みたびの放浪みたびの放浪


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アフリカな風景


アフリカの水を飲んだ者はアフリカに帰る。
耐えてアフリカ。
中近東と同じくこの地も政情が不安定で、流動的です。
まだまだ情報が少なく、快適な旅は期待できません。
それだけにアフリカの旅は印象深いものがあります。

ナイロビ・リバーハウス

ケニヤ山登頂ならず

逃げる

荷台に乗って

七輪を持って

水上テント生活



ナイロビ・リバーハウス

 私の初めての海外の旅は中国とヨーロッパの予定で日本をでました。もともと約2年間北海道を中心に日本を旅しており、人の話で「いいよ」と聞いたら方向転換すること度々で、旅の予定はあってないようなものと思っていました。
 だから外国といっても同じようなもの、中国・ヨーロッパの後はお金があれば気の向くままと思っていました。それでもインドあたりを旅している自分は想像できましたが、アフリカというのは想像できませんでした。全く眼中にありませんでしたし、国の名前も何も分からず自由に旅ができるとは思っていませんでした。
 ヨーロッパを抜けた私はアテネからエジプトへ飛び再びアテネに戻ってきました。アテネからイスタンプールに入ったとき初めてケニヤ・ナイロビの話を聞きました。
 丁度イスタンプールで何度目かの再会をした渡辺氏(北京で初めてあって以来マドリッド、アテネ、エジプトと会いました)がイラクへ行けるとの情報を仕入れてきて、またアフリカ帰りのツーリストから「アフリカはいいよ」と勧められ、渡辺氏と一緒にイラク・ヨルダン・イスラエル・エジプトと行ってカイロからケニヤ・ナイロビに飛ぶことにしました。
 ただ、アフリカの情報はほとんどなかったので「ナイロビ・リバーハウスという日本人宿で情報が入る」という事だけを頼りにナイロビに入りました。

 当時(1990年)リバーハウスは日本人宿として有名で、サバイバルキット(英語版ガイドブック)にも載っていたほどです。でも、数年後には閉鎖してしまいましたが。
 というのもリバーハウスは宿とはいってもアパートの数部屋を借りてそこにベットを並べただけの、日本人長期旅行者の下宿か難民キャンプみたいな感じの宿で、運営も日本人ツーリストが好きでやっているので、手伝ってくれる人がいないと成り立たない(オーナーも日本とナイロビを行ったり来たりしていた)ので、いつ閉鎖するか分からない状態でした。

 面白いのはそのアパートの住民が売春婦ばかりで、自然と彼女ら売春婦とも顔見知りになり、夜のディスコ(フロリダとか何カ所かあった)で遊んでいるとよく鉢合わせしたものです。
 ナイロビの売春はバンコクのような管理売春ではなくディスコなどで引っかける自由競争・恋愛(黒人女はイイと、はまってしまう人は沢山いました。あの植村直巳も初めてはケニヤの黒人女性だったと思います。)なのでアパートで見せる素顔とは全く別人の様な感じでおしゃれをして現れます。
 そんな彼女らに連れられてリバーハウスには泊まっていない日本人(ここに泊まっている人は彼女らには手を出さないし、好きになれば他にアパートを見付けて暮らします)が朝彼女らの部屋から出てきたりすると「昨日は上客(日本人は金持ちだ)が取れたんだな」と思い、不思議そうな顔をする日本人が照れくさそうに出ていく姿を見送ったものです。

 当時泊まっていたのは、管理をまかされていた田頭氏を筆頭にハッパ長、板長、画家の鈴木さん(この人はマリファナは絶対吸わないと言っていましたが、ある晩壁に向かって「ごめんなさい、ごめんなさい」と何時間も謝っていた姿は忘れられません。)、以下本名になるので伏せますが、いろんな面でナイロビの生活にどっぷりと浸かっているツーリストが沢山いました。
 食事は当番制で泊まっている人(最低1〜2週間泊まっている)が数人グループになって日本食を作ります。バザールへの材料の買い出しは楽しいのですが、料理はプレッシャーが掛かって嫌で、週1〜2回の当番の日は憂鬱でした。
 それでも、毎日日本食が食べれるのは魅力ですし、私の料理の知識の何割かはここでの修行?のたまものです。

 旅をしていて日本人宿には絶対泊まらないという人は沢山いますし、その気持ちもよくわかります。そういう人にはリバーハウスは絶対避けるべき宿だったと思いますし、真面目な旅行者には誘惑が多すぎたかも知れません。
 私は情報を仕入れたいし日本語を喋りたいので日本人宿も良いと思っていますが、リバーハウスは泊まっていた人も面白い人ばかりだったので、良い思い出で、閉鎖してしまったのは残念です。
 そして、赤道直下でありながら高原で過ごしやすいナイロビはもう一度行ってみたい都市の一つです。
 ボンシャンカール!!

