山川健次郎 



山川健次郎
第 1.4 節 山川健次郎  (1854年(安正元年)閏7月17日〜1931年6月26日)
  九州工業大学の前身、私立明治専門学校の初代総裁山川健次郎は、東京、九州、京都各帝大の総長を歴任し、名総長を謳われた明治、大正教育界の巨人である。その最大の功績は、度重なる政府の干渉を敢然とはねのけ、大学の自治を守った点にあり、大学制度確立の恩人と見なされている。
 その間の事情は、戦後の法曹界をリ一ドした、錚々たる人々による座談会に詳しい。
 『大学の自治』(1) 朝日新聞社 昭和38年
 田中耕太郎、末川 博、 吾妻 栄、 大内兵衛、宮沢俊義
 末川 そう。 東大の山川健次郎総長が支持されたとうのも、そこだと思うな。 山川さんというのは、ひじょうに信念の堅い人だったらしいね。 その山川さんの個人的なナニかが人をひきつけて、強く支持されたんだろうと思うな。
 宮沢 山川さんは、たしかにひじょうに強く支持されてるんです。 東京ほもちろん、京都からもね。それはつまり、山川さんの信望が高かったんでしょう。   末川 そうでしょう。だから、あとでまた東京大学の総長になられたんでしょう。
  田中 ぼくが助教授のときだ。
  末川 ぼくが大学にはいったときは、東京大学と京都大学を兼ねておられたんです。それは公選になる前です。まだ公選にならないで、山川さんがちょっとの間、兼任されて、それから公選になった。つまり、後で出てくる大正3年の沢柳事件で沢柳総長が辞任し、その後、荒木寅三郎さんが最初の互選総長となるまでの間、山川さんが兼任されていたわけで、ぼくは山川さんの訓示を、入学式のときに聞いとるんです。
 宮沢 東大で初めての選挙の総長が山川さんですね。
 末川 そういう意味で、山川さんちゅう人は信望があるとともに、大学自治確立のための大恩人ですね。
 田中 昭和13年の荒木文相事件のときにね、その山川さんのむすこさんが文部省の専門学務局長で、 ぼくはそのときに、あなたはおとうさんのやられたことを尊重し、理解をもたなききゃいけないじゃないか、といったことがある。(笑)
    [山川総長の人間像]

 大内 山川さんは国家主義の人でした。大学も国家のためにあるという考えが強かった。純粋の意味では、彼は自由主義者ではない。しかし、山川さんは清廉無比であり、その国家主義を彼の大学にささげてだれにもまげなかった。彼は国家にとって学問が大切で、学問にとって自由が大切であるとしました。そう考えることを彼の生命としました。そしてその職責のためには、いつでも自らをすてる用意がありました。それによって、彼は全教授の信頼を得ていました。そういう彼であったからこそ、七博士事件のときは−方では戸水教授をなだめ、一方では久保田文相に対峠し得たのです。どちらも山川の真剣さを敬して、両者の間に多少の緩衝地帯となったのです。それがこの事件をうまい結末にまで運んだ秘密であると私は思っています。しかし一方からいえば、山川さんが自ら辞職せねばならなかっのもこのためです。さらまた、その辞職(それ自体でなく辞職を許した文相の処置)が大学の自由の擁護の契機となったのもこのためです。どこか論理が合わぬところがありますが、そこが山川さんのいいところです。あの戸水事件は全体としていえば、勃興しつつある帝国主義 の色彩をもっているが、その色彩のもとにさえ、論点が自由であるのがおもしろい。帝国主義者が大学の自由を守ったのだからおもしろい。
そこで、教授の団結の形にも、各人の辞職の理由にも、いたるところ矛盾があります。それは忠臣蔵的な矛盾です。 山川さんはまさに大石内蔵助であった。人も知るように山川さんは会津藩の武士。いったん白虎隊に加わったが、あまりに若い15の少年であったために帰宅を命ぜられたので、その時、彼は腹を切りそこねたのです。その人が、若くしてアメリカに留学して物理学を学んだ。空間的合理主義、フロンティア的な自由主義を学びました。その純枠自由主義をもって彼は日本の教育家となりました。「和魂洋才」の理想型人物です。この物理学の古武士が、日露戦争にさいして東大という学問の城の守将として天命を感じていたのであります。