19年10月13日ころ以降にこちらからの返事がとだえた方は、お手數ですがメールください。データの復舊できない部分あり、御迷惑をおかけします。
日々氣づいたことなど整理して掲げる。問題ない限り、引用も歴史的假名遣にしてゐる。
まだ學生服を着てゐた頃、歴史的假名遣を書けるやうになりたいと、圖書館で目録カードを探してからほぼ三十年。國語の專門家はなぜ歴史的假名遣に冷淡なのだらうと、ずっと不思議だった。表記法と學術とでは見つめる方向がまるで逆なのだと氣づいたのはここ二三年ぐらゐか。拙ページ卷頭の挨拶文を少し手直しした。さういへば初めてページを作ってから、今年は十年を迎へる。何と馬齡を重ねた事か。
大學の同級生から讓り受けた戰前版の『日本隨筆大成』。久しく死藏してゐたが、讀んでみると滅法面白い。今年から少しづつ拔き書きしてゆかう。あくまで興味をひいた所だけ。引用文ばかりになるので、體裁も少し變へてみよう。卷數やページ數は戰後版と異るが、收録順はほぼ同じだから記入しても無駄ではない筈。誤入力などは乞御容赦。第一期第一卷から順に始めるため、後から插入する事も。
(T-1-40)○古今同文字なき歌、世のうきめみえぬ山路へいらんには思ふ人こそほだしなりけれ。
此みえぬのえとやまぢへのへと同音にとなふる時は、昔より假名づかひと云ふことはありけるにや。
(T-1-45)○古文眞寶秋風辭の註に、三韻一叶とあるは、微韻陽韻歌韻通ずるなり、末に六韻一叶とあるは、漁父の辭の註なるを、誤て秋風韻の下に置なり、漁父の庚韻、支韻、微韻、歌韻、灰韻、沃韻、合せて六韻一叶して、前後相まじへて文をなす也、古來より五山の僧種々にいへども信とするにたらず。
陽韻や庚韻は他の韻と相當に異った音だと思ふのだが、これでも叶韻になるのだらうか。それとも異るからこそ抑揚がついて美しいのだらうか。
(T-1-49)○鰯を女房の詞にむらさきと云ことは、あいにまさると云義なり、鮎と藍と和訓同じ。
これはまた驚くべき語源解釋!
(T-1-53)○藤原宇合はウガフとよむなり、馬養ともかけり、ウマカフとよむべきを略してウカフと云なり、是よみくせなり、是故に續日本紀に、宇合とも、馬養ともかけり、又大和國を、昔は大養徳國とかけり、近江國をば淡海國とかけり、不比等は淡海國を知行する故に、諡號に淡海公と云なり、續日本紀に見へたり。
(T-1-122)一、四聲 むかしの人は四聲をわかちて誦讀す、善道直貞博學にして、大學助陰陽頭などをつとむ、三傳三禮にくはしかりしが、此人四聲を辨せず、教授みな世俗蹐訛の音を用ゆるよし、日本後紀等に見ゆ。考安云、今高野の學寮に、しやうよみとて四聲をわかちて誦讀することあり、又其祕教の中にオコトの點を用ゆる者ありとぞ、彼處には古代の遺風存せるにや。
箱根を「
(T-1-273)○汝乃字訓、汝ナンヂト訓ス。又イマシトモ訓ス。
「
(T-1-276)又茨木郡ニ隨分付ト書テナムサツケト讀ム郷アリ。白氏文集隨分ヲナツサクト訓ス、眞字伊勢物語ニなふさくおもひはすべしと云フ、なふさニ隨分ノ字ヲ用ユ。隨分付ノナムサツケハ、なふさノふヲむノ音ニ讀ナルベシ。ふヲむノ音ニ讀ハ、樂ふ、悲ふノ類也。
茨城縣西茨城郡友部町(〒309-1711)
(T-1-277)○假名音 長文にわたるので適度に省略。
假名ノ四十七音ニテ何事モ書盡サレ、一言云フモ假名ニ當ルヤウニ云ヲ、ヨシト云ハ大ニ誤レリ。
[中略]
和名抄ニ、常陸國郡名河内甲知ト有リ、河内ノ假名カフチナレドモ、常陸ノ郡ハ今モ甲冑ノ甲ノ如ク、カツチ郡ト云ヲ、ガツチト假名ヲ付レハ
國語音は假名文字で何でも表現できるわけではない、また書いてあるとほりに讀めば必ずしもよいといふものでない、かういふ考へ方は現代の我々も案外にしないものであらう。促音表記の手段がないからカッチとカツチの區別ができない、それゆゑに「甲知」と書くのだといふ見方は鋭いと思ふ。同じやうな文章が(T-1-346)(T-1-382)など度々出てくる。「くゐ」「くゑ」などがなかなか認識されず、例外的な書き方のやうに考へられた理由が此處にある。
又菊加波良與毛木、俗云、本音重此外モ本音重ト和名ヲ注セル物有シカ忘レタリ。俗音ニ強ク當リテ云マデハ、假名ニハ書レザル故ニ、本音重トハ注セリト見ユ。元來華音ヲ訛傳タルヲ、又一轉シテ四十七音ニ約シタル故、モト他國ノ字音ノ轉ナレバ、此方ノ音ノ通リニハ書レヌヲ、後世ハ言語ヲサヘ假名ニ叶フ樣ニ云ヲ善事トス。今モ京家ノ音ト奧州ノ音トヲ、分テ書テト云ハヾ書ルベシヤ。外邦モ南京、北京音ハ大ニ異ナレドモ、字音バカリニテ通用スル故ニ、書レヌコトハ無キ也。
「本音重」の讀み方がよくわからないのだが、國語として定着したものは假名文字で書ける筈だといふ指摘は面白い。後段ちょっとわかりにくい。南京・北京は發音が大いに異っても、それぞれ系統的な音の表しやうがあるといふ意味か。
五方不同、共不用假名、字音バカリニテ、一字ノ義ヲ以テ通ズル也。(以下は日本の話)假名ハ假名ノ音ヲ集メテ訓義ヲ不書バ不通故、口ニ云如クハ書レヌ也。殊ニ華音ハ、平、上、去ル、入ノ有四聲、唇、舌、牙、齒、喉、舌齒、齒舌ノ七音アリ、七音各清濁アリ、清濁分レテ四トナル、清音、次清音、濁音、清濁音也。唇音ニ輕重アリ、舌音ニ舌顯、舌上ノ二音アリ、齒音ニ齒頭、細齒頭、正齒、細正齒ノ四音アリ。呼法ニ開口、合口、閉口、撮口、齊齒、捲舌、混呼ノ七樣アリ。此方モ口ニ云ニハ、此ニ似タコトアレドモ、假名ノ音ニハコノ一ツモ無レバ、假字叶フヤウニ云フコトハ不能也。口ニ云樣ニ假字ニ書コトモ又不能也。他邦ノ音ヲ以テ譯シテ、全ク寫スコトノ不能ハ和漢同一也。
「假名ノ音ヲ集メテ訓義ヲ不書バ不通故、口ニ云如クハ書レヌ也」といふ考へ方は、近代の人の思ひもよらぬところかもしれない。
(T-1-307)○梅假名
然ルヲ和名抄ニ、凝華舍[割注]牟倍豆保」ト有リ。梅ノ假名ムベト書クコト、他書ニハ不見及。可有仔細思ハル。千蔭ハ牟ハ宇ノ誤字ト云フ。倍ヲ何ノ誤トヤ可云。藤太冲云、是ハ當時京師ノ人、凝華舍ノウメツボヲムヘツボノ如ク呼タルナラン。其音ヲ移シテ牟倍ト書タルカ。是誠ニ然リ。河内ニハ皆加布知ト假名ヲ付タルニ、常陸ノ河内郡ニハ甲知ト付タリ。今モカフチトハ不稱。カツチ郡ト稱ス。是モ常陸音ヲ摸シタリト見ユ。
「mme」を表現し難くて「むめ・うめ」の搖れが生じたといふのが最近の定説だったと思ふが、このやうな地方差・時代差説も捨てがたい。
(T-1-308)○吉野國栖、結城野火
歴史ニ吉野國栖ト云ハ、津輕蝦夷ノ如ク、吉野ニ栖ム人ノ稱號ナルヲ、近日如何ナル人カ、葛ノコトト思ヒ、今ハ吉野葛トテ名産トシ、其地ヨリモ葛ヲ掘リテ出スハタハケナリ。
[中略]
さしも草のもゆるトハ、結城野ノ枯草ニ、野火ヲ放テ燒コト也。灸治バカリノ思ヒナラバ、僅ナ思ヒナルベシ。
(T-1-340)中華人文字ヲ作テ、倭奴國ト云ヘリ。倭奴國唐音ニテヲノコ也。ソレヲ略シテ倭ト云リ。其後日本ニテ美名ニ改テ和ト云フ。倭和音同ケレバ也。今按、如古説自凝義トスレバ、殷馭ノ假名オノコ也。
[中略]
然テ殷、伊謹、伊眞二切ナレバ、ヲノ假名ニ可用、殷馭ノ假名ヲノコ、
この拔書だけではよくわからないかもしれないが、伊謹切・伊眞切の反切ならば「オノコ」である筈。なぜこの結論になるのか、理解に苦しむ。
(T-1-392)假名ノ音ハ聞給ヘドモ、字ニ依テ義ノ異ハ所謂假名使也。行成卿清少納言ノ頃マデハ不破ヲ、俊成定家ノ時ハ失終タリ。枕草子ニ。すさまじきもの、おんなのけさうしたる、
[中略]
而ルヲ或歌書ナド少シ讀人ノ枕草子ヲ見ヲリテ、女ノ假粧セルガ何トテコハカラント云リ。
「をんな」と「おうな」など對比が面白いのだが、はて枕草子の何處の段なのだらう。
(T-1-409)唐太の地に、トナカヒと云ふ獸あり。
原文も「トナカヒ」なのだらうか。
(T-1-510)重語。
東海談に、物の
御字
常の詞に、おみおび。おみあはせ。おみおきう。おみをつけ。おみあし。などいふも重語に似たるやうなれ共さにあらず。
なるほどなるほど。
(T-1-567)○をかしおかしのかなの説
