
あう
au
おう
ou
あふ
ap
おふ
op
(五)
ユー ゆぅ
iong
 いう
iu
 いふ
ip
(六)
ヨーやぅ
iang
よぅ
iong
えう
iau
 えふ
iap
 (七)
 (一)(二)(三)(四)(八) 

 この表は★★ページ「『廣韻』と『韻鏡』を讀み解かう」の【三】で示したものと同じ構成になってゐます。兩者を比べてみてください。

 なほ、【通】【江】などは韻の大まかな分類であり、★★ページ「韻目一覽表を讀み解かう」の項目を御參照ください。また (けぃきゃぅ) などの表示は、漢音けぃ、呉音きゃぅ である事を示します。

(一) (二)  (三) (四)  
「あぅ」と「やぅ」 「おぅ」と「よぅ」 

「おぅ」と「ゆぅ」 

 「あう」と「えう」

「あう・えう」と「いう」

例外
angとiang ongとiong ongとiong auとiau au・iauとiu
【宕梗】 【通曾】 【通】 【效】 【效】と【流】  
・央(やぅあぅ) ・膺(よぅおぅ) (じゅぅ)(とぅ) ・拗(あうえう) (しう)(さう) (ぼう)(めう)
・向(きゃぅかぅ) ・興(きょぅこぅ) (しゅぅ)(とぅ) (かう)(けう) (きう)(かう) (そう)(えう)
・行(かぅぎゃぅ) ・甑(しょぅそぅ)   ・抄(さうせう) (ちう)(たう) (しう)(とう)
・相(しゃぅさぅ)  ・濃(ぢょぅのぅ)   ・棹(たうでう) (しう)(たう)  
・獰(だぅにゃぅ)   (こぅ)(しょぅ)   ・豹(はうへう) (しう)(だう)  
(わぅ)(くゐゃぅ)  (ろぅ)(りょぅ)   (ばう)(れう) (いう)(えう)  
(さぅ)(しゃぅ) (こぅ)供恭(きょぅ)   (たう)(てう) (きう)(きう)  
      (たう)(げう) (しう)(せう)  
      (さう)(せう) (しう)調(てう)(てう)  
      (かう)(れう) (いう)(ぜう)  
      (たう)(せう) (りう)(れう)  
      (たう)(てう)    

 次は縱方向の關係になります。これらの法則は主として漢音呉音の關係ですが、同じ形聲文字で比較してもよいでせう。

(五)(六)(七)
【流】【通】【流】【通】【梗】【通】
(ou)(ong) (iu)(ong) (iang)(ong)
漢音おうおぅいうえぃよぅ
呉音うう・ゆ・ゆ やぅ
・頭(とう) ・孔(こぅ) ・尤(いう) ・融(ゆぅ) ・英(えぃやぅ) ・供(きょぅ)
・口(こう) ・公(こぅ) ・右(いう) ・終(しゅぅしゅ) ・經(けぃきゃぅ) ・從(しょぅじゅぅ)
・矛(ぼう) ・工(こぅ) ・有(いう) ・隆(りゅぅ) ・正(せぃしゃぅ) ・重(ちょぅぢゅぅ)
(おう)()・奉(ほぅ) ・九(きう) ・弓(きゅぅ) ・丁(てぃちゃぅ) ・龍(りょぅりゅぅ)
(とう)()・豐(ほぅ) ・久(きう) ・宮(きゅぅ) ・寧(ねぃにゃぅ) ・種(しょぅしゅ)
(とう)(しゅ)・從(じゅぅ) ・求(きう)  ・平(へぃひゃぅ) ・頌(しょぅじゅ)
(とう)(じゅ)(しゅ)(しょぅ)・流(りう)  ・明(めぃみゃぅ)  
(とう)(ちゅ)(しゅ)(しょぅ)・留(りう)  ・靈(れぃりゃぅ)  
(こう)()(しゅぅ)(とぅ)・由(いう)  ・京(けぃきゃぅ)  
(こう)()(じゅぅ)(とぅ)・遊(いう)    
(そう)() ・猶(いう)    
(しう)(とう) ・守(しうしゅ)    
()(ろう) ・酒(しうしゅ)    
()(ぼう) ・就(しうじゅ)    
()(ぼう)     

 呉音「ゆ」を長音にのばして「ゆう」【遇】または「ゆぅ」【通】とする場合があります。「誅」などは「ちう」が正しいといふ説も有力です。しかし「裕」まで「いう」となるわけではなく、整合性には缺けるでせう。

【遇】【通】
()→ゆう (じゅ)→じゅぅ
(しゅ)→ちゅう (しゅ)→しゅぅ
(ちゅ)→ちゅう  
(ぢゅ)→ぢゅう  

 (八) 最後は入聲の關係になります。「ふ」で終る音は、元來促音です。熟語で「合併」「接待」「立身」「十分」のやうな場合は促音に戻った發音となります。「接」「立」などは「せふ」「りふ」が忘れられて「せつ」「りつ」がむしろ常態となってしまひました。「十分」は意味によって「じっぷん」「じふぶん」と使ひ分けます。「立身」が「リュッシン」とはならないやうに、たとへ「ジュップン」と發音してゐるやうでも「じっぷん」が正しいのです。

(かふ)(あふ)(かふ)(けふ)(いふ)(しふ)
(がふ)(たふ)(きふ)(しふ)(らふ)(れふ)(しふ)(しつ)
(えふ)(てふ)(きふ)(さふ)(かふ)(かふ)
(しふ)(ちふ)(せつ) (ざふ)(しふ) 
(りふ)(きふ)(らふ)(さふ)(でふ)(せつ) 

 「-む」(-m)と「-ふ」(-p)

(がむ)(がふ)(えむ)(えふ)
(ねむ)(ねふ)(しむ)(じふ)
(てむ)(てふ)(せむ)(てふ)
(えむ)(えふ)(へむ)(ばふ)

 同じ形聲文字の系列中で、入聲と非入聲が同居する場合があります。この現象は「陰入對轉」と呼ばれ、とても古い時代の變化と考へられてゐます。特に入聲と去聲が對應する例が多く、アクセントの源流を探る大きな手がかりとなってゐます。

(りゃく)(りゃぅ)(たく)(たぅ)(でき)(でう)(ぼく)、矛(ぼう)例外
(ばく)(ばう)(とく)(とう)(てき)(てう)(さく)(せう)・奧(をくあう)
(はく)(はう)(ぞく)(そう)(いく)(いう)(ばく)(かう)(よく)(えう)
(たく)(たう)(そく)(そう)(りく)(びう)(てき)(えう)(しゅく)(しう)(せう)
(かく)(かう)(よく)(よぅ)(こく)(かう)(げき)(えう)(けう) (やく)(えう)
(かく)(かう)(かう) (でき)(でう)(せき)(せう)(ぢく)(いう)(じゃく)(でう)

七、聯綿語、疉韻字

 韻を踏むのは漢詩だけではありません。「從容(しょぅよぅ)」や「逍遥(せうえう)」といった熟語は一字目と二字目が類似した音です。「從容」は「慫慂」とも書くので、「(じゅぅ)」「(よぅ)」「(よぅ)」などの字音假名遣が、間接的に覺えられます。

 これらの熟語は「疉韻」つまり韻を重ねた語と呼ばれ、「聯綿語」の一種です。聯綿語の説明は、『全譯 漢辭海』(三省堂)の附録「漢字について」のものがよいでせう。ここでは聯綿語を

日本語の「シトシト」「サラサラ」のやうな音の連續に意味があるオノマトペに相當する。
としてをり、これが感覺的に一番わかりやすいと思ひます。聯綿語は疉韻の他にもいろいろあり、再び説明を借りると次の五種類に分類されます。

 
疉字依依、倉倉、油油、洋洋
雙聲髣髴、參差、恍惚、匍匐
疉韻從容、混沌、差池、徘徊
聯綿狼狽、權輿、滂沱、陶鬱
外來葡萄、琵琶、鴉片、刹那

 これら五種類の熟語は、他にない特色があります。

 まづどの語も音を表すだけの「宛て字」であって、漢字一字一字に意味があるわけではありません。したがってたとへば「彷彿」は「放佛、方弗、放物、髣髴」とも書き、どれも同じ意味でなのです。「髣」も「髴」も漢和字典に出てゐるが、それぞれ一字だけでは意味をなしません。また「方」の意味と「弗」の意味をどう結合させても、「彷彿」にはなりません。

 次の特色として、しばしば部首が揃ひます。「彷彿」然り「髣髴」然り。要するにそれぞれの漢字は音しか表してゐないのです。これが「山川」「讀書」など多くの漢字語と決定的に異るところでう。學校の書取り試驗に好んで出題されるやうな難しい字面がならんでゐますが、じつはリズムに滿ちた擬音語なのです。

 さしあたり字音假名遣の判斷に最も役立つのは「疉韻」ですが、時に「雙聲」も「じぢずづ」の四つ假名を判斷できます。「清淨(しゃぅじゃぅ)」「侏儒(しゅじゅ)」「 逡巡(しゅんじゅん)蹲循(しゅんじゅん)」などの言葉を思ひ浮べて下さい。

 「雙聲」は頭の子音、つまりローマ字一字分が揃ふだけで、假名一文字まで揃ふとは限りません。「淘汰(たうた)」や「慷慨(かぅがい)」など、それらしい熟語も多いのですが、「邂逅(かいこう)」など例外もあります。

 『全譯 漢辭海』の附録では、「縮約語」も紹介してゐます。英語で do not が don't、can not が can't になるやうに、「何不(かふ)」が「(かふ)」、「而已(じい)」が「()」や「()」とつづまる現象です。他の文獻でも「髑髏(どくろ)」は「(とう)」の、また「於菟(をと)」は春秋時代の楚方言で「()」の緩讀であるとか、古來さまざまな説があります。

 「聯綿語」「疉韻字」などの用語には未だ判然としない面が多くあります。個々の熟語が果して聯綿語に含まれるのかどうか、確かめる手段が乏しいのです。まさか「新幹線(しんかんせん)」を疉韻字だとする人はゐないでせうが、それでは「糟糠(さうかう)の妻」はどうでせう。確信をもって解答する事は意外に難しい筈です。つまり熟語のリズムが揃ってゐたとして、それが偶然なのかそれとも疉韻なのか境界線が判然としないのです。『全譯 漢辭海』は他に比較してこれらの注記が充實してゐますが、それでもだいぶ漏れてゐるやうです。

