将棋所とは

将棋所の設立。
戦国時代の末期になると将棋はあらゆる階層で興じられるようになった。将棋の普及は棋力の水準を高め、それがさらに普及の刺激になった。有力な武将達も将棋や囲碁について関心を持っていたし、豊臣秀吉が天正16年(1588)に本因坊算砂に「碁所を仰せ付けられ、手合の法度を申しつける旨の御朱印証文を下された」と伝えられている。信長、秀頼、家康等が囲碁師や将棋師を召し出して観戦することは行われていたが、16世紀末からの数十年間は囲碁、将棋お庇護者となるべき武将達は次々と討たれ、安定期を迎える17世紀中頃まではこれらの遊芸も官制と結びつくことはなかった。
慶長11年2月8日に江戸で徳川家康が伊達政宗の邸を訪れ、終日遊興しようと囲碁、将棋の上手の者達を召し出した。しかし強風が吹き荒れて埃が座敷に舞込んでそれどころではなく、食事を済ませると早々に帰ったとの記録もある。(慶長日記)
慶長12年にも京都に住む将棋師が家康の居城である駿府に召し出され、その次の年も駿府に呼び出されたことが、慶長の頃の徳川家の事項を詳しく記した「台徳院御実記」に見られる。この年の正月に大阪城へ秀頼に召し出されて算砂と宗桂が将棋の対局をしている。慶長15年9月にも「駿府で重陽の賀があった後、本因坊を召して囲碁せしめられ、大和国高取城主本多因幡守が対局した」とある。
これらから推測するにあたり、囲碁師や将棋師達に手当が支給されたのであろうが、毎年の恒例行事化したためか、慶長17年2月に棒給を支給されるようになった。この時の扶持支給書には「碁打ち衆」「将棋指し衆」に分けて書かれていた。この年の3月1日に「碁、将棋の徒、江戸より駿府にまいる」とあり御礼に参上したことが判る。
棒給を支給されたので、反対給付として徳川家に囲碁や将棋の技量を披露しなければならなかった。 後に幕府職制で「囲碁役」「将棋役」が定められ、碁打、将棋指しを支配したが、「囲碁役」「将棋役」は寛文2年(1662)に寺社奉行の管轄下におかれた。
近年、大橋家から日本将棋連盟に寄贈された古文書の解明が進み、将棋所は官職や役目ではなく、幕府も正式な名称として認めていなかった。明和元年(1764)に寺社奉行が大橋家の当主を呼び出し「名人将棋所」の由来と官賜であったかどうか調査した際に、九代目大橋宗桂は官職ではなく自称であって将棋三家の「頭役」にすぎないと返答した。
寛政九年にも扶持米受領の時も支給の担当役人から将棋所は正式な役職でないと肩書きを否認され、「将棋の者」と改めるように命令されている。(2002年刊、日本文化としての将棋)
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御前将棋
将棋師としての御奉公は、もちろん将軍の御前で将棋を指すことが第一義であったが、管轄する寺社奉行で細則がきめられていた。「寺社奉行支配ならびに遠国町人御礼格式」によると
一、参上の御礼は4月1日とし、一同で扇子一箱宛献上すること。
一、11月17日、将棋を仰せ付けられ、黒書院御縁ツラで指して、その時は将軍が上覧あそばせられる。
一、12月7日、御暇で、つつじの間で老中より銀を十枚ずつ、部屋住みの者へは時服二着ずつを下される。
一、当主ならびに部屋住みの者が、初めてお目見えする時には一同の者を披露し、扇子一箱を献上する。
一、在職中、月次五節句や吉凶時にはすべて出仕すること。
一、御法事の時は、願い出て礼拝が許される。
と定められている。
徳川家康の頃は4月1日に参上して、その日に上覧将棋を指したが、吉宗の時から11月17日が御前将棋の日と定められた。
御前将棋といっても、最初のうちは本番で指していたが、定刻までに勝負のつかない場合が出てきたので、寛文12年(1672)からは事前に指しておいて、ちょうど定刻に終了するように並べるだけで、事前の下指は当日の3日前か、5、6日前におこなわれていていた。
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将棋所の意義
御前将棋は約200年間に渡ってほぼ毎年続けられたが、将棋所は18世紀半ばから約30年間設置されず、名人位もその間は空位になっていた。それにもかかわらず将棋所がつくられ、薄給であったが棒給を得て生計を維持することができ、将棋師が幕臣になったことは将棋の発展にとって画期的なことであった。
第一に、たんなる遊戯だったものが官許として公に認められ、将棋に対する認識が高まったこと。
第二に、将棋師が江戸滞在中に門人を養成し、幕府や江戸詰の各藩士に将棋の稽古に召し出されることが可能になって将棋の普及に役立ったこと。
第三に、将棋所の司が名人に就位するという規定によって将棋のなかでの階級構成が明確になり、名人を基準にして段位の設定が可能になった、これによって全国的な将棋の権威づけと、段位をふくむ強弱の統一した基準が可能になったこと。
第四に、不明確なル−ルが定められたこと。
第五に、歴代の名人、宗家が発奮し、門人達も努力して棋力の水準が高まり、さらに研究を促進し、在野の棋士も含めて全体の水準向上と普及を活発にしたこと。
将棋所は徳川幕府の崩壊とともに消滅したが、現在の隆盛に将棋史上極めて重要な制度であった。
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将棋の段位
