京都府龜岡市に「穴太(穴穗)寺」といふ名刹がある。由緒は古く、『今昔物語』の説話の舞臺になってゐるほどである。また西國三十三ヶ所の第二十一番札所としても有名である。この寺の假名表記は多彩で、「あなう・あなお・あなおう・あなおお・あなふ・あのう」の6種類にものぼる。一種類の讀み方を反映したものではないかもしれない。
私なりの結論から先に言へば、歴史的假名遣は「あなふ」が適當であらう。
各種地名辭典によると、所在地の地名も含めて現在は「あなお」が標準的である。「たふれる」を「タオレル」と讀むのだから、「あなふ」で無理はない。
手許にある西國三十三ヶ所の案内書をいくつか調べると5種類の表記があり、著者や出版社の所在地による偏りはなかった。また「あなおお」はネット上の檢索で見つかったが、一般的な書き方ではないやうだ。
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天文4(1744)年 大正15年 昭和10年 昭和14年 昭和初期 昭和42年 昭和45年 昭和47年 昭和54年 昭和55年 昭和61年 平成7年 平成9年 |
あなう あなう あのう あのう あなふ あなお あのお あなお あのう あなお あなおう あなお あなお |
強ひて推測すると、戰前までは「アノー」だったものが「アナオ」に變ったのではないか。江戸時代以來、三十三ヶ所の巡禮寺院には必ず「御詠歌」といふ和歌形式の和讚がある。穴太寺は
かかる世に生れあふ身のあなうやと思はで頼め十聲ひと聲
であり、「あな憂や」が掛け詞となってゐる。中世以來、この附近は「穴憂里」といふ歌枕だった事を踏へてゐるのだらう。いづれにせよ「アナウ」または「アノー」が古く、「アナオ」は新しいのではないか。
『大日本地名辭書』には類似の地名が8ヶ所あった。その多くは垂仁天皇(第11代)から安康天皇(第20代)までの事蹟に關係してゐるやうだ。「だから同じ由來の地名である」とは言へないし、何より肝腎の龜岡市穴太には特段の由來がない。しかしまた有力な反證も無いのだから、とりあへず「穴生・穴太・穴穗」は「あなふ」としてよいのではないか。以下、『地名』に他書からも補強して示す。
吉野郡賀名生(大和、300n)
舊名 穴生。南北朝時代の改名による。奈良縣吉野郡西吉野村(〒637-0103)向加名生 。正平6年、足利尊氏の南朝歸順と、これに伴ふ後村上天皇の京都還幸を祝して「叶ふ」意味をかけた改名ともいふ。
石上穴穗宮址(大和、282n)
安康天皇(第20代)は御名穴穗天皇。古事記に「石の上の穴穗 の宮にましまして天の下治らしめしき」。
中河内郡八尾村大字穴太(河内、325n)
孔王部首、穴穗天皇之後也(姓氏録)。いま八尾市に穴太神社あり。『地名』には振假名を施してないが、「あなほべ」に「孔王部」を宛てるのは字音王 と矛盾しないのか?
滋賀郡坂本村大字穴太(近江、484n)
志賀高穴穗宮、成務天皇(第13代)皇居なり。滋賀縣大津市(〒520-0114)穴太。穴太驛は律令による北陸道第一の驛。高穴穗神社あり。穴太衆は城廓の石垣積みの石工集團。
穴穗宮(伊賀、582n)
名賀郡阿呆村上津村、伊賀郡阿保郷、舊穴太。垂仁天皇(第11代)皇子息速別王の居邑なり、古事記に垂仁天皇の玉垣宮、御子伊許波夜和氣王者、沙本穴太部之別祖也、穴穗宮は下神戸に在り。いま上野市上神戸に神戸神社(穴穗神社)あり。
三重縣員辨郡東員町(〒511-0243)穴太は名古屋に近い別地。
三重縣安藝郡安濃町(〒514-2302)安濃は關係ないだらう。
穴穗寺(丹波、789n)
桑田郡曾我部村大字穴太、歌枕名寄り、穴憂里と録するもの此なり。菩提寺また穴穗寺。京都府龜岡市(〒621-0029)曽我部町穴太。
穴穗御埼(豐後、1387n)
海部郡、舊事紀「景行天皇(第12代)皇子 兄彦者、大分穴穗御埼別、海部直等祖」佐加關の御埼の古名にや。
穴太邊(下野3423)
猿島郡伏木、森戸村、雄略19年紀詔置穴穗部 穴穗者安康帝諱 帝無子 故定部曲 以爲御子代。
福岡縣北九州市八幡西區(〒806-0049)穴生