数理心理学についての

質疑応答

ご質問は下部の記入欄からどうぞ

目次(大項目名か小項目名先頭の「Q」をクリックすると跳べます)

数学と数理科学
Q:あなたは数学者?なのでしょう?
Q:数学者でないとすると,あなたは何者ですか?
Q:数学と数理科学はどう違いますか?
Q:あなたは以前は数学者で現在は数理科学者なのですね?
Q:元数学者で現在は数理科学者という立場からは,数学と数学者についてどう考えていますか?
数理心理学への道筋
Q:なぜ群論から数理心理学へ転向したのですか?配置換えが転向の理由ですか?
Q:数学の研究だけではどうして満ち足りなくなったのですか?
Q:それにしてもなぜ群論と懸け離れた数理心理学へ転向したのですか?ためらいはなかったのですか?
Q:どういう道筋で数理心理学に行き着いたのですか?
数理心理学の概要
Q:あなたの数理心理学研究はどういう役に立つのですか?
Q:「数理心理学は新興」とのことですが,数理心理学という分野は以前からあるのではないですか?
Q:あなたの数理心理学では何をどう研究するのですか?
Q:言語的認識に関わる数理模型を目指すとのことですが,それでは,たとえば絵画的認識を説明し得ないので不十分な模型ではありませんか?
Q:あなたは数理心理学のための論理学として格論理学を提唱していますが,それはどんなものですか?述語論理学とどんな点で異なりますか?
Q:格論理学の文法論が日本語に密着したものなら,その他の多様な自然言語との関係は逆に希薄でありませんか?
Q:格言語の文法論では限量記号の扱い方が述語論理学とはずいぶん違いますが,どういう考えでそのような扱い方に導かれたのですか?
Q:格論理学の意味論はどうなっていますか?
Q:格論理学は従来の論理学とは全く異質のもののようですね?
Q:「単相」の「相」はどういう概念ですか?「様相論理学」の「相」と関係がありますか?
Q:格論理学を作る際に,誰か先人の仕事を参考にしましたか?
Q:数理心理学のこれからの課題にはどういうものがありますか?
大学院を目指す人に
Q:大学院とはどういうところですか?大学とはどう違いますか?
Q:大学院で数理心理学を専攻したい学生は学部でどんな勉強・準備をしたらよいですか?
Q:あなたの研究室でのセミナーはどう行なっていますか?
Q:修士課程から博士課程に進学するにはどうすればいいですか?
Q:数理心理学を専攻した学生が大学などの研究職に就くのは容易ですか?
Q:あなたが指導する大学院生に一番言いたいことは何ですか?

質疑応答

数学と数理科学

Q:あなたは数学者?なのでしょう?
:世間はそうみなすでしょうし,私自身も一時期はその積りでいましたが,現在の私は数学者ではないと思っています.
Q:数学者でないとすると,あなたは何者ですか?
:数理科学者だと思っています.
Q:数学と数理科学はどう違いますか?
:代数・幾何・解析と分類総称されるものを数学とすれば,数理科学は「まず現象を観察し,次いでその現象を抽象して数理模型を作り,さらにその模型についての数学を追究することにより元の現象についての認識を深めようとする学問分野」と言えましょう.現象から遠く離れ模型を研究するという意識の希薄なものは,数理科学ではなく数学と呼ぶべきでしょう.
Q:あなたは以前は数学者で現在は数理科学者なのですね?
:以前は有限単純群の分類に関わる研究をしていましたが,これは現象から遙かに遠いという意味で純粋数学と呼べるでしょう.現在研究している数理心理学は,上に定義した意味の数理科学の典型です.なお,数理科学研究科内の研究者は「代数」「幾何」「解析」「応用数理」の四班に分かれています.私は以前は代数班に属していましたが,現在は上記の理由で応用数理班に属しています.この班についての次の記事を参考に供します.
応用数理紹介(数理科学科パンフレットより抜粋):数理科学研究科はその設立時に「種々の現象に対する数学モデルの研究,および数学モデルの数学的構成を対象と考える.また,数学を中心にその周辺を数理科学としてとらえ,それを一つの総体として研究することを目指す.」という姿勢を打ち出した.数学の3つの柱が代数・幾何・解析であるとすると,それらを取り巻く広大な数理分野を対象としているのが数理科学である.それは単に既成の数学を応用するだけではなく,実際の現象に対する数学的モデルを作り,そこから場合によっては新しい数学の理論を構築していくということも重要な目的である.応用数理グループはこうした設立趣旨にかなった研究活動を活発に行なっている.(後略)
Q:元数学者で現在は数理科学者という立場からは,数学と数学者についてどう考えていますか?
数理科学には数学の素養が,それも生半可でない素養が必須です.私も,数学科に学び数学の大学院を出てかなりの期間を数学の研究に費やしたことを後悔していませんし,むしろそれは大変に貴重な経験であったと思っています.そして,非数学者が数学を使って研究するよりは,数学者が純粋数学以外の分野に進出する方が,遥かに可能性が大きく有益だろうと思っています.