その城の若武者どものうちには、当然にも血気の勇者が多く、むしろあまりにも戦いを好みすぎ、それは城を守るのには不利であった。 しかし山川は将たる才であった。そして、いつでも城を枕にして先ず自らが死ぬ覚悟をもっていました。血気の人々をおさえつつ、よく彼らの団結を守ったのは彼の豪気です。このおかげで東大の城はついに落ちなかったのです。それどころか、この戦いによって、東大は学問の殿堂としての権威をかえって高めたのでした。 ただ、このため山川さんが自刃したのは惜しかったが、これは白虎隊員の運命であったともいえます。しかし真理に殉じた彼は実は死ななかった。その証拠には数年後浜尾総長が枢密院に去ったとき、その後任として東大に迎えられたものは文部大臣の命令しうる人ではなくて、文部大臣に勝った歴史をもつ山川さんその人であったからです。この人以外に東大が迎える人はなかったのです。それで、事実上、東大総長は東大が選んだことになったのです。山川さんは不死鳥であったのです。山川さんを通じて、大学の自由もまた不死であったといえます。
 山川さんはその後二つの大事件をもちました。大正8年の大学制度の大改革、大正9年の森戸事件。このそれぞれにおいて、彼は総長として立派な業績を示しました。
   (以上 『大学の自治』より)

  このように、山川の功績は主に教育行政、科学行政面にある。
後に述べるように、山川は1875年米国留学から帰り、東京開成学校教授補、東京大学理学部教授補を経て、明治12年7月理学部教授に昇任し、我が国最初の物理学教授となった。しかし、この時代は、科学の黎明期に当たり、現代的な意味での学問的業績については、科学史家の意地悪な指摘が当たらないでもない。しかし、それでも、我が国の学問的な夜明けを告げる先駆的な実験をいくつか行っている。即ち 明治10年12月の東京大学卒業式当日に、ブンゼン電池によってアーク灯を点灯する本邦最初の実験を行い、明治15年7月の卒業式には、ダイナモを使用して白熱電灯の点灯を試みている。また明治29年には、レントゲンがX線を発見した数カ月後に、X線の実験を我が国で最初に行っている。 山川はX線を結晶に当てる計画をもっていたと言われ(2)、歴史上の偶然が重なれば、現在のラウエ斑は山川斑と呼ばれていたかもしれない。蛇足ながら、X線管は自作であった。
 むしろ山川の真骨頂は、政府の干渉を排し大学の自治を確立したことにあるであろう。そこには、城を学問に、刀を信念に置き替えて勇敢に戦い、一歩も引かなかった武士の姿をさえ連想させる。
山川の志は、もともと政治家として国家に尽くすことにあった(3)。しかし戊辰戦争で最後まで維新政府を苦しめた東北諸藩の出身者には道は全く閉ざされていた。長兄が夭逝したため家督を継ぎ、若干20歳で会津籠城軍を指揮した次兄山川浩も、西南戦争で敵の重囲をくぐり抜け、熊本城一番乗りを果たしながら陸軍少将止まりであったし、日露戦争の陸戦における最も悲惨な戦いなった黒溝台で、辛うじて日本の敗滅を防いだ英雄、立見尚文も桑名藩出身であることが災して中将止まりであった。
 このような明治藩閥政府の下では、学問に志を立てることが優れた選択肢の一つであった。しかしそこでも、困難を極めた。
明治維新の奇跡は、かっての敵と味方が有機的にかみ合い、互いに補完し、機能したことであろう。朝敵会津藩出身の山川健次郎が、大学を砦として、藩閥政府を相手に一歩も引かず、大学の自治を守った事例にそれを見ることができる。  山川は、開拓使が北海道開発のために留学生を選定するに際し、戊辰戦争で最も勇敢に戦った会津出身であることを理由に選ばれている。開拓使長官が尚武の藩薩摩出身の黒田清隆であったことが幸したのかもしれない。