以下、597ページあたりまで、「をかし」「おかし」の論が續く。いま注目する價値はないやうに思ふが、何となく氣にかかる。(T-7-382)も同樣。
(T-1-595) 又同書(『古言梯』)に【もちゐもちう】
此假字見へずしばらく是による
用とあり、これもわか翁は思ひよられたる事もあるうへに
[中略]
【おふせ】
於不世於保世
と古言梯にもあり、人に命し仰する事にて、令屓事なれど、二さまにかけり、又いぬゑぬうはらうまうなと、物の名には二さまにいふ事いと多かり、和名抄に牛馬類に無萬とも宇萬とも、二さまにいへる事多し、同書に万宇智岐美とあるを、北山抄江宗次第には未布知君とあり、かヽる事いはヽいくらもあるべし。
「おほみわ・おふみわ」など以前から氣になってゐた。「かふち・かうち」は時代差で説明できるのだが。
(T-2-126)
山城國紀伊郡に佐比の里あり、三代實録貞觀十三年閏八月に制有て百姓葬送の地を定め給ふ
長々と引用したが、「さへのかみ・さいのかみ」の關聯である。佐比大路へ言ひ及ばぬのが惜しい。
(T-2-223)○十市の假字
北邊隨筆云、續千載集、宣子、「露わけてやとかりころもいそけとも里はとほちの野へのゆふくれ、遠は、古は、とほ、今とふ、十は、とをなれはいつれにてもかよひかたし」といへり。今按に、拾遺集、雜賀春日の使にまかりて、かへりてすなはち女のもとにつかはしける一條攝政、「くれはとく行てかたらむあふ事のとほちの里にすみうかりしも、これも同しく遠き意にいひかけられたり。そは和名抄に、大和國郡名十市止保知とあれは、ふるくよりしかとなへしなるへし。記傳に、十はトヲなるをトホと云は地名なれは後に訛れるなるへしとあり又筑前國遠賀郡十市、止布知ともかけり。されはひとり續千載集のみとかむへからす。
『平家物語』の「シイを拾ひて世を渡るかな(源三位頼政)」や、百人一首の「世をウジ山と(喜撰法師)」など、假名遣の矛盾はほとんど時代差で説明できるのだが、「十市」や「絲遊」のやうにどうにも不思議なものがいくつかある。「とふち」とも書くところをみると、實際の發音は「トウォチ」ではなかったものか。
(T-2-27)○梅の假字
梅の假字、万葉集にては、まさしくうめなれと、古今集、貫之主の自筆の本といふにむめとあれは、古今集已後の假字には、むと書方よろしとて用る人あり。おのれいまた其自筆の本といふものは見されとも、古今集物名に、梅あなうめにつれなるへくも見えぬかなこひしかるへき香はにほひつヽ、とあり。これはあな
(T-3-69)和名類聚鈔、國郡部下總國、千葉郡の郷名に三枝あり、又加賀國、江沼郡の郷名にも三枝あり、この
以下、「さきくさ」の考證が續く。馬琴の博搜驚くべし。
(T-3-84)又彼ノ一名くまのいの義は定かならず、今試にこれを釋ば、くまのいは
(T-3-123)第三(宿禰スクネ)は
「くゐ」「くゑ」を反切と解釋する例は他にも多いやうである。
(T-3-286)○とみに
とみにといふ詞は、師説に土佐日記に、とにヽともいへるをおもふに、頓字の音なるべしといはれたり。
(T-3-297)もぢずりを戻り摺れる事とすることは、古き注などの説も皆おなじ。但古き説に、髮をみだしたるやうにすりたるなりといひ、石に戻の紋あるをすりたるなりなど有は心得がたし。いにしへ陸奧より摺たる布を出せしを、しのぶずりといへけるが、そのさまもどろかしみだれたれば、もぢずりといふ名は有べし。
(T-3-324)○宇合稱號考
藤原の宇合を、續日本紀の舊點にノキアヒをよみ、水鏡にウカフとよみたり。水鏡印本に、宇合と字に書てウカフと點あり、作者のかくよみたるか、又印行の時後人のつけたるかつまびらかならず、加茂翁の萬葉考には、これを改てウマカヒとよまれたり。
[中略]
宇は上聲の字なればウヽと引たる音なり。よりて下の字をマと轉用しものなり。ウマをマと轉用せしは、紀中に改大倭爲大養徳といふ事見え、和名抄に、安藝國賀茂郡也萬久爾とあるなど、ウを引たるをマと用たるおなじ例なり。かつ古は字音の引くこゑをば、吾國のことばの通ふ例にならひて用しことありと見えたり。こは例多くあり、ことしげヽれば今こヽにいはれず。ウとマと吾國の詞のかよふことは、オハシマスをオハサウスといひ、タマハルをタウヘルといふ類にてしるべし。又合をカヒと用たるは、合は入聲の字なれば、韻を波比不閉保に廣く用る事古の常なり、國郡の名などに、その例多くあり。合をカヒといへる類をいはば、和名抄に、播磨國揖保伊比保薩摩國給黎岐比保とある是なり。揖も給も入聲の字にて、イフをイヒ、キフをキヒと用たるなり。さて合もカフとカヒと用たること明らけし。かく古の字音の用ざまをくはしく考へみれば、ウマカヒとよまるヽ事、なにのうたがふべき事もあらざるなり。
聲調の問題ではないと思ふのだが。またウ音便との混同も惜しいところ。
(T-3-354)○大養徳國
この假字國史に所々に見ゆれば、かならず脱字にはあらざる事なり。是はたヾ養字をヤマの假字に用ひたるものとおもはる。養をヤマの假字に用たる事は、多くいまだ見あたらねど、古の假字の用ひざまにはかヽる類あり。藤原宇合を馬養とも書たれば、ウマカヒとよむべき事明なり。これは宇は上聲の字にて、ウヽと引べき音なれば、宇をウマの假字に用ひたるものと見ゆ。是をしばらくウの引聲をマとなしたる例とせんか、又甲をカウともカハとも、筑をツカともツクとも、色をシキともシカともつかひたる類は、通音なれば論なき事なれど、通音にもあらで、
以前から「さはら(早良)」が不思議だった。最後の箇所の見解もよい。
(T-3-357)○つかうまつる
これをつかふまつるとかくは誤なり。
「向田」「向島」はどうなのだらう。
(T-3-554)しかれば今
[中略]
今櫛に作る
(T-3-772)道神。和名たむけの神。夫木集に。仲正。
鳥居立あふ坂山の堺なる手向の神よ我名いさめそ古今集の序に。所謂相坂山に祈手向是也。凡。山の頂。登り降りの堺。謂之峠。峠字和俗所制。當用嶺字也峠の字訓たうけにて與手向通ず。山坂巓末必祭神。故にこれをたうけと名づく。往來の人爲手向也。
(T-4-107)日本書紀の訓點は、前にも云如く、勅に依て名經、紀傳の博士家の定められし所也。然るを近世岡部眞淵、本居宣長等妄りに古點を改て、をのれが新點を加ふること、僭踰の罪逃るべからず。凡そ勅撰の書は、一字一點も妄りに増減取捨する事は國津罪にして、律令の許さヾる所也。
[中略]
學問のしかたは委く學令に見えたり。是古大學寮にての御定め也。異邦の書典すら如此、いはんや國史に於てをや。
うーむ。
(T-4-111)契沖が説より(眞淵の説は)又よき事もある也。説の上を琢きたるはよけれども、琢過てあしく成たり、されども契沖が説より又よき事もある也。それよりも後も萬葉に心を用たる人も少からず。予云、(北村)季吟の説は手弱女のごとく、契沖、眞淵の説は益荒男の如し。この男女をあはせて始て萬葉をとくべし。
「國津罪」だから内容も駄目といふ批判でもないやうだ。
(T-4-112)假字用法は大切の事也。これに古今の二法あり。然るに今の古學者は、古假字のみ取用ひて今假名を誤としすて、當時の歌人は今假名のみ知て古假字をしらず。いづれも未這(マヽ)の事也。古書は古假字にて明に解し、和歌は今假字にて書用せざれば、かへりてかなしらぬ謗を受べし。これ古今の二法偏廢すべからざること明也。くはしくは予かなづかひ辨にいへり。
「今假名」とは定家假名遣の事なのであらう。
(T-4-667)○鵠ノ臺(國府台) 下總國葛飾郡鵠ノ臺ハ、景行天皇日本武尊東夷征伐ノ後歸路ノ時、市川(利根川、鬼怒川ノ落合也)ノ流水ニ臨テ、淺瀬ヲ辨ヘ兼給フ時ニ、鵠俗ニ白鳥淺瀬ヲ渡ル。尊白鳥ニ向ヒ高聲能淺瀬ヲ教、永ク汝ガ住所トセヨト宣フ。仍テ鵠臺ト云。
地名説話の典型に見えるが、「こふ」はよく合ふ。
(T-4-744)縣居翁は古意をもとヽして、古書を腹にあぢはへて、歌をもよまれしなれば、しひて後の世の歌よみのやうに、隱題など好みては、よまざれしが、或時のうたに
擬萬葉集歌體剩隱魚名十歌歌の意味は?