 これらの言葉の多くは、起源が漢代以前の上古に遡ります。日本漢字音はずっと後代の隋唐時代のものですから、日本の漢字音だけではどうしても限界があります。しかし字音假名遣をとほして「難しい熟語」の成り立ちを知るだけでも、大きな收穫ではないでせうか。詳しくは、次の二著が優れてゐます。ただしもちろん字音假名遣までは言及はしてゐません。


八、オノマトペ

 日本語は「オノマトペ」つまり擬音語の種類が多いことで知られてゐます。しかし漢語もなかなかどうして擬音語が多いのです。漢詩や漢文はとかく堅苦しいやぅで、じつはその中に豐かな音が隱れてゐる事はあまり知られてゐません。

 漢和字典の「口部」や「鳥部」を見れば、そんな漢字がぞろぞろならんでゐます。例へば「呼吸(こきふ)」の「呼」は「フー」と息を吐く音、「吸」は「ヒプ」と吸ふ音です。また「鵝鳥」は「ガアガア」と鳴く鳥だからさう名づけたやうです。「(かつ)」は「(かく)」の鳴き聲であり、「()」は牛の鳴き聲であり、「(めう)」も鳴き聲からとってゐます。「郭公(くゎっこぅ)」を連想すれば、「公」は「こぅ」であって「かぅ」ではなからうと推測できませう。

 生きた漢字音として、日本の呉音や漢音は古い姿をよく留めてゐます。もちろん字音假名遣を守った上での話なのですが。ただ、日本人がどうしても聞き取れなかった音で、重要なものが二つあります。これらは字音假名遣にも少ししか反映してをらず、我々の感覺ではなかなか理解しづらいものですが、漢字音を考へる際の基本として、どうしても外せません。

 その一つは、喉の奧で發音する ハ行の問題です。昔の「はひふへほ」は「パピプペポ」もしくは「ファ フィ フ フェ フォ」のやぅに發音されてゐました。「フーヒプ(呼吸)」が「こきふ」に變化して呼吸の音らしくなくなったのもこのためです。今の感覺では諒解しづらいのですが、「ハヒフヘホ」に相當する音を表現するには「かきくけこ」を使ふしかなかったのです。

 たとへば「呵呵大笑」ですが、「カカ」などと笑ふわけがありません。元は「ハッハッ」だったのです。また「(かつ)」といふ掛け聲も、本當は「ハーッ」でした。他に日本ではカ行だが、元はハ行の地名人名として「香港(ホンコン)」とか「河内(ハノイ)」などいくらでも擧ります。時にハ行とカ行は交代する場合もありますが、ここまで一律かつ大量にカ行になった漢字音は珍しいといへます。

 もう一つは、ng韻尾です。これも日本人が一千年にわたって努力を續け、遂に修得できなかった音です。漢音や呉音では「-ぅ」または「えい」で表現されますが、これは既に原音からよほどかけ離れてゐます。

 たとへば「鼕鼕(とぅとぅ)」とは鼓を打鳴らす音であり、また「丁丁(たぅたぅ)」とは木を伐る音なのですが、そんな「トウトウ」と鳴る鼓があるものでせうか。斧や鋸は「タウタウ」と使ってゆくものでせうか。どう考へても「トントン」そして「タンタン」です。また「(れぃ)」は「リンリン」と響くものです。「呼び鈴(リン)」は唐音に屬しますが、こちらの方がよほど實感がわきます。「玲瓏(れぃろぅ)」よりも「リンロン」が、澄みきった玉の形容としてふさはしいでせう。

 字音假名遣で「ゃぅ」「ゅぅ」「ょぅ」の三つはこの ng韻尾です。殘念ながら「あう」「えい」「おう」は、本來の「アウ」「エイ」「オウ」と「アング」「イング」「オング」が混ってしまひました。本便覽では ng韻尾所屬のものは小書きの「ぃ」「ぅ」を使って、その源流を區別してゐます。またハ行の方は「h」記號をつけました。通常の字音假名遣ではここまで分ける事はありませんが、音の源流を理解するためには強力な武器になるでせう。


九、字音假名遣の決めかた

 誤解を恐れずに言へば、漢字音は「決めるもの」です。

 「皿」の音讀みは何ですか。「さら」は訓讀みですね。漢和字典を引きますと「めい」とか「みゃう」とか載ってゐる筈です。しかしどうしてそんなことがわかるのでせうか。「山」が「さん」、「川」が「せん」あたりなら感覺的に納得できますが。

 歴史的假名遣の本質は「なるべく平安時代と同じやうに」です。もちろんそれが完全に實現できるわけではないので、細かい調整が施されます。惡く言へば「作ってゐる」のですが、じつは漢字音そのものが結構「作ってゐる」のです。「皿」にしても、日本に傳來した當初は何か音讀みがあった筈です。しかしそれは時代と共に忘れられ、今では訓讀みの「さら」だけが殘りました。それでも漢和字典の使命として、何か音讀みを示さざるを得ません。

 これは何も日本だけの特殊な慣行ではなく、漢字を使ふ國ならどこでも同じです。つまり今では讀み方がわからない漢字でも、昔の發音字典を引っ張り出して、「現代の發音はかくあるべし」と決めてゐます。

 昔の發音字典にもいろいろありますが、最も尊重されるのが『切韻』または『廣韻』と呼ばれるものです。今から一千四百年ほど前、つまり日本では聖徳太子の時代の編輯です。驚くべきことに、系統的に首尾一貫して矛楯がほとんどありません。もちろん現代風の發音記號にどう置き換へるか、異説はあるものの、大筋としては昔の發音がほぼ完璧に復元できてゐます。

 この發音字典は信頼性が高いばかりか、傳統的にも漢詩などの押韻に使はれ、また漢字音を正す基準として、今日でも最優先されます。一般に流布してゐる『詩韻』は『廣韻』を大幅に簡略化したものですが、根本的な骨組は同じです。大正時代まで、新聞には和歌俳句とならんで漢詩の投稿欄があり、庶民が新作を競ひました。さういふ人はよく『詩韻含英異同辨』など『詩韻』の増補虎の卷を持ってゐました。じつはこれだけでも字音假名遣がある程度は判斷できます。市販の漢和字典にある「一は入聲質韻所屬、衣悉切」などといった記述は大抵が『詩韻』のものです。

 では具體的にどうやって漢字音を「決める」のか。それは「昔、同じ發音の漢字だったのなら、今でも同じ筈だ」といふ原則によります。もちろん『廣韻』や『詩韻』には假名の讀み方などついてゐませんから、「(さん)」「(せん)」のやうに、誰がどう考へても間違ない字音をできるだけ多く集めます。「明」でしたら「漢音めぃ、呉音みゃぅ」であることはまづ動きません。『廣韻』によると、「皿」と「明」とはアクセント違ひで同音ですから、「皿」もまた「漢音めぃ、呉音みゃぅ」であらう、と推定します。

 つまり『廣韻』などの古典は「發音字典」ではなくて、「發音の枠組み字典」として扱ってゐるのです。枠さへはみ出さなければどういふ發音でもよいのです。これは現代的な感覺ですといささか奇妙に思はれるでせうが、しかしラヂオもテレビもなく一山越えればもう發音が異る環境で、果して個々の發音とはそんなに確かな、頼りになるものだったでせうか。

 かうして五萬字あるとも言はれる漢字のほとんどすべて、しかも漢音と呉音の最低二組がきっちり揃ひます。漢語は漢字で書くのが普通ですから、過去の用例といっても假名書きの字音がそんなに見つかるわけがありません。時には少ない用例を擴大解釋するあまり、思はぬ誤りをきたす時もあります。先程の「皿」もしくは「明」は、少し古い字典ですと「漢音べい」でした。「めぃ」になったのは近年の話です。この種の訂正は現在でもいろいろ報告されてをり、三省堂『新明解國語辭典』の「あとがき」を讀むと、あまりの複雜さに嘆息することでせう。ともかく市販の辭書を引き比べてみると、字音假名遣は相當にばらばらであるのが現状です。

 かういふ處置は「假名遣」の定義にもとるものだ、といふ批判があります。「なるべく平安時代と同じやうに」しようと努めるなら、平安時代の確かな用例のみ拾ふべきであり、餘計な推定を交へてはならないといふわけです。もう少し難しく言ふと、假名遣は歸納主義なのだから、演繹處置を加へるのは本質的に矛楯である、となりませうか。主に歴史的假名遣を否定しようとする文脈で、故意に杓子定規な解釋を交へて使はれるやうです。

 もう一つの批判として、國語について考へる時には日本の用例だけを集めるべきで、『廣韻』などといふ外國の典籍は參考にすべきではない、といふ考へ方もあります。しかし私はこの論法はをかしいと思ひます。特に字音假名遣の場合、和漢に國境線を引くべきではありません。我が國でも『廣韻』は大いに使はれてきたのですから、立派な「日本の用例」なのです。

 いづれにせよ字音假名遣はまだまだ研究途上にあります。

 この項目はかなり難しいことを書きました。字音假名遣には獨特の問題がつきまとひますが、あまり細かいことは氣にせず、大づかみに理解した方がよいでせう。慣れてきた頃にまた讀みかへして下されば幸です。


十、五重塔と二階建

 字音假名遣を何となく難しく感じる一番の理由は、五十音圖に納りきらないからでせう。いくら五十音圖を眺めても、「よう」と「えう」と「えふ」の相違は見えてまゐりません。本來の漢字音が複雜な構造をしてゐたからです。

 本來の漢字音はどれほど複雜であったかといふと、建物にして五階建て、つまり五重塔のやうなものです。かたや日本語は基本的に「子音+母音」の二階建てです。ですから横軸に子音、縱軸に母音を配した二次元の五十音圖で事足りるわけです。

 發音を建物に譬へるのが果して適當かどうかわかりませんが、あれこれと説明するよりも次の表を御覽になれば、言はんとするところが何となく判讀できるでせう。

原音一層二層三層四層五層 
聲母介母韻腹韻尾聲調 
  a×平聲 a
 
k a×平聲ka
 
sia×平聲sia
しゃ しゃ
k au上聲kau
かう
k ak入聲kak
かく
 yang去聲yang
やぅ
kuak入聲kuak
くゎくゎく
siang去聲siang
しゃしゃぅ
s eu上聲seu
せう
s ep入聲sep
せふ
日音子音拗音母音韻尾× 
一階二階 

