歴代名人略歴
【初代名人】  初代大橋宗桂
【二世名人】  二代大橋宗古
【三世名人】  初代伊藤宗看
【四世名人】  五代大橋宗桂
【五世名人】  二代伊藤宗印
【六世名人】  三代大橋宗与
【七世名人】  三代伊藤宗看
【八世名人】  九代大橋宗桂
【九世名人】  六代大橋宗英
【十世名人】  六代伊藤宗看
【十一世名人】 八代伊藤宗印
【十二世名人】 小野五平   
【十三世名人】 関根金次郎  
【十四世名人】 木村義雄   
【十五世名人】 大山康晴   

江戸の将棋指し<追記:明治から昭和の升田幸三までの棋士たち>
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【初代名人】本家
 初代大橋宗桂  将棋の始祖。

 弘治元年(1555)京都に生まれ寛永11年(1634)三月九日に80歳で没した。
 久しく医家の出と「武江年表」で誤伝されていたが、「当代記」が表すように「京都町人」が正しいと
 思われる。

 宗桂は碁の本因坊算砂と共に信長、秀吉、家康に仕え度々将棋を披露した。
 宗桂の名は信長から拝命されたものと云われる。
 家康は碁将棋を愛好し、碁将棋所の制を設けて禄を与えた。
 最初、碁と将棋は一本で本因坊算砂が司であったが、後に将棋は独立して宗桂が初代将棋所となった。
 宗桂は将棋所任命に応えて慶長年間に詰将棋五十番「象戯造物」を出版し幕府に献上した。
 これが最古の詰将棋であり、最古の棋書である。他に「根本宗桂象戯秘伝小鈔」「宗桂将棋経」などが
 ある。
 現存する棋譜は八局のみで宗桂の七勝一敗。
 最古の棋譜は相振り飛車で草創期においては振り飛車が最高の戦法だった。
 (最古の棋譜第1局は将棋の部屋に掲載済)
 墓は京都・霊光寺。法名は玉浄院宗桂日龍。

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【二世名人】本家
 二代大橋宗古  初代宗桂の子。

 天正四年(1576)京都に生まれ承応三年(1654)7月15日、79歳で没した。

 名人就位は寛永11年、59歳の時。彼の世襲により将棋家元の地位が確立し、さらに彼の力によって
 寛永12年、大橋分家、伊藤家が創始された。
 作品に「象戯図式」「将棋経妙」「象戯手引草」などがある。
 「象戯図式」巻末には今のル−ルを成文化した「将棋治式三ヶ条」に
 1.二歩を打つことの禁。
 2.千日手の禁。
 3.行き場のない駒を打つことの禁。
  他に打ち歩詰の禁。を示し現代まで受け継がれている。
 現存する最古の棋譜は、元和五年(1619)宗古44歳の時のものであり、算砂との「15番指し」
 のもの。
 この二番局が右香落ちの最古の局となる。十五局指しは宗古の九勝五敗一持将棋に終わる。
 宗古の代から家禄が二十石に(宗桂は五十石五人扶持)なったが、その理由らしきものは国立市の
 谷保天神の歴史にも関わる「蜀山人・太田南畝」が筆記した「竹橋余筆」に出てくる。
 墓は京都、本法寺だが墓碑は無い。法名は常松院宗古日玉。