 このような背景もあってか、留学生の態度は真剣を極めた。例えば、日本の留学生29名を引率して西部諸州をまわったイリノイ州の牧師バトラルの報告書には(4)、「29人の日本学生は、平素本国に於ては、平常腰に両刀佩ぶる武士の子弟なりしが、我が米国に来りてより全然両刀を脱し、この旅行の折にも両刀の代りに書籍を携へたり、単に書籍といふも、道中記や旅行案内の類のみにあらず、文典を携ふるものあり、数学書を手にせるもあり、汽車の窓を通して一望千里に連れる青毛氈の如き小麦畑を眺め居りしが、やがて之に倦みたる彼等は、直に此の書籍に見入るなり。長途鉄路の旅行に至りて、一の飲料も、一のカードも、一のゲームもあるなく、読書の疲れを僅かに日本流の喫煙に慰めて、彼等は最も愉快に旅行を続けたり。」(4)とある。
 また、ニュ−イングランド一牧師は、口を極めて日本の留学生を称賛している。 「若し総ての日本人が予の監督せる学生の如き人格を有するならば、予はこの大学を日本に移さんことを願ふものなり」 これらは山川が滞在した、1871年から1875年にかけての挿話である。これらの挿話が全て山川のものとしても何ら違和感のない雰囲気をを山川は有している。
 なお、山川がアメリカヘ向けて旅立った明治4年、安川敬一郎は、太政官札発行事件の責を負って自害した長兄徳永織人の遺髪をふところに東海道を西下している 時に敬一郎22歳、健次郎17歳であった5)。
 又、この年の7月、文部省が設立され、全ての教育事務が文部省の手に移った。このため留学生の経費負担は各藩から文部省の方へ移ったが、その経費10万円は、年予算が80万円しかない文部省には重すぎた。九鬼隆一は、各藩留学生の廃止に関する建白書を提出した(6)。渡米したその年に留学継続を困難にする事態が本国で進行していることを山川は知る由もない。
 山川健次郎を世に送り出す契機となった開拓使は、明治2年8月に設置され、初めは樺太を主管させる役所であった。しかし、3年5月、次官に就任した黒田清隆は、樺太を視察後、建議案を政府に提出し、
1.北海道開拓に専念すること。
2.外国人を招聘して、移民、工業、鉱山、測量などを実施させること。 3.書生を精選して海外諸国に派遣すべきこと等を求めた。これらが認可されるや、黒田は7名の留学生を選考し、初めロシアに4名、アメリカに3名派遣することにしたが、ロンア留学が無意味なことがわかり、1人以外ほ全員アメリカヘ行くことになった。7名のうち薩長以外は会津の山川と、庄内藩出身の1人の都合2名だけであった。黒田ら一行は、明治4年1月1日、当時としては最新の大型外輪船    ジャパン号に搭乗して横浜を出航し(3)、同月23日サンフランシスコに到着した。この航海の途中で、山川は西洋科学の精密さに深い感銘を受け、科学技術の重要性を認識することになる。
 「自分は、当時まだ幾らか攘夷の気分が抜け切らず、外国人など尊敬する気持になれなかったのであるが、航海中、彼らの学問の深遠さに触れ、日本の発展には理学の振興が必要不可欠と思うに至った。事の次第はこうである。ある時、太平洋の真中で、『今晩おそくか、明日の夜明けに、本船は日本に向かって航海する太平洋郵便会社の船に出合うであろう。日本ヘ手紙を出したい人は用意して下さい』という掲示が出た。太平洋の真中を東西から出発して進航する2隻の船が、こんな  広い海上でキチンとうまく出合うということは、果たしてできるものだろうか、これは少しホラじゃないかと思っていたが、とにかく手紙を書いて待っていると、その夜半3時頃果たして、両船がピタリ遭遇し、直ちにボ−トを下ろして郵便物の交換をやった。これを見て、到底日本の敵う所ではないと思った(4)。」  黒田ら一行は、サンフランシスコから大陸横断鉄道に乗って、ワシントンに着いた。ここで留学生は弁務使の監督下に置かれたが、そこには、少弁務使として森有札が活躍していた(6)。後年、山川が兵式教練を、「森君の発案」と親しげに述べることになるのは、このときの関係があるためと思われる。森はこのとき24歳であった。森のあっせんでグランドストン大統領に会った黒田は、開拓使顧問の招聘 を依頼し、6月、農務局長外3名を伴って帰国した。同年11月、日本人初の女子留学生が、アメリカに派遣されたのは、「子弟教育に於ける母親の重要性」をアメリカで認識した黒田の建議に応えたものである。5名の女子留学生は、津田梅子(8歳)、山川捨松(12歳)、永井繁子(9歳)、上田貞子(15歳)、吉益亮子(15歳)である。
