Consolation










授業が終わって教室から出ると、後ろから大きな声で呼び止められた。

「おーい、土浦の彼女!」

振り返ると、髪を染めた軽薄そうな男子生徒が立っていた。
たしか5組だと思うが、土浦とはそれほど親しい間柄ではないのだろう、
何度か見かけたことはあっても…名前は思い出せない。

あわてて近寄って、顔をしかめて小声で言う。

「わたしは、日野です。そんなこと、みんなの前で大きい声で言わないでよ。」

しかし男子生徒は構わず話しはじめた。
手にしている茶封筒を香穂子に渡す。

「ちょうどよかった。このプリント、土浦んちに届けてくんない?」

「プリント?」

「あれえ?土浦、昨日も今日も学校休んでるの、知らないの?」

「えっ?知らない…」

「ふうん。まいっか。俺、日直だから担任に頼まれたんだけど
今日約束あるから、このまま遊びに行きたいんだな。ひとつ、よ・ろ・し・く」

男子生徒は自分の言いたいことだけ言い終わると、
香穂子を追い越してさっさと歩き始めた。

「頼んだよっ、土浦の彼女!」

背中越しに手を振って、また大声で言う。

「ちょっと…!」

その声に廊下で立ち止まった他の生徒が、香穂子のほうを見てクスクス笑っている。
香穂子は赤くなりながら足早に校舎を出た。



それにしても、土浦が学校を休むなんて今まで聞いたことがない。
何があったんだろう。
正門前を出て、携帯を取り出し、土浦の家に電話をする。
電話には母が出て、ちょうど私からも電話しようと
思ってたところなの。待ってるから来てね、と言った。

家に着くと、母はリビングでなくキッチンに香穂子を通した。

「ああ、よかったわ、香穂子ちゃんが来てくれて。
私、今日夜までレッスンがあって、なかなか手が離せないのよね。」

「あの、土浦くん…どうしたんですか?」

「心配いらないわ。ただの風邪。下の子にうつされたみたい。
熱が昨日から下がらないから休ませたんだけど。
でも珍しいのよ、保育園以来かしら?あの頑丈な子が風邪引くなんて。
…もしかして、『恋煩い』だったりして?なーんてね」

「…あの」

どきまぎしている香穂子を残して、母はそのまま別室に行き、
服をを手にして渡す。

「はい、これ。汗かいてたら、着替えさせてやって。」

着替えの中にはタオルとパジャマとTシャツのほかに下着まで
入っているが、土浦の母は全く気にしていないようだった。
そしてこういうサバサバした性格の母が香穂子は、とてもいいなと思う。
仕事をしながら、3人の子どもを育てている女性の真の強さを感じる。


2階の土浦の部屋に行き、軽くノックをする。
返事はなかった。
音をたてないように中へ入る。
冬の短い日差しは、すでに翳を落としていて室内は暗かった。
香穂子はベッドサイドの豆電球だけをつけた。
オレンジ色の光がベッドに横たわる土浦をぼんやりと照らし出す。

土浦は壁のほうに顔を向けて寝ていた。
時々苦しげな息を吐き、額には汗が玉になって浮かんでいる。

…香穂子が初めて見る、痛々しげな姿だ。

香穂子はタオルでそっと汗を拭った。

「う…ん」

土浦は目を閉じたまま寝返りを打った。

「ごめん、起こしちゃった?」

「…」

「汗、かいてるみたいね?上だけでも着替える?」

香穂子はTシャツを手渡した。

「…ん」

土浦は上半身を起こすと、香穂子のほうを見ないで
いきなりパジャマごとTシャツを脱ぎ捨てた。
意識が朦朧としていて、どうやら香穂子を母親と間違えているようだ。

薄明かりが映し出す土浦の裸の背中。
何度かは見ているはずなのに、
あらためて目の当たりにすると動揺してしまう。
香穂子は動悸を抑えながら、自分だと気づかれないよう
後ろからタオルを当てて体を拭く。

土浦は香穂子に渡された長袖のTシャツを
かぶると、そのまま倒れこむようにして
ふたたび寝てしまった。
脱いだ着替えを持って香穂子がドアの外に出ようとしたとき、
土浦は何かつぶやいた。

…それが「かほ」と言ったようにも聞こえたが、
よくは聞き取れなかった。



階下に下りると、土浦の母がやってきた。

「どう?様子は」

「寝てました。でも、汗かき始めてたから、
もうすぐ熱は下がるんじゃないですか。
それと私が来てるの…気づいてないみたいです」

香穂子は言いながら土浦の母に洗濯物を渡した。
このまま帰ると告げ、預かったプリントを差し出す。

しかし、母は香穂子にもう少しいてほしいと言った。

「さっき、『恋煩い』って、言ったでしょ、
意味は違うけど、あれ、あながち冗談でもないのよね」

「…えっ」

「だって、私の前で、うわ言であなたの名前を呼ぶのよ?
普段病気なんかしないから、そんなこと初めてで私もびっくりしたわ」

「そ、そうなんですか」

香穂子は恥ずかしさのあまり、熱くなった頬を押さえる。

「あの子、思ったことなかなか口に出さないでしょう?
でもね、ほんとはきっと家族よりも、
香穂子ちゃんにそばにいて欲しいんじゃないかな。
母親の立場としては少々妬けるけど…こればっかりは仕方ないわね。
私もお父さんも、今のあなたたちの立場だったら、そう思っただろうから。
だから、どうぞ、あの子をよろしくお願いします。」