ぬきすたひはきあかつをはえしもみすしひこちいふかかしこひとたち
(T-4-746)上にいへる縣居翁魚名十の隱題の歌のちなみにいふべきをわすれて、今こヽにあぐ。
蟲名が秀逸かと見たが、後半は何の蟲なのかよくわからない。國名はわかりやすい。十二支 荷田東萬呂
たつねとひつしにいぬるみちはさとりうともうまれゐるよをさとらさるうし鳥名十 作者不知小野古道友人
うかりけりたひはきしかたゆくさきもすかたやつるとひとのみむかも同 枝直
やまたかみさこそひかりもすむつきのいつるにほひはまちうからすや草名十 同
あさましやあふひもしらにこもりゐてうとしさひしとなきやあかさん木名十 同
おもひつヽしのひははてしきみなくはなにとかならんなかきゆくすゑ
くりかへしかきつくすともヽしひとのみやとかむへきえやはしのはむ
虫名十 同
ありあけのかけのみしらみゆくものをさしもあふてふなをいかにせむ國名十 同
あはれあきの草につゆおきつきいてはいきてあはましまちもするかに
(T-5-7)○詩賦ハ聲韻ノ學ナリ、詩ヲ作ル者、聲韻ノ學ハ講ゼズシテハカナハヌコトナルニ、本邦近時ノ詩人白石、南郭、蛻巖ノ諸大家ヲ初トシテ、皆聲韻ノ學ニウトキ故ニ、其詩聲律ヲオカセル作多シ、
(T-5-8)故ニ今ノ唐人ニ出逢テ、何ニテモ言語ノ通ズル樣ニト志シテスルシカタハ、先ヅ第一俗語ニV煉シ、其所々ノ郷談ニ熟シ、聲韻ノ雅俗正否ヲ論ゼズシテ、唯々ドウナリトモ、其唐人ノ國々ノ言語ノ通リニ從ヒテ似セ合セザレバ用ニタヽズ、又手前ノ受用ノ聲韻ノ學ノタメニスル唐音ノ稽古ハ、大ニ是レニ異ナリ、今ノ唐人ニ通ジヤウガ通ジマイガ、ソレニハ嘗テ頓著セズ、唯々諸韻書ヲ考ヘテ、古今ノ變、雅俗ノ別ヲ辨知シ、得失ヲ正シ、是非ヲ明カニシテ、其本來眞面目ノ正音ノミヲ操シ、今ノ長崎ヘ來ル呉楚閩越ノ唐人ドモノ、操スル郷談聲音ハ、足下ニフマヱテシツブシテカヽル、是レ學問ノ受用聲韻ノ學ノタメニスル唐音稽古ノ仕樣ナリ。
[中略]
故ニ今ノ唐人ニ何程ヨク通ズレバトテ、ソレヲ正音トハイワレズ。然ラバ今ノ唐音ハ、皆今ノ唐人ヨリ學ビシモノナレバ、ソレヲ稽古セズトモ、最初ヨリ諸韻書ヲ考ヘテスムベキコトナリト思フ人モアルベケレドモ、ソレハ又左ニ非ズ。日本ノ音ニハアタマ字ノ四聲分ラズ、脣、舌、牙、齒、喉、半齒、半舌ノ七音モ分ル字モアリ、又ハキト分ラヌ字モアリ。輕重ノ二ツモ分ラズ、又清、濁、次清、清濁ノ四ツモ分ルヽ字モアリ、又ハキト分ラヌ字モアリ、是等ハ韻學ノ大關係ノコトナルニ、倭音ニテハ其音皆辨別シガタシ。今ノ唐音ナニホド謬リテモ、謬リナガラ其差別ハ皆明カナリ。是レ等ノコトバカリニテモ、聲韻ノ學ニハ、唐音ハ學バデハカナワヌコトナリ。
現在でも全く同じであらう。
(T-5-9)尤モ夢溪筆談ニモ云ヘル通リ、孫炎ガ反切ノ法無キハルカ以前ヨリ、古語ニモ二聲ヲ合シテ一字トセシモノアリ、不可ヲ叵トシ、何不ヲ盍トシ、如是ヲ爾トシ、而已ヲ耳トシ、之乎ヲ諸トスルノ類、是テ反切無キ以前、天地自然聲韻ノ理ニテ、切字ノ源ト云ベシ。
「
(T-5-190)今按に、えりはもと縁一字に當り、領はくびの一言に當るならむ。くびの事は云にもおよばず、
ころもくびは
襟也。と新撰字鏡に見えたり。
えりといふものはもと、縁字の音にて、これは奈万之奈にいひおける(ン)韻の字にて、(ム)韻にはあらざるゆゑに、かの信をしり、篇をへり、訓をくりとする類にて、エンをゑりといへるならし。
[中略]
附て云、はぬる韻の文字どもに、(ン)と(ム)との差別をいふとして、韻鏡開合兩轉にてわかる、などといふもたちがたく、又ふつに差別なし、とおし決むるは、ことに暢らぬ漫言ぞかし。(ン)と(ム)の別は必ずあることなるを、此縁字は、即其エンにて、エムにはあらざるなり。かくて(ム)はりとなる事なく、(ン)はりとなる事、例多かる事なり。但御國語にては、もと正しきは(ム)なるが、音便に(ン)を變るなど少からで、物かくに、曰んとかくと、曰むとかくとをわくべし、などは強て云ひしらふまじき事にて、むさし武藏をかくして、「しをりせむさしてたづねよ云々と。此哥人丸集、と名ツけたる集に載せたるは、あらずとも、古き事はふるきなり。」よめる如き、すべて將然言を受たるんは、むなる事うつなければ、それをば何處にては(ん)、いづくにては(む)、とかくべしとやうのさだめは、かへすがへすもなすまじき物と明らむべきなれと、それ書あらはすに、所謂撥る韻の文字してものせん時は、しをり
[中略]
日本紀古事記に件の、(ン)韻(ム)韻の字を
(T-5-271)○五三昧と云は、化野、鳥部野、華頂山、狐塚、
西院といふは、古の寺の跡ともいふ、又は齋院とも書て、賀茂の齋院此所と云誤りてあり、今の處に森あり、是齋宮なりといふ、今妙心寺の十景に齋宮杜といふあり、此處をいふ歟。
(T-5-466)今のすみを額に入る事は、十川一存より始りて、十川額と云といへども、ひたひを高くそり上たる事を仕始と云がよし。
香川縣の
(T-5-505)添水、又は玄賓僧都つくられたもの故に、僧都とも云來る、又は我巨々とも云。これは添水になる音のつきて、直に名になる事なり。
[中略]
一ぱい入るとよこにうつぶせて水ながる、そのながるヽとき下の石ありて我巨々々となる、玄賓僧都は天台とみゆ。慈悲ふかき人にて、人の施物をうけて、それを農人にほどこして、農器をさせてよろこぶ。それより耕作の時は、ひたと出かりとると云はず、それによりて吾身の僧都にひきかけ、山田守そうづの身こそかなしけれ秋はてぬれば問ふ人もなし、の歌よむ。
だいぶ強引な語源説
(T-6-141)○高向玄理ノコト
同書(日本紀)孝徳二年九月ノ下ニ、遣小徳高向博士黒麻呂於新羅而使貢質トアリ。註黒麻呂更名玄理ト、玄理ヲ書ニヨリテハルマサト點アリ。是ハ後世ノ名乘ヨミニテ付タルモノニテアヤマリナリ。黒ト玄、トマルトオサマルトノ縁ヲトリテ玄理ト書タル也。訓ハ日本ノコトバニテ、字ヲ漢樣ニ通ズルヤウニセルナリ。後世二字實名ノ漸ナリ。人丸ナラバ仁理トモ書ベキニヤ。
なぜ「くろまる」と讀むのか合點した。しかし「たかむこ」はどうなのだらう。
(T-6-185)○念字ノコト
[中略]
シカレバ念ヲ廿ト聲チカキニヨリテ、ソノカミ二十ヲイミテ念ト云、後世遂ニ廿ノ字ノ代リニ書トミユ。
p入聲とm韻尾と近いのだらう。
(T-6-189)○弔字吊字ノコト
品字箋ニ、吊俗弔字、
[中略]
イヅレモツル義ナリ。天吊書ニヨリテ天釣トアルカト覺ユ、釣ノ字ノ音ヲカリテ、吊ノ字ヲ用ルトミヱタリ。
(T-6-250)阿波國
高越山のことにちがひない。このページは活字でなく影印で「カウヲツ」。現稱はコウツだから「かうつ」でよいのだらう。
(T-6-712)希布の里よりおり出せし布ならずとも、白布の事にいへる也。俊頼口傳上卷には、鳥毛にておりたる布也とあり。希婦は陸奧國の名所にて、狹布を出せり。奧羽觀迹聞老志十二の卷、郡縣不詳の部に、狹布里、哥枕、古傳云、郡名也。而當國無此郡名如何。衣笠内府歌郡也。或曰。只是布名云々。或説曰。今此村落、在南部境内、舊蹟遺聞三の卷に、希婦は鹿角郡古河村といふ所を、けふの郷といへり。今はわづかの村のみ殘れり。けふの郡など見えて、古くはつたへしところ也。
(T-6-753)
二月以來の多忙が一段落。
京言葉の 二つの「え」の話〜『古言衣延辨』 が秀逸。いづれ『疑問』にも引用反映させていただきます。感謝。
「Youtube」に「中古漢語語音教程」が上ってゐる。中古音で讀んだ唐詩、上古音で讀んだ數詞や易經などもあり。上古音の復元朗讀は初めて聞いた。ちょっとぎくしゃくした感じ。
隨筆ばかり讀んでゐるわけではないので、積み殘しをいろいろ。
そのほか、『日本の歴史6、王朝と貴族(集英社)』208nに、
