第5章光の謎

光速度不変の謎に進む

高校生が解くE=MCCにバック

逆説の相対性理論に

目次

5−1)置き去りにされた光達!

5−2)危険物としてのM−Mの実験

5−3)再度「置き去りにされた光達」

5−4)光の波は並の波ではないと言うこと

5−5)光はまず粒子であり、そして波であること

5−6)そんなわけで再度の再度「置き去りにされた光達」

5−7)エ−テルは存在する、しないを繰り返す

5−8)この章の終わりに

参考 エ−テルの否定を証明する簡単な実験

番外 ちょっと一服      浪曲をお楽しみ下さい。!!!

      「置き去りにされた光達」シリ−ズジャンプで要点がわかります。


この企画最大の謎がある章である。見方によれば下手な怪奇推理小説よりはるかに面白い。謎のマイケルソン−モ−レ−の実験(以下M−Mの実験とする)がある。このM−Mの実験は実験そのものの真偽よりも置かれている環境自体が問題であり謎であり迷宮である。一つ間違えるととんでもない方向に行ってしまう。例えば”置き去りにされた光達”、特別企画で宣伝したこのフレ−ズの扱いを間違えるとM−Mの実験が間違っていることを導き出すことが出来る。!

5−1)置き去りにされた光達! 

第2章 中学生が解くロ−レンツ変換の最初で

マックスウェルにより「光は波である」ことが証明された。波を伝えるには媒質が要る。光を伝える媒質をエ−テルと名付けた。エ−テルの存在を確かめようとしたマイケルソン−モ−レ−の実験は完全に失敗しその結果エ−テルは消え、「光速度は不変」であった。

と言う文章を覚えておられますか? 古代ギリシャの哲学者たちならこの文章は矛盾すると指摘するでしょう。

なぜなら「光は波である」ことが証明された。→光を伝える媒質をエ−テルと名付けた。

までは光が光として伝わるためにはエ−テルなるものが不可欠であることを理屈づけています。そのエ−テルが否定されたと言うことは必然的に光が光として伝わることが出来なくなります。だから光は波でないと主張しますか? しかし光は波であると言う多くの実験事実、およびマックスウェルの方程式からの結論等、光は電波と同じく波であると言う理論は疑う余地はありません。だから、エ−テルは存在しないと言うM−Mの実験はウソなのです。エ−テルは存在するのです。

断っておくがこれは間違いである。だが正直書いてみてギョッとした。この文章は一見論理的である。だから”そうだ、その通りだ。M−Mの実験はウソなのだ。エ−テルは存在する。”と思い込む人が出て来る。そう言う人にどう言う仕打ちが待っているか次の「危険物としてのM−Mの実験」で扱う。

5−2)危険物としてのM−Mの実験

M−Mの実験は解釈本の中で異常に高い地位を与えられている。まるで光の媒質としてのエ−テルを否定し光速度一定を証明する唯一無二の実験のように扱われている。そのくせ、内容は異常にお粗末である。本によってはただのマイケルソン干渉計の写真や図を載せているものまである。相対論はウソかもしれないと疑う人々にとっては真っ先に攻撃したくなる。M−Mの実験はエ−テルを否定しないし、光速度一定を証明していないはずだ。そしてM−Mの実験がまったくのデタラメであれば、相対性理論は瓦解するだろうと。だがこれはワナだ。結果としてワナになってしまっている。相対論はマコトと信じる者にとってこれほど安心して攻撃できる獲物はない。如何に誹謗中傷するかだけ専念すれば良い。M−Mの実験が絶対に正しく信頼が置け納得できるからではない。光の媒質としてのエ−テルの否定、光速度一定を示す観測はそれこそ無数にあるからである。たとえM−Mの実験がまったく信用できないものであり、多くの人がそうだと認知しても相対性理論にとっては痛くも痒くもない。M−Mの実験はエ−テルを否定し光速度一定を証明する唯一無二の実験ではない。