ナイロビ・リバーハウス

ケニヤ山登頂ならず

逃げる

荷台に乗って

七輪を持って

水上テント生活



ケニヤ山登頂ならず

 アフリカで最も有名で高い山はキリマンジャロです。でも、第2のケニヤ山もなかなか人気があります。登山など初心者の私ですが無謀にも「そこに山があるから」と登ることにしました。一緒に登ったのは渡辺氏、青柳氏の二人の日本人でした。

 ケニヤ山は5,000m級の山なので高山病の危険性がありますが素人にはその認識が薄く計画は無謀なものでした。高山病というのは個人差(体力ではなく体質による)はありますが3,000m位から発症する可能性があり特効薬はなく下山することが唯一の治療法です。放っておくと死に至る危険性があります。私の計画はふもとの村で一泊、頂上手前の山小屋で一泊、そして早朝登頂して下山という高度順応ということを全く考慮しない素人計画でした。

 さて、私の高山病の兆しはトイレでした。まだ森林限界にも達していませんでしたが、ウンチがしたくなり、登山道から少し離れた場所で用を足しました。一息ついてお尻を拭き、一瞬考えましたが「紙は自然に帰るから環境破壊にはならない。」と自分を納得させながら紙をウンチの上に隠れるように置きました。そして周りを見渡すと、あるはあるはあちこちに白いウンチの形をしたティッシュの山が。朝露や雨でウンチの形に収まったティッシュの山々。他の人も自分の分身を生身で人目にさらすのには抵抗があるみたいで「自分だけが恥ずかしがりやではない。」と変に安心したものでした。

 さて、高度が上がっていくと今度は生えている植物の形が見たこともないようなものになっていき、どこか別の星にでもきたかのように幻覚をみているような感じになっていきました。「ポレポレ、ポレポレ。(スワヒリ語でゆっくりゆっくりの意味)」と意識的にゆっくりと登りました。そして何とか頂上の見える目的の山小屋(4千メートル位)に着きました。ボーッとする頭で早めに食事をし翌朝に備えるべくシュラフにもぐりこみました。

 でも眠ろうと思えば思うほど頭の中は幻覚?が駆けめぐり気分も悪く眠れませんでした。そうこうしている内に隣で横になっていた渡辺氏の様子がおかしいことに気が付きました。気分が悪いらしく表に出てもどしました。それでも回復せず山小屋のレインジャーに診て貰うと「高山病で放って置くと危ないから、今から下山した方がいい。」と言われ「真っ暗闇で下山するのは危険だから朝まで待ってはいけないか?」と聞くと「ダメだ、すぐがいい。」と言われ「それなら一緒に行ってくれるか?」と聞くと「嫌だ、俺には仕事がある。」「人を助けるのがレインジャーの仕事だろ?」「お前はあいつの友達だろう?」と結局深夜の下山を私は自分のリュックを担ぎ肩を渡辺氏に貸して、二人分の荷物を青柳氏が持って月明かりの中、下山しました。

 さすがにレインジャーも1時間ほど付いてきてくれましたが途中で引き返し以後は3人で下山しました。正直言って私も一晩もつかどうか自信がなく(横になってからの方が逆に気分が悪くなり今晩は長くなりそうだと思っていたので)登頂をあきらめ下山することに悔いはありませんでした。山小屋を出てからしばらくは渡辺氏は100mも歩くと立ち止まり「ダメだー」としゃがみ込み戻しており、よくそこまで戻すものがあるなというくらい頻繁に戻していました。でもあれだけ苦しみながらでも自力で歩いている姿に彼の強さを感じました。私なら音を上げているだろうと思いました。とにかく早く下山することだけ考え「頑張って」と繰り返し励ましました。渡辺氏の事で頭が一杯で自分の調子については全く気になりませんでした。

 幸いにも月明かりである程度は見えたのですが、もともとあるかないか分からないような道でぬかるんでおり何度も滑り転びながら降りていきました。今思えばよく怪我をしなかったものだと思います。全身ドロドロになり明け方近くようやく麓の山小屋にたどり着きました。その頃には渡辺氏の高山病も治まっていましたが、くたくたに疲れはてていました。

