松本健次郎と安川清三郎 



松本健次郎と居宅(現:西日本工業倶楽部)

1.5 節 松本健次郎と安川清三郎

松本健次郎(1870.10.4〜1963.10.17)
 松本健次郎は明治3年10月4日、安川敬一郎の二男として福岡舞鶴城南谷山に生まれる。20年福岡中学を卒業したが、卒業試験中に急性脚気となり、進学を断念し、神戸の父の店で働きながら、英国人ヒューズに英語を習う。21年上京し、イーストレーキの国民英語学校に通う。同級生に小野塚喜平次(後東大総長、七博士事件の当事者の一人。この縁で、健次郎三男松本馨は小野塚門下生として政治学を専攻している)がいた。同時に国民学校と物理学校にも通った。明治24年4月、アメリカへ遊学、チャイナ号では、敬一郎の友人グラバーを介して知り合ったアーネストサトウと同船し旧交を暖めた。フィラデルフィアに2年間滞在し、アトモア家と親交を深める。日露戦争時は、後備役陸軍歩兵中尉として大本営付を拝命。第二次世界大戦の英雄、ダグラス・マッカーサーの父アーネスト・マッカーサー中将を奉天会戦に案内した。同行したバーシング中尉は、後第一次世界大戦の連合軍司令官となる人物である。(この縁で、戦後のパージにかかった弟、安川第五郎の救済を試みてマッカーサーを訪ねたが、会えずに断念する。)
松本健次郎翁の人となりについては、田代茂樹氏が『50年』に寄せられた「思い出」に詳しく述べられている。

松本健次郎先生のこと
      田 代 茂 樹
  私立明治専門学校初代の校長としてはじめて松本健次郎先生の風貌に接したのは、今から50年前の明治42年4月1日の開校式を兼ねた第一回生の入学式当日であった。
  頭髪は前額がいささか薄くなってはいたが、まだ40そこそこのお若さで元気一ぱい、精悍の気魄がうかがわれ、鼻下の黒いひげが一段と堂々とした偉容をたかめていた。90歳に近い今日でも声量豊かなものがあるが、朗々たる力強い声で式辞を述べられたのを、内容はすっかり忘れたが、今もかすかに覚えている。当時東京帝大の採鉱学の権威であった的場先生が校長に内定していたが、東大学生の強い反対で着任が9月にのびたので、それまで松本先生が臨時に校長の椅子につかれるのだとの話であった。
 松本先生はその頃すでに明治鉱業や安川松本商店、さては明治紡績等の経営首脳者として、更にわが国石炭鉱業界の重鎮として多忙な月日を送られていた。それにもかかわらず学校の行事には必ずお顔を見せられるし、まだ建設途上にあった教室その他の施設などの建築をはじめ、創立当初のいろいろ煩雑な仕事にも心を配られているようである。
自習時間のない土曜日や日曜日の夕食後に三三、五五組をなして、先生方のお宅に遊びに行くことはわれわれ寮生にとって最上の楽しみであった。
安川、松本の御両家が若松から中原の新邸に移って来られたのは、私達第一期生が入学してから一、二年後のことであったと思う。松本先生は実業家として特に忙しい日々を送られていたのであったが、私達が訪ねて行けば快く迎えて打ちとけていろいろ海外の話その他ためになるお話をしていただいて、われわれは御迷惑と知りつつもつい長居をし勝ちであった。今は九州工業クラブになっているが、あの広い洋室の机上には新着のイラストレーテッド・ロンドン・ニューズやスフィーヤなどの写真入りのもの、米国のサターデー・イブニング・ポストなど数多くの英米の雑誌がおかれてあったが、それ等をもの珍しく手にとってみたことが懐しく想い出される。
 話が私事にわたって恐縮であるが、大正2年3月卒業式も週日の間に迫ったある夕、私達卒業生5、6人が松本邸を訪れた。いつものように笑顔で迎えて下さった先生は、各自の就職先をきかれた。いずれも立派な民間の会社や名だたる官営の工場にきまっているが、私だけ一人未定で「私の希望する機械商売の商社からは申込みがないのでまだ決っていません」と申し上げると、先生は「そうか、実は三井物産の支店長から機械の卒業生で商社希望はないだろうかときかれたが、そんなのはあるまいと返事しておいた。紹介するから早速行って来給へ」というお話で、一瞬にして私の心は明るくなってきた。主任教授の森先生も私一人が残っているので、大変困っておられ、いろいろと希望の就職口を心配されていた際でもあり、その夜は嬉しさでおそくまで眠れなかった程であった。翌日になると松本邸から寮にお電話があって、先生が丁度門司に行かれるので御自身物産に話してやろうとの有り難いお言葉であった。
  こうして私は先生のおかげでやすやすと三井物産に入社が出来たのであった。そればかりではなく、物産在社中の20数年間私のずうずしい申出をきいて下さって保証人となっていただき、親身も及ばぬ御指導と御庇護を受け今日にいたっている。この大恩にお報いする事は私のよくする処ではないかと思うが、明専卒業生として恥しからぬ行いをし働きをすることがせめてもの報恩であると不断の自省を怠らぬよう心がけている。
  私が学校を出てから20数年の間、その大半を海外に暮したせいか、日本でたびたびお目にかかる事が出来なかった。しかし海外在勤中には先生がしばしば或は経済使節として、或は母校御訪問や事業関係で外遊されたので、そのつど親しくお目にかかり御馳走になったり、いろいろと御教を受ける事の出来たのは私にとってはまことに幸運であった。
 ニューヨークに赴任して間もない頃、先生が経済使節の一員として見えられた時、九州製鋼所の機械類の注文でピッツバーグにお伴することになった。こちらが御案内申上ぐべき筋合のところ、まだ英語もよく話せず勝手も分らぬし、逆に先生に案内をしていただきいろいろお世話をかけたが、今思っても冷汗ものであった。
  この20余年、先生はずっと東京にお住いになり、私も近年になって東京に落着いて、しばしば先生の高い風格に接する機会を得て、この上ない欣びを覚えている。先生は九州工大については明専同様、常に深い愛着と関心をおもちになっていられる。明専会の会合には万障を排して御出席になって卒業生と楽しく歓談され、不知の間にわれわれを感化、指導されている。
  つい一年余り前に、先生がいよいよ第一線から退かれるにつき、先生の言葉でいへば、九州でいう「まわしあげ」に先生が御近親はじめ学界、政界、実業界の人々500名ばかりを招かれて盛宴を張られた。私も席末に列する光栄を得たのであるが、各界の名士がこもごも立って先生の功績を賞し、徳をたたえられたが、明治専門学校創設の事に言及された方が一人もなかった事はいかにもさびしい感がして、宴終って列席していた明専卒業生と共にその話をした。
  それから間もなく私達2、3人で先生にお会いした時にその話をすると「創立当初、自分達が考え及ばなかった時勢の変遷によって経営困難となって、私立から官立に移管せざるを得なくなった。これは自分達の不明によって失敗に終った・・・」と、財団の全部を政府に献納された当時の苦衷を、想起されたやに拝した。私達は口をそろえて、「先生、それは失敗ではありません。安川敬一郎先生と松本先生が蒔かれた種は立派に芽を出し、年と共に繁り殖えて、今日六千名を越える卒業生が出ていろいろな方面で社会のため、国家のためにそれぞれの分を尽しています。しかも設立の当初からはぐくまれ、培われた明専の校風と伝統は、明専が九州工大となった今日も脈々として生きています」と申上げたことであった。
  松本先生が今日まで石炭鉱業界に、又広くわが国の財界にのこされた足跡はまことに大なるものがあることは万人の認めるところであるが、私は私立明治専門学校を父君であらせられる安川敬一郎先生を援けて創立されたことは、先生にとって最も意義深いお仕事で、その功績は永遠に消える事はないと確信する。
  先に私は先生が私個人に対して垂れられた恩恵について語ったが、これは言はば一例にすぎず、明専卒業生の多くが私同様に先生の温い指導と援助によって、社会人としての責務を果し得た又得つつあることをつけ加えておきたい。
たまたまこの「思い出」を筆している時、私は山中湖畔に暑さを避けて多くのお孫さんや曽孫さん方にかこまれて楽しく悠々自適の日を送られている極めて元気な先生の御姿を拝し、数々のお話を伺う事の出来たのはこの上ない仕合せであった。先生が益々御健勝であらせられることを念じ且祈って止まぬ。 (キ大2卒)