数理心理学への道筋

Q:なぜ群論から数理心理学へ転向したのですか?研究略歴のページを見ると,数学科から数理科学研究科へ配置換えになった頃から数理心理学の研究を始めたようですが,配置換えが転向の理由ですか?
:東大の数学系三学科が数理科学研究科に再編統一されて数学教員が全員配置換えになったのですが,配置換えは転向の理由の一つではあります.数理科学研究科の所属になれば純粋数学の研究を続けることは許されないだろうと思いました.しかし転向の一番の理由は,数学の研究だけでは満ち足りなくなったという私の内面の変化です.配置換えやその他の外面は,転向を後押ししてくれたに過ぎません.
Q:数学の研究だけではどうして満ち足りなくなったのですか?
:なかなか説明し難いことです.以下の文章から推し量り下さい.「何の役にたつのですか」「PascalからFermatへの手紙」「アカデミズムの長短」「生き死にに関わる学問」 これに付け加えるなら,私は東大入学当時は科学技術者になるつもりで工学部の物理系学科か理学部の物理学科に進学するつもりでしたが,いわゆる「進学振り分け制度」の下ではそういう志望の学科に進めるかどうか不安な成績であったのと,物理学の講義で使う数学が曖昧なのに不満であったのとで,進学振り分けの間際に急に思い立って数学科を選んだような次第で,それまでは「数学科」は私の頭の中に1%も占めてはいませんでした.思えばまったく浅はかで危険な選択をしたものです.そういうわけで数学を特別好きでもなくよく勉強していたわけでもないので,数学科に進学してからは相当に苦労しましたが,その当時は数学科に進んだら大学院に進んで数学の研究者になるしか面白い道はなさそうに思われたので,ずるずると頑張って勉強しているうちに,運良く大学院に進めて何とか自分の研究成果も出始め,思いがけずも東大に研究職を得ることができ,専攻した有限単純群分類論も世界的に花盛りであったので,その研究が面白く夢中になって,竜宮城での浦島太郎さながらに40歳近くまで過ごしました.しかしその前後から,有限単純群の分類が終わるとともに職場が「数理科学研究科」に再編統一されされたり上記文章に記したような体験が重なって,それまで自分の行なってきた純粋に数学的な研究に対して「果たしてこういうことを一生やっていてよいものか」という疑問を懐くようになり,科学技術者を目指していた学生時代の初志を思い出すことにもなったのです.
Q:それにしてもなぜ群論と懸け離れた数理心理学へ転向したのですか?ためらいはなかったのですか?
:「群論の経験をどう生かすか」ではなく「何を問うべきか」という考えに従ったら数理心理学に行き着きました.それに,数理心理学に使う論理代数学は群論の近い親類なのです.ただ,数理心理学には自然言語の研究も欠かせませんが,それは確かに群論研究とは懸け離れたものに思われ,それに踏み込むのは当初はとてもためらわれました.
Q:どういう道筋で数理心理学に行き着いたのですか?
:きっかけは人工知能工学の概説書を読んで興味を覚えたことです.しかし,すぐに工学的研究をするのではなく,まず人間の知能そのものを理論的に研究したいと思いました.ところがゼロからの再出発なので,何をどうしたらよいか皆目分かりません.そこでしばらくは,生理学や心理学や言語学から始めて人間科学に関わる種々の本を読んでいました.そのうち,論理学はどうしても必要そうだということが分かってきましたので,しばらくはそれを勉強しました.しかしそれでも,何をどうしたらよいか皆目分かりませんので,またしばらくはいろいろな本を読んでいました.そのうち,古本屋で偶然見つけたモンタギュー意味論の概説書で,代数系が言語学にも使われることを知り,代数学が関わってくるとは予想外だったので大変驚くと同時に,もともと代数学者でしたので大変興味をそそられました.それで,論理・言語・代数系の関わりがおぼろげながら分かってきました.それでもまだ何をどうしたらよいか分からないまましばらく過ごしていましたが,1996年のある日,人間を思考機械とみなし,機械を代数系と抽象し,その代数系について然るべき仮説を設けると論理学に導かれるという考えが閃きました.そして,その仮説の根拠として,思考機械・人間の構造の一部が自然言語に変形表出しているという考えが浮かびました.それで,人間→思考機械→代数系→論理→言語という道筋が見通せて,何をどう研究したらよいのかがすっかり分かったような気がしました.と同時に,暗中模索の時期には旺盛だった多方面の読書欲も消えました.自分の研究を「数理心理学」と名付けたのもその頃のことです.

数理心理学の概要

Q:あなたの数理心理学研究はどういう役に立つのですか?
:数理心理学の本来の目標は人間の心を理解することですが,特に,思考機械としての人間の構造・働きや言語との関わりを調べることも目標の一つですので,人工知能や自動翻訳などへの将来の応用も視野に入っています.しかし数理心理学は,新興の分野であり,今はまだ文字通りの基礎的研究の段階にあるので,今直ぐに目に見えて役立つことはできません.ただ,心の理解については,日々有用な知見を加えています.ただしそれは,数理模型を通しての数理科学的理解であり,世俗心理学的な理解とは異なります.