将棋所の司が名人という最高段位の基準になって、将棋所は大橋本家、大橋分家、伊藤家の三家により代々の名人を継ぐことに定められた。これ以外は民間人はもちろんのこと誰でも名人を名乗ることは許されなかった。名人の呼称は幕府の定めた職制の別称として、これを犯すものは幕府に対する反逆行為であり、いかに実力があっても名人を名乗ることは不可能であった。
段位は名人を最高として以下八段から初段まで定められたが、名人に就位しないものは大橋両家、伊藤家の当主であっても九段になれなかった。
段位の認定は家本である三家が駒落ちで対局して判定した。初段は飛車香落ち、二段は飛車香落ちと飛車落ちの二局を指し、三段は飛車落ち、四段は飛車落ちと角落ちの二局を指し、五段は角落ち、六段は角落ちと香落ちの二局、七段は香落ち、八段は香落ちと平手の交じりに勝ったものがその段位を贈られた。そして免状を出す資格のあるのは九段のみだった。
手合割りは上記を判りやすくすると、名人は九段で、八段は半名人。
以下の段差で上手を基準に、
一段差 平手と香車落ちで対局、この場合の香落ちは右香落ちとするのが普通。
二段差 香車落ち、記録は「定香車落ち」と定を付記。
三段差 香・角交り。1番は香落ち、1番は角落ちの2番1組。
四段差 飛車・角交り。1番は飛車落ち、1番は角落ちの2番1組。
五段差 定飛車落ち。「定香車落ち」と同じく定を冠する。
六段差 飛車・飛香落ち。1番は飛車落ち、1番は飛香落ちの2番1組。
七段差 定飛香落ち。
この手合割りは昭和まで続いたが、昭和九年5月1日付けで
角落ちを五段差に、飛車落ちを七段差に、飛香交りを八段差に改訂した。
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将棋家の役割
将棋家の義務
初代宗桂が没したのち、実子の宗古が後を継ぎ、宗桂の弟の宗与が分家した。また、宗古の養子の宗看が独立して伊藤家を名乗り、将棋三家が家元になった。
将棋三家が江戸に移住したのは四代将軍家綱の代で、寛文七年(1667)に地所と屋敷を賜った記録がある。
将棋の家元と義務と責任は。
一、将棋三家のうち代々の当主の一人が、将棋所の司である名人に就位する。
名人を基準にして全国の将棋師、武士を含む将棋愛好家の実力の程度を定める。
二、将棋師や将棋愛好家の要望により、実力にふさわしい段位の免状を発行する。
三、定められた日に江戸城内で将棋を指し、将軍の上覧に供する。
四、名人に就位する時は詰将棋を考案し、献上する。
五、将棋で奉仕し扶持米が支給され将棋を職業として生活する。
六、宗家の当主は将棋に強いことが最も必要な条件。
唯に技芸を伝え天分や能力を持った家元にふさわしい養子が許された。
七、将棋を常に研鑽し、将棋の発展に寄与する努力が求められた。
また、養子縁組、相続、隠居等の家系存続をはじめ厳しい規制の下にあった。
将棋所名人の資格要件。
一、幕府の指定した将棋三家(大橋本家、大橋分家、伊藤家)の出身であること。
二、経歴、徳望、人格、手腕、が将棋界を統括し得るに充分であること。
三、将棋の力が、天下第一である。
この三条件を必要とした。
さて、問題は「名人の選び方」である。
第一に徳川幕府から指名されたもの。
初代大橋宗桂、初代伊藤宗看、が該当する。
第二に将棋家元三家から共同推薦されたもので、幕府はこれには直ちに認可を与えた。
五代大橋宗桂、初代伊藤宗印などが該当する。
第三に争い将棋に勝ったもの。
表面に現われたものは無いが、「檜垣是安と伊藤宗看」の決戦がある。
時の名人は大橋宗古だが、老齢であることを理由に門下の伊藤宗看がこれに代って対局したもの。
この他にも寛永年間の「松本紹尊と伊藤宗看」の三十番指し決戦があり、時の名人に挑戦してきたものを、名人の周囲の人々が未然に防ぎ止めたもの。
以上であるが近年の研究で、名人将棋所の位置づけは次の通りと解釈された。
第一に、名人は将棋三家の代表による相談で決められたこと。
第二に、将棋家では名人と将棋所は一組になったものと考えていたこと。
第三に、名人将棋所は官賜の役職ではない。将棋家が自称していたにすぎないこと。
第四に、支配方の寺社奉行としては、将棋所を勝手に名乗ろうがこれによって体制に何等の影響も与えず、黙認していたこと。
第五に、将棋所を寺社奉行は「頭役」として、いわば連絡係とみなしていたこと。
第六に、しかし将棋所になった者はこの名称を名乗り、名人を基準にして段位を定めて交付した免状に記入していたので、あたかもこれが役職名であるかのような印象を与え続けてきた。そのため通称として定着したこと。
これまですべての人々が長期にわたって疑うことなく誤認してきたのは、家禄をうけている将棋の者の執拗な努力による成果といえる。(1998刊。碁打ち将棋指しの江戸)
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将棋家の崩壊
大橋家は本家と分家に分かれ、別に独立した伊藤家と共に将棋三家として約300年間続いた。各家とも技芸を伝えるため、実子や養子によって継がれた。徳川幕府の崩壊により家禄の支給が無くなった将棋三家は次第に衰退した。
明治14年(1881)に大橋分家が絶え、伊藤家が明治26年(1893)に八代目宗印が68歳で没して途絶え、大橋本家の十二代目宗金が明治43年(1910)に72歳で亡くなり、将棋三家はすべて途絶える。