 山川は初め、ニュ−ヨ−クとプリンストンの中間にあるニュ一ブランスウィックという田舎町のハイスク−ルに入学したが、日本人の多いところにいても目的は達せられぬとの思いから、エ−ル大学の所在地、コネチカット州ニュ−へブンの近くにあるノ一ルウィッチのハイスクールに転校し、ここで基礎をみっちり学んだ。 当時、イギリスの哲学昔ハ−バ−ト・スペンサ−の新哲学が学界を風靡し、青年の思想に大きな影響を与えていた(4)。 特にアメリカでは、山川が渡米した翌1872年、科学知識を一般人に普及させることを目的に、ニュ−マンスが「ポピュラ−・サイエンス月報」創刊し、スペンサ−の思想を大々的に取り上げていた。スペンサーは、ダ−ウィンが「種の起源」を発表する前から、「人間の社会と文化は同質の単純な水準で始まったものが、現在のように異質で複雑な状態に進化したのだと考え、ペ−アが明らかにしたような均質な胚葉から異質な器官が発達する生物の発達と同じだ」とした。ダ−ウィン自身がほとんど使ったことがない進化という言葉や適者生存という言葉を普及させたのもスペンサ−である(8)。山川がスペンサーに相当影響を受けたことは、次のような彼の考え方から推論できる。「日本を強国にするためには、第一に政治をよくしなければならない。そして、政治をよくするには社会を改良せねばならぬ。社会を改良するためには、社会学の研究が必要である。その社会学を研究するには、生物学やその他の自然科学を研究することが必要である。なかんづく、国を富まし兵を強くするには、実学に即した物理学や化学を盛んにして、日進月歩の途上にある欧米文明に負けないようにしなければならない(4)」という考えである。現在の我々には、この文脈上で生物学の各前が出て来るのは、一見奇異に思えるが、明治期の日本の思想界は、進化論全盛であった9)。
 このように、山川は哲学者スペンサーの思想に多大の影響を受けたが、教育の方法として「知育」「徳育」「体育」を説くスペンサーの教育論は (10)、明治・大正期の日本にも多大の影響を与えている。森有礼や山川健次郎が唱導した兵式体操は、「徳育」「体育」を同時に満足する方法論と言えなくもない。
後に述べるように、山川が明専で他の高等専門学校が全く考慮しなかった化学を重視したことも、先に述べた彼の考え方を裏付けている。
 さて、理学の道を志した山川は、エ一ル大学付属のシェフィ−ルド科学校(Sheffield Scientific School) を志願した。当時エ−ル大学は、4年制のアカデミックコ一スと3年制の科学校を併設していた。後者は、エ−ル大学理学部の前身で、1847年創設され最初はエ−ル科学校と呼ばれていたが、同校に建物、設備、基金など多額の財政援助を行った実業家シェフィ一ルドを記念するため、1861年シェフィ−ルド科学校と改名されていた(3)。後年、山川が安川の義挙に感動し、学校名に安川の各前を冠しようとしたのは、シェフィ一ルドの場合と酷似していたからであろう。

  ところで、明治新政府の財政は破綻に瀕していた。
 「明治五年大蔵大輔の井上馨が辞表を呈出して声明書を発表したことがあったが、其の内容は要するに、『日本の経済状態は逼迫している。遠からず破産して了ふであらう』といふ極度の悲観説であつた。然るにその後に大隈重信が井上馨の後を襲うて大蔵大輔になると、また声明書を出して、非 常に日本の経済状態を楽観し、『井上のいふことは全然間違つている.事実無根だ。』と論駁したものである。異邦米国にあつた先生始め多くの留学生は、此大隈大輔の声明を見て奮起し、日本には未だ開拓する余地が多々あると云つて大に勇躍したのである。」(4)大風呂敷と呼ばれた大隈の面目躍如というところである。この覇気こそ為政者の最大の要件であることを、はしなくもこのことが示している。
しかし、財政が逼迫していることに変わりはない。留学生の自粛は自然の成リ行きであった。先に述べたように、九鬼隆一は、各藩留学生の廃止に関する建白書を提出していたが11)、後日内閣に呼ばれ、三條、西郷、板垣、江藤等の前で意見を開陳した。それが聞き入れられて、欧米に派遣されることになった。このとき、九鬼もまた御多分にもれず、わずか23歳の若者であった。このことが、山川健次郎のアメリカ留学に多大の困難を強いることになったのである。
