筑波鉄道
 国鉄常磐線土浦と水戸線岩瀬間の40.1Kmを結んでいた筑波鉄道は、1918年(大正7年)4月17日に土浦
〜筑波間20.2Km、同年6月7日に筑波〜真壁間10.0Km、そして同年9月7日に真壁〜岩瀬間9.9Kmが開
業し全通しました。その後、戦時中の1945年(昭和20年)3月30日に常総鉄道(現関東鉄道常総線)に合併し、
常総筑波鉄道となり、さらに1965年(昭和40年)6月1日に鹿島参宮鉄道(現鹿島鉄道・関東鉄道龍ヶ崎線)と合
併して’ディーゼル帝国’関東鉄道の筑波線となりました。                                  
 会社名は再三変わったものの路線自体は開業時と変化なく、関東平野にそびえる霊峰筑波山の裾野に点在する
集落を結ぶローカル鉄道で、昭和40年代に入るとモータリゼーション発達の影響をまともに受け、営業係数が悪化
したため1979年(昭和54年)4月1日、関東鉄道から分離し開業時の姿である筑波鉄道に戻り、合理化を図るこ
ととなりました。しかしながら分離独立による経営努力にも関わらず、旅客は減少の一途を辿り、1987年(昭和62
年)4月1日、国鉄が民営化されJRとなった同日に全線廃止となりました。                        
 東京への通勤圏である土浦を起点とし、延長が40キロ以上もあったこの鉄道、廃止の噂はかねてよりありました
が、正直なところこれほど早く廃止されるとは思っていませんでした。そのため、何度も訪れていながらあまり気が
入らず、結局廃止直前になって初めて全線を巡り、ロケーションの良さを知って、それまでのいい加減な訪問を後悔
することとなりました。秋の行楽シーズンにも訪れていたのですから、せめてDD501が牽引した国鉄からの直通臨
時列車くらい撮っておけば良かったのにと非常に悔やんでいます。
1984・10・18

筑波山をバックに常陸北条・筑波間を行くキハ504
 関東近郊にあったにも関わらず、筑波鉄道の初訪問は1984年(昭和59年)の夏休みまで果たせませんでした。
東京からは中途半端に距離があり、当時は現在と違って取手以北の常磐線は列車本数が少なく不便であったこと
や、車輌がキハ22系中心でいまひとつ興味がわかなかったことが訪問の遅くなった原因と思われます。      
 最初の訪問時は真鍋の車庫を訪問したのみで、沿線での走行写真撮影は2回目の訪問となった同年10月18日
となりました。この頃、常磐自動車道が翌年(1985年)開催されたつくば博にあわせて部分開業しており、柏ICか
ら桜土浦ICまで走り初めを兼ねて筑波鉄道に向かいました。ところがその往路で、若気の至りからかエンジンを回
し過ぎてガスケットを抜いてしまい、エンジンオイルを足しつつ白煙を吐きながらのとんだ訪問となってしまいました。
そんな訳で落ち着いて撮影など出来ず、筑波山をバックに1個列車を撮ったのみで早々に退散となりました。列車
や徒歩によるロケハンを行わず、いきなり車で訪問するという不真面目な態度に罰が当たったのでしょう・・・
1986・3・27

早春の筑波山とキハ503

春風を受けて上大島駅を出発するキハ763
 3回目の訪問は1986年の3月で前回訪問時のエンジン・ブローを省みず、またしても車での訪問となりました。
この時は鹿島鉄道とあわせて早春のドライブがてらの撮影だったため相変らず気合が足りず、真鍋の車庫を訪問後
筑波付近と上大島付近で2個列車撮影したのみで終わりました。日中は列車本数が少なかったこともありますが、
こんなに天気が良かったのだから、筑波鉄道に絞って沿線でもっと撮影すれば良かったのにと今更ながら後悔して
います。
1987・3・19