 さてかほどに複雜な發音に對し、我々の祖先は主として三つの方法で身の内にとりこんでいきました。

(一) 聲調は無視すること

 「聲調」とは、上がり下がりのアクセントのことです。「橋」と「箸」のやうに、あらゆる漢字は發音の音階が決ってをり、これを間違へると別の言葉になってしまふのです。またこのアクセントは、漢詩などの押韻を整へる上でもとても大切です。しかしそこまでの區別は日本人にはやはり無理でしたので、今日一般にはすべて無視します。もっとも「入聲」に所屬する漢字は、かならず「-ふ、-ち、-つ、-き、-く」で終りますので、それとすぐわかります。ちょっと意識しておくとよいでせう。

(二) 急いで拗音といふ「中二階」を拵へること

 「きゃ」や「くゎ」といった發音は、元々の和語にはけっして存在しませんでした。しかし何とか漢字音を修得するため、動かぬ舌を動かし、苦勞して身につけてきたのです。ちゃうど英語を眞似して「ディ」「ウィ」などを工夫したやうに、他にも「あっ」などの促音、「あん」などの撥音が増えました。ただ、これらの音は一千年後の今日でも、五十音圖から外れた、何か急ごしらへの慣れぬ發音といった地位しか與へられてゐません。

(三) 五十音圖を二枚重ねること

 「聲調」を無視して五重塔は四重塔となり、また拗音といふ中二階をこしらへて日本語はめでたく三階建てとなりました。しかしまだあと一階分だけ足りません。そこで假名文字をもう一つつけて、何とか間にあはせました。これ以上階數を増やせないぶん、五十音圖を二枚重ねて、または建物を二軒あはせてしのいだのです。本來の和語には「あい」「えう」といった二重母音または母音の連續もありません。國語の發音は、漢字によって大きく變ったのです。

 漢字音の大部分は假名で一文字から三文字で表現されます。

    =   +
  = +
  =   +
= +

 しかしたとへば「きゃ」は「き」と「ゃ」には分けられませんので、結局は一つの發音なのです。同じく假名二文字でも「かう」は「か+う」であり、國語としては二つの發音を重ねて一つの漢字音を表現してゐます。

 かういった便宜手段は現代でもよく行はれます。たとへば英語の「strike」は一まとまりの建物ですが、日本語ではこれを「ス+ト+ラ+イ+ク」と五軒にわけてやっと表現しました。「か+う」のやうに二軒にするのは、まだ單純な方なのです。

 「(あい)」にせよ「(くゎぅ)」にせよ、漢字本來の感覺としてはもうこれ以上分けられず、五重塔にまとまった單位であり、決して「あ+い」ではないといふ事、これは日本人としてはなかなか諒解しづらいでせう。

一音節直音
家は一軒だけ拗音○οしゅくゎ
二音節直音○○

 あいかう

二軒目あり拗音○ο○くゎぅきゃく

 さて字音假名遣を理解する上で決定的に重要なのは、その二軒目です。じつは二軒目にあてられる假名は、「該當なし」も含めて十種類しかありません。「○、い、う、ん、む、ふ、き、く、ち、つ」これで全部です。「よう」と「えう」と「えふ」の區別は、この二軒目の相違に他なりません。

 しかし「よぅ」と「えう」では同じ「-う」ではないか、どう違ふのかと不審に思はれることでせう。じつは全然違ふ音なのですが、古來から日本人には何だか會得しづらい、ちゃうど英語の R と L のやうな存在なのです。「オノトマペ」の項目でも述べましたやうに、無理に發音を練習しなくてもかまひませんが、何かそこに重大な相違がある事だけは憶えておいてください。詳しくは次の「R と L」の項目に讓りませう。


十一、R と L

 あなたは R と L の區別がしっかりできますか?「日本人は米(rice)と蝨(lice)を區別できない」のは國際的に有名なのださうですね。いくら外國人がさういふ惡口をたたいたところで、逆に彼らが日本語を習へば必ずどこかで同じ苦勞をするでせう。我々は「いらさいませ」を馬鹿にして笑ってはいけないし、英語だけを神聖視して國語の領域をうんぬんする必要もさらさらありません。それでも今日のやぅに外來語が増えてくると、やはり知識は知識として心得ておいた方が何かと便利でせう。私は長いあひだ「ランプ(ramp)」が高速道路の出入口であることを知らず、管制所に澀滯でも知らせる「ランプ(lamp)」があるのだらうと思ってゐました。かういふ際に「それは R と L の相違なのだよ」と知れば、たとへそれぞれの發音ができなくてもなぜか納得できます。

 字音假名遣には、このやうな些か困った音が一つだけあります。ローマ字ですと一般に「-ng」と書きますが、「ング」とまではっきり聞えるわけではありません。日本の漢字音では「-ぅ」「えぃ」「-ん」「-が」など樣々に譯されてゐる、といふ事はつまり裏返して言へば日本人にとってとても把握しにくい音なのです。唐土にはもっと複雜微妙な音がたくさんあり、それらをあへて再現する必要は無いでせう。しかしながら「-ng」はとても大切な音であり、字音假名遣を理解するためにも大切なのです。

 オーユーヨーエー 
aあぅ (い)ゃぅえぃ-ng
oおぅ(い)ゅぅ(い)ょぅ 
aあう えうえい-u
oおういう  
aあふ えふ -p
oおふいふ  

 たとへば「ゐ・ゑ・を」は「い・え・お」と同じ發音ですが、五十音圖を眺めれば何となく昔は「ウィ・ウェ・ウォ」だったのだらうと推測できますし、強調してさう發音する事もできます。近年の外來語にもよく出現します。つまり「ゐ・ゑ・を」は、感覺的にさう捉へにくい假名でもないのです。

 「あう」と「あふ」の違ひも何とかわかるでせう。「あふ」は昔「アップ」だったのです。香港の女優「グロリア・イップ」の漢字名は「葉蘊儀」。廣東語では「葉」が今でも「イップ」、そして字音假名遣は「えふ」です。

 では「いう」と「ゆぅ」はどう異るのか。「いう」は元から「イウ」、そして「ゆう」は「ヨング」に近い音だったのです。「鬼哭啾啾」は鬼が「シウシウ」と哭いてゐるのですし、「ウーロン(烏龍)茶」の「(りゅぅ)」は現代北京音で「ロン(グ)」です。いや現代と言はず、もう少し前の唐音を見ますと、「行(かぅ・ぎゃぅ)」に對する「行脚(あんぎゃ)」、「經(けぃ・きゃぅ)」に對する「看經(かんきん)」など、いづれも「-ん」です。つまり

(一) 「やう、ゆう、よう」とあれば確實に「-ng」
(二) 「あう、おう、えい」の多くは「-ng」だが「-u」もあり
(三) 「いう、えう」は「-u」であり、「-ng」ではない

 といふ事で、(二)だけは字音假名遣でも混同してゐて少々厄介です。本書では「-ng」の區別を強調するため「ぅ」「ぃ」と小さくしましたが、あくまで便宜上のことであり、世間一般で使ひ分けてはをりません。漢音呉音で、「-ng」の大部分は「やぅ、ゆぅ、よぅ」および「あぅ、おぅ、えい」ですが、この他に「う、いゅ、うぅ」となる場合もあります。「()」「(しゅ)」「(すぅ)」などいづれもウ段で終る點に注意して下さい。

 なほ上古以來の地名などでは「-が」などガ行に、また近世以降の唐音や現代地名人名では多く「-ん」となります。「相模(さがみ)」「餘綾(よろぎ)」「香山(かぐやま)」「鳳至(ふげし)」「雙六(すごろく)」「上海(シャンハイ)」など例はいろいろあります。これらを活用すると、字音假名遣の記憶にも役立ちます。詳しくはこの便覽本文を御參照ください。

時代上代漢音呉音唐音以降
表音表現-が・省略(-えぃ-ぅ) -ん
オーあぅ相模さがみ相(さぅしゃぅ)(シャン)
香山かぐやま香(かぅきゃぅ) 香港(シァンカン)
 經(けぃきゃぅ)看經かんきん
おぅ信濃しなのとぅ東京(トンキン)
ユーゆぅ ちゅぅ(チュン)
ヨーやぅ來生きすぎ生(せぃしゃぅ)星洲(シンガポール)
よぅ 共(きょぅ)越共(ベトコン)

十二、韻目一覽表を讀み解かう

 最近はさうでもないのですが、少し以前の漢和字典には「字音假名遣表」と共に必ず『詩韻』の「韻目一覽表」がついてゐたものでした。字典の本文には例へば「一」なら「入聲質韻」などと注釋があるのですが、圖上で位置を確認しても、それがどういふ意味を持つのか、そもそも「韻」とは何か、なかなかわかりにくいものでした。

 010203040506070809101112131415161718192021222324252627282930
上平聲               
下平聲               
上聲 
去聲
入聲             

 端的に言へば、これは今から一千四百年前の漢字音を似たもの同士で分類した表なのです。そして當然ながら字音假名遣と密接な關係があります。せっかくの資料を放っておく手はありません。

 ではこの表が完整なものかと言ひますと、どうにもこなれない部分があるわけです。ここからは私の主觀になりますが、三點だけ改善すれば、もっとわかりやすくなります。

 (一) 「上平聲」と「下平聲」は區別しなくてよいこと。これは大昔に本を編纂したとき、「一冊に納らなかった」だけの理由で上下にわけたに過ぎません。「平聲」や「上聲」とは、發音の上り下りのアクセントを表すのですが、「上平聲」と「下平聲」はどちらも「平聲」であり、區別する必要は全くありません。(二) 數字にまどはされないこと。韻についてゐる數字は、このままでは全く意味がないと思ってください。ぎっしり詰めないで、時々間をあければ、今度は大いに意味が出てきます。(三) ところどころ縱線を入れること。韻と韻の間柄も、近いものあり疏遠なものあり、いくつかのグループにまとめるとよいのです。古來いろいろな分けかたがありますが、「十六攝」といふものが一番ぴったりするやうです。

 以上について改良を加へ、典型的な漢字音をつけてみたのが次の表です。

平聲 上聲 去聲   入聲   オー ユー ヨー ウー エー -ン
通攝 01東
02冬
01董
02腫
01送
02宋
-ong 01屋
02沃
-ok おぅ/をぅ (い)ょぅ (い)ゅぅ うぅ    
江攝 03江 03講 03絳 -ang 03覺 -ak あぅ*          
止攝 04支
05微
04紙
05尾
04シ
05未
-oi                
遇攝 06魚
07虞
06語
07麌
06御
07遇
-o         いゅう
(慣用音)
うう
(慣用音)
   