 山川が帰朝命令を受けたとき、既にシェフィールド科学校に入学して一年半がたち、あと一年半で卒業という所であった。山川には燃えるような志があった。帰朝命令を敢然と無視した。
幸い、彼の友人ロバート・モリスの伯母ルシ−・ボ−ルドバン(『男爵山川先生伝』ではハルドマン夫人)が学資援助を申し出てくれた。但し一つ条件があった。「貴下が業を終えて帰国するならば、専心国のために尽すこと」というものである。初め、「もしもキリスト教を信ぜよとでも云われたら、断然お断りする積り」であった山川は、 その条件の意外さに息を呑んだ。山川は終生、ボ一ルドバン夫人の写真を居室に飾った。キリスト教は邪教であると教えられ、在学中の4年半、一度も日曜礼拝に行くことのなかた山川も、後年、外遊する学生に送る訓話として「外国ヘ行ったならばできるだけその国の習慣に従うべきである」と説いた(3)。
  かくして山川は、一米国夫人の篤志によっシェフィ−ルド科学校の3年の課程を終ヘ、バチェラ−・オブ・フィロソフィ−の学位を得て、22歳の誕生日を間近に控えた明治8年5月故国の地を踏んだ。
 先に述べたように、帰国後は我が国最初の物理学教授として活躍するかたわら、30数名の学者に呼びかけて、「物理学術語和英仏独対訳字書」を完成させた。そして、明治26年9月には、菊池大麓の後を受けて理科大学長、34年6月には東京帝国大学総長に就任した。しかし、日露戦争の講和をめぐって有名な七博士事件が起り、明治38年総長を辞任した。その間の事情については、脚注に述ペる12)。

 山川が東京帝大総長を辞任した翌39年7月、安川の訪問を受け、明治専門学校の創設に尽力することを約束したのである。
  明治43年秋、九州、東北の二帝大が新設されるや、第二次桂内閣の文相小松原英太郎の委嘱で山川は翌明治44年九州帝国大学初代総長に就任した。既に福岡には京都帝国大学の一分科として医科大学が設けられていたが、 新たに工科大学を創設してこれに併せ、九州帝国大学として開校されたものである。山川は初め総長就任を固辞した。その間の事情を『男爵山川先生伝』(4)は次のように伝えている。
「時の浜尾東京帝国大学総長は再三書面や直談を以て先生の出馬を慫慂し、十二月二十六日の如きは態々先生を池袋の邸に訪問して、朝より夕暮迄かゝって説得に力められたのであつた。一方また当の小松原文部大臣も再三池袋まで駕を枉げて、先生の出廬を懇請する所があつた。然るに先生は、初め当局より交渉があった際、容易に承諾を与へられず、一時沙汰止となった程であつた。蓋し先生は、当時漸く開校したばかりの明治専門学校の経営につとめられ、それに一旦責任を感じて辞職せられた以上、少少の事由で再び官吏として立たうという意思はなかつたようである。然るに今や両大学総長の人選に苦んだ小松原文相は極力先生の就任を懇請し、一方先生と肝胆相照せる浜尾東大総長が頻りに先生の出馬を促し、且つ明治専門学校総裁を兼任してその経営に当ることも固より差支ヘないといふ條件を提出せられたので、先生も今やその懇望を拒否するの理由もなく、遂に再び帝大総長として教育界に乗出されることになったのである」
 山川は、大正2年5月再び東京帝大総長に転任するため、九大在職はわずか2年程であるが、新設大学の充実に尽力し、転任に当っては学生の留任運動が起っている。
 大正2年東京帝大総長に再任されて九州を離れた山川と明専の関係は、次のようなものであった。
「大正2年5月東京帝大総長に再任して上京せられて後も、明専の種々の関係は依然として続けられ、総裁としての先生の任務は重大であつた。年に二、三回は必ず西下して学校を指揮せられ、又生徒に訓示を下された。三月の卒業式は先生が年中行事の一として西下し教訓せられることを楽しみとして居られたものである。