刀伊といふのは夷狄のことで、高麗人が北方の女眞族をそのやうに呼んだのである。『日本民謠集(岩波文庫)』319n「鰹節造り唄」に、
土佐のヨー、うすばえでとあり。「はえ」は岩礁であり好漁場。
(T-7-385) 假字のみだれたるも、この音便よりみだれたるなるべし。譬ば筋向を正音にすちむかひと唱ふるときは、假字みだるべきにあらず。然るを音便にすぢかいと唱ふるより、すぢ、すじの假字みだれ、むかひ、むかいの假字もみだれたり。上古
明らかに迷論だし、前半と後半に飛躍がある。
(T-7-675) 春臺云、字彙ハ洪武正韻ニ據テ韻ノ數少シ大マカナリ。今ノ華音ニ合ナリ。故ハ今ノ華音ハ色々ノ人マジハリ、音古ノ韻ニ非ズ故也。古ノ韻ハ然ラズ。ソレユヘ陸徳明傳釋文、古今韻會、増補韻會ナドハ古韻ナリ。玉篇モ古シ。皆日本ノ古ノ音ニ合ナリ。ソレユヘ古書ヲ註スルニハ、字彙ニテハヨカラズ。玉篇ノ陸徳明、韻會ニテ音註ヲスベシト也。文雄京師寺住持ナリ、モ韻學ハ全ク春臺ノ教ニヨラレタルナリ。
(T-7-676) 僧契沖、
[中略]
又シツタンヲ學テ、韻學ヨリ字音ノ合ザルコトヲ吟味シテ、國字ノ訓點ニカヽリ、萬葉ノカナニカヽリ、古キ書ヲヨミテ日本紀古事記等ニ及ベリ。
(T-7-724)牛王とは、
(T-8-88)○假名遣
[中略]
契冲法師、和字正濫鈔をつくりてのちこそあれ。假名の事、いまだひらけざりし世のさま、おもひやるヽ事なり。
(T-8-90)○音の存亡
又云、あがりての世には、人のこゑ五十ありけらし。そのヽちふたつはやうやううせて、あめつちの歌のころは、四十八になりぬ。それが又、ひとつうせたる世に、いろはの歌はいできたり、いろはの歌、四十七のうちに、今はよつうせて、四十四のみぞある。かくのごとく、音のうせゆくにしたがひて、かんなづかひといふ事いできにたり。かんな、女もじなどは、いふかひなき女わらはべまでも、心えやすく、もちひやすからんが爲に設たるを、今は、かんなかく事だに、ならひあることのやうになりたるは、口にいふところみだりがはしくなりて、かんなもじさだめたる世と、たがひたればなり。世うつりゆかば、四十四のうち、又ぞうせなむ。かくうせゆく事、こともじにはあらず。あ經、や經、わ經、五十韻をば、亡父、經緯といへり。このみつの十五音のうちなり。今は、あ經はみな殘り、や經には、いえうせて三音あり。わ經には、わ經みは、わのみのこりて、ゐうゑを皆うせたり。いろは歌の時、や經のいうせて、ゐふたつになり、わ經のううせて、あ經のうひとつになり、や經のえ、うせて、あ經のえ、わ經のゑふたつになり、あはせて三もじうしなはれたるも、世すでにくだりたればなり。今はまた、いろは歌の、ゐゑをともにうせたるがゆゑに、かんなづかひといふ事いでき。
さてのちは、口舌にわかちたる物なりと、いふ事をもしらぬやうになりて、かんなをつかふ時に、さだむるもじのやうにおもへるがゆゑに、明魏は、さる歌くちの人におはしけれども、かんなづかひは、いるまじきよしいはれたるは、なげくべき事なり。たとへば、今いくよろづよをへて、やわあの三音、もじは、かはれども、こゑはうせて、あとなり。をよの二字も、こゑうせたらん時も、明魏にしたがはヾ、いにしへをしたひ、ことをさだめむ人、なにヽよりてか言のこヽろをも、わきまへまし。ことの源をきはめずして、流にしたがひて末におもむく人は、明魏がひがごとをいひ出すべし。よくしらずばあるべからず。
此みつをうしなへるのみならず。こゑの輕重をうしなへる事多きによりて、いよいよ假名づかひの事、しげくなれり。輕重とは、はひふへほの、わゐうゑをにまがふ事なり。御杖云、「はひふへほ」を、「わゑうゑを」の如くいふは、いはゆる清濁音也。これらさへ、いにしへは、さだかに口舌にわかちたるを、となへうしなひて後は、かんなにてさだむることヽはなりにたり。いにしへ、神樂、催馬樂などをうたふが如くに、「こひは、子火と聞えて、こゐとはいはず、「あふも、安婦ときこえて、おう とはきこえざるべし。これらのまどひなかりけるゆゑに、いにしへは、いふかひなきわらはべ、もじかヽぬ女などの、口にまかせてよみたる歌も、かんなのたがへる事はなかりき。今はいうそくの人だに、かんなづかひをまねびきはめざれば、たがふ事のおほきは、口にならはずして、書にならふが故なり、枕草子に、「えぬたきといふ人の名あり。かヽる名の、今のよにありて名のりたらば、えは、いづれのえぞと、とひ聞て後ならでは、かんなにも、女もじにはかヽるまじきを、その比は、やすらかに口にきこえたれば、疑なかりしなり。今の世の人の名に、治右衞門あり。次右衞門あり。京人はたヾ同じやうによぶ故に、したしからぬ人は、消息などにもさだめかねて、次郎の次をつきたる人に、治部の治をかき、治右衞門に次右衞門をかきたがへてやれども、その人も、こと人かなともあやしまず、みづから次治などさだめてかきたるを、みしりたる人、はじめて疑なくなる事、わづらはしくも、荒涼にもおぼゆるを、筑紫人は、よく口にわけて、治はちもじの濁れる、次はしもじの濁れるなりと、よく聞ゆるは、げに筑紫は、みかどのもとつ御國なるしるしなるべし。和名抄に、諸國の郡名、郷名などをかけるに、かんなづかひたがひたるあり。これはその國々の詞だみて、いひうしなへるをみせたるなり。今の人も、都の詞、ひなの詞かはれる故に、いふ所、みな和名抄の郷名のたぐひになれり。
かんなづかひは、京極黄門のさだめさせたまひて後、其沙汰まちまちにして、おぼつかなかりしを、ちかき世、契沖がよくわきまへたるにより、はじめてことさだまれヽど、いにしへより、理につきて、もじを定められし事とのみ心えられけるにや。口角にわかつべき事とはいへる人なし。千慮の一失といふべし。またあ經のお、わ經のををおきたがへ來れるを、わきまへたる人なし。今、紀伊、基肆のたぐひをもて、囎唹をおもひ、又、もじあまり反切のよしをおもひ、かつ催馬樂の譜などにも、をこそとのヽ列のもじを引聲するに、乎々とはかヽずして、於々とのみかきたるにて、はじめてこれをさだむ。後の人よくみさだめよ。御杖云、此「おを」の置所たがへる事も、また他家に同説ありとぞ。人の説をば、亡父かく書くべきやうもなし。猶かのもじあまりの説なども、たヾものヽはしにかきつけ置て、今まで世にしめさヾりしかば、亡父が説とは、しれる人のなきなりけり。木居を戀によせ、藍を逢によせたるは、もとより誤なれど、さすがに中古のひとの誤にて、いにしへのおもかげありて、よせたるこゐ、あゐ、みなゐなり。ゐは、かろく唇をうへの齒にあてヽいふ。ひの輕音も、いにしへは、今のやうにまたくいとは聞えずして、唇を齒にあてヽ重くいひたるべければ、ゐをひにかよはせたるは、今の人のみだりがはしさには、いたくたがひて、しかるべき事なり、さればよヽの先達も、もちひられたり。これならずとも、ゐをひにはおしてもちふるも、心にくかるべし、といへり。
御杖因ニ云、これらの説によりて、げに假名づかひは、音をもてこそさだむべかりけれとさとりて、おのれわかヽりしより、經緯に心をいれて、おもひよれる事もあれど、こヽにはもらしつ。
細かい事はともかく、全貌を的確にとらへてゐると思ふ。長文にわたるため、適當に改行。
(T-8-172)○賽河原
伴蒿蹊が閑田耕筆に、山城國紀伊郡に佐比の里あり。三代實録貞觀十三年閏八月に制ありて、百姓送葬の地を定たまふ條に、下佐比、上佐比をも其地と定らる。佐比寺は延喜式にも、九原送葬之輩、更留柩於橋頭と見えたり。世に佐比の河原を、冥途にて小兒の集る處とし、且地藏尊これを化益し給ふといふは、此葬處に小石塔多く、或は石像の地藏尊も有しより出しならむと、或人のいへるはさもあるべしと見えたり。
(T-8-251)○難定かなづかひの論
近頃圓珠契沖あざりが勢語臆斷に、初冠のかなを、うゐかうぶりと書來れるを非とし、古今集、貫之のさうびといへる、草の名をたち入れて詠める歌、