Q:「数理心理学は新興」とのことですが,数理心理学という分野は以前からあるのではないですか?
:その通りです.たとえば,1991年大阪書籍刊の「現代数理科学事典」に「数理心理学」という項目があります.しかし,私の目指している数理心理学は,この事典が数理論理学や数理言語学に分類している事柄とむしろ深い関係にあり,その点で従来の数理心理学と異なります.またこの数理心理学は,WWW出版「数理心理学」の出版により私が新たに興したものを指し,その意味で新興なのです.
Q:あなたの数理心理学では何をどう研究するのですか?
:数理科学とは何かの説明の通り,「まず現象を観察し,次いでその現象を抽象して数理模型を作り,さらにその模型についての数学を追究することにより元の現象についての認識を深める」のです.何の数理模型を作るかと言えば,当面目指しているものは,外界を認識する脳神経系の仕組みと認識そのものと外界,およびそれらの相互関係とを合わせたものの数理模型です.そのために観察する現象は人間の言語行動です.ですから,出来る模型は人間の言語的認識に関わる模型ということになります.決して自然言語そのものの数理模型を作ろうとしているのではありません.ことばの大本にある人間精神と外界世界およびそれらの相互関係の数理模型を目指しているのです.自然言語は,そういう模型作りのための参考資料に過ぎません.
 模型作りの指導原理は,巨視・抽象と機械論です.巨視・抽象の例は,ガリレオ・ニュートンの運動学・力学やメンデル遺伝学など,科学界のいたるところに見られます.機械論も恐らくデカルトの頃からのものでしょう.つまり,模型作りのこの指導原理は別に新しいものではありません.ただし機械論に基づくなら,まず機械の数理模型を作るところから始めなければならず,そこに新しい発想が必要でした.しかしそれは,幸いなことに,気づいてしまえば実に単純なことでした.機械を代数系と抽象すればいいのです.そうすると,先に説明したような次第で論理学へと導かれます.
Q:言語的認識に関わる数理模型を目指すとのことですが,それでは,たとえば絵画的認識を説明し得ないので不十分な模型ではありませんか?
:絵画的認識とは,たとえば外界を漠然と眺めている時の認識様式を指しているのでしょうか? その通り不十分な模型かも知れませんが,何事につけ,最初の試みで完璧を期すのは現実的ではありませんし,科学というものは,限られた狭い範囲のところから出発して徐々に発展してゆくものではないでしょうか.歴史上でも,先ほど引用したガリレオ・ニュートンの運動学・力学やメンデル遺伝学は,ごく限られた現象の理論に過ぎませんでしたが,そこから出発して現代の解析力学や集団遺伝学へと発展したのです.そういう観点から私は,言語的認識に関わる数理模型作りを私の研究の出発点として選んだのです.そしてそれは,決して限り過ぎ狭過ぎの課題ではなく,むしろ非常に広範で有意義な,それ故に可なり困難な課題だと思っています.
Q:あなたは数理心理学のための論理学として格論理学を提唱していますが,それはどんなものですか?述語論理学とどんな点で異なりますか?
:述語論理学の文法論では,「ソクラテスは人だ.人は皆死ぬ.故にソクラテスは死ぬ」を矢式では
H(s), (∀x){H(x)⇒M(x)} → M(s)
と表すでしょう(「故に」と言っているので,本当は,矢式でなく推論図にしないといけないが).ただし,s が「ソクラテス」に対応する定項で,H(x) と M(x) とが「x は人である」と「x は死ぬ」とに対応する述語です(H と M とは human と mortal とに因む).これに対し格論理学の文法論では,
sπ(hΔ), h(π∀)m → sπm
と表します.ただし,s と h とが「ソクラテス」と「人」とに対応する体元で,m が「死ぬ」に対応する用元で(「体元」「用元」という名は国文法における「体言」「用言」に因む),π は係り助詞「は」や格助詞「が」に対応し,Δ は助動詞「だ」や連語「である」に対応し,∀ は「皆」や「すべて」に対応します.また,たとえば「ソクラテスがペンで字を書く」は
sπ{pδ(lωw)}
と表します.ただし,p と l とが「ペン」と「字」とに対応する体元で,w が「書く」に対応する用元で,δ と ω とが格助詞「で」と「を」とに対応します.π,δ,ω 等を「格助詞」に因んでと呼び,それが「格論理学」という名の由来です.日本語では「ソクラテスがペンで字を書く」を「ペンでソクラテスが字を書く」「字をソクラテスがペンで書く」等のように語順を変えて言うことができますが,これに対応して挌論理学の文法論では,
pδ{sπ(lωw)}, lω{sπ(pδw)}
等の表現も許される仕組を備えています.こういう語順の変更は,たとえば英語では日本語ほど自由ではありません.そういう語順変更の自由不自由の違いを説明するために,挌論理学の文法論は,格の間に成立する格関係なる概念を備えています.また,「ソクラテスがペンで書くもの」は
[sπ{pδ(xωw)}]Ωx
と表します.x は日本語の言葉とは対応しない変数で,Ωx は「ソクラテスがペンで書くもの」における「もの」に対応します.これらの例でお分かりと思いますが,格論理学の文法論では,記号の種類や並び方が日本語そのままなのです.格論理学の文法論はまた,自然言語に見られる「かなり」「すこし」などの多様な限量語に対応するために,限量記号を ∀,∃ 以外にも多数備えています.要するに,格論理学の文法論は日本語に密着したものなのです.