 私も二人分の荷物を持って降りた青柳氏も無事たどり着いてホッとし、寝るでもなくボケーッと放心状態でいました。一眠りして起きてきた渡辺氏を見ると昨晩あれだけ苦しんで、夜通し歩いて下山したのが嘘のようにケロッとしていました。その姿に安心しましたが、私に疲れがどっと押し寄せてきたのはナイロビに戻ったその日の晩のことでした。

 これから山に登ろうという方、高山病にはくれぐれも気を付けて下さい。登山は「ポレポレ。」が基本で、あきらめが肝心です。


ナイロビ・リバーハウス

ケニヤ山登頂ならず

逃げる

荷台に乗って

七輪を持って

水上テント生活



逃げる

 ツチ族とフツ族の内戦でホロコースト・大量虐殺があったルワンダは私の旅した1990年は表面上まだ平和な感じの国でした。
 首都キガリは高原にありナイロビ同様比較的快適な気候で、また昔フランス(ベルギーだったかも知れません)の植民地だったということもあり街や道も整備されていてきれいな感じの街でした。
 泊まっていたのはミッション・教会に宿泊施設があり、そこに泊っていました。アフリカ・ザイールやルワンダなどの小さな街では教会が一番安全で安く泊まれる施設でした。ザイールでは宿泊施設がない教会でも頼み込んで泊めて貰ったことがあります。

 キガリで泊まっていた教会は街の中心からは離れており、食事に行くのに数十分歩かなければなりませんでした。そして夕食後、少し暗くなった帰り道でよく娼婦に声をかけられました。
 当時エイズ問題がだんだん深刻になってきた時期で、エイズの発祥の地がルワンダ周辺の中央アフリカで、「エイズで村が全滅した」とか「娼婦はみんなエイズにかかっている」とかいったウワサをよく聞いており、エイズに関しては敏感になっていました。
 だから娼婦に声をかけられても「また今度」と適当に言ってはぐらかしていました。

 キガリを出発する前夜、いつものように夕食後泊まっている教会への帰り道、いつもの娼婦に声をかけられました。
 「いつ出発するの?」という問いに正直な私は「明日」と答えてしまいました。
 「しまった」と思ったのもあとの祭り、「約束したとおり、しよう」と迫ってきました。
 私は娼婦に手を掴まれた瞬間、反射的に手を振りほどき、走り出しました。断然娼婦より私の方が足は速いはずなのですが、少し小太りの娼婦が追いかけてきたときはその足音で恐怖で足がすくみ、そう悪夢を見ているときのように走っても走っても追いかけて来そうな気がして怖かったものです。
 かなり走って振り返るともうそこには彼女の姿はなかったのですが、どこかの角から現れそうで教会に帰るまで不安でした。

 エイズに対しての偏見はいけないと思いますが、あの時の私は冷静にはいれませんでした。遊び慣れて、場慣れしている人ならもっとスマートな対応ができるのでしょうね。

ナイロビ・リバーハウス

ケニヤ山登頂ならず

逃げる

荷台に乗って

七輪を持って

水上テント生活



荷台に乗って

 アフリカの旅は情報も少なく(だから面白いのですが)、暑い、食事がまずい、物価は思ったほど安くなく、マラリアなどの病気も心配、等々辛いことが多くて大変なのですが、「アフリカの水を飲んだらアフリカに帰る」というように、また人類発祥の地ということで一度訪れる価値はあると思います。

 さて私はケニヤ・ナイロビを出てからはタンザニア、ブルンジ、ルワンダ、ザイール、再びルワンダ、ウガンダ、ナイロビとひたすら移動の旅でした。
 ナイロビでザイールまでのビザを全て取り、予防接種(黄熱病、コレラ、破傷風)をして、ザイール目指して出発しました。ザイールでオナトラという船でのザイール川の川下りが目的でした。
 ナイロビを離れてからの旅は日数が経つにつれ、日増しにナイロビが恋しくなり、再びナイロビに戻るのを夢みて先を急ぐ旅になりました。
 しかし、急いでも急いでも思うように進まないのは旅の常で、特にザイールに入ってからは一段とスピードダウンしました。
 ザイールのゴマからベニはバスがある(1990年当時)のですがベニから川下りの起点のキサンガニまでは、トラックの荷台に乗せて貰う、有料ヒッチハイクしか移動手段がありませんでした。
 地元の人もトラックを利用しており、交渉とお金次第で助手席に座ることができるのですが、私の場合ついに助手席に乗ることなく、荷台で揺られての旅でした。
 ベニ〜キサンガニまで400キロメートル、日本の高速道路だとほんの4時間ほどで走り抜けれる距離を、なんと一週間かけて行きました。もちろん直通のトラックがあれば2〜3日短縮できたのでしょうが、途中の村々で荷物の積み卸しや乗客の乗り降りで、少し走っては2〜3時間停まってという状態でスワヒリ語でいう「ポレポレ(ゆっくり、ゆっくり)」の移動でした。

