この文章は平成13年の秋ころに『神社新報』紙へ寄稿したものである。本棚の奧にまぎれて、正確な日附を確認してゐない。
毎日束をなして、郵便受けを占領するダイレクトメールの宛名書きが、片仮名ばかりといふ時代があった。「タカサキ イチロウ サマ」ではどうも記号の羅列で、自分の事とは感じられなかったし、第一かう読みにくいと配達もさぞや御苦労だったらう。それでもガリ版や青焼きに比べれば能率のよい「進んだ」方法だった。手軽に漢字を印刷するのは、依然として一種の夢物語であった。「欧米先進国では子供でもタイプライターを簡単に使ひこなしてゐる、それに比べて日本は…」といったお決りの批判も、それなりに説得力があった気がする。
昭和六十年ごろには漢字を搭載したパーソナルコンピュータがぼちぼち普及し始め、宛名書きも「高崎 一郎 様」と、やっとまともになってきた。「パソコン」が難解であったのと対照的に、「日本語ワープロ」は用途が明確であったし、六千余種もの漢字がつかへると知った衝撃は大きかった。それどころか、多少の工夫をすれば正字正仮名遣だって何とか綴れるのである。「これで国語国字問題も解決だぞ」と期待が高まった。それから十五年あまり、漢字環境は確かに長足の進歩を遂げた。今では胸ポケットに入るほどの機器でも、漢文・北京語文・朝鮮語文の混在など楽なものだし、数万種の漢字がかなりの程度まで標準化しつつある。各国で古典籍の電子化が進み、居ながらにして稀覯書を手にとれる、そんな時代になってきた。
問題は歴史的仮名遣の方である。何といっても困惑するのが「おもふ→思ふ」程度の簡単な操作さへ、頑として受入れられない事だらう。市販の日本語入力システムでそれが可能になるのが、申申閣の「契冲」一つだけとはいささか寂しい状態である。またネットワークの世界を覗いてみると、仮名遣についてのサイトもいくつかあるが、決して多くはない。しかし中には面白い場所もある。例へば「ここを通過すると、あらゆるインターネットが正仮名遣に化ける」サイトなどは、極めて斬新な発想であらう。『神社新報』紙の読者にとって意外かもしれないが、文化伝統への愛着とは全く別個に、単なる技術的見地から正仮名遣に興味をいだく人種が、世の中には確実に存在する。さういふ人にとって「思ふ」と「思う」の相違は単なる仕様の変更に過ぎず、どちらがより合理的か、森羅万象を的確にとらへ得るかこそ重要なのである。前述の「契冲」を開発された市川さんの談によると、現代仮名遣のシステムに比べると例外事項が少なく、プログラム開発もだいぶ簡素になったらしい。技術的に「勝負あった」のではないか。
システムとしての優劣を競ふなら、そもそも歴史的仮名遣とは何ぞやといふ定義や実施細則が必要である。ところが残念なことに、全く残念なことに、さういふ「仕様書」つまり内閣告示『現代仮名遣い』に相当するやうな文書はどこにも存在しない。多くの書物から、輪廓がぼんやり浮びあがるだけである。日常生活はそれで十分なのであるが、辞書を仔細に比べると「歴史的仮名遣」の解釈は微妙に異り、どれを頼りにしてよいか判然としないのが実情である。例へば「机」「帽子」といった言葉を引いてみてほしい。地名人名に至っては更に表記不安定で、「いわき市」「京都府向日市」「平泉毛越寺」「東海林太郎」「フジモリ大統領」などなど途方に暮れる例が続出する。果してこれが信頼できるシステムなのだらうか。
歴史的仮名遣の「仕様書」を早く作らう、と私は折にふれて周囲に語ってきたのだが、案外な誤解もあった。ある時「さかしらな言葉いぢりはいけない。それでは『現かな』の二番煎じだ」と言はれて驚いた。いや統制ぢゃありません、よく分析して本質をつかみたいんですよ、と返事したのだが、私の訥弁ではどこまでわかってもらへたか。契冲の『和字正濫抄』や本居宣長の『字音仮名用格』は歴史的仮名遣を確立した輝かしい業績である事に誰しも異存あるまいが、江戸時代の「自然な」状態といへば表記が大混乱してゐたのであって、それに対して契冲や宣長が果敢に「さかしらな言葉いぢり」成果である。国語の生理を合理的に説明し得たからこそ、鎌倉時代以来の伝統であった定家仮名遣を駆逐したのである。その歴史的仮名遣に、僅かとはいへ綻びが広がりつつある今、再び徹底的な合理性を追及すべきではないか。それが一旦は「伝統」を曲げるやうに見えても。
「デジタル化」は爆発的に進みつつある。とてもついて行けない、と拒否反応を示す人が多いのは何故か。それが人間にとって幸福かどうかは別問題として、デジタル化とは本質的にとても融通が利かず、白か黒かの決断を容赦なく迫るからである。この性格は、合理的な歴史的仮名遣を構築するためには存外に強力な武器になるのではないか。いや、「仮名遣」などのシステムこそ、国文を数百年にわたって「デジタル化」してきたと解釈してもよい。例へば慣れ親しんだ「いろは歌」や「五十音図」も立派な規格の一つである。かういふ要点はしっかり押さへないと後々まで大きな影響を残す。以前、「タカサキ イチロウ サマ」時代の規格では「ヰ」「ヱ」の二字が削られてゐた。歴史的仮名遣は絶対に書けない「完璧な」規格だったのである。今でもキーボードに「ゐ」「ゑ」が無いのはこのためである。もしJIS漢字コードが文部省の主導で決定されてゐたら、「國」などの「旧字」も徹底的に排除されたことだらう。薄氷を踏む時は過ぎ、現在では歴史的表記も何とか可能となったが、まさに僥倖と言ふしかない。同じ轍を踏まぬやう、先賢によって築かれた歴史的仮名遣といふシステムをより合理的に保繕整備し、信頼性の高い規格を提供してゆかうではないか。年あたかも契冲歿後三百年、宣長歿後二百年である。