DEC 6 , 1965



昭和40年12月6日8時14分 若松家の次男として誕生。(写真右は当時住んでいた家の縁側にて兄と)

昭和40年に生まれて

私が今でも記憶に暖かく描き残している故郷での少年時代を紐解くと温か味のあるセピアカラーで幕が開く。郷愁に浸って昔を懐かしんでいるからというわけではない。幼少期にテレビで放映されていた「アン・タッチャブル」やジョン・ウェイン主演の西部劇の影響があった。勿論、当時は「ゴジラ」や円谷作品等の「ウルトラマンシリーズ」もまだまだ創成期であった為夢中にはなっていたが、同じ様に子供でありながらアメリカ映画に影響を受け「コンバット」ごっこや西部劇ごっこに興じていた。

毎日遊んだ神社の境内の片隅には太平洋戦争の記憶も残る5メートル程もある魚雷の残骸が置いてあり、二歳上の兄と跨ってよく遊んだものだ。ここでは紙芝居屋のオジサンの「黄金バット」を観ることも多かったが、テレビのヒーロー人気に押され次第にオジサンの姿も見なくなった。

私が生まれる以前から両親は共働きであったが、幼稚園から小学校低学年にかけては両親が仕事を終えて夕方に迎えに来るまで自転車修理店を営む母方の祖父母の家に預けられた。祖父母の店は土間作りの作業場のある正面入り口に日除けの木綿のカーテンが掛けてあり、時折吹く涼しげな風にハタハタとはためいて西日を遮りながらも心地よく温もりを与えてくれる。そんな光景が今でも目に浮かぶ...。

作業場のある入り口から奥の台所に向かう土間が真っ直ぐと伸びており、それに沿って右手に腰掛くらいの高さの一枚板の上がり縁の付いた障子で仕切ることのできる部屋が二間ほど続いている。確かその斜め左奥にも右手の上がり縁から橋を架けるような仕掛けがあって土間を斜め奥に渡る形で奥の台所の手前に一間あったが、部屋というよりは台所仕事の小休止をとる様な三畳ほどの広さだったと幼心に記憶している。そこには第二次世界大戦敗戦の玉音放送の際は現役だったに違いない真空管式ラジオが壊れたままで飾られていたし、奥の台所ではひと昔もふた昔も前の土釜が様々な時代の生活用具と混じって時代を物語るかの様に鎮座していた。そこへ続く土間の右側に小さな中庭があり、そこでは正月前になると両親も加わって台所の釜戸でもち米をせいろ蒸しした後、臼と杵を使って毎年餅をついた。もっとも私は小さかったので縁台に座ってひなたぼっこしながら餅を食べていた方だが...。数年後、私が小学校に上がり暫らくして餅つき機がナショナル電気から発売されて我が家に届くまでの間、それは年末の恒例行事であった。 <つづく>