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【三世名人】伊藤家
 初代伊藤宗看  二代宗古の娘婿。

 元和四年(1618)出雲に生まれ、元禄七年(1694)11月6日、77歳で没した。

 大橋家の高弟、寛永12年宗古の配慮により18歳で新家元伊藤家を興した。
 この頃、宗古と宗看の新家元体制に敵対する在野派(本因坊系棋士)は次々に宗古に挑戦状を送り、
 争いを申し入れた。
 宗看は家元を代表して彼らの矢面に立ち、松本紹尊(寛永14年)、萩野真甫(寛永18年)、
 檜垣是安(慶安5年)等にいづれも勝ち越、家元の権威を不動にした。
 特に檜垣是安との対決は「是安吐血の局」として有名。これら争い将棋に勝った彼は実力第一人者と
 認められ、承応三年(1654)、宗古の死により三世名人を襲位した。
 宗看37歳の時で史上初の実力名人である。
 彼の詰将棋百番「象戯図式」(俗称=将棋駒競)は慶安二年(1649)に献上された。
 八段に昇り次期名人に格付けされた者が名人襲位前に図式を献上するしきたりはこの時より始まった。
 彼は名人位を譲られた師家の恩を忘れず、万治三年に三代宗桂が没し、さらに四代宗伝が25歳で没して
 大橋家本家が断絶の危機に瀕するや、自家の断絶を覚悟して実子の宗銀を養子におくり、師家を再興
 させた。
 この為、伊藤家は彼一代で廃絶しそうになるが、寺社奉行井上河内守の計らいで高弟の鶴田幻庵
 (後の二代宗印・五世名人)を養子に迎え事なきを得る。
 「象戯図式」は「将棋駒くらべ」「将棋駒競」などがある。
 菩提寺は東京都墨田区横川橋の本法寺、大橋本家と同様に駒形の墓碑。裏に「名人」の二字を刻む。
 江戸時代の墓碑は大正12年の関東大震災で消失、現在のものは昭和5年に再建したものだが東京空襲で
 戦災にあって破損がはげしい。
 法名は梅昌院宗看日香(本所区史では「日秀居士」)。

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【四世名人】本家
 五代大橋宗桂  

 初代伊藤宗看の実子で前名は宗銀。
 寛永十三年(1636)に生まれ、正徳三年(1713)5月6日、78歳で没した。

 四代大橋宗伝の早世で大橋本家が断絶の危機に瀕したため、寛文四年、初代宗看の実子宗銀は大橋家の
 養子になり五代宗桂を名乗った。彼が28歳の時である。
 寛文九年に八段を許され詰将棋百番「象戯図式」(俗称象戯手鑑)を献上。
 名人就位は元禄四年、彼が56歳の時。
 元禄11年(1698)将棋の心得を論した「象棊百ヶ条」を執筆。
 晩年の宝永六年に伊藤家との嫡子の生命を賭けた争い将棋をさせた、宗銀、印達57番指しがそれで、
 大橋家養子(16歳)と伊藤家長子印達(13歳)を平手から始まって四番手直りの指込手合いで10日に
 1局の割合で1年半にわたって争わせた。次代の主導権争いだったが、精魂を使い果たした印達は正徳
 二年に15歳に病死、翌正徳三年には五代宗桂と宗銀も相次いで病死して、悲劇の争い将棋は幕を閉じた。
 法名は善行院宗桂日金。

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【五世名人】伊藤家
 二代伊藤宗印  前名は鶴田玄庵。肥前の国、唐津の人。

 生年不詳〜享保8年12月2日に没する。享年69歳前後。

 元禄3年(1690)、伊藤家に養われて御城将棋に出勤。養父の初代宗看が致仕して伊藤家を相続。
 正徳三年、五代宗桂が没して5世名人を襲い、、在位11年で世を去った。
 図式は「将棋勇略」、「将棋精妙」(不成百番として有名)がある。
 法名は金龍院宗印日歩。

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【六世名人】大橋分家
 三代大橋宗与  二代大橋道仙の嫡子。

 慶安元年に生まれ享保13年(1728)4月5日、81歳で没する。

 宗与の代に京都から江戸に移住。
 万治二年、12歳で家を継ぎ、享保八年(1723)、76歳と史上最高の老齢で六世名人を襲位した。
 この年で名人を襲ったのは五世名人・二代宗印が急死するという事情があり空位を避けるために、
 次の若い三代伊藤宗看が生長するまでの中継ぎと言われている。

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【七世名人】伊藤家
 三代伊藤宗看  五世名人二代目伊藤宗印の次男として生まれ天才的な将棋実力者。

 前名 伊藤印寿(幼名政長)。宝永三年(1706)に生まれ宝暦11年(1761)4月29日、56歳で没する。

 詰将棋を一挙に高度な水準に引き上げた功績者。
 18歳の時家督を継ぎ23歳の史上最年少で名人に就位し棋界の発展に努力した。
 彼の詰将棋作品である「象戯作物」百番は昇進が早かったために八段の時に創られず、異例だが名人就
 位後6年目に献上されている(享保19年)12番目は盤上に攻め方の駒が無い<無仕掛>、75番目の長手
 数詰、100番目は<大迷路>と名がある163手詰は詰将棋史上の傑作がある、後世に
 「詰むや詰まざるや」と異名がつけられた。
 法名は玉将院宗看源立日盤[?]忌。

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【八世名人】本家
 九代大橋宗桂  前名 大橋印寿(幼名政秀)、

