学園の沿革と概要
財団法人星ヶ丘学園は、昭和23年5月23日(1948年)に設立登記され、平成20年(2008年)に60周年記念を祝うことができました。その沿革を3期に分けて述べ、そこに流れる理念と社会における役割の変遷を説明し、現在の概要を紹介します。
Ⅰ期(1948~1976年)
設立時の昭和23年は戦後の廃墟から復興の兆しが見え、国内で新しい施策が次々に実行されたのに呼応して、当学園も誕生しました。その母体は、大阪在住の修養団有志が設立した財団法人交野文化学園であり建学の理念(愛と汗)を次のように表現しています。
「人よ醒めよ 醒めて愛に帰れ
愛なき人生は暗黒なり
共に祈りつつ すべての人と親しめ
わが住む郷に 一人の争う者もなきまでに
人よ起てよ 起ちて汗に帰れ
汗なき社会は堕落なり
共に祷りつつ すべての人と働け
わが住む里に 一人の怠るものなきまで」
設立時の寄付行為(定款)には、「女子の教養を高める学の実際化を図るに必要なる教育を授け以てわが国文化の発展に寄与し国際平和に貢献するを以て目的とする」と高らかに謳っています。
国内は復興のエネルギーに溢れ、オリンピック開催(1964年)による国威の発揚に沸き、日本万国博覧会(1070年)による先進国への仲間入りなどの西洋文化偏向の世に、洋裁教育は大きく発展しました。我が学園でも常時100名以上の洋裁学校の生徒が2教室に分かれて学び、技術を身につけた多くの女性を社会に送りだしました。建学の理念が、「いろんな人と親しみながら、自分自身でものを作る」という我が校の特徴に活かされ、技術を身につけることで自立心を持つとともに、新しい時代に即応した教養のある女性を育てました。
洋裁学校と並行して、星ヶ丘親和倶楽部も活躍しました。囲碁、体操などのサークルができ、地域の人たちとの文化交流を深めました。このように、社会の流れに沿って小規模ながらも建学の理念を実践しました。
Ⅱ期(1977~1996年)
1977年には役員を改選し、新しい体制で運営を始めました。寄付行為(定款)の目的も「大阪府の区域において女子の教育に関する授業を行うことにより、教養と学芸の育成を図り、もって我国文化の発展に寄与し国際平和に貢献する」というように、現状に合わせ多少変更されました。
戦後の復興期に大きく変化した日本は、豊かな安定した生活を獲得ましたが、労働組合の政治闘争化、景気の後退、公害問題の発生など新たな問題が発生しました。洋裁(ファッション)の世界でも、選択肢の多い商品が大量生産されるようになり、就職のために洋裁を学ぶことは増えても、自分で作るために洋裁を学ぶことは減少しました。「いろんな人と親しみながら、自分自身でものをつくる」という我が校の特徴を生かしながら授業を続けましたが、このような社会変化により生徒数は激減しました。最後の数年は教諭陣の老齢化もあり、休校のやむなきにいたりました。
Ⅲ期(1997年~)
平成10年(1998年)に新体制で洋裁学校を再開校しました。当初は数名の生徒でしたが、5年かけて60-70名の生徒数になり、再開校の成果が得られています。「いろんな人と親しみながら、自分自身でものをつくる」という特徴に加えて、豊富な経験をお持ちの新しい2人の先生の就任、パターン製作を重視し立体裁断をとりいれたことなども、再開校に役立っています。
新しく生まれた多くの文化活動が、学園存立の基盤を強固にしてくれました。ソバの会、ハーブの会、陶芸教室、喫茶店、ギャラリー、手作りの会、デッサンの会、自然の会などです。これらの活動は相互に連携しその効果を高めています。事業的に大きく分けると、服飾造形の教育による人材の育成(洋裁学校)、ギャラリーを中心とした手作り文化の発信(文化活動)、サークル活動による手作り文化の地域的交流(地域活動)の3つの活動で、これらが有機的に運営されるようになりました。
これらの活動には、創立時の理念(愛と汗)―いろんな人と親しみながら自分自身でものをつくるーが脈々と流れていますが、時代に応じてその社会的役割は変化しています。設立時の学園の周囲には人家がまばらで、天の川の蛍を学園から観ることができました。現在は周囲に人家はぎっしりで蛍は望むべくもありませんが、学園にはまだまだ昔のままの自然が残っています。この自然を大切にし、それから学ぶことも、特徴に加わりました。
Sewing(つむぎ つながり そして つづく)の愛称のもとに、
「自然の中で 自分らしく 共に学ぶ」
をモットーにしながら、3つの活動を楽しく、豊かに育てていき、微力ながらも世界平和に貢献したいといと思っています。