我はけさうひにぞみつる花の色を仇なるものといふべかりけり
といふを引て、證としうひと改られしより、眞淵、宣長のぬし達も競ひて、古人の詠みし物の名の歌をとりて、古假字の證とし、且秀句に逢を藍にいひかけ、戀を木居にいひかけたる歌をば、皆假字ちがひの秀句とて、古哲の歌とても取用ぬことのやうに云ひけなすなど、極て僻言とぞおぼゆる。余をもてこれを論ずれば、古人は物の名または秀句などには、唯しらべのみを取て、假字づかひに拘らざりしことヽ覺ゆ。今其一二を擧て論ぜば、先戀を木居にいひかけたるは、
後拾遺左大臣、作者部類、俊房公、
我れが身はとかへる鷹となりにけり年はふれどもこゐはわすれず
新後拾遺、太宰重家、
御狩野のつかれになづむはし鷹のこゐにも更にかへりぬるかな
また逢を藍にいひかけたるは、新後拾遺、俊成、
頼まずはしかまのかちの色を見よあゐそめてこそ深くなりけれ
詞花集、道經、
わがこひはあゐそめてこそ増りけれしかまのかちの色ならねども
又椎を四位にいひかけては、頼政家集、
のぼるべきたづきなければ木の下にしひをひろひて世をわたるかな
又木綿を言にいひかけたるは、新後拾遺、前關白太閤、
つれなさを祈るとだにもゆふだすきかけてや人に先しらせまし
又夕を言にとりなせしは、貞徳家集、五條花開の家にて會ありしに夕顏を、
小車のむかしのたちと名にしおはヾそこぞと我にゆふがほのはな
又小倉を置にいひかけしは、續古今、定家、
露霜のをぐらの里に家居してほさでも袖のくちぬべきかな
是等皆秀句のかなづかひにかヽはらず、ひヾきをのみとれる證とすべくして、後世これをとがむるはいかにぞや、こはとまれかくまれ、物の名をたち入れてよめるを、假字格のあかしとするの必しかるべからぬよしは、蕉の字音シャウの假字なるべきを、古今集、素性法師、さヽ ひは ばせをば といふをたち入れてよめるに、
いさヽめにときまつまにぞひはへぬる心ばせをば人に見えつヽ
といへるを證として、ばせをと書くぞをかしき。又多武峯中將物語に、郭公をかくして、
山路しる鳥にわが身をなしてしか君かくこふとなきてつげまし
是に證せばクワクコウをも、かくこふと書くべきや、又いみじうをかしきは、拾遺集、物の名に紅梅、
鶯のすつくる枝ををりつらばこをばいりてかこまむとすらむ
是を證として、紅梅の字音を假字に書かむに、コヲバイと書くべきや、不通の論といひつべし。さはれ皇國は字音には、かヽつらはぬといはヾ、するみ俊成、定家、頼政の如き、先哲にして、大和言葉の假字知りたまはぬと云べきや、されば眞淵の用をもちゐといふ、何れの假字とも定めがたしとて、もちゐと書かれしを、宣長は夫木に、
千代までもかげをならべて逢見むといふはかヾみのもちひざらめや
とあるを證として、もちひの假名と定められしも、必とはし難き事也。さるを高田與清が、擁書漫筆には、古より比爲相通ぜし考をのべて、大炊寮は大火司のよし成るべきに、和名に於保爲乃豆加佐をかき、神樂歌に圓居を滿登比、法華驗記上卷に、山城國の神南備を神奈井、舊本今昔物語廿卷十一語に、池のそこひを底井とも書けるにて知るべし。されば堀川百首下卷、頼政集下卷などに、逢初に藍染をよせ、平家物語四の卷鵺の段、源平盛衰記三位入道歌の段、飛鳥井集上卷などに、椎に四位をよせ、夫木抄廿七卷鷹の木居をよせし類もいとおほかるも、ひがことにはあらずといはれたるは、いとよく心附たりと云べし。然はあれど、比爲相通と心得られしは猶いまだし。上に引かれたる、於保爲、滿登比、神奈井、底井などは、多くも有らねど、全く音便より誤寫なるべし。既に上に論ずる如く、歌の秀句は假字づかひに拘らず。又物名たち入れたる歌は、假字づかひの證とすべからざる説は、余がいまだみそぢにみたぬころよりして、洦泊舍の主とも、しばしば此論には及びたりき。
音韻の合流といった事は未だ思ひ及ばなかったのであらう。蕉の字音はセウ。
(T-8-320)鰻の樺燒は、其燒たる色紅黒にして、樺の皮に似たるゆゑの名なりと、諸書にいへるは不稽の説なり。[新猿樂記]に、
講談社現代新書1701『はじめての言語學』黒田龍之助著、平成16年、の卷頭附近にこの話が出てくる。ついでに『日本國語大辭典』に「
(T-8-321)
(T-8-459)
[中略]
(T-8-367)○雛の假字の事
[契沖雜記]に、ひヽはひヽと聞ゆるこゑ、なは鳴か。といへり。[古言梯]も此説によれるにや。鳥の子のひヽと鳴聲もて、名づくるなるべし。といへり。又或説に、[宇津保物語]藤原君の卷に、巣をいでヽねぐらもしらぬひな鳥もなぞやくれゆくひよとなくらん。とあるにて、ひよとも、ひヽともなくものゆゑに、ひヽなといふことわりしらる。といへり。[玉かつま]卷十の説は、これらにたがへり。ふるくひゐなといへるは、ひもじをひきていふなれば、かなにはひいなとかくべきを、ゐとかけるはたがへり。といへり。
「ひひな」が先か、「ひな」が先か、わかってゐるやうでわからぬものである。(T-8-388)も同じ問題を提起し、雛遊びの考證がつづく。現在の辭書はどれも「ひひな」。
(T-8-480)○山あゐ
拾遺集冬、山あゐに雪のふりかヽりて侍けるを、伊勢、「あし引の山あゐにふれるしらゆきはすれる衣のこヽちこそすれ。季吟抄云、山間と山藍とをいひかけてよめる也。廣足云、此説いかヾ、下にいふべし。山藍摺とてあり。青摺とも云。白き布に藍もて紋を摺なり。それに見なしたる也。」以上季吟説、
今按に、顯昭拾遺抄に、山藍に雪の降かヽれるを見て詠也。小忌をば山藍にてすれば、すれる衣の心ちすとは讀也。」とある。此説よろしく聞ゆ。山藍草の事は、和訓栞にくはしければいはず、小忌を山藍もて摺事、また摺やうなどは、餝抄に出たり。詞書に、雪のふりかヽりてとある、かヽりての詞にて、山藍草なる事しらるヽ也。雪の山に降たるを、山間にふりかヽるとはいかではいふべき。雪は峰よりこそつもれ、殘雪とはことなるをおもふべし。さるは雪をば衣の地に見なしてよめる也。
或人、季吟抄の説によりて、山藍、山間假字たがへるを、かくいひかけたるは、其ころより假字づかひみだれし證とすべし、といへるは非也。假字のいひかけのたがひは、後撰集より見えたれど、猶此歌なるは、あし引は、たヾ山といふにかうぶらせたるのみにて、山間のことにはあらず。
(T-8-486)○十市の假字
北邊隨筆云、續千載集、宣子、「露わけてやどかりころもいそげども里はとほちの野べのゆふぐれ。遠は古はとほ、今とふ、十はとをなれば、いづれにてもかよひがたしといへり。今按に、拾遺集、雜賀、春日の使にまかりて、かへりてすなはち、女のもとにつかはしける、一條攝政、「くればとて行てかたらむあふことのとほちの里のすみうかりしも。これも同じく遠き意にいひかけられたり。そは和名抄に、大和國郡名、十市、止保知、とあれば、ふるくよりしかとなへしなるべし。記傳に、十をトヲなるを、トホと云は、地名なれば、後に訛れるなるべし。とあり。又筑前國遠賀郡十市、止布知、ともかけり。さればひとり續千載集をのみとがむへからず。
(T-8-487)○後撰集の歌の假字違ひ
後撰集雜二、まかりかよひける女の、心とけずのみ侍りければ、とし月もへぬるを、今さへかヽることヽいひつかはしたりければ、よみ人しらず、「難波がた汀のあしのおいがよにうらみてぞふる人のこヽろを、類句本、老がよに、とあり。此歌の二三の句のいひかけ、生は
今按に、こは生の方にはかヽらで、たヾに葦の
(T-8-497)○いけすき
平家物語に、云々さヽきの四郎のたまはられたる御馬は、くろくりげなるうまの、きはめてふとうたくましきが、うまをも人をも、あたりをはらってくひければ、いけつき、とつけられたり。
「スキ」が字音でなかったとは!