 延享元年(1744)に生まれ寛政11年(1799)8月14日没する。56歳。

 御城将棋は宝暦五年(1755)から印寿の名で出勤、安永三年(1774)、31歳で九代宗桂を継ぐ。
 天明五年(1785)41歳の時改名。
 八世名人を襲うのは寛政元年で46歳の時だが天明四年まで御城将棋は印寿の名で記録あり。
 印寿時代に十代将軍家治に召されて将棋の相手を勤めた記録が「浚明院殿御実紀」にある。
 天明六年(1786)八段を許され、図式百番を献上。(最後の献上図式となる)
 法名は玉応院宗桂元奥日印。

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【九世名人】大橋分家
 六代大橋宗英 五代宗順の末子、幼名は七之助、
妾腹の子。

 御城将棋は安永七年(1778)23歳と遅かった。
 宝暦六年(1756)に生まれ文化六年(1809)11月17日、奇しくも御城将棋の日に城将棋に出勤し急病を
 起こし退席、帰宅後まもなく息を引き取り54歳で世を去った。
 幕末の書、「将棋営中日記」で歴代10人の中から最強名人に選ばれる。(二位は三代宗看)。
 宗看、看寿によって高いレベルに到達した詰将棋の創作も宗英の時代より献上されなくなり、江戸時代
 末期には次第に衰徴の方向に向った。
 法名は不詳。

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【十世名人】伊藤家
 六代伊藤宗看 五代宗印の養子 前名松田印嘉。

 明和五年(1768)に生まれ天保14年(1843)9月16日、76歳で没する。

 養子縁組は天明四年(1784)で17歳。
 九世名人六代大橋宗英が無くなったときまだ七段で、寛永元年(1789)に養父宗印は致仕して六代宗看
 となり十世を名乗るのはその17年後、文政八年(1825)58歳だった。図式献上せず。
 最後の御城将棋は安政六年(1859)で七段のままで将棋所の有資格者ではなく3回目の名人空位となる。
 後に八段に昇る。
 子の看理、看佐、金五郎ら早世し跡継ぎなく二代看寿の子宗寿を迎えを養子とする。
 法名は飛香院宗看日将。

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【十一世名人】伊藤家
 八代伊藤宗印 幼名上野房次郎。

 文政九年(1826)7月、江戸の神田松永町に生まれ、明治26年(1893)1月6日、66歳で没。
 名人位空位となる。

 10歳前後で大橋本家に学び、天保七年(1836)11歳で初段、同14年に18歳で、四段。
 天保14年(1843)以来、名人空位、宗印は七段のため資格無しが続く。
 弘化二年(1845)6月20歳で七代伊藤宗寿の養子となって印寿を名乗った。7月御城将棋に初出勤。
 弘化三年(1846)七代宗寿死去のあとを受けて八代目を相続し五段になる。
 嘉永三年(1850)11月、25歳で六段、嘉永五年11月、27歳で七段に昇り、八代宗印を名乗る。
 それから四年後の安政三年(1856)宗歩と平手で戦った。
 文久元年11月の最後の御城将棋まで23番を勤める。16勝5敗2持将棋の成績。
 御城将棋は江戸幕府の体制が揺るぎ始める文久元年(1861)で消え去る。
 明治二年(1869)に将棋雑誌の刊行を企画し、再建の烽火をあげた。
 八代宗印は棋書の刊行に非常に熱心で、安政五年(1858)に二代宗印の図式集「不成百番」を、
 名人襲位二年前の明治10年(1877)4月、天野宗歩の実戦集「将棋手鑑」を編集刊行。
 ほかにも「将棋番付」を度々発行して棋界の隆盛をはかった。
 なかでも「将棊新報」の創刊の功績は大きい。
 明治七年(1874)10月に八段に、明治12年(1879)10月19日、名人空位35年の空白ののち11世名人を
 襲う、54歳。
 将棋三家は、幕臣と同じく江戸幕府消滅に伴い進退を新政権にゆだね、八丁掘松屋町屋敷も返上し
 下屋御徒町に移り、資金百円ずつを頂戴し一市民となった。明治26年、彼をもって伊藤家は断絶。
 門弟に小菅剣之助がおり、八代宗印の実戦集「将棋名家手合」を宗印没後の明治26年12月に編集、
 刊行した。
 法名は玉照院清常印日修。墓は東京・横川橋の本法寺。

