平成疑問かなづかひ−假名遣標準化計劃

字音假名遣研究の昨今

荒魂之會『會報あらたま』「春夏秋冬」欄、21.7.10

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 平成十二年刊『全譯漢辭海(三省堂)』は「スヰン(春)・シヰツ(述)」などを採用し、高い評價を得た。新しい研究成果を盛込んだ意欲作である。

 歴史的假名遣の定義は「平安中期以前の用例に從ふ」客觀的歸納主義だから、學術研究の顯現といふ印象がある。だが日常感覺はさうでもない。促音無表記の「にき(日記)」に倣って「てき(敵機)・てかむ(敵艦)」が至當だとも、「がくかう(學校)」同樣「にちき(日記)」がよいとも考へるまい。不都合な部分はさりげなく除外する、表記法として當然の作爲であらう。

 「スヰン」など上代の事實を重んじるのは、それを重ね合せて現代の秩序を求めるからである。つまり表記法にとって眞に大切なのは現代であり、この點で國語史研究とは目的が決定的に異る。理づめの文獻研究は「秩序を亂す」かもしれないので、必ずしも歡迎されない。

 「スヰン」の記述も「定義云々はともかく一般的な習慣と違ふし、一種の國語いぢりではないか」といふ聲があった。世間の人は歴史的假名遣そのものに對し、しばしばこれと全く同じ目で見る。どちらも表記法として、枠組が描けてゐないのである。

 實態と定義との乖離に飜弄され、とにかく字音はわからぬといったところが實感ではないか。もちろん個々の字音は辭書に載ってゐるが、たとへば「いう」と「ゆう」がどう異るのか、具體的な見通しが無いと「スヰン」などの新説を評價できない。漠然と「今後の知見に期待し、國語の自律變化に委ね」ても何も見えないだらう。

 宣長の『字音假字用格』は、表記法としてさほど惡い方式ではない。誤り多い遺物のやうに喧傳されるのは、國語史の考究としての評價である。我々は一千年前に「春」を「スヰン」と書いた事實を承知した上で、現代の漢字音として捨象すべきである。

 字音など書き分けるに及ばぬなら、すべて發音式でもよい。戰前に『廣辭林』など實績もある。しかし「いきがい(生甲斐)・こうし(格子)」を許容し、「ついぢ・つきじ(築地)」を使ひ分ける事に氣づいてゐるだらうか。現代假名遣でも「こんにちは・すわ鎌倉」に議論があるやうに、意外なところに影響が及ぶ。「字音」の概念さへ、じつは自明ではない。さういふ研究をせずに「學術的」な解決をはかってもうまくゆかない。

 例へば「ゲーテ・ギョエテ」を引合に「字音假名遣は外國語を精密に描寫する手段」とする奇説がでた。「表記の搖れ」との混同である。上代の人は「ちょう・てふ」が同じ言葉などと、夢にも思はなかっただらう。「現代の目で過去を見る」態度はいただけない。「スヰン」を批判するなら、「上代の國語として眞に定着したのか」「現代にあって區別を維持する意義は何か」を問ふべきなのである。


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