(T-8-522)○おほせの假字
或人、仰、命、などの假字をおふせとかけるを、こはおほせと書べしとおのれいひしに、記傳八の卷二十八丁に、
(T-8-675)按にゑのこはゑぬのこの略語なり。
[中略]
古言に
(T-9-305)○第六 文字を知て誤己話
[中略]
醫者眉に皺よせ、鮭をみそ汁とはがてんゆかずと、鍋を見らるヽに河豚汁なり。是はいかにとおどろくを、亭主くるしき息の下よりも、それ
[中略]
池淵の魚屋へ鮎をとて書付やりしかば、あゆをさしこしたるに、扨々文盲なる魚賣かな、あゆは正字
鰷
にして、鮎はなまずとよみ、夷魚と同じ、源順の和名抄に、鮎をあゆの事をせられしを、かな見あやまりしかと笑ひし人あり。魚屋をとらへての、正字ぜんさくは皆人の難ずる人の非なり。
(T-9-336)○第五十五 二合字ノ事
京近き矢瀬、大原邊の女のことばに、〔ニヤ〕といふ事を助語とす。京の人は、かくいふべきを〔ナ〕をいふ。〔ニヤ〕の切ナなる故、自然と二合してことばやはらかなり。〔クヰミヤウ〕を〔キミャウ〕とし、〔クヱハヤ〕を〔ケハヤ〕をよむ。皆此例なり。
(T-9-343)○第七十四 海ノ字のよみノ事
[中略]
海老をゑび、海月をくらげ、海人をあま、海苔をのり、海鼠をなまことよむときは、
[中略]
かヽる事をいひつのりては更に益なし。
(T-9-426)○ゑらぶ鰻
琉球よりわたる三味線の皮は、實は海蛇皮にはあらで、かの國に産するゑらぶ鰻とて、漢名を慈鰻と云ものヽ皮なり。ゑらぶは島の名にて、その島は薩摩と琉球の間にありて、口のゑらぶ、中のゑらぶなどと唱へて、二ツ三ツある島と見えたり。
(T-9-429)ゑそは魚の名なり。
(T-9-508)○賀茂眞淵氏冠辭考に、あさぢふ、よもぎふなどといふふに、生字を書は假字なり。實は原字なり。萬葉集に、
(T-9-509)○洛西西院村高山寺、もとは高西寺といへることは、親長卿記、資益王記にも、六地藏廻りのうちにみゆ。此
(T-9-517)○大江山二所あり。山城、丹波の界
[中略]
又丹波、丹後の界なるものは、酒呑童子といふ賊の籠りし所にて、今千丈岳といふ。「大江山いくのヽ道の遠ければと、小式部内侍のよみしは、其母和泉式部、保昌朝臣にたぐひて、丹後に有しほどなれば、そなたなること知べし。
(T-9-530)○西岡
(T-9-551)○古書に三善清行卿を
(T-9-591)○
(T-9-670)家は古
(T-9-718)○性靈集弘法大師詩偈集、常にシヤウレウ集とよむを、其宗徒は素讀するとき、セイレイと漢音によむ。是佛書にあらざるゆゑなりとぞ。これも故實なれば、こヽろえ置べきことなり。密家の學力ある法師の話なり。
(T-10-128)○
(T-10-140)○
いかにも分析としてはさうであらうが、「表記法」としてはいかがなものか。
(T-10-154)○かなづかひの事は、太古云しまヽを書しものなり。たとへば畿内にておまへさまと云を、關東にておめいさんと云へり。然ども文字にはおまへさまと書なり。めいりやすは、まいりますと書がごとし。上古
うくひ
いろいろな概念を混同してゐるものと見える。
(T-10-154)○畿内の言葉に、下輩の來りしとき、ヲジヤレと云。
(T-10-301)○
下野國日光山に大なる淵あり。
(T-10-668)〔五〕字餘之歌
拾遺集戀の四、
みなといりのあしわけ小船さはりあふみおなじ人にや戀んと思ひし文字餘りの哥は、これを手本に讀べし。
(T-10-688)〔四十五〕梅之假名
當時公家衆にも、梅花といふ假名を、んめの花とかき給ふ方有。んは仁にて、錢せに訓じ、蘭をらにと訓ず。丹波をたにはと訓ず。何も、んとにと通はせるは、此假名づかひとより起る。しかれば、んめの花と書ては、にめの花になるなり。書まじき事のよし、或人、仰られたるよし也。案るに、梅は萬葉集にも、むめ、うめ、兩假名にて通ず。古今集第十、物の名の部、
あなうめに常なるへくも見えぬかな戀しかるへき香は匂ひつヽこれらはうめの假名の證哥也。日本書紀、上代のうたの假名に、梅の字を、めとばかりよませたり。めは梅の華音にして、うも、むも、それを呼出すると同じかるべし。
(T-10-690)○甲斐之字義
かひがねといふは、山のするどく立て、諸山に勝目立たるみねをいふ。山のかひより見ゆる白雲などよむも、絶頂にあるしら雲なり。甲州はするどく高き山多き故、かひの國といへりとぞ。
(T-11-60)俗間に小石をざりといふ。歌に、さヾれとよむと同言なるべし。さヾれも、ざりも、さらさらじゃりじゃりといふ音を、形容したるなり。十訓抄に、三井寺の覺讚僧正、年高くなりて、有職をゆりざりけるが、熊野に詣て、山河のあざりとならでしでみなばふかきうらみの名をや殘さむ。とあり。ざりといふも古き事なり。
(T-11-65)グハエン鳶の者など。
(T-11-106)さきに大原女といふ事を、おはらめかと、五もじに歌によみたりしを、當座の歌なりければ、人々打かたぶくめりし。げに杜撰なるが如くなれど、建保職人歌合の作者に、おはらめあり。萬葉集に、ともし火のあかしの
かなづかひといふは、こヽの詞の音に、もじの音をかなへて、かりもちひたるなり。其中に、いゐ、えゑ、おをは、言語の音も、字音もよくわかれて、〔割註〕其わかれたるさま、本居先生の字音かなづかひに圖解あり。」打きけばいかゐか。えかゑか。おかをかは、分明にしられてまがはざりしかば、音にしたがひてかり用ひしゆゑ、萬葉集、續日本紀などに、かなのたがへる所はなし。かくて奈良の京には、まがふ所なかりしを、今の京となりて、言便といふ事いできたり、〔割註〕いつの比よりといふ事考なし。かやうの事、いつよりときはやかには知べきにあらず。もしは貞觀の比より漸有しにや。」言便といふは、いひ易きやうにまげていふ事にて、よろづの
九國、四國の人の物いひには、ちと、しと、つと、すとの濁音、おのづからわかるといふ。常其國々の人にあひて、物いふはきヽながら、心もつかで過しつるを、さいつ比、思ひおこして、松平肥前守殿の家臣峰六郎矩當といふ人のもとに行たり。物語するほどに、心をつけてきけば、おのづから分別あり。ちつの濁は、舌短き人の物いふごとく、おもくいひがたきが如し。さるは舌のさきを、上顎にさしあてヽ、ぢといふ、づといひながらはなつ故、おもくいひがたきが如きなり。じずは、いひざま、やヽかろくやすげなり。いひはじむるほど清るが如くして、末にごる。おもふに舌を下齒にさしあてざまにいふ故、舌の齒にいまださしあたらぬほどは、清音の如くにて、あてはつれば濁るにやあらん。分明に聞わけて、けふはかうかうの事にて、それ聞分むとて、來つといふてさてかへりぬ。其後も、其國々の人に逢て物がたりするに、すべて心もつかず。
(T-11-326)○豈ヲアニ、鶉ヲウヅラト云。朝鮮コトバ也。朝鮮ニテ鶉ヲモツラト云。倭人轉ジテウヅラト云ヘリ。○盜賊ヲスリ、字ヲアザナ、惡ヲワロシ、空ヲソラ、獼猴ヲマシラ、魚ヲマナ、尼女ヲアマト云ヘル、皆梵語也。
(T-11-328)昔朝鮮人對馬ヘ來テ、横笛ヲヨウデウト云シト、中山大納言記ニ讀ノカクリタルヲ書ケルニ、對馬書ニ横笛ヲヨウテウト云如シト云ヘリトゾ。
(T-11-373)何にまれ、さし出たる處を、うとふといふは、東國の方言なり。美濃の御嶽驛の東に、うとふ村あり。信濃に、うとふ坂あり。いまは、烏頭と書。これらみなさし出たる處なれば、うとふといふなるべし。
