平成疑問かなづかひ−假名遣標準化計劃

じぼたれる

『國語國字(188)』19.7.13

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 『茶道辭典(桑田忠親編、昭和三十一年、東京堂)』に「じぼたれる」といふ項目が見える。

「鹽垂れるといふ言葉の訛。…一見侘びたやうであって、實は安っぽく、きたならしいやうなのを、けなしていふ俗語(原文略字現假名)」

 「鹽垂れる」といふ言葉そのものは古語に屬するであらう。それが意外な場所で俗語に殘ってゐる點、しかも「しほ」を保存してゐるらしく見える點が面白い。わざわざ「じぼ」と濁るのは、貶義の強調だらう。ハ行轉呼音は平安朝末期には亡んでゐるわけであるが、その古い記憶が蘇ったのかもしれない。

 古語辭典の「鹽垂れる」を見ると、多く三つの解釋をならべる。(一) 衣服などが水に濡れる(二) 涙で歎き悲しむ(三) 貧相になる、みすぼらしくなるどうやら「じぼたれる」の元は(三)にあるらしい。

 ところが『日本國語大辭典(第二版)』を見ると、(三)に限って(歴史的假名遣は「しをたれる」か)と注釋を入れてゐる。なぜさうなのか説明はないが、用例を見ると「古文獻にさうある」ものと讀める。もしさうだとすれば歴史的假名遣の定義上、斷然「しをたれる」とすべきである。

 しかしまた「それは考へ過ぎではないか」といふ皮膚感覺がつきまとふ。「漢字表記と調和しない」からである。もしたとへば辭書の見出しが「萎たれる」と書いてあったら、逆に「しをたれる」でなくてはをかしいと思ふだらう。歴史的假名遣は「語の來歴を尊重する」といふ事になってゐる。しかし本當に尊重してゐるのは「語の構成」ではないのか。

 ロシア沿海州の都市ウラジオストックを漢字で「浦鹽斯徳」と書く。外國地名で訓讀みの宛字は珍しい。戰前の文章にはこれに「ウラジホ」と振假名を施した例が少からずある。明らかに漢字に引かれた「行過ぎ」でありながら、表記としては妙に融け込んでゐる。

 今でも、たとへば「河合奈保子なほこ」「志穗美しほみ悦子」と書いて誰も怪しまない。筆者の高校時代、「伊從」といふ苗字の同級生がゐた。誰もが「イオリ」と呼んでゐたが、振假名は「いより」だった。「發音に從」ってはゐないのである。

 では何でも漢字優先かといふとさうでもない。「ござゐ(御座居)ます」とか「おもわく(思惑)」は誤りで、必ず「ございます」「おもはく」とすべきだといふ。わざわざ注意を喚起するのはもちろん漢字に引かれやすいためなのだが、特にこれらを「宛字」と強く意識するのは、動詞や形容詞の活用に矛楯をきたすからである。

 歴史的假名遣の大原則は、「音韻が合流する以前の文獻に從ふ」のであるが、現實には多くの「微調整」を施してゐる。私の觀察するところ、概ね三段階の序列がある。

 「鹽垂れる」の例は動詞であるものの、(甲)の活用語尾には關聯しない。よって(乙)の漢字表記が語構成の大きな手がかりとなり、「しほたれる」と判斷される。また(丙)の觀點でも意識は「しほ」+「たれる」であったからこそ、「じぼたれる」といふ俗語が誕生したのではないか。古文獻の用例はどうあれ、それが感覺として「常識的」なのだらう。だから日本國語大辭典の編者も(歴史的假名遣は「しをたれる」か)と判斷を保留せざるを得なかったのだと、私は思ふ。

 百貨店名の「そごう」は「十合」由來といふ意識が薄れたから、「そがふ」では却ってわかりにくからう。しかし潛水艦名「なだしお」や、短波放送名「しおかぜ」はどうだらう。固有名詞では(丙)が特に難しい。

かういふ「微調整」はこれまで明文化されず、辭書ごとの匙加減もあってはなはだ解釋に苦しむものである。自分のホームページ「平成疑問かなづかひ(http://homepage3.nifty.com/gimon/)」で、『正假名遣(平成十五年八月再修正版)』の改訂を目指してゐる。以下のやうな例は特に難しい。大方の御教示を願ふ次第である。