Q:格論理学の文法論が日本語に密着したものなら,その他の多様な自然言語との関係は逆に希薄でありませんか?
:微分積分学では,一変数関数を sin x や ax 等の様々な記法で表し,二変数関数を x+y や f(x,y) 等の様々な記法で表します.それと同様に,代数系において単項算法 α を x に施したものは αx や xα や xα 等の様々な記法で表せるし,二項算法 β を x, y に施したものは β(x,y) や xβy や (x,y)β 等の様々な記法で表せます.そして,異なる記法を使えば,実質は等しい代数系でも見かけは異なります.より一般的に言えば,互いに同形な代数系は,見かけが異なっても実質的には同じものです.たとえば,実数の全体 R に加法 + を与えて代数系としたものと,正の実数の全体 R+ に乗法 × を与えて代数系としたものとは,指数関数 ex によって同形ですから,見かけは異なっても実質は等しい代数系です.格論理学における形式言語(それを格言語と呼びます)にもこの説明が当てはまります.そして,格言語のこういう見かけの多様性が自然言語の多様性に反映している(#)のだと思います.ただし,自然言語の多様性は格言語の見かけの多様性だけで説明できるものではありません.数理心理学者は,論理学者や言語学者とは異なり,格言語に当たる生理的実体が脳神経系に存在してそれが言葉として表出するのだと考えるのですが,格言語が言葉として表出する際には,記号の喪失等の格言語の変形が起きます(たとえば英語では π は常に喪失する).その変形の多様性も自然言語の多様性に反映している(*)のだと思います.(#)(*)を実証するには世界中の言語を調べなければなりませんが,以上のような理由で,格論理学の文法論は日本語以外の自然言語にも密着したものだと信じます.
 具体例でもう少し説明しましょう.
John loves Mary, Every boy loves Mary, A boy loves Mary
という三つの英文は,意味も形も良く似ています.しかし,これらの意味を述語論理式で表そうとすると,それぞれ論理記号 ⇒ や ∧ を使ったり使わなかったりの
Love(John,Mary), ∀x{Boy(x)⇒Love(x,Mary)}, ∃x{Boy(x)∧Love(x,Mary)}
という式となって,元の英文にあった形態的類似が失われてしまいます(John と Mary は定項で,Boy(x) と Love(x,y) は述語).これら英文に対応する日本語文
ジョンがメリーを愛す, 少年が皆メリーを愛す, 少年が幾人かメリーを愛す
と比べても同様です.これは,述語論理学の文法論が自然言語と密着していないことを示します.「それでは述語論理学に代わるべき論理学は何か?」 この問題が,いわゆる「モンタギュー意味論」の生まれるきっかけであったようです.しかしこの問題は,格論理学による方が,より劇的に解決されます.格論理学では,これらの日本語文の意味は,それぞれ
Johnπ(MaryωLove), Boy(π∀)(MaryωLove), Boy(π∃)(MaryωLove)
という式で表されます(John と Mary と Boy とは体元で,Love は用元).ただし実は数理心理学者は,「これらの式が先の日本語文の意味を表す」と考えるのではなく,「先の日本語文を思い浮かべた日本人の脳神経系には,これらの式に当たる生理的実体が出来ている」「脳神経系にそういう実体の出来ることが,即ち先の日本語文を思い浮かべることである」「そういう実体が先の日本語文のような言葉となって表出する」というように考えます.その意味で,∀ と ∃ は「皆」と「幾人か」あるいはそれらの同義語として表出し,π と ω は「が」と「を」あるいはそれらの同等語として表出します.John と Mary と Boy と Love とは勿論「ジョン」「メリー」「少年」「愛す」という言葉として表出します.その結果,上の各式が先の各日本語文として表出するというわけです.
 さて,上の三式における π と π∀ と π∃ と ω とは,格言語なる代数系の二項算法です.先ほど代数系の二項算法は,β(x,y) や xβy や (x,y)β 等で表されると言いましたが,π と π∀ と π∃ と ω とは,日本人の格言語においては xβy で表されると考えます.これに対して英米人の格言語においては,π と π∀ と π∃ とは β(x,y) で表され,ω は yβx で表され(x と y が入れ替わっていることに注意),従って上の三式はそれぞれ
π(John, (LoveωMary)), (π∀)(Boy, (LoveωMary)), (π∃)(Boy, (LoveωMary))
となっていると考えます.さらに,π と ω とは,英米人の格言語には存在する(即ち英米人の脳神経系には実体として存在する)が言葉としては表出しないと考えます.John と Mary とBoy と Love とは勿論「John」「Mary」「Boy」「Loves」という言葉として表出すると考えます.その結果,これら三式が先の英文として表出するというわけです.こう考えれば,元の英文・日本文にある形態的類似が,式の形態にきれいに受け継がれるのです.以上は,格言語の文法論が自然言語に密着していることを示すほんの一例に過ぎません.