蟹攝 08齊

09佳
10灰
08薺

09蟹
10賄
08霽
09泰
10卦
11隊
-ai             あい/えい  
臻攝 11眞
12文
13元
11軫
12吻
13阮
12震
13問
14願
-on 04質
05物
06月
-ot           おん/いん
うん/いゅん
山攝 13元
14寒
15刪
01先
13阮
14旱
15潸
16銑
14願
15翰
16諫
17霰
-an 06月
07曷
08黠
09屑
-at           あん/えん
效攝 02蕭
03肴
04豪
17篠
18巧
19皓
18嘯
19效
20号
-ao     あう* えう        
果攝
假攝
05歌
06麻
20カ
21馬
21箇
22マ
-a                
宕攝
梗攝
07陽
08庚
09青
22養
23梗
24迥
23漾
24敬
25徑
-ang 10藥
11陌
12錫
-ak あぅ/(く)ゎぅ (い)ゃぅ     えぃ(梗攝)  
曾攝 10蒸 24迥 25徑 -ong 13職 -ok おぅ (い)ょぅ        
流攝 11尤 25有 26宥 -ou     おう   いう うう    
深攝 12侵 26寢 27沁 -om 14緝 -op おふ   いふ     おむ/いむ
咸攝 13覃
14鹽
15咸
27感
28em
29hm
28勘
29艷
30陷
-am 15合
16葉
17洽
-ap あふ* えふ       あむ/えむ

(注)江・效・咸攝の呉音は、一部で「おう」「おふ」となる。漢音でも、豪(皓号)韻の唇音聲母字は、「おう」である。例へば「ぼう(帽)」「もう(毛)」の如くである。

(注)この表の他に、長音「イー」が存在するが、「しい(弑)」「ひい(贔)」「せい(世)」「しいか(詩歌)」など、いづれも長音化した慣用音である。

 さて現代の國語辭典的な感覺ですと、發音の頭の方からならべます。「あ」の次に「あい」「あう」などと續きます。しかし「韻」の世界は「あ」は「か」「さ」と共にまとまり、「あい」には「かい」「さい」が含まれます。つまり『逆引き廣辭苑』状態なのです。もともと「韻」とは、漢詩などを朗讀するときに調子を整へる目安です、發音の最後が揃ってゐる方が實用的なのです。

 もし「あ韻」「あう韻」といった名前がついてゐれば、一發で理解できますね。でも漢字音は日本生れではありません。「東韻」とは「おぅ韻」なんだなと理解しておけばよいのです。そして例へば「をぅ」は果して「おぅ韻」の中に含まれてゐるのかどうかを把握しておけばよいのです。

 次に注意してほしいのは、「おぅ韻」は「平聲東韻」のみならず、「上聲董韻」「去聲送韻」もまた「おぅ韻」だといふことです。「入聲屋韻」だけは別で「おく韻」です。「韻目一覽表」で一番の大分類は「平聲、上聲、去聲、入聲」四種類のアクセントです。アクセントを揃へることを最も重視するわけです。しかし日本人にとって、「東、董、送」は一まとまりで考へればよいのです。

 それどころか「冬、腫、宋」も發音が近いですから、どれも「おぅ韻」、「沃韻」は「おく韻」と考へてよいのです。日本漢字音で近いものは、唐土でも近いわけで、これをまとめて「通攝」なのです。「通攝」でむづかしければ「おぅ韻おく韻」でかまひません。なほ「入聲」は我々の感覺からすると、アクセントの違ひといふより發音の違ひです。それでも「おう」と「おく」は何となく近いでせう。入聲の字は必ず「-ふ、-ち、-つ、-き、-く」で終りますからすぐに見分けがつきます。

 さて、ここまで説明するとよく誤解されるのですが、「東韻」に所屬する字が全部「おぅ」なのではありません。「風、中、弓、雄、融」など、「うぅ」になるものもありますし、それは一千四百年前の分類當初からすでに違ふ發音だったのです。これは決して「分類がいい加減だった」のではなく、韻を踏むためには「近い發音は一まとめ」にしただけの話です。たぶん當時の人の感覺として、これが最もぴったりした分類だったのでせう。

 現代日本のやうに標準語が普及した世界なら「おぅ韻」などと表現するのが合理的ですし、朝鮮のハングルもさういった經緯で誕生したと聞きます。しかしとにかく今は一千四百年前の分類を素直に受け容れてください。字音假名遣を考へるだけでしたら「うぅ」などは考へなくてよいので、東韻とは「おぅ韻」、通攝は「おぅ韻おく韻」と理解しておけば十分實用的です。

 以上のやうな手順を參考に、漢和辭典を引いて所屬韻目を確かめてください。字音假名遣との密接な關係が感じとれるでせう。漢和辭典は面倒な方は

 『漢詩入門韻引辭典』飯田利行著、平成二年、柏書房を參照してください。昔からある韻の一覽表に振り假名がついてをり、しかも字音假名遣を守ってゐますから、兩者の關係が一目瞭然です。


十三、吉川幸次郎氏の無關心

 吉川幸次郎氏に「字音かな遣ひあらたまれりといふを聞きて」(昭和十七年九月)といふ文があります。國語問題に關連したものとして有名なものです。あるとき吉川氏が電報を打たうとして、自分の「幸次郎」の字音假名遣がわからず困ったといふ話を枕に、昭和十七年の國語審議會「新字音假名遣表」を肯定的に評價してゐます。

 なるほど字音假名遣は複雜かつ無意味なものだ、高名な學者先生までもてあましてゐる、これなら廢止されても當然だらう、一般にはそんな風に受けとめられてゐます。しかし私は全く違った見かたをします。吉川氏は字音假名遣に對して無關心であったのだと思ふのです。

 冒頭の電報を打つ箇所を引用してみませう。

驛より 電報うちてやるに、ヨシカハとまでは心得つ、また郎の字は唐音 lang にて陽唐の類なれば、ラウなるに定まれり、さて幸の字は いかがあるべき、唐音はshing にして庚清の類なり、陽唐の類にはあらざれば、おほかたコウならむと、おしはかりにてしたためつ。程へて字書どもあらためぬるに、庚清の類も みなア段の假名なりければ、始めておのが無學を恥ぢけり。

 和語の「吉川(よしかは)」は迷ひがなかったが、「幸次郎(かうじらう)」が咄嗟にわからず、自分の名前の假名遣を間違へてしまったといふことです。しかし吉川氏は韻の知識や、「唐音」つまり現代北京語を驅使して、正解をいろいろ推測してゐます。つまり字音假名遣、韻、現代北京語の三者には深い關係があるのだといふことはわかってゐるのです。

唐音 推測 正解
lang陽唐の類らぅらぅ
shing 庚清の類こぅ?かぅ

 じつは「郎」も「幸」も、推測するのはさほどむづかしくありません。しかも江戸時代初期には判別方法が廣く知られてゐるのです。貝原益軒に『和俗童子訓』といふ著作があります。最も早期の體系的な教育論として高く評價されてゐます。その中の「手習法」には

國字(かな)を書くに、かなづかひとてにはを知るべし」
とあります。この箇所で字音假名遣に關する部分を要約すると、

  1. 江肴豪陽唐庚耕清青の韻は、あかさたな、はまやらわ
  2. 東冬蕭霄蒸登尤侯幽の韻は、おこそとの、ほもよろを

 となります。貝原益軒は特に字音を研究した人ではありませんし、この「手習法」の章には讀み書き教育用の實用的な記事ばかりならんでゐます。どうやらこれらの判別法は、三百年前には世間一般の基本常識だったやうです。

 『和俗童子訓』以外にも、昔の韻學の本を讀むとこの對比はよく出てきます。「陽唐」も「庚清」も「あかさたな、はまやらわ」なのですから、吉川氏は何も迷ふことはなかったのです。

 さて、吉川氏は

始めておのが無學を恥ぢけり。
と謙虚に結んでゐます。ところが後段では何故か

「前の假名づかひ 知ればとて、唐音まなぶに さして便りよしともおもほえず。
といふ斷定的な結論に置きかはってしまひます。

 「庚清の類も みなア段の假名」とわかっただけでも大いに「便りよし」であり、現代北京語の理解にも威力を發揮してゐると感じるのは私だけなのでせうか。確かに字音假名遣には不規則な箇所もあります。しかし部分的な瑕疵をとらへて全體を否定する態度は、學者として如何なものでせうか。

 吉川幸次郎氏は當時の日本人としては例外的に「外國語」としての北京語を肌でとらへてゐました。それだけに字音假名遣とのつながりを體感できないといふ主張が信じられないのです。結局、吉川氏を始めとして古來の儒者漢學者は、唐土に存在しないものには興味がなく、日本獨自の假名遣などどうでもよかったのではないでせうか。興味があれば、どんな些細な發見でも「大いに便りよし」と思ふでせう。

 字音假名遣を支へてきたのは、むしろ悉曇學つまりインドのサンスクリットに對する研究でした。ところが明治維新と共に僧侶は一般社會の學術の場から姿を消してしまひます。またこれまで假名遣を發展させてきたのは主として國學者でした。彼らは和語を熱心に研究しましたが、漢字への興味は薄かったやうです。近年の國語學の進展にともなひ、字音の研究はますます精緻になってはゐますが、かへって貝原益軒のやうに核心をわかりやすく説いたものは少ない氣がします。

 假名遣はよく憶えてゐるから尊いのではなく、それによって文字の來歴を知り、言葉の運用を效率よくすることが目的です。特に字音假名遣は細かいところにとらはれず、大きな傾向を見渡すやうに心掛けてください。なほ、吉川氏はこの文章で「ぐゑん」「あむ」などの假名遣が存在した事も紹介してゐます。これらは現在、字音假名遣の一種として廣く認められつつあります。


十四、基本的な母音は二つしかない

 貝原益軒の

  1. 江肴豪陽唐庚耕清青の韻は、あかさたな、はまやらわ
  2. 東冬蕭霄蒸登尤侯幽の韻は、おこそとの、ほもよろを

 をもう少し説明しておきませう。『詩韻』や『廣韻』の韻はすべて「あ」的なものと「お」的なものに二大別することができます。日本の漢字音、特に漢音はこの差を非常にくっきりと保存してゐます。そして「え」は「あ」の拗音、「い、う」は「お」の拗音であった事もよく保存してゐます。もっとも呉音には例外も多いので、日本の漢字音すべてが整然としてゐるわけではありません。