雨引〜岩瀬間を行く国鉄払下げ車コンビ キハ301−キハ821

紫尾〜常陸桃山 元雄別鉄道キハ761

樺穂〜東飯田 キハ301−キハ821
 関東鉄道から分離後、経営健全化に向け努力を続けていた筑波鉄道ですが、地元中心のローカル輸送と筑波山
への観光旅客が中心では旅客の減少に歯止めがかからず、1987年(昭和62年)3月末をもって廃止されることが
決定しました。廃止の声が聞かれるようになってからも、営業距離が長く、また東京近郊であることから、すぐに廃
止されることはないだろうと思っていたので、廃止の決定には驚いてしまいました。                   
 それまでの訪問では、何時でも行けるという油断から、真面目に沿線を撮り歩いたことがなかったため、最後の春
休みに急遽、泊りがけで訪問しました。この時は筑波鉄道のほか、日立電鉄や茨城交通湊線、鹿島鉄道を3日か
けて巡り、筑波鉄道には3月17日と19日の2日間、ほぼ全線を巡って撮影を行いました。

筑波山をバックに常陸北条駅を出発するキハ821
 両日共あまり天気は良くなかったのですが、17日は筑波付近を、19日は前日から真壁に泊り筑波以北を中心に
撮影を行いました。沿線はどこも風光明媚で絵になるところばかりであり、特に初めて行った真壁〜岩瀬間はどの
区間もローカルムード満点でした。願わくば天気がもう少し良ければよかったのですが・・・
1987・3・28

土浦〜真鍋 回送を含めた4連(キハ821+301+504+503)
 前回の訪問が最後の予定でしたが、春休み中であったこともあり、全線廃止を3日後に控えた3月28日、最後の
訪問を果たしました。この時は乗り納めを兼ね、列車で移動しながら各所で撮影を行いました。筑波鉄道の各駅に
は桜の木が多く、その開花を期待していたのですが少し早かったようです。廃止間際とあって、別れを惜しむファン
で賑わっていると思ったのですが以外と少なく、列車の運行も通常通り単行もしくは2連で行われていました。おそ
らく国鉄最後の日と時期が重なったため、ファンが分散したからだと思われます。いずれにしても、思いのほかのん
びりとした最後の訪問となりました。

陸橋から田土部駅を望む

東飯田駅を出発するキハ503

常陸小田駅での交換 キハ503+504,キハ821+キハ763
 まずは列車で東飯田まで行き、その後は各駅構内で撮影しながら土浦に戻りました。上の画像の常陸小田駅は
桜並木が素晴らしい駅なのですが、残念ながらその開花を拝むことはできませんでした。以前、春先に訪問したこと
があったのに、その際立ち寄らなかったことが本当に悔やまれます。最後は真鍋機関区に寄り、車輌達に別れを告
げ、帰路に着きました。                                                      
 何度も書いたようにこの筑波鉄道については、悔いばかり残っています。もっとも訪問時にあまり気が乗らなかっ
た理由は、車輌に特徴が乏しかったことがあげられます。私が訪問するようになった頃の主力は、オリジナルのキ
ハ500形や元雄別鉄道のキハ760・810形であり、国鉄型亜流DCが中心でした。元キハ41000のキハ461や
バケットカーであるキハ541等が活躍していればもっと真面目に撮影していたと思うのですが・・・          
 廃止後の車輌の処遇ですが、先に保存されていたキハ461と廃止直前に解体されたキクハ11、そして常総線に
移籍したキハ301を除いて、真鍋機関区跡にしばらく残されていました。廃止1年後に通りかかった際、時が止まっ
たかのように佇んでいた車輌群を撮影しましたが、結局引き取り手はなく全車解体処分されてしまったそうです。 
最後に、活躍する姿を残念ながら見ることのできなかった珍車達のスナップ写真を掲載しました。           
 最近でも時々筑波鉄道の廃線跡を跨ぐ道路を通る機会があるのですが、当時のことが昨日のことのように思い出
されます。また、天気の良い日に筑波山が見えるとその麓を走っていたディーゼルカーの姿が目に浮かぶのですが
廃止からもう20年近く経ってしまったんですね・・・