Q:格言語の文法論では「人は皆死ぬ」を h(π∀)m で表したり,「少年が皆メリーを愛す」と「少年が幾人かメリーを愛す」とを Boy(π∀)(MaryωLove) と Boy(π∃)(MaryωLove) とで表したりと,限量記号の扱い方が述語論理学とはずいぶん違いますが,どういう考えでそのような扱い方に導かれたのですか?
:やはり「格言語の文法論を自然言語に密着させる」という考えからです.そこで,日本語では限量語がどのように使われるかを少し観察してみましょう.
 皆さんは,普段の会話で「一杯の水を下さい」「沢山の人がいた」「三人の友人に会った」などと言いますか.緊張したりしていなければ,きっと「水を一杯下さい」「人が沢山いた」「友人三人に会った」などと言うはずです.つまり本来の日本語では,「水を一杯」「人が沢山」「友人三人に」のように,「名詞・助詞・限量語」あるいは「名詞・限量語・助詞」の語順が普通なのです(因みに,助詞「が」「を」の場合は「名詞・助詞・限量語」の語順がより日本語らしく,助詞「に」「へ」「で」「から」などの場合は「名詞・限量語・助詞」の語順がより日本語らしい).「一杯の水を」「沢山の人が」「三人の友人に」のような「限量語・の・名詞・助詞」という語順は,多分漢語や西欧語の翻訳調の言い方で,本来の日本語ではないのです.
 こういう日本語の特徴を示す好例があります.Beatrix Potter 作「The Tale of Peter Rabbit」の中に
First he ate some lettuces and some French beans; and then he ate some radishes; and then, feeling rather sick, he went to look for some parsley
という一節がありますが,これを石井桃子氏は
それから,まず,レタスを何枚か食べ,それから,さやインゲンを食べ,それから,二十日大根を何本か食べました.その内,ちょっと胸がムカムカしてきましたので,パセリを捜しに行きました
と訳しています(原文は平仮名).「ate some lettuces」「ate some radishes」を「何枚かのレタスを食べ」「何本かの二十日大根を食べました」ではなく「レタスを何枚か食べ」「二十日大根を何本か食べました」としているのに注目してください.つまり,「限量語・の・名詞・助詞」という語順ではなく「名詞・助詞・限量語」という語順をとっているのです.作家の感性からも,読者である子供たちのためにも,石井氏は日本語らしい日本語を使おうとしたはずですから,「名詞・助詞・限量語」という語順がやはり日本語本来のものなのでしょう.証拠をもっと得ようと私は志賀直哉の作品にも当たってみましたが,やはり「名詞・助詞・限量語」という語順が圧倒的に多数でした.
 さてそれでは,「名詞・助詞・限量語」という位置に置かれる限量語というものは,何を修飾するものでしょうか?「ate some lettuces」では,「some」は勿論「lettuces」を修飾しているように見えます.しかし,石井氏の訳「レタスを何枚か食べ」では,「何枚か」と「レタス」が「を」を挟んでいますし,日本語の主要部後置の原則に照らしても,「何枚か」が「レタス」を修飾すると考えるのは変です.「何枚か」は寧ろ「食べ」を修飾しているように見えます.しかし他方で,「レタス何枚かを食べ」と言い換えることもできます.この語順の場合,「何枚か」と「食べ」が「を」を挟んでいるので,「何枚か」が「食べ」を修飾すると考えるのは変です.かといって,「何枚か」が「レタス」を修飾すると考えるのは,やはり主要部後置に反します.先にあげた「友人三人に会った」の例でも同様です.「三人」は,「会った」を修飾するとも「友人」を修飾するとも思えません.限量語は一体何を修飾するのでしょうか?
 突飛と思われるでしょうが,私の結論はこうです.「限量語は名詞や動詞を修飾するのではなく,助詞と組をなす」 実際,「レタスを何枚か食べ」でも「レタス何枚かを食べ」でも「友人三人に会う」でも「友人に三人会う」でも,助詞の「を」「に」は限量語の「何枚か」「三人」と離れることがありません.それに対し,「レタス」も「食べ」も「友人」も「会う」も,限量語と離れます.こういうわけで,「人は皆死ぬ」「少年が皆メリーを愛す」「少年が幾人かメリーを愛す」に対応する式 h(π∀)m, Boy(π∀)(MaryωLove), Boy(π∃)(MaryωLove) では,格 π が限量記号 ∀ や ∃ と組を作っているのです.
Q:格論理学の文法論の狙いと概要は今の説明で分かりましたが,意味論はどうなっていますか?たとえば先の例の sπ(hΔ), h(π∀)m→sπm が恒真となるような意味論が出来ているのでしょうね?