(T-11-403)夷の假名は、えびすなり。しかるを、
[中略]
よろしく、えの假名を用ふべし。
(T-11-487)此ごろの世は、いにしへまなびさかりになりて、字音の語のいやしきすぢをば、みな人のわきまへしれる心より、これをいたくいとひて、みやび詞にかへてかけり。そはよき事のやうなれども、さやうにては、きヽなれぬ例なき事になりて、なかなかにわろきぞおほかる。たとへばねがふといふ詞を、體の語になしては、
(T-11-488)これらのおとどもおなじやうにはあらねども、みなこほこほといひ、ちごのなく聲も大かたみなおなじきを、いかいかとも、かいかいともいへるなどを思ひわたせば、まさしくはかヽざりし事、又文も、歌のやうにこそあらね。みやびたる詞をえらびつる事しられたり。かヽるはあがりたる世のふとのりことのなごりならんと思ふにたふとし。さればものヽ聲をば、きくまヽにかきとらんとするはわろし。むかしかきつる例にしたがひてものすべし。
「びよ」も「まさしくはかヽざりし」と思ったのだらうか。
(T-11-731)
(T-11-778)○枝折
文房の具、書紙の間にはさみおく枝折は、近歳の物にて、黄門義公始て製したまひ、大内へ獻ぜらる。後水尾帝、枝折の名を付たまひ、新古今集に載たる西行の歌を書つけたまふ。
吉野山こぞの枝折の道かへてまだ見ぬかたの花を尋ねむ枝折といふは、
(T-11-780)○戻摺
陸奧のしのぶ
(T-11-790)因て考るに、をがたまの木は、をがみたまの木なり。
『日本隨筆大成』第T期分を讀了。面白い發見もいろいろあったが、氣隨氣ままな性分だからノルマに從ふのは窮屈で、ひどく能率が惡い。いろいろたまったものなどしばらく。
『動物の漢字語源辭典』は平19、東京堂、加納喜光著。『學研漢和大字典』改訂版の編者でもある。二文字で【】で括ったものは連綿語。
『唐代の人は漢詩をどう詠んだか ― 中國音韻學への誘ひ(大島正二著、平21年、岩波書店)』に、南朝四百八十寺の話あり。
小川(環樹)さんは「十」がシムと讀まれることに、長いあひだ疑問をもちつづけてゐたさうです。ところが、一九五八年にロンドン大學の雜誌に發表されたサイモン氏の論文を讀んで、それまでの疑問が解けたさうです。その論文は、チベット文字で漢文の音を寫した、敦煌から出土したテキストについてのものでした。その論文に引用された資料の一つに“二二が四、二三が六”といふ、あの「九九の表」があります。やはりシムでよかったやうである。しかし 「
そして小川さんの目をとくに引いたのは、「十」はsib(ローマ字に轉寫してあります。以下、同じです)と寫されることが多いのに、「五」と「二」の前にある場合にかぎり、simと音寫されてゐることでした。「十五」はsim-hgu、「十二」はsim-ziと寫されてゐるのです。小川さんは「五」と「二」の古代中國語 ― サイモン氏があつかった資料は九世紀前後の寫本だらうといふことです ― を檢證し、それらの聲母は鼻音的要素をもってゐたと推測します。そして「十」の末尾の子音は -b であったが、次に鼻音がつづくときにかぎって、その鼻音の影響をうけて -b が -m になったと推論したのです。小川さんはこれを「後續鼻音による同化(assimilation)によって起ったもの」と結論づけてゐます。
(註) 小川環樹「南朝四百八十寺の讀み方 ― 音韻同化assimilationの一例」(もと一九六〇、『中國語學研究』一九七七、創文社、所收)を參照。
(十八)漢字音に就きては、阿行の「い、う、え」と、也行の「い、え」と、和行の「う」との別、判然たり。即ち、
(十九)
(二十)
(二十一)
又、
尤 の韻の一部なるは、「伊の段」の音とせり、尤 、求 、州 、儔 、柔 、流 等の如し。又、
東 の韻の一部なると、虞 の韻なるとは、「宇の段」の音とせり。隅 、芻 、通 、風 、雄 、弓 、終 、中 、隆 の如し。又、
蕭 の韻なると、肴 の韻の呉音なるとは、「衣の段」の音とせり。遙 、教 、蕭 、朝 、饒 、飄 、猫 、寮 等の如し。又、
東 、冬 、蒸 の三韻なると、尤 の韻の一部なると、江 、豪 の二韻の呉音なるとは、「於の段」の音とせり。應 、侯 、宗 、東 、農 、朋 、蒙 、容 、樓 、興 、承 、寵 、氷 、龍 の如し。入聲にて、
緝 の韻なるは、「伊の段」の音とせり。揖 、急 、集 、蟄 、入 、立 等の如し。
葉 の韻なるは、「衣の段」の音とせり。葉 、業 、妾 、蝶 、獵 等の如し。
合 の韻なると、洽 の韻の漢音なるとは、「阿の段」の音とせり。押 、洽 、雜 、塔 、納 、法 、蝋 等の如し。又、洽の韻の呉音なるは、「於の段」の音とせり。
劫 、法 の如し。
(廿二)
(廿三)
以上、すべて、漢字音の紛れ易きものは、後の索引指南の條に、類を以て集めて示せり。就きて見るべし。
(廿四)
じつは昔からワープロソフトがあまり好きではない。まして「ワード」は縱書きが不便極まりない。さはされど印刷版はぜひ作りたい。試作品に一ヶ月を費やしてしまった。不備の箇所も多いが、細いところは改めて修正。
以前二つの「え」の話〜『古言衣延辨』で教へていただいた區分は是非盛込みたい。
【數の子】したがって同じカズノコでも、古典假名づかひで書けばカヅノコと書くのが正しい筈である。
【雜炊】九州の大分・熊本・佐賀地方でゾウスイをズーシーといふ……元來この地方は、古典假名遣でauといふことばをoの長音に言ひ、ouといふことばをuの長音に言ふ。たとへば「暗くなる」はクローナル、「黒くなる」はクルーナルといって區別するやうな調子である。とすれば、もし「雜炊」が正しい語源なら、古典假名づかひでザフスイだから、當然この地方ではゾーシーといふ筈だ。
【
【イロリ】イロリの語源はむづかしいが、柳田國男翁は、「圍爐裏」と書くのは當て字で、イロといふところは、動詞の「居る」と關係があり、「すわるところ」といふ意味ではないかと言ってゐた。
【祖谷】祖谷の「祖」がイヤであって、「祖谷」がイヤなのではない。「祖谷」全體はイヤダニだ。祖をイヤとよむのは、禮をイヤと言ふときのイヤで、尊敬することをウヤマウと言ふ時のウヤと同じ語源のことばである、古典假名づかひならは「ゐやだに」と書くべきところである。
【ンメとンマ】『萬葉集』の時代には、ウメ・ウマであったものが、平安朝になって發音がくづれ、ンメ・ンマとなったもの。それが現代になって假名の表記に引きずられて、千二百年ぶりにまたウメ・ウマに戻りつつあるやうだ。
【春雨】「眞青」と書いて、マッサオと言ふ。この「サオ」もさうだが、母音が接するのをきらってSを入れる習慣が昔あったのであらうか。もっとも『萬葉集』に「さ青」といふ言葉があり、これに「眞」がついたのかもしれない。
【かげろう】「かげろふ」といふ動詞に由來するから、といふが、動詞としてはなるほど「かげろふ」であるが、このことばに限って動詞の終止形が名詞になったとは解しがたい。これも、ほかのことばと同じやうに、連用形からできたもので、連用形の「かげろひ」が音便で「かげろう」となった形から名詞になったものであらう。問題の單語がすべていはゆるハ行四段活用の動詞から出たものであることは偶然ではないはずだ。現代假名づかひにはかういふ問題がなく、ありがたい。
【やすらい祭】「安良居」「夜須禮」と漢字をあてることもあるが、「やすらへ、花や」と櫻の花に呼びかけるところからつけた名である。