  然るに降って大正六、七年頃に至り、明専官立移管の問題が起った。元来明専は安川一族の出資による基金の利子で経営せられていたのであったが、大正三年欧州大戦勃発してより次第に物価の高騰を来し、これまでの金利のみでは到底維持困難に陥らねばならなかつた。依て最初の間は安川一家より年々多額の特別出資をうけて無事に経営を続けていたが、それにも自ら限度があったので、明専としては何とかその打解策を講ずる必要に迫られた。是に於て総裁たる山川先生は安川敬一郎翁を初め関係者一同と鏤々往復して協議せられた結果、明専の官立移管ということにまで進展したのである。
  先生は文部当局と明専との間にあって全責任を以て折衝せられた。学生の間には官立移管に反対して種々総裁たる先生に陳情するものもあったけれども、先生は事の真相を之に告げて移管の止むべからざる所以を懇々と諭されたのであった。而して明専の政府献納の交渉は、途中九州帝国大学真野総長の堤案により、急に九大ヘ寄附しては 如何との話が出て、大臣次官との折衝が度々繰返されて自然長引くに至ったが、大正9年6月に至り、やはり初めの通り四年制の高等工業専門学校として独立せしめることに決し、諸般の手続きを経て愈々大正10年4月を以て官立移管の事が完了したのであた。   明専の官立移管と同時に起った問題は大学昇格運動であって、之は「貴族院議員」の章において詳しく述べるように、当時全国的に巻起こった専門学校の大学昇格運動の波に乗ったものであった。而してこの運動は最も強く生徒、卒業生の間より起ったのであったが、先生は一般的に昇格反対の意見を抱かれ、殊に明専は四年制の特殊高工として政府に移管したばかりであったので、この昇格運動には賛意を表せられず、学生側の熱心な要請に対しては、所蔵図書の数の余りに貧弱なこと等を挙げて之を説得せられたのであった。
 斯くて長年に亘る先生の功績は遂に官立移管を機として、先生の胸像を校庭に設けることゝなり、大正11年より話が具体化して翌13年から作成に着手し、14年3月の卒業式に当り、その除幕式が行われた。先生は折悪く差支があって当日参列せられることは出来なかったが、下の如き三十一文字を送つて挨拶とせられたのであつた。  「なかなかにつめたき汗のあゆるかな
   績のある身にしあらねは」(4)
 東大で教えていたアメリカ人の山川評は「true and brave」であった。
彼の全てを言い表わしている。
 最後に、山川が明専に課した兵式体操(教練)が、何をもたらしたかについては、史家の厳正な判断を待たなければなるまい。しかし、兵式教練イコ一ル軍国主義という戦後のステレオタイプな判断の図式は、明専にはあまり当てはまらないように思われる。明専と同じく全寮制と兵式教練を特徴とした師範学校で聞かれる「寄宿舎の厳重なること全く兵営と異ならず、古兵に対する新兵のみじめさを新入生が感じ云々」というつぶやきは、学生向けの雑誌である責善会誌やOB誌である明専会報で記録されていない。「寮では先輩が勉強の面倒も見た。特に有難かったのは試験における傾向と対策である。『あの教授は五年周期で同じ問題を出す。今年はこれを勉強しておけ』と言う。事実は全くその通りであった」等々なごやかな雰囲気であったようである。科学技術の修得を目的とする工業専門学校であることが幸いしたのかもしれない。
ただ、後に述べるように、集団生活に伴う様々な問題や昭和初期にかけて統制を強める当局に対する若者らしい反発などのために、官立移管と同時に、学寮自由制に移行したことは、念頭におく必要があろう。

   参考文献          (1)『大学の自治』、田中耕太郎、末川博、我妻栄、大内兵衛、宮沢俊義、 朝日新聞社、昭和38年
(2)桑木 雄『科学史考』、河出書房、昭和19年、509頁
(3)渡辺正雄『日本人と近代科学』、岩波新書、1976年。この稿は、渡辺氏の著作に負うところ大である。若き日の写真は氏の著書より借用
(4)中村清二編著『男爵山川先生伝』、昭和14年
(5)「東海道を西下した」とは表現上の借語である。実際には 横浜から、米国船、ニューヨーク号に乗り、神戸で藩船オテント丸に乗り変え帰福している。
(6)国民教育奨励会編『教育50年史』、民友社、大正11年、9頁
(7)渡辺実、『近代日本海外留学生史』、講談社、昭和52年