:勿論です.またたとえば,「ソクラテスがペンで字を書く」「ペンでソクラテスが字を書く」「字をソクラテスがペンで書く」等の真偽が私達にとって同じであるのに応じて,これらに対応する
sπ{pδ(lωw)}, pδ{sπ(lωw)}, lω{sπ(pδw)}
等の式の真偽が一致するように意味論が出来ています.さらに,「ソクラテスがペンで書くものを総てソクラテスはペンで書く」が私達にとって真であることに応じて,
〔[sπ{pδ(xωw)}]Ωx〕(ω∀){sπ(pδw)}
が恒真となるように意味論が出来ています.勿論これらだけではなく凡そ私達に真と感ぜられる言語表現に対応する式が総て恒真となるように,意味論が出来ています.
 述語論理学の意味論では,世界は何らかの集合と真偽集合 {0,1} との直和です.これに対し格論理学における世界(それを格世界と呼びます)は,実在の全体と事態の全体との直和であり,0 と 1 とは事態の一部です.実在が文法論における体元に対応し,事態が文法論における用元に対応します.実在は,たとえば「ソクラテス」「人」のような単純な言葉に対応する単実在と,「ソクラテスがペンで書くもの」のような,英語でなら関係代名詞を使って表現する複雑な言葉に対応する複実在とに分かれます.そして単実在全体の集合は,自然言語の多様な限量語に対応するために測度なるものを備え,概念の上位下位関係に対応するために基本関係なるものを備えています.また,「ソクラテス」「人」などの概念から「ソクラテスだ」「人である」などの観念が出来ることに対応して,格世界には,実在 a に事態 aΔ を対応させる写像 Δ が備わっています.この Δ は,格論理学の文法論における記号 Δ に対応します.また,「ソクラテス」「ペン」「字」「書く」などの概念や観念から「字を書く」「ペンで字を書く」「ソクラテスがペンで字を書く」などの観念が出来ることに対応して,格世界には,実在 a と事態 f の組に事態 aλf を対応させる様々な写像 λ が備わっています.この λ は,格言語の文法論における格(π,δ 等)やこれらと限量記号との複合記号(π∀,π∃,δ∀,δ∃ 等)に対応します.
Q:格論理学の概要は分かりました.従来の論理学とは全く異質のもののようですね?
:異質と言うよりは,広範なものと言った方がよいでしょう.事実,述語論理学は格論理学に埋め込まれます.様相論理学も埋め込まれるでしょうし,埋め込むことにより,可能世界意味論に代わる意味論が出来ると思っています.ただしそのためには,格論理学を一般化しなくてはなりません.実はこれまで説明してきた格論理学は単相という制限付きのもので,この制限を取り払ったものが一般の格論理学です.WWW出版「数理心理学」では,第六章で一般の格論理学の設計も提示していますが,これは暫定的のもので,設計はまだ確定していません.
Q:「単相」の「相」はどういう概念ですか?「様相論理学」の「相」と関係がありますか?
:「単相」の「相」は「物事と限量の種々相」に因みます.まず物事には,空間に関することや,時間に関することや,者や物の他の者や物への作用や関わりに関することなどの種々相があります.そして格助詞には,そういう種々相を切り分ける働きがあります.たとえば,格助詞の「に」には実に様々な働きがあって,動詞が表す動作・作用・関わりの向かう対象を示したり,動作・作用の行なわれる場所を示したり,動作・作用の行なわれる時を示したり,動作・作用・関わりの様態・程度を示したりします.次に限量については,たとえば「かなり」という一つの限量語であっても,限量の対象が者や物であるか空間であるか時間であるかの違いによって,限られる数量の性格が違います.ただし,一つの語が種々の相を示すというのは言語学者的の見方です.数理心理学者は,一つの格助詞「に」が様々なものを表すと考える代わりに,人間の脳・神経系には「に」の表す種々相に対応する実体が複数あるが,それらが言葉として表出するときには,人間の発声能力の限界などのために唯一つの「に」となると考えます.その他の格助詞や限量語についても同様です.そうすると,格言語は自然言語の数理模型ではなく人間の脳・神経系内の外界認識に関わる実体の数理模型なので,格言語の格や限量子は複数の「相」に分かれていると考えなければなりません.しかし,そういう複数の相のある格論理学にまで一挙に進むのは難しいので,まず一つの相しかない単相格論理学をよく研究・理解することが必要と思います.
Q:格論理学を作る際に,誰か先人の仕事を参考にしましたか?
:先ほどモンタギュー意味論について否定的な意見を言いましたが,実は,モンタギューから重要なことを学びました.以下,そのことについて説明しましょう.
