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ベニのマナちゃん

 私が「ベニのマナちゃん」のことを初めて知ったのは六年前(1992年4月初旬)のことです。私がネパールを旅していたときで、アンナプルナ・トレッキングでベニという街に泊まったときです。

 トレッキングには私一人で行っていたのですが、タトパニ村で槻木君に再会しました。
 槻木君とはバンコクからカトマンドゥに来る飛行機で知り合い、カトマンドゥでは同じホテルに一緒に泊まり、ポカラ(ネパール西部の街で街からはヒマラヤ・アンナプルナの山々が見渡せ、アンナプルナ・トレッキングの基地となる街です)でも再会し、以後インド・ブッダガヤまで琴恵と三人で旅しました。帰国後も槻木君は良き友人です。

 槻木君はトレッキング・パーミットの期限がくるまでタトパニに泊まっていました。タトパニ村はポカラからヒマラヤ奥地へと続くジョムソン街道の宿場町で、旅人は河原の温泉で疲れを癒し、私も三泊しました。タトパニはネパール語で「熱い水」という意味です。
 私はタトパニでは槻木君とは違うゲストハウスに泊まっており、タトパニを出てベニ(タトパニからポカラに向かう街道にある宿場町でタトパニから歩いて八時間くらいの所にあり、ポカラから徒歩とバスで一日くらいの所です)に向かう日は同じでしたが、出発は別々でした。
 朝早く出発した私はベニではナマステロッジの斜め向かいのゲストハウスに泊まり、槻木君はナマステロッジに泊まりました。私はベニに入った最初の宿に泊まり、槻木君は「玄関で女の従業員が笑顔で手を振って出迎えてくれたから」と客引きの笑顔に惹かれてナマステロッジに泊まりました。その客引きが「マナちゃん」でした。
 槻木君が私の泊まっているゲストハウスに食事をしに来たとき「泊まっている宿に可愛い女の子がいる」と言っていました。普段の私ならスケベ心で見に行っていたところですが、その時は「早くポカラに帰りたい」一心 で、翌日も朝早くベニを出発、マナちゃんを見ることなくベニを後にしました。
 もし、私も、槻木君と一緒にナマステロッジに泊まっていたとしたら、そしてベニにもう一泊していたら、私の人生は大きく変わっていたことでしょう。槻木君はマナちゃんに惹かれベニに三泊していました。

 ベニからポカラに帰ってきた日、ホテル(Hotel Pagoda)の洗濯場で私はトレッキングで汚れた服を洗濯していました。そこに琴恵が通りかかりました。
 琴恵とはこのホテルで出会いましたが当初は同じ旅仲間といった感じでした。
 ヒマラヤのトレッキングは私も琴恵も別々に行きました。余分な荷物はホテルに預けて、トレッキングに行くときは「それじゃ、またどこかで。」と別れました。
 一足早くトレッキングから戻っていた琴恵は「今から明日のバラナシ行きのバスのチケットを買いに行くの」と言いました。私は「別に急いで行かなくてもいいやん」と、これは下心等ではなくほんの社交辞令みたいな感じで「女一人でインドを旅するのも大変だから一緒に行こうヨ。」と引き止めました。琴恵も「それじゃチケットを止めて、ビザの延長に行ってくる。」とあっさりインド行きを延ばしました。
 でも、もしベニにもう一泊して、あと一日ポカラに帰ってくる日が延びていたら琴恵はインドに行っており、私と琴恵が再会することもなく、一緒に旅することもなく、そして勿論結婚することもなかったでしょう。私も琴恵も別々の人生を歩んでいたことでしょう。あの時、もう一泊せずにベニでマナちゃんに会わなかったのは少し残念でしたが、そのおかげで琴恵と再会でき、二人の子供にも恵まれ、一家四人の家庭をもてて良かったと思います。