トラックの荷台に乗って

 乗ったトラックはバナナとかの荷物だと結構楽なのですが、牛や豚を乗せたトラックは屋根の一部しか乗れないので辛く、牛が倒れたりしたらその度に停まって牛を起こさなければならないので停まっている時間の方が多いくらいでした。数日乗っていた牛は見るからにやせ細っていました。
 また石油を積んだトラックは映画「恐怖の報酬」みたいな感じでスリルがありました。
 道はダートで所々に大きな穴があり、トラックのすれ違いがぎりぎりできる程度の道幅で、トラックのスピードは時速20キロ位のものでした。

 私が旅したのは乾期だったのでましですが、雨期なら更に道は悪くなり倍ほど時間がかかるようでした。一度スコールにあったときは、かっぱも役に立たず(荷台には当然屋根はありません)赤道直下の熱帯で凍え死ぬのではと思うほど寒く、ふるえていました。
 トラックの乗り換えをしようにも、一日数台しか通らないこともあり、何時間もボケーッと待つこともよくありました。一度夜までに街に着かず、荷台で夜を明かしたときは、マラリアの心配をしながらの野宿?で、蛍が乱舞してとてもきれいだったのだけが救いでした。

 「耐えてアフリカ」といわれるアフリカの旅のクライマックスとも呼ばれていたザイール・ヒッチハイクの旅は「本当にひたすら耐える旅」でした。そして耐えることに慣れてくると、マゾの気があるのか耐えることに喜びを感じるようになっていきました。

ナイロビ・リバーハウス

ケニヤ山登頂ならず

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荷台に乗って

七輪を持って

水上テント生活



七輪を持って

 やっとの思いでザイール川下りの出発点・キサンガニにたどり着いた私の耳に届いたニュースは「オナトラは出発した後で、あと二週間は出ないよ。」ということでした。
 オナトラとはザイール川を行き来する定期船・蒸気船で何隻かの客船をつなぎ合わせた水上ホテル(ホテルというよりアパートとバザールをミックスした感じ)の様なものです。
 キサンガニを起点に首都キンシャサまで一週間程(キンシャサからは川を上るので10日以上)かけてザイール川を下ります。船内には長旅に備えて大量の荷物を持った地元の人々が、ある人は現金にするべく商売を始め、またある人はキンシャサで売るために商品の買い付けをしたりと船全体がバザールと化します。医者や警官(どう見ても定員オーバーの狭い船内での長旅では、いざこざが絶えないみたいです。また無賃乗船の人もたくさん乗っています。)も常駐しています。

 川の沿岸の村々からは、村人がピローキ(丸太を切り抜いたカヌー)を漕いでオナトラに突進してきます。船に着くとロープで船にピローキをつないで、船に乗り込み村の特産品を売り始めます。ニワトリや山羊や穀物・野菜類などのオーソドックスなものから、ワニやサル、カメ、かぶと虫の幼虫などの食糧品や木炭や彫刻品まで様々なものが持ち込まれます。
 村の人々にとってこの船での商売が唯一の現金収入なので必死です。商品が売れればそのお金で何か買うもよし、別の船が来るのを待つもよしですが、さっさと船から離れないとどんどん下流へ連れて行かれるので手短に用件を済ませて、ピローキに乗り込み船から離れていきます。そんなピローキに乗った村の人々がひっきりなしにやってきます。

 こんなオナトラの船旅をアフリカの土産話にしてみたかったのですが、2週間も何もないキサンガニで待たなければならないのは非常に憂鬱なことでした。
 そんな時、泊まっていたホテルの白人ツーリストが「一週間後にギリシャ船籍の貨物船が出発するから、乗らないか?」と声を掛けてきました。オナトラではないけれどザイール川の川下りには違いないと貨物船で下ることにしました。
 貨物船といってもタグボートで鉄のいかだを押すようなもので船室もなにも無いのです。甲板にある貨物の間にテントか雨のしのげるシートを張って、もちろん食堂も無いので食事は自炊が条件の船旅でした。
 私の場合、テントは持っていなかったのですが、イギリス人ツーリストのジェーン(女性)がギリシャ人船長と仲良くなって船長室に泊めてもらえるようになり、彼女のテントが余るので貸して貰うことになりました。