 数学では,たとえば3変数関数 f の値は f(x,y,z) で表し,それで用が済みます.しかし,f を右端に置いて (z,y,x)f と書いても一向に差し支えありません.次に,この関数 f において x, y, z にそれぞれ a, b, c を代入して得られる値は,もちろん (c,b,a)f ですが,これを次のように解釈することができます.先ず,(z,y,x)f における x だけを a に定めた (z,y,a)f は,y と z とを変数とする2変数関数の値とみなせます.そこでこの関数を a1f で表すことにします.a と f との間に 1 を置いたのは,1番目の変数 x を a と定めたということを明示するためです.そうすると (z,y,a)f = (z,y)(a1f) が成り立ちます.次に,(z,y)(a1f) における y だけを b に定めた (z,b)(a1f) は,z を変数とする1変数関数の値とみなせます.そこでこの関数を b2(a1f) で表すことにします.b と (a1f) との間に 2 を置いたのは,さっきと同じ理由からです.そうすると,(z,b)(a1f) = (z)(b2(a1f)) が成り立ちます.(z)(b2(a1f)) における z を c に定めた (c)(b2(a1f)) は,定値すなわち0変数の関数ですから,これまで同様 c3(b2(a1f)) で表すことにします.そうすると結局,次の式が成り立ちます.
f(a,b,c) = (c,b,a)f = (c,b)(a1f) = (c)(b2(a1f)) = c3(b2(a1f))
これがモンタギューから学んだことの一つです.数学の普通の考え方では f という3変数の関数しか考えないところを
f, a1f, b2(a1f), c3(b2(a1f))
という3変数から0変数までの四つの関数を考えるところが味噌です.次に,記号 f, a, b, c, 1, 2, 3 を機械的にそれぞれ「食べる」「ピーター」「レタス」「畑」「が」「を」「で」に置き換えてみます.そうすると,上の四つの関数から次の四つの日本語文ができます.
食べる,ピーターが食べる,レタスをピーターが食べる,畑でレタスをピーターが食べる
記号を置き換えただけですから,これらの日本語文もそれぞれ上記の関数を表します.
 「日本語文というのは総て,こういうように何らかの関数の表現になっているのではないか」というのが,格論理学の設計に当たっての私のそもそもの発想でした.そうすると,c3(b2(a1f)) における 1, 2, 3 は格助詞「が」「を」「で」に当たりますから,数字で表すのはもう妥当ではないので,「π」「ω」「δ」で表すことにします.「が」が主格を表すので「principal」の頭文字「p」に当たるギリシャ文字「π」を「が」に当て,音の類推から「ω」「δ」を「を」「で」に当てたのです.先程「ジョンがメリーを愛す」という文が「Johnπ(MaryωLove)」という格言語の式の表出であると言いましたが,これを今の説明に即して敷衍すれば,
愛す, メリーを愛す, ジョンがメリーを愛す
という三つの日本語文がそれぞれ
Love, MaryωLove, Johnπ(MaryωLove)
という2変数から0変数までの三つの関数の表現になっていると考えるのです.ただし,私たちに一番お馴染みの関数は実数に実数を対応させるものですが,格論理学の場合の「関数」とは,格世界の元に格世界の元を対応させる関数です.
 モンタギューからは,「述語論理学・様相論理学・何々論理学・…というような既成概念に囚われずに自由に考えよう」という精神も学びました.上記のような技術的なことより,こういう精神の方が重要だったかもしれません.その精神に沿ってモンタギュー意味論にさえ囚われずに格論理学を設計するのは,処女雪の上を行くような爽快な経験でした.
Q:数理心理学のこれからの課題にはどういうものがありますか?
:当面は論理と言語に関わることが主になります.論理に関しては,まず,単相でない一般の格論理学の設計を確定しなければなりません.そのためには,たとえば「こと」の問題を解決しなければなりません.つまり私たちは,たとえば「風が吹く」「桶屋が儲かる」のような用言に「こと」をつけて「風が吹くこと」「桶屋が儲かること」のような体言を作ってそれについて考えることができます.私たちにとって「風が吹けば桶屋が儲かる」と「風が吹くことは桶屋が儲かることである」の真偽は同じでしょうか.また,「風が吹く」と「風が吹く(という)ことが存在する」の真偽は同じでしょうか.同じであるなら,これら用言に対応する格言語の文の真偽が同じになるように格論理学の意味論を設計しなければなりません.
 一般の格論理学の設計が出来たら,次に,従来の論理学で出来ていることを格論理学で試すことが必要です.まず完全性の問題がありますが,単相格論理学での完全性については水村氏が先鞭を付けてくれました.次に不完全性定理の問題があります.数理心理学の観点から見ると,これは自己意識にも関わることのように思われます.それから,逆理の問題があります.これも数理心理学の観点から見ると,思考機械人間が誤作動あるいは世界に不適応な作動に陥っている状態と解釈されます.人類が二足歩行を始めて何万年経ったのか知りませんが,人類はまだ二足歩行に適応し切れていないために身体の障害を色々起こすそうです.人類が論理的思考を始めたのはもっと後のことでしょうから,適応し切れていない方がむしろ当然でしょう.先の例ではsπ(hΔ)は「ソクラテスは人だ」に対応していました.しかし,これが「ソクラテスは人に属する」に対応すると解釈しても,つまりs∈hと解釈しても,何の不都合も起きません.このことを追求すれば,x∈xと¬(x∈x)の逆理に関して何か分かるかも知れません.
 単相格論理学と日本語との関係については,WWW出版「数理心理学」の第七章で大分書き進んでいます.しかし,一般の格論理学と日本語との関係については,おおまかな構想は出来ていますが,書くのは総てこれからの仕事です.そこで論ずべきことには,たとえば時制やアスペクト等の時間に関わることや,様相に関わることがあります.格論理学と諸言語との関係について論ずることは,私の手に余りますので私の構想には入っていませんし,それらの言語を母語とする人達によって成されるのが理想です.