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【十二世名人】大橋本家派
 小野五平  初名は土井喜太郎。
 
 天保二年(1831)10月6日徳島県の脇町に生まれる。大正10年(1921)1月29日、91歳で没。
 
 万延元年(1860)に三段、文久元年(1861)11月に四段、同三年8月に五段、
 慶応三年(1867)7月に六段、この時代、土井五香を名乗る。
 明治11年(1878)七段位取得、この時代は尾野五平を名乗り、翌年八段を許された時は小野五平と改名。
 明治12年(1879)4月13日、八代宗印の11世名人襲位に対抗し福沢諭吉など著名人を集め、
         両国で華々しく将棋会を催す。
 明治31年(1898)4月、68歳の時、政財界名士に推されて十二世名人に襲位。
 明治33年5月27日、両国で名人襲位披露宴を催す、ときに70歳。
 法名は清高院棋道超真。墓は東京・高円寺の松応寺。郷里の脇町に分骨し碑を建立。

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【十三世名人】 伊藤家派
 関根金次郎 

 明治元年(1868)4月1日、千葉県東葛飾郡二川村大字宝珠花(現・関宿町)に生まれ。
 昭和21年(1946)3月12日、没する。78歳。

 自伝に、11歳のとき11世名人八代伊藤宗印の門をたたき、4枚落ちで三番指し、二番は歯が立たず、
 最後の1番ははなを持たせてくれた、と。
 明治24年(1891)八代宗印に飛落ちを指してもらって四段になる。明治26年頃、坂田三吉と対戦。
 明治38年(1905)10月、大橋本家の十二代宗金より八段を許しを受ける、同時に免状発行権の委譲を
 受ける。
 十三世名人を襲ったのは大正10年(1921)54歳。
 昭和10年(1935)時代の要請に応じて自ら引退を決め実力名人制を断行。
 門下生に土居市太郎(名誉名人)・金易二郎(名誉九段)・花田長太郎(贈九段)・渡辺東一
 (名誉九段)・五十嵐豊一(八段)がいる。

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【十四世名人】 関根門下
 木村義雄

 明治38年(1905)2月21日、東京市本所区表町に生まれ
 大正5年(1916)関根金次郎の門に入って、大正15年(1926)21歳で八段。
 昭和10年(1935)の第1期名人戦で第1位となり名人位を獲得、昭和13年2月11日第1期名人を襲位した。
 第2期土居市太郎を、第3期神田辰之助をそれぞれ退けた。第4・5期は「挑戦予備手合」で八段勢を
 半香に指込み名人を保持。
 第6期で塚田に敗れたが、第8期名人戦で復位。第9期大山を第10期升田の挑戦を受けるも退ける。
 第11期に大山に敗れ現役を退く。「名人在位5期以上は永世名人」の規定により「十四世名人」を襲位。
 昭和61年(1986)11月17日急性白血病で死去。享年81歳。
         12月13日連盟葬。