 ここでもう一つ、「一等」〜「四等」といふ概念を憶えてください。詳細は★★ページ 『廣韻』と『韻鏡』を引かう の項目に書いてありますが、

  1. 「一等」「二等」は直音的である。
  2. 「三等」「四等」は拗音的である。

 と理解してください。また「韻鏡」の欄に書いてある「江」「蟹」などの漢字は、「十六攝」といふ韻の大まかな分類であり、★★ページ「韻目一覽表を讀み解かう」の項目に説明があります。「廣韻」の欄にある二桁の數字は、この便覽の本文で、漢字音のところに示した廣韻所屬韻の略號です。

 一二等三四等
 (直音)(拗音)
あ系統
お系統い・う

 少なくとも漢音の母音はくっきりと分れます。もう少し細かく見てみませう。

 母音が「あ」の系統母音が「お」の系統
 一二等三四等十六攝 一二等三四等十六攝
陰類-a 果假-o
-ai あい -oi うい
-au あう -ou おういう
陽類-angあうえい江宕梗-ongおうよう通曾
-an あんえん-on おんいん
-am あむえむ-om おむいむ
入聲-ak あくえき江宕梗-ok おくよく通曾
-at あつえつ-ot おついつ
-ap あふえふ-op おふいふ

 「(ぼう)」や「(もう)」など、「豪韻脣音字」は「あう」でなくて「おう」と訂正されました。これは有坂秀世博士の大きな業績とされます。なぜそれほどまでに重要なのか。それは漢音で「あ系統」でありながら「おう」となる唯一の例外だからです。呉音では「あ系統」で「お」が結構おほいのですが、漢音は例外なしと信られてきたのです。

 「あ系統」「お系統」の對立は字音假名遣を理解する最大の鍵となりますので、もう二つほど圖表を掲げておきませう。特に解説はつけませんが、前後の文章をよくお讀みになれば、必ず會得できるでせう。

あ系統 一部呉音   おう おう おう おふ おむ おん
漢音 えい・ゑい
 
 
えい・ゑい
あう・わう
 

いゃう
あう・わう


あう・わう


あう


あふ
えむ

あむ
えん

あん
攝名 蟹(-ai) 梗攝(-ang) 宕攝(-ang) 江攝(-ang) 效攝(-au) 咸攝(-ap) 咸攝(-am) 山攝(-an)
韻目 齊薺霽

佳蟹卦
灰賄隊
庚梗敬
青迥徑
陽養漾  江講絳  蕭篠嘯
肴巧效
豪皓号 


覃感勘
鹽■■
咸■陷
寒旱翰
刪潸諫
先銑霰
元阮願
お系統 魚語御
虞麌遇
  蒸迥徑 東董送
冬腫宋
尤有宥 侵寢沁 元阮願
眞軫震
文吻問
攝名 遇攝(-o)   曾攝(-ong) 通攝(-ong) 流攝(-ou) 深攝(-op) 深攝(-om) 臻攝(-on)
漢音  
 
いゅ(ぅ)
う(ぅ)
  おう
いょう
 
 
おう
いょう
いゅう
 
おう
 
いう
うう
おふ
 
いふ
 
おむ
 
いむ
 
おん
 
いん
うん・いゅん

  -a,e -ang,eng -au,eu -ap,ep   -am,em -an,en  
あ系統 [えい][(く)ゑい]
  蟹
[えぃ][(く)ゑぃ]
  梗
    エー [えむ]
  咸
[えん]
  山
エン
  [(い)ゃぅ]
  梗宕
  [えう]
  效
[えふ]
  咸
ヨー
  [あぅ][(く)ゎぅ]
  江梗宕
[あう]
  效
[あふ]
  咸
オー [あむ]
  咸
[あん]
  山
アン
    [おぅ]
  江*
[おう]
  效*
[おふ]
  咸*
[おむ]
  咸*
[おん]
  山*
オン
お系統   [(い)ょぅ]
  通曾
[おぅ]
  通曾
[おう]
  流
[おふ]
  深
[おむ]
  深
[おん]
  臻
[いゅう(本來いゅ)]
  遇(慣用音)
[(い)ゅぅ]
  通
[いう]
  流
[いふ]
  深
ユー [いむ]
  深
[いん]
  臻
イン
[うう(本來う)]
  遇(慣用音)
[うぅ]
  通
[うう]
  流
  ウー   [うん][いゅん]
  臻
ウン
  -o -ong,ing -ou,iu -op,ip   -om,im -on,in  

(*注) 江・效・咸・山攝の呉音は、一部でお系統に混入し、「おう」「おふ」「おむ」などとなる。漢音でも、豪(皓号)韻の唇音聲母字のみ例外的に「おう」である。例へば「ぼう(帽)」「もう(毛)」の如くである。


十五、「しう」と「しゅう」

 本居宣長の『字音假字用格』に、こんな解説があります。

しう ト しゅう トヲ別ニ擧ル故ハ しん ト しゅん、しく ト しゅく、しつ ト しゅつ 是ラ皆別ナル例ナレバ也。

 「しう・しゅう」の相違は、「しん・しゅん」などの相違、つまり拗音かどうかといふ關係だといふのです。

直音しうしんしくしつ
拗音しゅうしゅんしゅくしゅつ

 なるほど綺麗にならんではゐるのですが、どうもよく考へるとをかしいのです。たとへば「しゃう」「しょう」は何と對應するのでせうか。「さう」「そう」なのでせうか。それなら「しゅう」に對應するのは「しう」ではなくて「すう」である方がよいとも考へられます。どうもすっきりしませんね。

さうすうそう
しゃうしゅうしょう

 結論から申しますと、本居宣長の解説はどうもうまくないのです。假名文字としては整然とするのですが、字音假名遣の急所を大きく外してゐると思ひます。「しう」と「しゅう」は斷じて直音拗音の關係ではありません。「シウ」「シュング」のやうに、全く異る音だったのです。逆に「さう」の拗音は「しゃう」でよろしいのです。もう少し展開してみませう。

さうしゃうすうしゅうそうしょう
さんしゃんすんしゅんそんしょん
さくしゃくすくしゅくそくしょく
さつしゃつすつしゅつそつしょつ

 なるほど意味ありげになってきました。しかしながら「しゃん」とか「すつ」などといふ漢字音は存在しません。いや、本當はあったのかもしれません。しかし上代の日本人は拗音とか促音といった發音はとても苦手でしたから、「しゃん」と發音したくてもうまく舌が囘らず、「せん」としか言へなかったのです。そんな背景を盛込んで、もう少し大膽に整理してみませう。

 
 直音拗音直音拗音直音拗音
しゃ  しょ
-iさいせいすい  
-uさうせう  そうしう
-ngさぅしゃぅ
せぃ
すぅしゅぅそぅしょぅ
-kさくしゃく
せき
 しゅくそくしょく
-nさんせんすんしゅんそんしん
-tさつせつ しゅつそつしつ
-mさむせむ  そむしむ
-pさふせふ  そふしふ

 この表を見ると、中段の「す」のあたりが手薄ですね。じつは元來の漢字音で、「すぅ」や「すん」などは、すでに「そぅ」「そん」の拗音なのです。つまり眞に基本的な音は「さ」「そ」の二種類だけで、他の「し」「す」「せ」は、そこから派生した音なのです。これは前項で申上げたとほりです。

 
 直音拗音直音拗音
しゃ   しょ
-iさいせい すい  
-uさうせうそうしう   
-ngさぅ
sang
 
しゃぅ
siang
せぃ
そぅ
song
 
 すぅ
sung
 
しゅぅ
siung
 
しょぅ
siong
 
-kさくしゃく
せき
そく  しゅくしょく
-nさんせんそんしんすんしゅん 
-tさつせつそつしつ しゅつ 
-mさむせむそむしむ   
-pさふ
sap
せふ
siap
そふ
sop
しふ
siop
   

 だいぶややこしくなってきました。本題に戻って「しう」と「しゅう」の位置を確かめてみませう。「しん」「しゅん」や「しつ」「しゅつ」は近いところにあるのに、「しう」と「しゅう」は遠い位置に別々に分れてゐます。つまり元の漢字音は「シウ」「シュング」のやうに、全く異ってゐたのです。

 もう一つ氣をつけてほしいのが「あう」「おう」です。今の字音假名遣では區別できませんが、元の漢字音では「アウ」「オウ」と「アング」「オング」と、二種類の由來がある事です。

 元の漢字音風に表すと、

 この違ひをしっかり記憶してください。字音假名遣の最難關である「いう」と「ゆぅ」、「えう」と「やぅ・よぅ」の相違がわかりますか?


十六、『廣韻』と『韻鏡』を買はう

 漢和字典の「韻目一覽表」に慣れましたら、次はぜひ『廣韻』ならびに『韻鏡』といふ本を備へたいところです。漢字に興味を持つ方なら、『説文解字』や『説文解字注』の名前をご存じでせうし、すでに書架にならべてゐるかもしれません。ところが説文は漢字の組合せとか字體について書いてあるだけで、發音は至って手薄なのです。『説文解字注』の方は説文より更に以前の發音を研究した金字塔なのですが、一寸と難しい話になりますので止めておきませう。冒頭に掲げた書名は、發音について説文と同じやうな地位、つまり漢字音の大もとの戸籍簿なのだなと思ってください。

 戸籍簿をぢかに眺めても面白くないかもしれません。しかし字音假名遣を理解するためには、漢字音全體の大きな枠組みをとらへる必要があり、ここはやはり座右に備へておきませう。

 ところで漢字の發音といっても、時代によって相當に異ります。今から一千四百年ほど前、日本ですと聖徳太子の頃にあたりますが、漢字の發音に對する自覺が急に深まった時期があります。いくつも發音字典が編輯された中で、隋の末期に成立した『切韻』が、決定版としてその後の詩文を支配してゆきます。そしてまた漢字音の正誤を判斷する上で最も大切な基準となってゆきます。もちろん字音假名遣の根本基準でもあります。

 もっとも『切韻』自體はいつしか失はれ、今ではその増補版である『廣韻』が殘ってゐます。いろいろ研究しますと兩書はほぼ同じ構成であっただらう事がわかってゐますので、特に斷らない限りどちらの書名でもかまはないといふ習慣です。