【レンゲ】十ばかりの小さな蝶形花のむらがり集った樣子が蓮の花に似てゐるところから來た名で、レンゲといふのは、そのレンゲの略であった。……牧野冨太郎博士の植物圖鑑には、中國ではこの花を「翹搖」といふむづかしい名で呼ぶ、その「翹搖」の漢字音から來たといふ説も見える。
【かほ鳥】「かほ鳥の 間なくしば鳴く」とあるが、この「かほ鳥」が今の何といふ鳥にあたるかは諸説紛々として定らない。クヮッコウであらう、ホトトギスであらう、といふあたりから、カハセミだらう、ヨタカだらう、といふのまであるが、どうやら今のクヮッコウだらうといふのがよささうだ。……「かほとり」は想ふに鳴き聲をカッポーカッポーと聞きなしたところから來たものでkapo鳥だった。
【鳥の名】一般に鳥の名には、鳴き聲をもとにしたものが多い。スズメ・ツバメ・カモメなどメのつくものは、その上の部分が鳴き聲の摸寫にちがひない。ヒヨドリのヒヨ、チドリのチもさうであらうし、シジフカラのシジフも同類と見られる。クヮッコウ・ジフイチが鳴き聲ズバリの名であること言ふまでもないが、中西悟堂は、ヒバリも、鳴き聲がもとの名かと言はれる。
【かづら】着物を頭にかぶることを昔は「かづく」と言ひ、さういふ服裝をすることを「きぬかづき」と言った。ところが同じやうな動詞に、肩にものをのせる「かつぐ」がある。「かづく」はこの「かつぐ」にまぎれて、着物をかぶって着ることを「かつぐ」と言ふやうになり、サトイモをゴワゴワとした皮のままゆでたものなどは今では辭書でもキヌカツギといふ名で通ってゐる。
【ツバメ】鳥の名は最後に「メ」がつくのが多いが、このメは生き物ことに鳥の總稱だったやうだ。カモメといふ鳥もあるし、昔はヤマガラをヤマガラメとよんだ歌が『拾遺集』といふ歌集にのってゐる。サ行の子音は古くはチャ行の音だったといふ學説がある。さうすると、チューチューと鳴く鳥がチュヂュメすなはちスズメで、その鳴き聲から「ツパッツパッ」と鳴くやつがツバメと言はれるやうになったといふことになる。
【ホトトギス】京都のアクセントなら「天邊懸けたか」といふことばを言ってゐるやうにきこえても、無理のない話だ。愛知縣三河の鳳來寺山は……「特許許可局」と聞きなしてゐる。
【カッコが鳴く】閑古鳥は今の郭公であるが、あの獨特の鳴き聲をカンコウと聞いて名づけたのだらう。
【サナヘ】「さ」は接頭語だと説明して「早苗」といふ字をあててゐる。が、民俗學の人たちの研究によると「さ」は元來「田植の神」といふ意味があるさうだ。
【カハセミ】ソニは、養老年間の『賦役令』といふものに、「青土」といふ文字にソニと言ふよみ方がそへてあり、すなはち繪の具の青い土であった。つまりソニはカハセミの青い羽の色の美しさを形容した言葉だった。
【そうめん】もとこれは「索麺」と書いた。それをそそっかしい人がゐて、「索」を「素」と書き間違へたのが起りださうだ。……「有職」…「有識」と書くべきものをやはり字をあやまったものといふ。文字を知らない人のことを「目に一丁字ない」といふが、この「丁」は元來片假名のケを書いたもので、「箇」の省畫、……東京大森の一隅に「不入斗」…「計」の字の草書體が「斗」と書きあやまられ、
【宮城野のウヅラ】「靴屋」はクヅヤと言ひ、「屑屋」はクとヅの間で聲を鼻へぬき、クンヅヤと言ふ。このクンヅヤは、ちょっと聞くといかにも間ののびた、鈍重な印象を受けるが、實はこれは中世以前の標準的な日本語の發音法だった。紫式部でも、淀君でも、濁音の前では一應鼻へぬく東北方言のやうな發音をしてゐたらうといふのが國語學では定説である。
【赤穗義士】「赤穗」といふ字に現代假名づかひで振りがなをつける場合、「あこう」とすべきか、「あこお」とすべきか、はっきりしない。といふのは、「アコー」つまり「コ」の長音を考へれば「あこう」と書くことになるが、舊假名づかひで「あかほ」だったのが現代假名づかひになったといふ點に重きをおけば「あこお」の方が正しいことになる。
【冬至】新潟縣長岡市近邊では、「冬至」のトウジは、ただのトの長音であるが、「湯治」の方は口を少し廣くあけてタとトとの中間の音の長音である。これは室町時代の、中央の標準語にあった區別の名殘りであることが、當時の國語資料によって知られる。長岡地方にはエの長音にもやはり廣狹二種のエーがあり、つまり母音が全部で七つあるわけである。
【駈けづる】駈けて足を摺るやうな感じから、「カケズル」と書きたくなるが、辭書で調べてみると、カケヅルが正しいとある。同樣な例は「舌なめづり」……「かけづりまはる」とか「なめづりまはす」とか言って、「まはる」ことと關係がある。……似たやうな言葉に「はひづりまはる」
どこかで讀みかけてずっと氣になってゐた箇所を再發見。網野善彦『日本の歴史をよみなおす』平成3年、筑摩書房。平成8年の『續』と併せて、ちくま學藝文庫所收。
著者は中世史の專門家として多くの古文書を調査してゐるが、日本の識字率は非常に高く、かつ同時代ごとの均質性が著しいといふ。年號を隱してならべても、專門家なら全國どこでもほぼ時代順に分類できるらしい。ところが著者は現地調査に赴いた先でしばしば土地の人の會話が全くわからない事から、なぜ自分はどこでも中世近世の古文書が讀めてしまふのか、ふと疑問に感じたといふ。
これについて、著者は律令國家の極めて嚴格な文書主義と、それが現代まで連綿と繼承されてゐるためだと考へてゐる。そして
この國家で役人として多少ともかかはりを持たうと思へば、かならず文字を勉強しなくてはならない。このやうに、たんに上から強制されたといふだけのことではなくて、この國家の成立が下からの文字への自發性をよびおこしていくわけです。
としてゐる。また友人の研究報告を引いて、
しかもきはめて短時間に、早いスピードでその變化が百姓の世界に傳はっていく。領主側の書體がかはると、百姓の書體―少くとも領主向けの文書の書體が變っていくのださうです。この書體の變化は明治のときは劇的です。それまで御家流だった書體が、明治四年(1871)の廢藩置縣のころを境にして、がらっと變ってしまひます。ですから江戸時代の文書をいくらよく讀めても、明治の文書になると大變むづかしい。伊東博文の手紙などは私には非常に讀みにくいのです。そのやうな書體を全國各地の村々の戸長、區長などがみな使ひはじめてゐる。この變化は明らかに上から來たものといはざるを得ません。
他にも興味深い記述が多いが、とにかくいろいろ考へさせられる文である。どうやら我々は昔から「傳統を守らう」などといふ氣持はさらさら持ってゐなかったのではないか。
日本經濟新聞10月9日夕刊1面下のコラム。「外國語としての第二言語」(日立製作所フェロー・小泉英明)。
多くの日本人にとって、英語を習ふのは外國の人々とのコミュニケーション手段としてである。母語のやうに流暢に話せる必要はない。意味がはっきり傳はり、また、相手の言ふ意味が理解できれば良い。この前提に立った本格的な言語研究は、ありさうでゐてほとんどない。言語學者の多くは教授法に興味を示さないし、言語教授法を研究する學者は、バイリンガルのやうな最終目標を目指してゐるからだ。(原文もちろん略字現かな)
歴史的假名遣について知りたいと、言語學や國語史の本を讀んだがさっぱり要領を得なかった昔を思ひ出して苦笑ひ。
以前から書かうとして忘れてゐたが、
「