安川清三郎
安川清三郎 (1877.9.1 〜 1936.2.16)

  敬一郎三男で安川家の嗣子となった安川清三郎は、明治専門学校を創設した父敬一郎、兄松本健次郎を良く支えて明専の発展に寄与した。創業者と異なってあまり表に出ることはなかったが、私立時代は5人の協議員の一人として、官立時代は商議員として、その温容な人柄は学生達に深く慕われた。

  「誠に触れると人間は感動する。そこに人間としての働きの出発点がある。この誠に触れて感動する人間の美点を強く育て上げるのが教育の目的である。 この意味からして教へる者の誠、教へを受ける者の感動こそ教育の全部と申して宣しいと思う」(明専会報、昭和11年3月)という教育観が、その人柄と教育者としての理念を余すところなく物語っている。父敬一郎は、「学校を離れていては真の教育はできない。教育は人なり」として松本家共々戸畑の地に居を移し、学生との接触を密にしたが、子清三郎も、「土曜日には寮生を班毎(一班は8名)に御自宅に招かれて夕食を共にされるのが常でした。このことによって、学生個々の顔を覚え性格を知り、指導に当られるというふうでありました。正月などは休暇中も帰らずにいる寮生を集めて雑煮のご馳走ということもありましたが、軽く一斗の餅を平らげるというほどで、47もの餅を一度に食べたというつわものが、いまも元気でおります」
(『50年』、林秀観)
  明治26年修猷館より慶応義塾に学ぶ。29年ペンシルバニア大学理財科を専攻し、欧米を漫遊し34年帰朝。34年横浜正金銀行に勤め、36年父敬一郎、兄健次郎を輔けて石炭販売に尽瘁し、37年門司石炭商同業組合副会長。41年明治紡績合資会社、大正元年若松商業銀行、6年九州製鋼株式会社、7年若松市安川・松本商店、九州銑鉄株式会社(後解散)、満州採炭株式会社(後解散)、黒崎窯業株式会社等を組織し、重役。大正8年明治鉱業株式会社副社長、昭和4年同社長。大正9年安川電機製作所、10年嘉穂鉱業株式会社、昭和6年平山鉱業株式会社を組織し、9年水力電気株式会社取締役に就任。この間、明専協議員、商議員として教育にも貢献した。
昭和11年2月16日心臓麻痺にて急逝


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野上 暁一