 マナちゃんのことは槻木君がポカラに帰ってきたときに初めて聞きました。ナマステロッジに泊まった槻木君はマナちゃんに一目惚れ。マナちゃん、19歳。ナマステロッジでテキパキと生き生き働く姿と日本人にない素朴さ純粋さに惚れたのでしょう。
 槻木君は「やっぱり、ベニに戻るべきかな」と真剣に悩んでいました。マナちゃんのお父さんに「君、うちの娘と結婚しないかネ」と言われたみたいで、「マナちゃんと結婚して幸せにしてやれるだろうか」とか「何もないベニに暮らしていけるだろうか」とか色々な事が頭を駆けめぐったようです。
 ポカラではダムサイドのKCレストラン(五年後に訪れたときは建替えで閉鎖中で食事はできませんでした。)でよく食事をしていたのですが槻木君といると決まってマナちゃんの話題でした。マナちゃんの話をしているときの槻木君の遠くを見つめる目は忘れられません。たった三日間のことですが槻木君にとって忘れられない三日間となったようです。
 後に彼はマナちゃんのことをこう手紙に書いていました。
 「私が出会ったときの彼女はネパールの大地を踏みしめている女性という感じでした。そんな彼女が、祖国をあまり好きになれなかった私にとってはうらやましく思えたものでした。」
 そして槻木君からマナちゃんのことを聞き、私と琴恵も「どんな女の子なんだろう」と会ったこともないマナちゃんは忘れられない人になりました。

 そんな槻木君ですがたった三日間でベニを発ちポカラに戻ってきました。マナちゃんに惚れていた槻木君ですが、そのまま滞在すると本当に帰れなくなると思ったそうです。マナちゃんの父親から結婚の話を持ち出されたときは真剣に悩んみ、ベニに暮らす自分の姿も幾度となく想像したそうです。
 槻木君はその場の感情ではずっとベニにいたかったみたいですが両親のことやこれからのことそして自分自身のことを考え、また「熱しやすい」と言う性格を考え本気になる前にベニを後にしたのです。
 何かの答を求めるような旅をしていた槻木君にとって「ベニに居続けること」はできなかったのでしょう。「自分にはまだ人を幸せにすることはできない」とよく言っていました。
 カメラを持っていなかった槻木君が持っている写真は別の旅行者が写してくれた写真が1枚あるだけで、私も琴恵もマナちゃんの顔はその写真で見ただけです。

 ネパールで知り合い結婚した私と琴恵は結婚当初から子供を連れてネパールを旅しようというのがお互いの夢でした。
 あれから六年、「あの時行っておれば」などという悔いを残さないよう、「子供を連れてネパールを旅する」という夢を実現すべく二人の子供を連れて六年振りにネパールを訪れました。今回は1997年10月26日〜1998年3月11日まで四ヶ月余り滞在しました。
 そしてもちろん「ベニのマナちゃん」に会うことは楽しみの一つでした。「逃がした魚は大きい」という槻木君に「たぶんもう子供の二〜三人いていいお母さんになっているんだろうな」「幸せに暮らしているのかな」とかを確認し報告する為にもなんとしても会いたい人でした。

 1998年1月末、ベニ〜タトパニ〜ベニのコースでタトパニ温泉とアンモナイトの化石探し(カリガンダキ川の河原に落ちているという話を聞き)、そして「ベニのマナちゃん」に会いにトレッキングに出かけました。「ベニのマナちゃん」に会いに行くと言っても五年前の私の記憶は曖昧で「ベニのマナちゃん」ということ以外何も知らず、ホテルの名前やフルネームなどを槻木君に連絡してもらうよう何度も手紙を出していましたが、全く連絡がなく出発二日前というときになってやっと槻木君からファックスが届きました。
 「ナマステロッジのタカリ族のマナ・シェルちゃん。」
 これで間違いなく見つけることができる、と喜んでトレッキングに出かけました。ポカラからベニまではタクシーで行きました。途中のマヤドゥンガからベニ(以前は歩いて四時間ぐらい掛かりました。)は車道ができておりダートでしたがポカラから三〜四時間位でいきました。