大学院を目指す人に

Q:大学院とはどういうところですか?大学とはどう違いますか?
:医科大学院とか法科大学院等の専門職大学院のことは知りませんので,理学系研究科での私の経験を踏まえて説明します.学生にとっては,大学が知識を得る場だとすれば,大学院は研究者としての訓練を受ける場です.つまり,学術的創造を行なう能力を養う場です.それは実際に研究職に就くことを目指すか否かに関わりません.研究をするには基礎となる知識が必要ですから,それを得るために講義を聴いたり本を読むことは必要です.しかしそれ以上に必要なのは,まず探究心と創造・独創への欲求と美意識です.「これはなぜだろう」「新しいことをしたい」「もっと美しいものを作りたい」という気持ちの乏しい人は研究者には向かないでしょう.指導教員もこういう内面にはあまり関与できません.次には,よい問題意識とそれを追求するための知力・技術力ですが,これは容易には得られません.そこで指導教員は,よい問題意識を示し,それを追求するのに必要な知力・技術力の鍛錬を学生に課します.これが指導教員の役割の大部分を成します.教員がよいと思う問題意識は,当然,教員自身の問題意識の近辺にあり,またそうでなければ,十分な指導は行なえません.学生はそこに主眼を置いて指導教員を選ばなければなりません.学生が研究課題を決め研究を始めた後は,指導教員はそれに助言を行なうことはありますが,手取り足取りの手助けは行ないません.学生が研究成果を上げた後は,指導教員はそれを発表するのに必要な技芸の指導を行ないます.ただしこれらの指導は,必ずしもこの通りの順で行なうわけではありません.
Q:大学院で数理心理学を専攻したい学生は学部でどんな勉強・準備をしたらよいですか?
:論理学や代数学の素養が必須ですから,それらをしっかり学べる学科を選ぶ必要があります.そういう学科には心理学や言語学を始めとする人間科学についての講義は無いでしょうから,それらは独習することになりますが,独習で大づかみに学べば十分だと思います.数理心理学はそういう既成の人間科学の上に積み上げるべきものではなく,そういうものに対して批判的な見地から全く新たに築き上げるべきものなので,そういう既成の科学における詳細な知識は却って邪魔になり兼ねないからです.
Q:あなたの研究室でのセミナーはどう行なっていますか?
:WWW出版「数理心理学」を全員で講読することを基本としています.ただし,第三章「論理代数学」から始めます.第二章以前は,数理心理学の基本的な考え方を説明する大変重要な章ですが,時間的制約などのために,これまでは各自の自習に任せてきました.ただし,第二章以前の内容についての質問や議論は大歓迎です.それら内容について未消化であったり疑義を持ちながら黙しているという態度は感心しません.なお,東大理学部数学科からの進学生は四年時の私のセミナーですでに「数理心理学」を読み始めているのが普通ですが,他所からの進学生はそうでないのでハンディキャップが多少あるようです.
Q:修士課程から博士課程に進学するにはどうすればいいですか?
数理心理学専攻に限らず一般的に言えば,修士論文で評点Aをとることが必要です.評点Aの要件は欧文学術誌に受理される水準の内容があることです.受理される要件は新規性と有用性でしょう.そういう修士論文を自分の力で書けることが博士課程進学の資格であるというのが数理科学研究科の内規です.この内規の心は,研究者として自立できる人だけを博士課程に進学させるということだと思います.つまり,課題を自ら発掘し自らの能力で解決する力を備えた人が進学を許されるのです.先生に課題をもらって先生に助け舟を出されて論文を書くような人は進学できません.
Q:数理心理学を専攻した学生が大学などの研究職に就くのは容易ですか?
:残念ながら,数理心理学は学問界の極小勢力なので,これで研究職に就くのは大変困難だと思います.研究職に就くのではなく,大学院で学んだ経験を社会で生かすという考え方の方が現実的でしょう.あるいは,他の分野で安定した研究職に就いてから数理心理学に転向するという手も考えられます.しかし,大学院の重点化により大学院生が溢れ就職難を来たしていますので,大勢力の下に居ても,大学等の研究職に就くのは大変困難なようです.加えて行政改革や独立行政法人化や任期制の導入により公的の研究所や大学の将来が不安で希望が持てませんので,私は学生に研究職を目指すよう勧めるのをためらわざるを得ません.
Q:あなたが指導する大学院生に一番言いたいことは何ですか?
:せっかくの好機をみすみす逃さないようにということです.歴史の長い成熟した学問分野では,意義が大きくて手頃な問題を見つけることが困難で,そのために重箱の隅をつつくような詰まらない研究に陥りがちです.ところが数理心理学では,格論理学なるものが誕生してまだ日が浅いので,論理学的あるいは数学的問題に限っても,意義が大きくて手頃な問題が沢山あり,それはその気になって探せば簡単に見つかるはずなのです.
Name Address