(8)アシモフ著/皆川義雄訳『科学技術人名事典』、共立出版、昭和46年
(9)ダーウィンが『種の起源』(Origin of species)を発表したのが、1859年である。これによって、自然淘汰説が確立するが、これとは別に、哲学者スペンサーは、「最適者生存」なる用語を用いて、自らの学説を展開した。このスペンサーの思想は 明治の思想界を風靡し、例えば、明治10年にスタ−トした東京大学の初代綜理であった加藤弘之が、日露戦争当時、「日本民族はロシア民族より優秀だから、進化論の立場からも日本が勝つ」と予言した事例にもそれを見るとができる。
(10)相沢煕『日本教育百年史談』、学芸図書、昭和27年、83頁
(11)前掲書(6)『教育50年史』12頁に九鬼隆一自身の談話が掲載されている。
 予は内閣ヘ呼び出された。行つて見ると三條公を初め西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、大木喬任という御歴々がおつて、西郷さんや江藤さんから、前に差出して置いた建白書の事で、海外にある留学生の処分如何を尋ねられた。予の建白書は、各藩の留学生の如き、勉強も何もしないで居る者共を外国ヘ遣つて置くのは、我国の恥辱になる。一日も早く之をやめて新に、大学の法、理、文、医の各科から正則生の優れた者を選抜して留学させるがよい、というのであった。正則生というのは外国語で其の学科を修める者を言う。
 何でもかでも西洋学でなくては不可ないというので、日本語で各学科を修める者を変則生と言っていた。
 此処で余は処分の方法は彼地へ行って、充分聞き合せてから定めると答えた。暫らく待てというから待っていると間もなく、御用有之欧米各国ヘ差遣はさるという辞令を其場で渡された。此時は恰度弁務使が置かれたばかりの時で、倫敦(ロンドン)には寺島宗則氏が大弁務使、鮫島尚信氏が小弁務使、独逸(ドイツ)では青木周造氏が弁務使館書記官に任ぜられた。又是より先、岩倉大使、大久保副使、木戸、伊藤諸公の一行が出発していたので、余は此一行と瑞西(スイス)で出遭った。 岩倉大使も大そう喜ばれたが、留学生の処分に来たと聞いて、大に驚かれた。木戸さんを除いては大抵其趣意には賛成するが、併しそんな事をすると叩き殺されるだらうと言はれた。倫敦にはカレドニアン・ホテルに藩の留学生が19人もおった。又巴里(パリ)では文部少博士入江文郎という人が、留学生の取締か何かしておって、余の使命に反対した。巴里には中江兆民、光明寺三郎、今村和郎及び其他の人々がおって、後から井上毅氏も来て、大分八釜しい議論をしていた。殊に中江兆民君の如きは、態々倫敦まで遊説に出かけて反対した。其処で余は、かねて準備した留学生の表に廃止の止むを得ざる理由を附して之を留学生に示した。其の理由は、当時各藩の留学生というも、其中の八割二、三分まで薩、長、土、肥の四藩が占めていて、他の各藩は僅に其中の一割七、八分しかなかつた。教育は四民平等にしなければならぬのに、此四藩ばかりが国費を以て留学の恩典に浴して居るのは宣しくないというのであった。此理由書を発表すると、先づ第一に感心したのは中江兆民君であつた。中江は之を読んで、翻然として其罪を謝し、即日官費を辞してくれた。続いて今村も光明寺も辞退したが、中江は更に檄文を倫敦に送って、反対の気勢を挫いてくれた。米国では華盛頓(ワシントン)で一喜劇を演じたが、此処でも又滞りなく使命を果すことを得て、明治6年殺されもせずに帰朝した。
(12)山川を辞職に追い込んだ七博士(戸水)事件は、1903年、東京帝大教授戸水寛水をリ一ダーとする七博士(富井政章、金井延、寺尾亨、中村進午(早稲田)、高橋作衛、小野塚喜平次)が、時の宰相桂太郎に、対露強硬論(即時開戦論)を建議したことに端を発する。
  後世の史家の戸水ヘの評価は、ハネ上リのアジテーターの域を出ないが、ロシアの動向に神経をとがらせる国民には、その景気の良い主張は快く響いた。しかし、戸水の満州占領論は英米露の新聞に転載され、清国では「支那併呑策」として漢訳十万冊を数える程の反響を呼び、外交担当者には、看過できない問題であった。更に日露戦争後のポーツマス講和会議に当っては、日本は講和の条件としてバイカル湖以東の割譲を要求しろと主張し、世人は戸水をバイカル博士とほめ上げ喝采したのである。