1986・3・27 真鍋区

1984・8・22 真鍋区
 国鉄キハ41000形のオリジナルの姿を最後まで留め
ていたのがキハ461です。経歴は昭和9年川崎車輌製
鉄道省キハ41056から始まり、戦後は天然ガス化(キ
ハ41207)され、その後ディーゼル化(キハ41307)、
昭和32年4月にキハ048に改番され、翌33年1月に廃
車となりました。同年、遠州鉄道(キハ802)に払下げら
れ、二俣線乗入れ用として活躍しましたが、乗入れ廃止
後の昭和42年、今度は北陸鉄道能登線(キハ5211)
に引取られ同線の廃止まで活躍しました。そして昭和4
7年に関東鉄道が譲受け、筑波線用のキハ461として
昭和58年頃まで活躍し、しばらくの休車の後、昭和60
年7月廃車、その後はキハ048として保存、現在はJR
東日本で復元保存に向け、整備を行っています。    
 古風な外観とは裏腹に機能面はトルコン・総括制御化
されており、他車と混用できたことが生き残った理由と思
われます。
 戦後新製された気動車では唯一と思われるバケット付
DCキハ541です。経歴は昭和32年日車製北陸鉄道能
登線の客車コハフ5301に始ります。当初から気動車化
を目論み、荷台&ヘッドライト付客車として新製されたの
ですが、なぜこのような中途半端なものとして登場したの
か疑問です。車体形状は当時北陸鉄道オリジナル電車
として登場したモハ3010・3200・3500形と共通の張
り上げ屋根のスマートなもので、前後のバケットとのミス
マッチが絶妙(?)の魅力的な車輌です。登場6年後に
予定通りDC化されキハ5301となり、同線廃止まで主
力として活躍し、昭和47年にキハ5211等と共に関東
鉄道へやってきました。関東鉄道では筑波線に配属され
キハ541に改番し活躍しましたが、昭和58年頃から予
備車となり昭和60年7月廃車となりました。その後、真
鍋機関区に保管されていましたが、残念ながら引取り手
はなく、解体されてしまいました。              
 余談ですが、私の父親の実家が北陸鉄道能登線沿線
で、幼少の頃ディーゼルカーに乗った記憶があります。さ
すがに形式までは憶えていませんが、もしかしたらこの
車輌だったのかもしれません。

1987・3・17 真鍋区

1984・8・22 真鍋区
 関東鉄道と並んで西の気動車王国として有名であった
江若鉄道から、同鉄道廃止に伴い昭和45年、多数の仲
間と共に関東鉄道に引取られたキハ511です。     
 経歴は江若鉄道最後の新製車として登場した昭和38
年大鉄車輌製キハ5120に始ります。もっとも新製車と
はいえ台車は発生品の菱枠台車で総括制御もできず、
車体はなんとも垢抜けないデザインの奇妙な車輌です。
江若鉄道時代の昭和41年に総括制御化され、関東鉄
道に譲渡後は同番号のまま常総線に配属されました。
その後、昭和47年筑波線に転属となりキハ511に改番
さらに筑波鉄道分離に際し、龍ヶ崎線に転属となりまし
たが、現車は真鍋機関区にあり、昭和56年筑波鉄道キ
ハ511となりました。                     
 この車輌は予備車的存在であったため運用機会が少
なく、結局1度も走る姿を見ることができませんでした。ま
た廃止後、真鍋に保管されていましたが、解体処分され
てしまいました。
 上記の北陸鉄道コハフ5301と同様に、将来の気動車
化を前提として製作された常総筑波鉄道のオリジナル客
車ホハ1001をルーツとするキクハ11です。       
 昭和32年日車製で翌33年には気動車用引き通し線
を設けてキサハ53に改番、そして昭和35年に気動車化
されキハ511(1代目)となりました。車体形状は名鉄モ
3800形に代表される運輸省規格型電車に似た好まし
いもので、同時期の他社新製車は国鉄キハ10系の亜
流が多い中、非常に珍しい車輌です。しかしながら気動
車の時代は長く続かず、昭和45年には機関を降ろされ
運転台を残したままキクハ11となりました。理由として
は搭載されていたエンジンがバス用のDS系であり、出
力・保守面から淘汰の対象となったこと、またこの時期小
田急から2エンジン搭載の強力な気動車を譲受けており
その相棒として付随車が必要となったことがあげられると
思われます。その後は引き続き常総線で使用されました
が、昭和53年に筑波線に転属となり、そのまま筑波鉄
道籍となりました。晩年はほとんど使用されることなく真
鍋機関区に留置されており、筑波鉄道廃止直前に解体
処分されました。
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