M−Mの実験が解釈本の中で異常に高い地位を与えられる理由は簡単である。M−Mの実験を抜きにして光速度一定を説明しようとすればマックスウェルの方程式そのものを説明しなければならなくなる。これを数式なしで説明することは解釈本では不可能なのだ。逆に数式なしで解釈本を書く側から言えば大いなる救いである。実験で公に証明されている。だから絶対に正しいと言い切れば事足れる。そう言う解釈本の姿勢がM−Mの実験を一種の踏絵にしてしまった。ワナにしてしまった。M−Mの実験を鵜呑みにする読者のみ相手をすれば良いと言う傲慢な態度で解釈本は進行する。「M−Mの実験に異議を唱える者は火あぶりの刑にする」わけにはさすがにできないが、誹謗中傷、無視、村八分、イジメぐらいはしているらしい。!!中には迷惑千万な似非科学を攻撃するつもりで的外れな主張をする者までいる。”こうした本の著者に共通するのはM−Mの実験は19世紀に行われたまま一度も繰り返されてないと思い込む点だが、実際には世界中で何千回も実験され検証されてその正しさは揺らぎ無いことである。” こんなことを言うから相対性理論は宗教だと陰口を言われる。信じない限り先に進めない。M−Mの実験の正しさが揺らいでも相対性理論は傷つかない。的外れも度が過ぎている。

まぁ公に証明された実験としての名誉は認めてもそれだけである。M−Mの実験が妥当か否かを展開できる十分な資料は解釈本にないのでまともに扱える状態ではないし、ワナと知っていれば反対意見はもちろん賛成意見も書く気が起きない。また戦略としてもまずい。我々としては「エ−テルの否定を証明する簡単な実験」を載せることであえてM−Mの実験には深入りしない。M−Mの実験はいかなる形であれ問題にした時点で敵の術中に落ち込む。安易に踏み込むには危険過ぎる存在である。

エ−テルの否定を証明する簡単な実験へ

5−3)再度「置き去りにされた光達」

この話は少々疑問があると第2章で述べたが少々どころではない。大変な疑問がある。それで最初の問題に戻り、置き去りにされた光達の運命を探る。光は波でありながら、光の媒質であるエ−テルは存在しない。しかし光は伝播する。そんなことが可能だろうか?

自称正統派と言っている人の意見でも光は波であり、光の媒質であるエ−テルは存在せず、かつ光は伝播する。多分今でもあらためて聞けばそう言う答えが返ってくるだろう。それで光とは何かさらに問うとワカランとなる。

この問題を真正面から扱うにはマックスウェルの方程式を解く必要がある。知ってる人は知ってるだろうがマックスウェルの方程式から「光速度不変の原理」そのものが導ける。だが光そのものを波とする時、その波が普通の概念としての波(例えば池に小石を放り込んだ時の波紋としての波)と著しく違うことなど多分知らない。光の波は並の波ではないのだ。ここに媒質を使わないで進む光の特殊性がある。

5−4)光の波は並の波ではないと言うこと

並の波とは普通に考えられる波の意味である。並の波を図に示す。図の同心円は波を表す。源の点を音源にすれば同心円は音の波を表す。池に小石を投げる設定では源は小石が池に落ちた位置を示し同心円は波紋を表す。まるで設定は違うが波が時間と共に広がり波の高さが低くなる点では共通する。

源を光源にすれば同心円は光の波に該当しそうであるがこれが違う。実際の波は同心円ならぬ同心球である。時間と共に球が広がり明るさが減ることは変わりない。だが明るさが減るのは光の波の高さが減るのではない。そこを考察する。

 

光源から一定の半径の球を想定すると球の表面での明るさは一定になる。また光の進行方向は球の面に対して直角である。(図上)

あまり良い図ではないが黒い矢印は光の進行方向を示すと考えていただきたい。

マックスウェルの解を先取りするが、光の波の磁界成分、電解成分(各々赤い線と青い線)は光の進行方向に対して直角である。また光の波の磁界成分、電界成分に対しても直角である。この結果光の波の磁界成分、電界成分は球面に張り付く形になる。しかも明るさが一定であることは光の波の磁界成分、電界成分も長さが一定であることになる。(図下)

 

 

 

 

球の表面に光の波の磁界成分、電界成分どちらでも良いが矢印を書くと図のようになる。明るさが一定と言うことは球の表面に一定の長さの矢印をびっしり書き込めなければならない。なぜなら球のどの位置でも一定の磁界成分、電界成分でなければ明るさを一定に出来ないからである。(図)

だが実際には一定の長さの矢印をびっしり書き込むことはできない。かならず図のような渦1、渦2、吐き出し、吸い込みと言った模様を書かざるを得なくなる。何故そうなるか問われても困るがそうなる。

当然これら渦1、渦2、吐き出し、吸い込みの中心では磁界成分、電界成分が0になる。

これは言葉を変えて言えば光源から一定の半径の球で球の表面の明るさが一定にならない部分があることになる。

別の表現をすれば地球を完全な球体として表面に同じ強さの風を吹かせようとしても必ずどこかで無風状態になる。

光源から一定の距離になる球面では明るさはどこでも等しい。光源が一瞬光る場合でも点灯し続ける場合でも同じである。だが光を完全な波として明るさを磁界成分、電界成分に比例したものと捕らえると球面のどこかにブラックホ−ルを作らなければならない。よって光の波を並の波と見ることは出来ない。!