テントとジェーンと山羊と私

 出発まで、貨物船がどの様な船か見ることもできず想像ができなかったのですが、身の回りのことは全て自分でしなければならないので、一週間分の食糧と鍋や七輪・木炭、テントを固定するロープ(甲板は鉄板なのでペグを打つわけにはいかない)と麻紐、麻袋、船旅の暇つぶしにと釣り用のテグス(川の流れが速すぎて釣り糸が沈まず企画倒れでしたが)も買い込みました。
 出発までの数日間はバザールでの買い出しと、買ってきた米の石とり(米に石粒が混じっているのでそのまま炊くとジャリジャリご飯になってしまいます)に費やしました。
 石油コンロや鍋などのキャンプ用品を持ち歩いている白人ツーリストは準備に追われることなく余裕の表情で、準備に追われる私を見ていました。

 そして乗船当日、バックパックの白人ツーリストに混じって七輪と麻袋(この中に食料品や自炊道具をいれて)を担いで貨物船に乗り込んだのでした。この貨物船に乗り込んだ外国人ツーリストはアメリカ人やイギリス人、フランス人、ドイツ人、イスラエル人など多国籍の十数名でした。

ナイロビ・リバーハウス

ケニヤ山登頂ならず

逃げる

荷台に乗って

七輪を持って

水上テント生活



水上テント生活

 貨物船に乗り込んで最初の仕事が、テントの設営でした。予想通りテントはロープを使うしか固定するしか方法がありませんでした。そして私がテントを張っていると、白人ツーリストが「ロープを貸してくれ」と言ってきました。テント用具一式を持っていた彼らにしてみれば、普通のキャンプのように甲板上には土がないということを見逃していたのでしょう。

 そしてテントの次は食事でした。食事に必要な水はザイール川の土色に濁った水を使うしかありませんでした。沸かせば問題ないのですが、泥や砂が混じるのは嫌なので、着ていたTシャツで何度か水を濾過して使いました。これがオナトラの食堂で食べたとしても、使っている水は同じザイール川の水に違いありません。知らずに食べるか、知って食べるかの違いだけです。

 次ぎに料理に欠かせない火ですが、私は石油コンロを持ち合わせていなかったので、バザールで買ってきた七輪を使いました。木炭も安いので、一週間も自炊すれば充分元は取れました。
 七輪の火力は充分で、料理するのに全く問題ありませんでした。強いて言えば、火を起こすのに多少時間がかかるということぐらいです。それも、他のザイール人から種火の炭を貰ってくるようになり簡単になりました。
 そして、私が料理していると、また白人ツーリストがやってきました。「七輪を貸してくれ」という彼は石油コンロを持っていたのですが、船上は意外と風が強く、石油コンロの火力では鍋に熱が伝わりにくく、また風で火が消えたりするのです。文明の利器は、自然の前では意外と無力なものだったのです。
 彼は七輪の威力を知って、さっそくピローキに乗って船に売りに来る村人から七輪を買ったのでした。

 船上での生活はほとんど食事の準備位しかすることがありません。だから料理するのは楽しみなのです。一度ワニの丸焼き(右肩部分の肉は淡白で美味しかったです)をご馳走してくれたザイール人に、お礼にとニワトリ一匹を買って羽をむしり(これが結構大変なのですが)ニワトリの丸焼きをご馳走したりしました。
 ワニはまだいいとして、サルの丸焼きや芋虫の丸焼きを勧められたときは困ってしまいました。

ピローキで物売りに来る村人

 船旅の生活はピローキで物を売りに来る人を見たり、散髪を始めるザイール人や頭のノミ取りをするザイール人を見たりとボケーッとした日々でした。
 船は途中途中の港に停泊する度に貨物が積み込まれ、だんだんとテントが荷物に囲まれて日当たりが悪くなっていきました。つまり、日陰ができて涼しく快適になっていったという事です。
 途中5日程経ったときに上りのキサンガニ行きのオナトラとすれ違い、あの船に乗ろうと思ったら、後何日待たねばならなかったかと、ぞっとしました。

 そんな貨物船の旅もキンシャサに近ずくと、貨物船の旅が違法なのか、外国人ツーリストだけ手前の村で降ろされ車でキンシャサに入りました。
 ザイールの旅は本当に大変でしたが、アフリカの中でザイールの旅が一番印象に残る旅でもありました。でも、「もう一度行け」と言われても行く気はしませんが。
 そしてザイールという名の国は今は存在しません。革命でコンゴ民主共和国という名前の国に変わりました。

ナイロビ・リバーハウス

ケニヤ山登頂ならず

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旅の雑談・目次

中近東な風景

タイな風景

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