 また、通常の漢和字典にある「韻」とは、切韻の分類を半分近くに簡略化させたもので、『詩韻』または土地の名前を取って『平水韻』と呼ばれます。簡略化と言っても對應關係は單純ですので、廣韻がわかれば詩韻も自動的にわかります。★★ページの「所屬韻の對照表」を御參照ください。

二百六韻 百六韻
切韻 → 廣韻・韻鏡 詩韻(平水韻) → 漢和字典

 昔の本は大抵さうなのですが、『廣韻』をご覽になると、漢字がびっしりとならんでゐて、およそ索引らしいものがありません。昔の人も不便だったと見え、いろいろ圖解を試みてゐます。『韻鏡』もその一つで宋代に成立したと推定され、現存するうちで最も古いものです。廣韻よりはだいぶ時代が後になりますので、微妙な齟齬はありますが、今は專門的な論爭には立ち入りません。今は兩者ともに基本資料であるが、廣韻の方がより尊重されると考へてください。

 たとへば『説文解字』をご覽になった方でしたら納得して下さると思ひますが、この種の古典は現代に通じるものがあり、意外に讀みやすいのです。たとへ内容がわからなくても、何となく内容がよく整理されてゐて、合理的に讀み解けさうに感じます。もちろん一千四百年前の字典はさう簡單ではありません。昔は「韻鏡十年」といふ言葉がありました。韻鏡がわかるやうになるには十年も修業がほしいといふ意味です。しかし御安心ください。字音假名遣の構造を理解するためには、おほまかな知識で十分です。細かい枝葉に目を奪はれず、太い幹だけ見るやうに氣をつけてください。

 さて、これまで紹介した本はやはり一般の書店では入手しにくいものです。たとへば神田神保町の「東方書店」「内山書店」「山本書店」あたりへ行くとよいでせう。

 字音假名遣を考へるため、『韻鏡校注』だけでは難しいので、

が便利です。勉誠出版の勉誠社文庫には他にも『字音假字用格』『磨光韻鏡』『古言衣延辨』『倭名類聚抄』『音韻假字用例』『漢呉音圖』『古言梯』『男信』『漢字三音考・地名字音轉用例』など、多くの古典が收録されてゐます。日本文學の專門店で問ひ合はせると宜しいでせう。

 氣輕に讀める參考書もいくつかあります。

兩方ともとても讀みやすいのですが、殘念なことに日本の漢字音とのつながりについて、あまり書いてありません。

 次から『廣韻』『韻鏡』の讀み方を少しづつ説明してゆきます。ただ、『韻鏡考・隋唐音圖(上・下)』も用意された方が格段に理解が早いと思ひます。


十七、『廣韻』と『韻鏡』を引かう

 いよいよ漢字音のよってきたる由來を調べるため、『廣韻』ならびに『韻鏡』を引きませう。これらは今から一千四百年前の發音引き漢字字典と、その圖解です。「漢字音の原典」といった存在になってゐますが、單に古いから尊重されるのではなく、現代的な批判に堪える構成になってゐる點が何より貴いのです。

 漢字を使ふ國ではどこでも、

  1. 廣韻の記述
  2. 古文獻の用例
  3. 現代の發音
 この三つに大きな齟齬がないやうにして「正しい漢字音」を決定いたします。日本の場合、アジア漢字圈の中では例外的に古くから、假名といふ表音文字が現在まで使はれ續けてゐます。つまり(二)の要素がとても大きく、そのために漢字音の歴史、つまり例へば「チョーチョ(蝶々)」と「てふてふ」の違ひが、誰にでもはっきりとわかるのです。唐土には「假名遣」に相當する言葉はありませんし、さういふ意識もありません。朝鮮や越南など、表音文字の歴史がもう少し積み重なれば、あるいは假名遣に類似した現象がおきてくる事でせう。

 ここで言ふ廣韻・韻鏡とは、次の二冊を指します。用意はできましたか。

 ただし韻鏡だけを讀むのは少々つらいので、 を援用します。これは韻鏡に漢音と呉音の振り假名をつけたものと思ってください。同工のものでは『磨光韻鏡』の方が先輩格ですが、隋唐音圖が近代的でよろしいと思ひます。

 何か目的の字を調べるとき、次のやうな順番で探してゆきます。

  1. まづ『廣韻』を引き、
  2. 該當箇所が『韻鏡』のどこにあるか確かめ、
  3. それだけでは具體的な漢字音がわからないので、
  4. 『隋唐音圖』を見ると漢音や呉音が書いてある

 かなり煩雜ですね。「字典」といっても、現代のものとはだいぶ趣が違ひます。大まかな構造を掴んでおきませう。

『廣韻』の構成


 卷  韻(大づかみの枠組) 小韻(發音の最小單位)
上平聲卷東第一 〜 山第二十八
  • 東(徳紅切十七)……
  • 同(徒紅切四十五)……
下平聲卷先第一 〜 凡第二十九
上聲卷 董第一 〜 范第五十五
去聲卷 送第一 〜 梵第六十 
入聲卷 屋第一 〜 乏第三十四

 いきなり廣韻をぱらぱらめくりましても、漢字がびっしりならんでゐて嫌になること請合ひです。まづは章立てを確認してください。漢和辭典の「韻目一覽表」にあるやうに、アクセントによって五卷に分れてゐます。今の本は印刷がよいので一冊になってゐますが、昔は五冊に分れてゐたわけです。各ページの端に「韻上平」とか「韻去聲」などとついてゐるでせう。それぞれの卷頭には韻の一覽があり、あとはひたすら漢字がならびます。韻と韻の境目はちょっとわかりにくいのですが、途中で改行が入るところを探してみてください。

 廣韻の本文をよく見ると、漢字と漢字の間にところどころ小さな「о」がついてゐます。これは韻を更に細かく分類した「小韻」の境界線で、とても大切な記號です。そもそも韻といふのは、近い發音の漢字を寄せ集めたもので、同じ韻だからといって全部が同じ發音なのではありません。ところがこの「о」から「о」までの間は、アクセントから發音から完全に同じ發音である、そしてごく少數の例外を除き、他のページに同じ發音は存在しないことを表してゐます。最少單位がきっちりわかり、しかも相互に矛盾がほとんど無いとは驚きですね。

 たとへば卷頭の「東韻」を見てみませう。二十二ページには「韻上平」とあり、六行目には「一о東」と出てゐます。説明文を讀んでゆくと、ページの最後のあたりで「徳紅切十七」とありますね。「徳紅切」とは「反切」と呼ぶ原始的な發音記號で、「とく(徳)+こぅ(紅) → くこ ぅ → とぅ」のやうな表音を示します。貴重な研究材料ではありますが、字音假名遣を考へるためには能率が惡いので、割愛してよいでせう。「十七」とは「東」から後に續く十七文字が完全に同じ音といふ意味です。ためしに十七文字數へてください。また「о」の記號がありましたね。その次の字は「同」で、また「徒紅切四十五」とあります。全部これの繰り返しです。この「東」や「同」を「代表字」と呼びます。代表字だけが韻鏡に載りますが、「十七」や「四十五」の漢字はその背後に隱れてゐることになります。

『韻鏡』の内容例(第一ページ)  「〓」はJIS漢字にないため、代用したものです。

@内轉第一開C
  A   B平 聲 上 聲 去 聲 入 聲 F
一二三四
等等等等
一二三四
等等等等
一二三四
等等等等
一二三四
等等等等
D
脣音 ○○風○〓○○○○○諷○卜○福○ハ行マ行
次清○○豐○○○○○○○〓○〓○蝮○
蓬○憑○〓○○○〓○鳳○暴○伏○
清濁蒙○〓○〓○○○夢○○○木○目○
舌音東○中○董○○○凍○中○穀○竹○タ行ナ行
次清通○〓○桶○○○痛○○○禿○蓄○
同○蟲○動○○○洞○仲○獨○逐○
清濁○○○○〓○○○〓○○○○○〓○
中略
舌齒音清濁籠○隆○〓○○○弄○○○祿○六○ラ行
清濁○○戎○○○○○○○○○○○肉○漢音ザ行呉音ナ行
通攝(E)平聲東韻上聲董韻去聲送韻入聲屋韻G
おぅ・うぅ・いゅぅおく・うく・いく 

『韻鏡』の構成
@ 『韻鏡』一〜四十三轉
A 脣・舌・牙・齒・喉音 子音
B 清・次清・濁・清濁
C 開口・合口 拗音
D 一等〜四等
E 十六攝 母音
F 平・上・去・入聲 聲調

 『韻鏡』の目的は、「о」印のついた「小韻」の相互關係を圖示することにあります。廣韻が戸籍なら、韻鏡は地圖のやうなものでせう。こちらは多くの要素を分析的にならべてありますから、讀み取るには少々の慣れが必要です。『韻鏡』の構成、といふ圖を示し、@ 〜 F の記號をつけて、分析項目をならべてみました。

 卷頭の「内轉第一開」を開いてください。右上の方に代表字の「東」や「同」が見つかりましたか。左端には「東」と大きくあり、東韻に所屬するとわかります。上を見ると「舌音」の「清」とか「濁」とかあり、これは子音の種類を示してゐます。

 『隋唐音圖』をお持ちでしたら、韻鏡よりずっと便利です。右に漢音、左に呉音がついてゐるので、「東」は「漢音トウ、呉音ツ」とわかります。「東」と同音である「十七」も同じく「漢音トウ、呉音ツ」である筈だ、さうでなければいけない、かうして漢字音は決められてゆきます。ついでに前後左右にならぶ漢字の漢音呉音も確かめてください。「脣音」にハ行、「舌音」にはタ行がならんでゐることがわかるでせう。

 もう一度、廣韻や韻鏡を調べる手順を御説明いたしませう。

  1. 『廣韻』を引く。
  2. 所屬する韻名と「о」のついた漢字(代表字)を確かめる。
  3. 韻に通曉してゐれば、代表字の反切「○○切」だけで發音がわかる。
  4. 『韻鏡』で代表字を搜す。所屬韻名だけが頼り。時には數ページにまたがる。
  5. 代表字の周圍を見渡し、發音の性格を知る。
  6. 『隋唐音圖』など日本漢字音の注釋があればとても便利。

 字音假名遣を知るためには、何といっても『隋唐音圖』の該當箇所を見るのが便利です。ただしそこに至るまでこれだけ多くの手順を踏まねばならず、能率は極めてわるいものでした。