そう言って土浦の母は深々と頭を下げる。
香穂子も同じように頭を下げた。




香穂子は部屋に戻って、半分めくれている布団を直し、
椅子を持ってきて隣に座った。
ほどなく土浦は目を覚ます。

「…うわっ、香穂?」

「来ちゃった。」

「驚かせんなよ、もう」

「しばらくここにいるから、何かあったら、言ってね」

「…もしかして、さっきから?」

香穂子がうなずくと、土浦はばつが悪そうに顔を背けた。

「わ…悪い、てっきり俺、さっきの…」

言いかけたところで、激しく咳き込む。
香穂子はその丸めた背中をさすったが、土浦は
その手をはねのけた。

「…お前、帰れよ」

「やだ。」

「…帰れってば…うつるぞ」

「帰らない。お母さんに頼まれたし、私もそうしたい」

香穂子がきっぱりと強い口調で言うと、
土浦は振り向き、ため息をつくと、半ばあきらめたように、
しょうがねえな、とつぶやいて力なく笑った。

「水。飲む?」

「ああ」

香穂子はコップに水を注ぎ、枕の下に手を差し入れて起こそうとした。
熱はまだ下がりきっていないようで、その体は激しく火照っている。

「いいってば、それぐらい自分で出来る」

「おとなしく言うこときかないと、口移しで飲ませるよ?」

「…わかったよ、ずいぶんと気の強い看護婦だな」

土浦は香穂子のされるがままに体を預け、コップに口をつけた。
香穂子の目の前で、ゴクリ、と喉が鳴る。

土浦は香穂子にコップを返し、小さな声で「サンキュ」と言った。
そしてまた横たわった。

「どう、具合?苦しそうだけど?」

「いや、さっきよりは…だいぶ、いいかな。明日には、学校行けそうだ」

「ならいいけど。にしても、風邪引くなんて、らしくないね。どうしちゃったの?」

「それは…」

土浦はその続きを言うのをしばらくためらっていたようだが、
やがてゆっくりと口を開いた。

「…コンソレーションの3番。」

「コンソレーション?今週の日曜に、弾いてくれるって言ってた曲?」

「ああ」

それは、『慰め』という意味を持つタイトルの、リストの曲。
何気なくCDを聞いて、いいなと思った。
華麗でいて、でも優美なその曲調は、滝壺から流れ落ちやがて
大河へと下っていく川のようでもある。
それが土浦の指から奏でられたら、もっと素晴らしいだろう。
10日ほど前、香穂子がこの曲を聞いてみたいと言ったら、
土浦は自信ありげに弾いてくれると約束した。

「…あれ、実は弾いたことないんだ。」

「えっ…だって弾けるって言ってたじゃない?」

「10日あればなんとかなるかな、と思ったんだよ。
あれからすぐ楽譜を探して、譜読みしてたら、うっかり
机の上で寝ちまって…で、そのまま朝練行ったんだ。
どうもその時にやられちまったみたいでさ」

「わたし、無理して欲しいって頼んだつもりないのに…」

「嫌だったんだよ、そういうの」

「…」

「お前には、できないって言いたくなかった。
弱いとことか見せたくなかった。
…でも、結局こうやって病気して、一番見られたくない俺を
お前に見られることになるとはな。…まったく、我ながら、情けないぜ」

「そんなことない、もう…言わないでよ」

たまらず香穂子は土浦に寄り添い、頬を寄せた。

「ごめんね…わたしのために」

「いや、俺が、悪かった…だから、待ってくれないか?
いつか、絶対、聞かせてやるから」

「うん…」

香穂子が笑いかけると、土浦もはにかんだ笑顔を見せた。

「でもね…」

香穂子はそっと耳元で囁く。

「わたしは、弱いところも、全部見せて欲しい。
わたしにだけは、そうしてくれないかな?
だって、好きな人なんだから、そう思うの、自然でしょ?」

香穂子の言葉に、土浦は驚いた表情で香穂子を見たが、
すぐに布団をかぶって背中を向けてしまった。

「お前がそんなこと言うから…また、熱が上がってきたみたいだ。」

「えっ?大丈夫?」

「…嘘だよ」

「もうっ、びっくりさせないでよ」

「香穂…」

「なに?」

「もうちょっと、いてくれよ…」

土浦は背中を向けたまま、布団の下から
手だけを差し出した。
香穂子はその手をそっと握った。

「『慰め』を弾いてやるつもりが、お前に慰められるとは
夢にも思わなかったけど」

「そう…」

「こういうのも、いいもんだな。すごい、安心する…」


土浦はふたたび眠りに落ちても、香穂子の手を離さなかった。

いつもは颯爽としている彼が、今日はまるで小さな子どものようで。
こんな彼を見れただけでも、香穂子は嬉しいと思う。

もっと彼を知りたい。
そしてわたしのことももっと知って欲しいんだよ…


香穂子はそう思いながら、ありったけの愛情で、その手を包み込んだ。
















あとがき
フェムトさまにリクエストいただいてから、
だいぶ時間が経ってしまい、申し訳なく思っています。
実はリクエスト用に全く別の、もっとハッピィな作品を書いていたのですが、
どうしてもオチがリクエストの内容にそぐわなくて納得いかず、
クラシックのお題で上げようかと思っていたこの話のほうを
少し内容を変えてアップすることにしました。
私の自分勝手な萌えがちりばめられている作品なので
お口に合うかどうかわかりませんが、ともかく捧げさせて
いただきます。リクエスト、どうもありがとうございました。
そしてお読みいただいた皆様にも感謝いたします。





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