平成疑問かなづかひ−假名遣標準化計劃

きおふ

『國語國字(191)』20.11.8

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 「シクラメンのかほり」も今ではだいぶ昔の歌になった。ワ行をハヒフヘホで書けば何でも歴史的假名遣になるものではない。專門用語で「誤れる囘歸」と呼ぶ現象である。

 意氣込むことを「氣負ふ」と表現する。これは本來「競ふ」と同じ言葉だったから、漢字に引かれて「きおふ」とするのは、明らかに「誤れる囘歸」である。ただし實際には少なからぬ辭書が「きおふ」を認めてゐる。

 一方で「思惑」「御存知」など、好ましからざる宛字とされる言葉がいくつかある。「おもわく」「ごぞんぢ」では、文法などの説明に困るからである。さりながらどれも「きおふ」と全く同じ現象ではないか。なぜ扱ひを異にするのか。

 念のため確認すれば、歴史的假名遣は「平安中期以前の文獻用例に從ふ」ことになってゐる。つまり一義的には「きおふ」は明らかな誤りである。ところが現實に出版されてゐる各種辭書では、さういった例外が隨所に見られる。上述の定義では盡せぬ部分があるからなのだが、經驗則でひっそりと處理されてしまひ、まとまった説明を見たことがない。

 「おもわく」を誤りとし、「きおふ」を認める理由は大きく二つあるだらう。まづ「機能語や活用語は他の言葉より重要だから」。次に「競ふ・氣負ふはすでにそれぞれ異る言葉だから」。後者の理由はちょっと弱いが、いづれもなるほどと思はせるものはある。

 「思はく」「御存」のやうに、通常は假名書きする部分の假名遣は、漢字に隱れる部分に比べてより重要である事、これは誰も異論ないだらう。中でも動詞や形容詞の活用にかかはる箇所は、最も注意をはらふべきである。しかしそれなら「何でふ」「母ぢゃ人」のやうな語は果して「重要」な部類かどうか、はなはだわかりにくい。

 「氣負ふ」が「競ふ」の後身である事はほぼ明らかだから、いくら「異る言葉」だからといって「きおふ」と書いてよいとは言へない。しかし現實には由來の明瞭ならざる語はいくらでもあるし、江戸時代以來の「突き+据ゑ」で「つくゑ(机)」語源説などあっけなく否定されてしまった。從って漢字の標準的音訓を參考にするのは、それなりの合理性がある。それに「氣」を「負」ふとはなかなかよく意味を捉へてゐるではないか。

 ただし「漆喰しっくひ」のやうに、宛字は語義に必ずしも忠實ではないし、また安定もしてゐない。山手線「惠比壽驛」は「ヱビスビール」由來であるのは頷けるが、だからといって「今宮戎」まで「ゑびす」たるべしと主張するのは無理がある。

 結局、宛字どほりに讀むことは認めざるを得ないだらう。歴史的假名遣は常に現代のためにのみ存在する。なぜならこれから書く文、もしくは昔の文の手直ししか適用できないからである。「平安中期以前の用例」に從ふのは、さうすれば現代の事象がよく整理できるからである。表記法の目的は表記の安定だから、學術的正確さを求めて「誤れる囘歸」を許しがたく思ふのは野暮な話である。

 どうやら問題の核心は、「重要さ」といふ教育的價値觀を假名遣の書き方に持込む事の是非にある。近年の辭書では、次第に否定されつつあるやうだ。「それを言ひ始めると收拾がつかない」といふ判斷ではないか。たとへば『大辭林』の「えびす」の項には次のやうな記述がある。

…一般に「惠比須」と當てることが多く、この場合の歴史的假名遣いは「ゑびす」

また『日本國語大辭典(第二版)』は、同じ立場を更に徹底させてゐる。いくつか項目を列擧してみよう。

  1. きお・う きほふ【競・勢・気負キおふ
  2. おもわ-く おもは‥【思-・思惑ワク
  3. ご-ぞんじ 【御存・御存知

二通り以上の書き方がならびたつのは煩雜でもあり、歴史的假名遣的な語意識からすると違和感が殘るかもしれないが、すっきり理解しやすいし、實態にもよく合ってゐると私は思ふ。

 宛字は漢字圈の言語で普遍的な現象である。假借文字や形聲文字それに萬葉假名まで、元はといへば宛字であった。國字の「鳰」は「にふ」を音符にした形聲文字で「にほどり」を表すといふ。また新潟の「妙高めうかう山」はもと「名香みゃうかう山」で、その前は「越のなか山」であったさうだ。我が國の宛字は特に多彩で、興味が盡きない。