 昔の本は何でもさうですが、索引が貧弱といふ共通の缺點があります。廣韻や韻鏡も、どうやって檢索したのだらうと不思議になるほど不親切です。藝文印書館の『校正宋本廣韻』には卷末に部首別索引がつき、ずいぶん便利になりました。しかし韻鏡の方は今でもあまりよいものがありません。

 パソコンを使へるなら、かなり便利に廣韻や韻鏡を檢索できます。岐阜女子大學の住谷先生が非常に便利な索引を作られ、http://www.gijodai.ac.jp/user/sumiya/data.htmで公開されてゐます。またそのデータを私なりに加工させてもらったものがhttp://homepage3.nifty.com/gimon/に置いてありますので、宜しければ御參照ください。

 韻鏡の構成についてもう少し補則しておきませう。

 韻鏡は圖ごとの標題に「内轉第一開」などとあります。冒頭の「内轉」または「外轉」の解釋について、古來諸説あり定見がありません。今は無視してください。

@ その次の「第○」は圖の番號です。★★ページ「所屬韻の對照表」で「韻鏡/音圖」」の欄に相當します。隋唐音圖はなぜか蟹攝の部分だけ順番をかへてありますので「/」で區切っておきました。

C 「開」「合」とは、ワ行的かどうかを示すものです。「合口」は「わ、ゐ、ゑ、を」「くゎ、くゐ、くゑ」の可能性が高いと思ってください。音によってはワ行の要素を加へられないものもあり、現在では「開合なし」と解釋されてゐます。韻鏡には必ず「開」「合」がついてゐますが、そのうちいくつかは★★ページ「所屬韻の對照表」にもとづいて削ってください。この「内轉第一開」も、じつは「開合なし」です。

AB 韻鏡には總計四十三枚の圖があります。どれも全く同じ體裁になってゐます。上段の「脣音」「舌音」などの分類は、子音だと考へてください。おほむね「脣音」はハ行、「舌音はタ行だとわかるでせう。「舌音」でしたら「ぢ、づ」、「齒音」でしたら「じ、ず」の假名遣になります。

F 縱方向の分類は上から大きく四段にわかれ、それぞれ聲調つまりアクセントを示します。ただし「平聲」「上聲」「去聲」「入聲」のうち、「入聲」は必ず「-ふ、-ち、-つ、-き、-く」で終り、他の「平聲」「上聲」「去聲」とは明らかに異る音です。

D 四段それぞれは、もっと細かく更に四段に分れます。これを「一等」から「四等」と呼びます。「一等」「二等」は「かう」のやうな直音、「三等」「四等」とはそれに對する拗音、つまり「きゃう」「けう」が配置されてゐる確率が高いと考へてください。後に示した表にも「一等」から「四等」まで區別があります。これらは本來は韻鏡の位置に對應してゐる筈ですが、じつは大幅な修正を加へた專門用語だと思ってください。「重紐B」などはもっと專門用語です。これらを區別する意義は簡單ではないので、説明はいたしません。何らかの相違があり、韻の性格も微妙に異るのだと理解してください。(★★ページ)

 以上、言葉で説明すると繁雜ですが、圖を横におけばさほどでもないでせう。廣韻や韻鏡の説明は

などの方がよくわかると思ひますので、詳しいことは御參照ください。

 さて、廣韻と韻鏡をくらべて一番困るのは、それぞれの分類基準が異ることです。廣韻で○韻に所屬するから、韻鏡の第○にあるといふ對應が、少々ややこしいのです。★★ページ「所屬韻の對照表」をよく見ると、一つの韻がいくつかに散らばってゐる樣子がわかるでせうか。「40戈韻」や「44庚韻」のやうに三ヶ所にも四ヶ所にもまたがる韻まであります。

 廣韻は漢詩などの押韻參考字典ですから、何より「韻」の感覺が重要です。しかし韻鏡は圖解字典であって、もっと分析的に示します。同じ「庚韻」でも「(C)開合」「(D)一〜四等」の分類によって分散する樣、また漢音や呉音が整然と變化してゐる樣をよく觀察してください。

庚韻二等三等(拗音・ヤ行的) 
開口
(ア行的)
「行」
かぅ/ぎゃぅ
「迎」
げぃ/ぎゃぅ
外轉
第三十三開
合口
(ワ行的)
「横」
くゎぅ/わぅ
「兄」
くゑぃ/くゐゃぅ
外轉
第三十四合

 韻鏡の位置を知れば、字音假名遣はすべてわかります。その簡單な判定方法はまた次囘に。


十八、『廣韻』と『韻鏡』を讀み解かう

 『廣韻』と『韻鏡』を讀み解く段階となりました。本便覽には、各漢字音のところにいろいろ注釋を加へてありますので、字音假名遣の源流を探れる仕掛ができてゐます。

【一】 「ぢ・づ」と「じ・ず」

 本文便覽で「じ」のところを見てください。つぎのやうになってゐます。ただし繁雜を避けるため、漢音呉音の記號は省略しました。

(oi)05r爾(尓)z璽/【07z寺侍恃時蒔】/………
(oi)06d地/【07d持痔峙】/07d治/09d除[チョ]/ ……

發音が「ジ」である假名遣は「じ」「ぢ」二通り考へられます。それぞれ該當する漢字をならべ、これにいろいろ注釋をつけてゐるわけです。「(oi)」は所屬する韻の性格を、そし「05」「07」などは廣韻の所屬韻を通し番號で示します。ただし聲調(アクセント)は省略しました。「(oi)」は實際の發音といふよりも、多分に觀念的なローマ字です。「(i)」でよろしいのではないかと感じるでせうが、あまり氣にしないでください。

 【】で括った字は、同じ形聲文字でありながら假名遣が分岐するものです。【07z寺侍恃時蒔】が「じ」、【07d持痔峙】が「ぢ」であるのは不合理といへば不合理です。しかし元は同じであったかもしれませんが、廣韻や韻鏡の時代にはすでに分れてしまってゐたので、どうしても仕方ないのです。詳しくは★★ページ「形聲文字と字音假名遣」の項目を御參照ください。

 さて、「ぢ・づ」と「じ・ず」は子音の相違であって、所屬韻の區別は役にたちません。廣韻よりも韻鏡で考へてゆく必要があります。韻鏡または隋唐音圖の區分に從って、日本漢字音との對應關係を圖示いたします。漢音呉音ともに整然として、例外はほとんどありません。隋唐音圖を見るとよくわかるでせう。

漢音 呉音  
清濁以外 清濁(次濁) 清・次清 清濁(次濁)  
脣音 バマ  
舌音 nダナ dダ   
牙音  ガ    
齒音   zザ    
喉音 アヤワ   アヤワ      
清・次清 hカ   hカ     曉母
      hガ   匣母
清濁   アヤワ     アヤワ  
舌齒音 舌齒音       來母
齒舌音   rザ     日母

 さて、「ぢ・づ」と「じ・ず」の四つ假名が關係してくるのはこの表で四ヶ所あります。それぞれ「d、n、z、r」の記號をつけておきました。

 

漢音 呉音
d  舌音「清・次清・濁」 タ行またはダ行
舌音「清濁」 ダ行 ナ行(本來はナ行的な音)
齒音 サ行またはザ行。
齒舌音 ザ行 ナ行 

 韻鏡の圖では大抵「脣音・舌音・牙音」が右ページに、その他は左ページに見開きとなってゐる場合がほとんどですから、

韻鏡の圖で 右ページは 「ぢ・づ」
左ページは 「じ・ず」

といふことになります。呉音がナ行であっても漢音がダ行(n)かザ行(r)かわかりません。少々殘念なことです。

【二】 わ・ゐ・ゑ・を(合口) と ア行ヤ行(開口)

 次はもう少し複雜な判斷に進みます。

かう  au 37交佼校絞郊咬狡纐蛟鵁效(効)゜35皎/37h孝酵h哮/……
かぅang【04h巷港】/【04江h項扛杠矼缸肛槓腔】/【04講】/……
かふ ap 54合h盒哈゛閤鴿蛤+58h洽58恰袷/55h盍h闔54溘/……  
くゎぅ ang 43uh黄h簧廣(広)壙曠(昿)44uh黌鑛(鉱)礦(砿)絋/…… 
こう ou 【熕】/51h後/【51冓構遘溝購媾搆覯】/……     
こぅ ong  01公蚣/01孔/【01工功攻h紅h汞h訌h鴻貢控倥+04虹】/【01h洪h哄鬨(閧h)】/【04講】/【04降絳】/48h興/49uh弘/……

 二桁の數字に「+」がついたものは、それ以前の所屬韻に加へて、もう一方の韻にも所屬してゐることを表します。たとへば「+58h洽」は「54合」と同樣に「54」の韻ですが、意味によって「58」の韻の二ヶ所に所屬してゐるのです。その後にある「58恰」は「58」にしか所屬してゐません。

 少々餘計になりますが、漢字音のカ行の來源について區別を加へました。

付加記號なし 牙音の「清・次清・濁」三列。元の音もカ行またはガ行でした。 
「h」を付加喉音の「次清・濁」二列。現代日本音ですとハ行になるところ、上代の感覺ではカ行が近かったのです。

字音假名遣ではここまで區別してゐませんが、漢字音を考へる上で重要です。上代にはハ行が今の「パピプペポ」または「ファフィフフェフォ」のやうな音でした。「ハヒフヘホ」に相當する音が無かったため、やむなく「カキクケコ」にしたのです。地圖帳を見てください。「黄河くゎぅが」には「ホヮンホー」と書いてある筈です。どちらも「h」なのです。

   上 代  現 代 
ハ行pa,pi,pu,pe,poha,hi,hu,he,ho
カ行ka,ki,ku,ke,koka,ki,ku,ke,ko
パ行     pa,pi,pu,pe,po

 『韻鏡』の各圖には、必ず「外轉第三十三開」のやうな表題が「一」から「四十三」までついてゐます。「外轉・内轉」の意味には古來さまざまな説があり、未だ明らかではないため、今は無視しておきませう。數字の後には「開・合」の二種類の字がついてゐます。そして「合」の場合には「ゐ・ゑ・を」や「くゎ・くゐ・くゑ」となり、「開」は「い・え・お」や「か・き・け」となります。ただしこの「開」「合」は修正を加へる必要がある事は前項で述べました。

 本便覽では、廣韻の所屬韻を示す通し番號の後に「u」を加へました。「くゎぅ」を見ると、「43uh黄h簧廣(広)壙曠」などとあります。「黄」などの字は「u」がありますから「合口」でワ行的なのです。また「h」がついてゐますから「クヮング」よりも「ホヮング」が元音に近いのです。