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【十五世名人】 木見門下
 大山康晴

 大正12年(1923)3月13日、岡山県浅口郡西阿知町(現・倉敷市)に次男として生まれるが兄は早世。
 昭和 3年(1928)5歳で将棋を覚える。
 昭和 5年(1930)西阿知町有志によって大山後援会が発足。
 昭和10年(1935)河内尋常高等小学校を卒業。大阪の木見金治郎九段の門に入る。
 昭和12年(1937)1月初段(13歳)、10月二段(14歳)。
 昭和14年(1939)三段(16歳)。
 昭和15年(1940)2月四段。
 昭和16年(1941)五段(18歳)体調悪く年初から帰省し静養、5月帰阪。
 昭和18年(1943)六段(20歳)徴兵検査で強度近視のため第3種乙種。
 昭和19年(1944)召集、岡山の中部第48部隊へ入隊。
 昭和20年(1945)所属部隊が岡山、鹿児島、宮崎と移動、上等兵として終戦となる。11月帰省。
 昭和21年(1946)父の家業、精米・製粉業を営む。6月からB級順位戦対局。
 昭和22年(1947)七段(24歳)
 昭和23年(1948)1月28日、中川昌子さんと結婚。
         第7期名人戦挑戦決定戦(高野山)で升田八段を破り名人戦初挑戦。
         塚田名人に2勝4敗。八段に昇段。
 昭和24年(1949)第8期名人戦挑戦決定戦で五十嵐豊一七段に敗れる。
 昭和25年 (1950) 第9期名人戦挑戦決定戦で升田八段を破り二度目の挑戦。木村名人に2勝4敗。
         第1期九段戦で板谷四郎八段に2連勝、初タイトル獲得(27歳)。
 昭和26年(1951)第2期九段戦は南口八段に3連勝でタイトル防衛。
 昭和27年(1952)第11期名人戦挑戦決定戦で升田八段を破り3度目の挑戦。
         木村名人を4勝1敗で破り初の名人位。初の名人箱根越えと報じられる。
 昭和28年(1953)第2期王将戦で丸田八段を破り、初の王将位を獲得。
         第12期名人戦で升田八段を破り名人防衛。(以降1956年の第15期まで防衛)
 昭和31年(1956)永世名人の資格を得る。
 昭和32年(1957)第16期名人戦で升田九段に王将戦に次いで敗れ無冠。(升田が史上初の三冠独占)
 昭和33年(1958)九段。
 昭和34年(1959)第18期名人戦で升田名人を王将戦、九段戦に続いて破り三冠王になる。
 昭和35年(1960)第1期王位戦で塚田九段を破り、史上初の四冠王。以降タイトルを独占状態を続ける。
 昭和38年(1963)第1期十段戦で升田九段を破る。第1期棋聖戦で塚田九段を破り史上初の五冠王。
 昭和40年(1965)第5期棋聖戦で本間爽悦七段を破り5連覇、永世棋聖の資格を得る。
 昭和42年(1967)第11期棋聖戦の本戦準決勝で初手合の中原五段に敗れ、52年に名人となって以来 
         15年余り出場資格あるタイトル戦にはすべて登場していた記録途切れる。
 昭和45年(1970)倉敷市名誉市民。
 昭和47年(1972)第31期名人戦は大山名人・王将・王位と中原十段・棋聖で争われた。
         大山は3勝4敗で敗れ名人を失う。
 昭和48年(1973)第22期王将戦で中原名人に敗れ、ついに無冠。永世王将を贈られる。
 昭和49年(1974)第12期十段戦で中原十段に勝ち復冠(50歳)「50歳の新人です」と語る。
         第24期棋聖戦で内藤棋聖を破り二冠復冠。東京・将棋会館建設委員長。
         六番目のタイトル戦棋王戦発足。
 昭和50年(1975)第25期棋聖戦で米長八段を破り棋戦優勝100回達成。
 昭和51年(1976)現役のまま十五世名人襲位。将棋連盟会長就任。
 昭和52年(1977)通算勝数1000勝達成。
 昭和53年(1978)第31期棋聖戦で中原名人・十段・王将・王位に敗れ無冠。中原五冠王。
 昭和54年(1979)NHK放送文化賞、紫綬褒章を受ける。
 昭和55年(1980)第29期王将戦で加藤王将を破り復冠。
 昭和57年(1982)第31期王将戦で中原名人の挑戦を受け1勝3敗から3連勝で防衛。
         きものベストドレッサ−第22代きもの博士に選ばれる。東京都消防総監賞受賞。
 昭和59年(1984)2月NHK杯戦で新記録8回目の優勝。
         6月国立がんセンタ−入院。(現役50年にして初の不戦敗)
 昭和61年(1986)第44期名人戦プレ−オフで加藤九段・米長九段を倒し12年ぶり挑戦権獲得。(63歳)
 昭和62年(1987)東京都文化賞を贈られる。第35回菊池寛賞を贈られる。
 昭和63年(1988)永世十段。タイトル戦登場112回、獲得は名人18、王将20、十段14、王位12、棋聖16
         の合計80期、五冠王でタイトル独占も再三。名人、Å級には連続45年。
 平成元年(1989)将棋連盟会長を辞し最高顧問に。
 平成2年(1990)第15期棋王戦で南棋王に挑戦するも敗退。5月に通算1400勝達成。
         10月文化功労者に選出。
 平成3年(1991)A級順位戦で5連敗後、4連勝で残留。2月文化功労者顕彰祝賀会。
         11月入院、肝臓と肋骨を取る大手術。
 平成4年(1992)1月対局復帰後、A級順位戦で高橋九段、米長九段、谷川竜王を3連覇。          
         挑戦決定戦に進出。
         7月7日再々入院、7月26日午後10時45分現役Å級のまま肝不全で死去。
         享年69歳。
         8月21日連盟葬。

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掲載記録03.11.08
更新  04.01.25

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