5−5)光はまず粒子であり、そして波であること

光源から一定の距離になる球面では明るさがどこでも等しい。この現象を波の同心球で説明できない。並の波と同じ性質を持たない。そこで光は空間的にあるスペ−スのパッケ−ジに収まっている、周波数と振幅に合わせた最小ユニットを持つと考える。最小ユニットの中では渦、吐き出し、吸い込み等のシステムも許される。そして明るさはユニットの数に比例するとすればつじつまが合う。別の言い方をすれば光の粒子化である。

光は光源から光子(光の粒子)を四方八方に撒き散らしているとすれば矛盾がなくなる。この光子は電子や陽子と異なり物質の塊を持たない。もし光子と光子がぶつかっても磁界成分、電界成分がベクトル合成されるだけである。つまり波の性質を保持する。

つじつま合わせの荒唐無稽な考えのように思うかもしれないが、強力な味方がいる。マックスウェルの電磁方程式の解では電磁波が光速度になると振幅が変化しないのである。振幅が変化しないのに光源から遠ざかるにつれ明るさが落ちるのは光を粒子として扱うしか説明できない。

5−6)そんなわけで再度の再度「置き去りにされた光達」

光は波でありながら、光の媒質であるエ−テルは存在しない。しかし光は伝播する。それは光が光子(粒子)の形で飛ぶからである。エ−テルは最初から不要なのである。そうであればはっきり言えるが当時の科学者が本気でエ−テルの存在を追及するはずはない。マックスウェルの方程式、その結果である電波の予言と光は電波であることは多くの科学者が支持した。科学者が支持すると言うことは多分正しいだろうと言う曖昧な判断ではない。エ−テルの存在など最初から必要としない。当時の科学者たちもそれに気づいていたはずだ。光とは電場と磁場の2種類の波で作られたものであるから、もし本気でエ−テルなるものを仮定するなら少なくとも電場のエ−テルと磁場のエ−テルの2種類を用意するはずである。それを単なるエ−テルしか仮定しないのであるから本気ではない。まぁ一部ドロップアウトした科学者が問題にしたかも知れない。論争があったかもしれない。ただエ−テルが否定された時少なくともマックスウェル学派の科学者は冷静に受け止めたはずである。当時の科学者たちが解釈本の通りに能天気でアホであったとは信じられない。エ−テルが存在しないのは問題かもしれないが、存在する方がもっと大問題なのである。

5−7)エ−テルは存在する、存在しないを繰り返す

真空の概念は古代ギリシャに登場した。最初真空は何もないからっぽの空間であった。そういうことが実際にあるのか議論された。それがエ−テルに満たされていると言い出したのはデカルトだった。デカルトは宇宙は真空であるが真空はエ−テルに満たされており、エ−テルは太陽を中心とする巨大な渦を作っているとした。水星、金星、地球、火星、木星、土星は渦の流れに乗って太陽の周りを回る(公転する)と言うわけである。それを否定したのがニュ−トンの万有引力である。宇宙はからっぽの空間(=真空)としても矛盾はなくなった。

エ−テルの定義は違ってもエ−テル説は前科がある。

今度はディラックが反粒子の存在の説明に真空は何かがつまった状態であると言い出した。粒子、反粒子の発生、消滅は何かの粒子が飛び出した後が反粒子になり、何かと何かがダブッたところが粒子になると言うわけだ。これはエ−テルの復活とみなせる。

真空はからっぽの空間ではなく何かに満たされていると言う考えは何回も出てきており何回も否定されている。エ−テルは科学史上、復活と否定を繰り返している。

5−8)この章の終わりに

そんなわけでマックスウェルの方程式からの光速度一定の原理とその意味するもの「凍れる時期の秘方」は第6章に譲る。この5章は珍しく数式をまったく使わなかった。たまには良いだろう。

もちろんこれで光の謎が解き明かされたわけではない。光の波は並の波ではないと言うのなら、どんな波なのか?、何がどう違うのか? まだ何も言ってない。そしてパッケ−ジの中とは言え光は波であるから媒質がいると考えればもとの木阿弥である。ではなぜ電場、磁場は普通の媒質になることができないのか?

次の第6章「光速度の謎」ではその辺の秘密に迫ってみるつもりである。

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