 「u」がついてゐても、必ずしもワ行的でない場合がよくあります。一般に日本漢字音は單純に單純になる傾向があり、韻鏡の圖どほりにゆかないのは致し方ないでせう。

【三】 長音の「オー」「ユー」「ヨー」

 この區分は、所屬韻の數字を見るだけで、大部分判斷できます。もっともこれは漢音を中心とした場合であって、呉音には少なからぬ例外があります。たとへば「61法」は「はふ/ほふ」と、漢音呉音で假名遣が異ることは有名ですね。「61」とは「乏韻」で、この表では「あふ」になりますが、あくまで漢音に限る話です。一般に漢音「あ」が呉音「お」に變化する例が多く、その逆は珍しいのです。何らかの系統的な關係がある筈ですが、單純な法則に納らないのが現状です。

 この表は★★ページ「形聲文字の法則」の【三】で示したものと同じ構成になってゐます。兩者を比べてみてください。

オー ユー ヨー エー
-ng  あぅ(ang)
04,42〜47
おぅ(ong)
1〜3,48,49
ゆぅ・いゅぅ(iong)
01〜03
やぅ・いゃぅ(iang)
42,43
よぅ・いょぅ(iong)
01〜03,48,49
えぃ(iang)
44〜47 
-u あう(au)
35〜38
おう(ou)
50〜52
いう(iou)
50〜52
えう(iau)
35〜38
えい(iai)
12〜20
-p(入聲) あふ(ap)
54〜61
おふ(op)
53
いふ(iop)
53
えふ(iap)
54〜61

【四】撥音の「-む」と「-ん」

 戰前通行の字音假名遣では、「-む」と「-ん」は區別しませんでした。しかし廣韻などの分類でも、また現代の朝鮮語や廣東語でも、そして日本上代の古文獻を見ても「-む」が存在は間違ひありません。近年は區別すべき字音假名遣として廣く認められつつあります。

-n あん、えん
26,29〜34
おん、いん、うん
21〜25,27,28
-m あむ、えむ
54〜61
おむ、いむ
53

 いはゆる難讀地名といはれるものも、字音假名遣を考へれば素直に納得できるものが多いのです。「あまみ(奄美)」「あづみ(安曇)」などの地名は「-m」を反映してゐます。「56奄」は「えむ」、「54曇」は「どむ」など確かめてみませう。


十九、北京語でわかる字音假名遣

 もし北京語がわかるなら、字音假名遣の七〜八割は自動的に判斷できます。第二外國語などで接する機會が増えてをり、今後の活用が期待できます。

【一】四つ假名(じぢずづ)

じ・ずj、q、zh、ch、sh、z、c、s、r、er、x
ぢ・づd、t、zh、ch、n、

 ここで「zh」「ch」の場合は判斷がつかない事になります。たとへば

【二】開合(ゐゑを)

わ・ゐ・ゑ・を(合口)u が入る。
ア行ヤ行(開口)入らない。

 比較的單純な法則であり、また例外も少ないやうです。もっとも「u」が入れば即ちワ行といふわけではありません。日本語の發音はとても單純で、多くの「u」が脱落したからです。

【三】長音(おう、よう、ゆう)

 北京語を習った方でしたら

北京語日本語
-n-ン
-ng-ウ か -イ

 といふ法則を習った筈です。これをもっと擴張すると、字音假名遣判別の大きな武器となります。

 -ng-u-p(入聲) 

あぅ
ang(江攝漢音)
ang(宕攝)
eng(梗攝)
ing(梗攝)
おぅ
ang(江攝呉音)
ong(通攝)
eng(曾攝)
 
あう
ao(效攝)
 
 
 
おう
ou(流攝)
 
 
 
あふ
a
 
 
 
おふ
i
ie
 
 
 

  ゆぅ
ong(通攝)
  いう
ou(流攝)
  いふ
i
ゆう
u・yu(遇攝)

やぅ
ang(宕攝)
eng(梗攝)
よぅ
ong(通攝)
eng(曾攝)
えう
ao(效攝)
 
  えふ
ie
 
   

 この表で「效」「江」などと書いてあるのは「韻目一覽表」の項で説明した「十六攝」です。かなり單純化してゐますので例外も多いのですが、大きな骨組は示し得てゐる筈です。日本での不規則變化と、北京語での不規則變化とが重なりあひますから、細かい解説はまた別の機會にゆづりませう。

 北京語の大きな特色は「入聲の消滅」です。「-き、-く、-ち、-つ、-ふ」が脱落したといふ事です。たとへば元朝の皇帝「フビライ・ハン」を「忽必烈汗」と書きますが、日本音「こつひつれつ・かん」では如何にもをかしいですね。ここで「-つ」だけ落せば「こひれ・かん」となり、かなり近づきます。字音假名遣では特に「-ふ」が問題となります。「-ふ」が脱落したのですから、「-a」「-i」「-ie」などだけ殘りますので、慣れれば「これはもと入聲だな」と見當がつきます。「あう」「えう」は「-ao」、「いう」「おう」は「-ou」ですが、入聲の脱落形とは明らかに異りますので、區別は容易です。

 北京語で「ao」のものは、「あう」または「えう」になります。「(らう)」が「lao3」であるのは理解しやすいのですが、「(せう)」まで「shao3」なのは感覺的になじめないかもしれません。「シャオ」なのだから「せう」ではなくて「しゃぅ」としたくなるでせう。しかし「しゃぅ」とは「シャング(shang)」のやうな音で、「ao」とは全く異ります。ここで「基本的な母音は二つしかない」の項目を思ひ出してください。「えう」とは「あう」の拗音形、すなはち

基本形拗音形基本形拗音形基本形拗音形
あうえうあぅいゃぅ・えぃあふえふ
ao iao angiangap iap
おういうおぅいょぅおふいふ
ou iou ongiongop iop

 さて、一部の呉音を除きますが、北京語が「a」なら「あ」「え」、「o」なら「い」「お」と思ってよろしいでせう。「ing」ですと「あぅ」、「i」「ie」なら「いふ」「おふ」の場合が多い筈です。問題は「eng」です。詳しい事は省略しますが、「あぅ」と「おぅ」が合流してしまひ、北京語を頼りにした區別はできません。ただ、該當漢字數の多少から見て、「eng」なら「おぅ」となる確率が高くなります。次に示す表はあくまで記憶の便法でありますが、暗記しておくとかなり活用できると思ひます。

ang あぅ、えぅ
ing あぅ
eng おぅ の確率高し。但し 漢音えぃ なら、呉音は いゃぅ。
ong いぅ、おぅ

【四】撥音(-む、-ん)

 この項目だけは北京語で全く判別できません。「-m」「-n」共に「-n」となってしまったからです。廣東語、臺灣語、朝鮮語などには「-m」が殘ってゐます。


二十、字音假名遣の參考文獻

 多忙な現代にあって、要を得た參考文獻は何より有難い。假名遣について、特に確かめたいことは次の三種にまとめられるであらう。(一) それぞれの語について、正しい假名遣を調べる。(二) 假名遣の全體構造を知る。(三) 歴史的な背景を理解する。

 ここで (二) と (三) は似て非なるものである。(二)は實務上の要請であり、現在の規範である。これに對して (三) は學術上の觀察であり、過去の探求である。歴史的假名遣は「過去からの連續」を強調する關係上、どうしても兩者を同一視しがちである。これを混同せず、しかも互ひの關係を説明してあるものが最もよい參考文獻であらう。特に字音假名遣は。

 (一) は、どれが信頼に足る辭書であるかに注意すればよい話である。

 本便覽は全面的に、『學研 漢和大字典』藤堂明保編、昭和五十三年、學習研究社に據ってゐる。その理由は卷頭★★ページ「本便覽の注意點」で詳述した。假名遣の定義にふさはしい字音假名遣といへば、『全譯 漢辭海』平成十二年、三省堂こちらも最新の成果をよく盛込んでゐる。附録の「漢字音について」も從來の假名遣觀を覆す的確な指摘が多い。疉韻の熟語を明示した點も劃期的である。しかし新しい成果を反映させればさせるほど、從來の字典とは異る記述が増えるのは共通の惱みである。これは國語辭典も同樣である。字音決定の細かい考證は、『新明解 國語辭典』第四版以降の「あとがき」に詳しい。

 (二) について、未だ適當な文獻は無い。戰前には「かなづかひ教科書」の類が多く刊行され、國語假名遣にあってはこれだけで概ね用が足りた。しかし字音では

この二著のみ充實し、後は見るべきものなしと考へてよからう。

 漢詩文の傳統は地を拂ったやうで、今なほわづかな血脈を保ってゐる。詩の押韻と字音假名遣は不可分の間柄にあるが、これに言ひ及んだ書は信じられないほどに少ない。江戸時代のものはしばしばよくまとまってゐるのに惜しい話である。

この書にも特段の解説らしきものはついてゐない。しかし韻ごとに詳細な振り假名がある。それだけでも十二分に劃期的であり、購入の價値はある。現代漢詩の押韻に通曉しても、漢字音を研究する專門的な立場からは低い評價しか得られないだらう。しかし江湖に普及してゐるものはやはり尊重すべきである。幸なことに、簡單な變換公式を心得るだけでよい。

 (三) について、漢字音の研究は國文系と中文系と大きく二つ分れるため、雙方の文獻をあたる必要がある。近年この分野は進展が著しい。このため漢字音史の記述は精密になったが、實務上の規範として字音假名遣を取上げる事は非常に少なくなった。字音假名遣の構造を知りたければ、少し昔のものを見るとよい。

この三冊は『角川 新字源』の附録「漢字音について」でも「だいたいの原則」を知るたものものとして紹介されてゐる。

 近年のものでは

特に同書の「字音假名遣いについて(沼本克明)」は規範としての字音假名遣を考察したものである。今後の字音假名遣改訂の指針として貴重である。

 もちろん漢字音の歴史を知ることは大切である。たとへば

などは評價が高い。讀破は必ずしも容易ではない。

 氣輕に漢字音の知識を得るものとして、次の二冊は如何であらうか。

この中で「第五章 日本の漢字音(中田祝夫)」がよい。

 廣韻や韻鏡の入手法については、解説文中で紹介したために此處では省略する。

 餘談になるが、字音研究の一つの到達點として

は面白い。日本人と漢字の關係は、一千年前からほとんど變ってゐないことに愕然とする。