平成疑問かなづかひ−假名遣標準化計劃
「生」の假名遣
『國語國字(181)』16.8.27
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「生」の假名遣はよくよく注意すべきである。
そもそも訓の種類が多い。はえる(はゆ)、はやす、おふ、うむ、うまれる、いきる、いかす、なま、き、うぶ。この内、「はえる」と「おふ」が、それぞれ ヤ行・ハ行 と活用が異なるので假名遣を誤りやすい。「はへる」「おいたち」などとしがちである。
| 自動詞 | 他動詞 | 古語 | 活用 |
| 生 | はえる | はやす | はゆ | ヤ行 |
| おふ | | おふ | ハ行 |
他動詞の「はやす」が ヤ行であり、文語も「はゆ」の ヤ行であることを考へればよいのだが、咄嗟の判斷に迷ふこともあるだらう。
「はえる(はゆ)」は、草木が芽吹く意で「生」、鮮かに照り輝く意では「映・榮」の漢字を宛てるが、元は同源の語らしい。切り株から出た芽を「蘖」と言ひ、「孫+生え」の意である。また「おふ」は即ち「生える」「生長する」意であるが、單獨よりも「相生」「生ひ茂る」「生ひ立ち」など複合語で目にする場合が多からう。また後述するやうに、地名人名では「ふ」と讀むものが多い。和語では全く異なる語が、たまたま同じ漢字に宛てられただけの現象なのだが、それにしても混同しやすい。
さて、
「はえ」には「生え」「映え・榮え」以外に、「
南風
」「
鮠
」もある。前者は中國・四國・九州地方の語で、特に梅雨明けの南風は「しらはえ」として、俳句の季語でもある。また「鮠」は「はや」の轉である。
「はへ」は「這へ」か「蠅」が主なところであるが、「延繩漁業」は動詞「はへる」に由來する
次に
「おふ」には「生ふ」以外に、「負ふ」「追ふ・逐ふ」があり、「笈」は「負ふ」の轉である。
「終ふ」は「をふ」であり、「甥」が「をひ」である事も注意したい。和語で「おう」となる語は無いが、「老い」がヤ行の「老ゆ」から來てゐる事も憶えておく必要がある。また字音となると「あう」「わう」「あふ」「おう」「をう」「おふ」と極めて多彩である。「奧」「王」「押」「歐」「翁」「邑」がそれぞれの字例である。「奧」はまた「おく」の讀み方もあるが、これは音か訓かよくわからない。
それでは
「生憎」の假名遣はどうであらうか。これは「あやにく」の轉であるから「あいにく」なのである。
「心ばへ」は前述の「延繩漁業」と同樣に動詞「はへる」に由來する。「心映え」なのではない。
「生まる」を「むまる」と書く場合がある。ただし「むまない」「むむ」とはしない。
字音は漢音せぃ、呉音しゃぅ
で問題はない。平安京の「 羅城門 」はまた「 羅生門 」とも書く。芥川龍之介の作品は『羅生門』である。「城」は「せぃ/じゃぅ」とかなり近い音である。
「棲息」または「栖息」を、最近よく「生息」とするが、「棲」と「生」はもと全く別の音であり、字音からもまた意味の上からも書換へ字としてふさはしくないだらう。
「棲」は唐土でも古來「セイ」の音であったのに對し、「生」はもと「シャング」のやうな音であった。朝鮮の藝者を「妓生」と稱する事などからも推測できる。
「來生」といふ姓がある。確證はないが、この「生」は恐らく字音に由來する。たとへば「相模」「當麻」のやうに、上代の地名などでは「ング」をガ行でうつしたものが多い。「來生」はよほど古い由來をもつ姓と見える。埼玉縣「越生」市の名は字音「生」に由來するかどうか全くわからない。群馬縣川場村の大字「生品」は漢字音の研究史上で有名である。この地の古名は「男信郷」。江戸時代に東條義門は『男信考』を著し、漢字音には「-m」と「-n」の區別がある事を論じた。平安時代末までは「男」と「信」の區別が保たれてゐた。朝鮮の「金さん」や香港の「譚さん」などはこの區別が今に生きてゐる例である。
最後に地名人名で「生」を「ウ」「オ」と讀むものは大概「ふ」である。しかし語によって少し異なるものも多いので注意を要する。
| 假名 | 讀方 | 例 |
| ふ | フ | 芝生、福井縣武生市 |
| オ | 粟生、新潟縣能生町 |
| ー | 麻布、賀名生、園生、芝生、丹生、柳生、桐生 |
| ぶ | ブ | 麻布、羽生、壬生 |
| ぼ | ボ | 小生内 |
| を | オ | 園生、英生 |
- 「粟生」の例は「葵」などと似た音變化なのであらう。
- 現代假名遣では「あお(粟生)」とするのに對して「のう(能生)」となり、發音は同じであるにもかかはらず、假名が異るといふ奇妙な状態になってゐる。
- 「小生内」は「をぶない」とも讀む姓である。
- 「園生」は「竹の園生」ならば「そのふ」で問題なからうが、時に人名で「園生さん」がある。この場合、「生」は宛字であり、本義は「男
」ではないかと考へられる。ただし「室生犀星」は「むろふさいせい」で問題ない。
以上、「生」一字だけでずいぶん多岐にわたった。
「生駒山」や「皆生温泉」などは取り立てて問題とするまでもなからう。これらさまざまな言葉の來歴をひたすら煩はしく思ふなら現代假名遣も合理的に感じるであらうが、少しでも科學的な探求の心ある人には、歴史的假名遣こそ盡きせぬ魅力となるに違ひない。