  しかし、アメリカ大統領ルーズベルトの尽力で、辛うじて講和に持ち込んだ日本の国力は疲弊しきっており、ロシアより講和を必要としていた。従って講和条件は、国民には軟弱外交と写り、9月5日には日比谷焼打事件にまで発展した。それに前後して、戸水ら七博士は講和條約拒否の上奏文を捧呈するに至ったのである。そこで、文相久保田譲は、8月25日、東京帝国大学教授戸水寛水に対して、その対外強硬の言動を理由として、教授会の意向にかかわらず、文官分限令第11条第1項第4号「官庁の事務の都合」によるということで休職処分にした。これに対して法科大学では、特に中堅、少壮教授が、大学の自治と研究の自由を守るために、敢然と立ち上った。山川は6日後の8月31日、責任を感じて辞表を提出した。意外な展開に周章狼狽した久保田文相は極力慰留に努めたが、山川の決断はかたく、止むなく12月2日、山川総長の辞任を公表した。山川辞任の報に接するや、各部の教授会が−斉に開かれ、各部の部長は直ちに辞表を書いて、新任の松井直吉総長に提出した。12月5日事件は京都に飛火して京都法科大学の総長以下教授の辞職提出にまで発展した。松井は就任わずか13日で総長を辞任、久保田文相も辞任して首相が文相を兼務した。松井の後任の東大総長は戸水の教授復職を条件として、浜尾が就任し、ここに3年間に及ぶ事件は、大学側の完全な勝利となった。大学の自治と学問の自由は守られたのである。
 次の危機は大正時代の森戸事件である。辰野隆『青春回顧』にその間の事情が述べられている。
  世人はマルキシズム華やかなりし頃の森戸事件を未だ記憶しているだろう。東大経済学部助教授森戸辰男が「経済学研究」創刊号に「クロポトキンの社会思想の研究」を発表し、それが為めに教職を去らねばならなくなった顛末は此処に管々しく説くまでもあるまい。当時、山川総長は問題の論文を読んで、時を移さず、森戸君を総長室に呼び迎えた。君の論文を読んだ。専門が異なるから詳しい批評は出来かねるが、要するに君は日本が共産主義国家になることを希望して居られるやうに思うが、それに相違ないか、と問ふたのである。森戸君は、それに相違ないと答えた。すると、総長は帝国大学は天皇陛下の大学であり、国家の大学である。日本が共産主義国家になれかし、と主張するのは国是に反する。どうか君の学説を改めて頂けぬだろうか、若し改める意思があるなら、君の身柄は責任を以て守らう。今、即答せよとは迫らぬが、一晩熟考して、明日再び来て頂かうと云った。翌日、森戸君は更らに総長と会見して、如何に反省しても、自説を翻すことは出来ぬと確答した。総長も、それでは巳むを得ぬ。遺憾ながら辞表を出して頂きたいと頼んだ。森戸君も亦、自分の為めに総長並に大学に迷惑をかけるに忍びぬからと、屑く辞表を差し出したのであった。その日、総長は帰宅すると、次男建ー当時、若き内務官吏、後の文部省専門学務局長ーを書斎に呼び寄せて、実は今日自分は森戸君と別れを惜しんで来た。苟も学者が一度学説を発表した以上、全責任を持つ可きである。自分が森戸君であったら、やはり同じ態度に出でただらう。身柄を保障されて学説を改めるやうでは頼もしくない。流石に森戸君は男だ。よく覚えて置け。若し将来、汝が意見を発表するやうなことがあったら、須く森戸君に倣へ、と色を正し声を励まして、訓戒したさうである。この話は、数年前、建君から父の追憶として親しく聴いたところである。山川夫人と僕の今は亡き母とは従姉妹に当っていたし、浜尾夫人と曽弥工学博士夫人とは姉妹であり、且つ曽弥博士と亡父(辰野金吾)とは同郷でもあり、専攻をも同じくし、昔、工部大学時代の同窓生でもあったから、父母の生前には、夕食後の閑談に、屡々浜尾、山川両大人の噂に花が咲くこともあった。

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野上 暁一(gnogami@infoweb.ne.jp) 又は (nogami@ele.kyutech.ac.jp)