 ベニのナマステロッジはすぐに見つかりました。
 ロッジに入って出てきた女性に「マナ・シェルちゃん?」と聞くと「どうして知っているの?」って感じで「はいっ」って答えました。
 「マナちゃーん」と喜ぶ私と琴恵をマナちゃんは「?・・・」と不思議そうに見ていましたが何故私がマナちゃんに会いに来たか説明するとやっとわかってくれました。
 そして冷静になるとマナちゃんが日本語をしゃべっていることに気が付きました。「どうして日本語をしゃべっているの?」と聞くと「日本人と結婚したの」と言ったのでビックリしました。そして槻木君の事を聞くと、「何人か日本人の記憶があるけど誰だろう?」って感じでした。

 マナちゃんの話では、某有名メーカーに務める会社員の夫がベニに初めて来たのが1992年5月で槻木君が会ってからわずか一ヶ月後のことでした。そしてその後二回ほど、その日本人がベニに訪れ、二年後に結婚、来日したとのことでした。
 最初は夫の勤務の関係で東京に住んでいて、昨年大阪に引っ越してきたそうです。私達は「そしたら、日本でも会えるね」と喜びました。
 「幸せに暮らしているのかな」と思いめぐらしていたマナちゃんが実はすぐそばにいたとは驚きです。マナちゃんは去年の7月から里帰りしており、約半年ベニに滞在していました。「夫が迎えに来るのを待っている」というマナちゃんは槻木君が言っていたようにはつらつとした感じのいい女性でした。マナちゃんと話していると「なるほど槻木君が好きになるのも分かる」と思いました。マナちゃん25歳、槻木君が会ってから六年が経っていました。

 マナちゃんが日本に帰ってきたのは、それから約半年後のことでした。「夫が迎えに来るのが遅くて日本に帰るのが遅れてしまった。」とマナちゃん。マナちゃんからの電話があってすぐに我家で会うことにしました。
 マナちゃんは「槻木君はこの人かな?」って感じで槻木君の写った写真(別の旅行者がマナちゃんにも送ってくれており、今回ネパールから持ってきてくれてました)を取り出して聞きました。「マナちゃん、マナちゃん」とうわごとのように言っていた槻木君ですが、マナちゃんにとっては一人の旅人だったのかも知れません。
 我家には勿論槻木君も呼んで(監視役に槻木君の現彼女も同席)会いました。ひとしきり話が弾んで、我家にマナちゃんが来て槻木君と一緒に会えるなんてとても不思議な感じでした。もし、マナちゃんがベニに里帰りしていなかったら会うこともなかったし、同じ大阪に住んでいたというのも偶然です。

 実はマナちゃん、「もう、ネパールに帰るかもしれない。」と言いました。「心の強い人」という夫も仕事でほとんど家におらず、マンションに一人で留守番をし、友達もいない結婚生活に疲れており、「もう帰りたい。」と言っていました。
 東京にいた頃は友達もいてストレスも発散できていたみたいですが大阪に来てあまり他の人との交流がなく寂しくストレスがたまっていたみたいです。
 今回日本に帰ってきたのも「離婚するため」で、ベニに里帰りしていたときに日本のビザ(結婚していても滞在ビザが必要)も切れてしまい、今回は三ヶ月の観光ビザで帰ってきたとのことです。
 そう言うマナちゃんは少し寂しそうでした。そしてマナちゃんの言ったこの言葉が胸につかえました。「この四年間は無駄だった」。
 日本人の私にとっは、マナちゃんが日本で過ごした「この四年間は無駄だった」という言葉は寂しく辛いものでした。どうしようもなく重くせつなく心に残る一言でした。

 私は日本人同士でも多くのカップルが離婚している時代だから国際結婚がうまく行かなくても不思議ではないけど、それがマナちゃんのことだけに胸が痛みました。ネパールのベニでイキイキとしていたマナちゃんも日本では少し疲れた表情で、マナちゃんにとって日本という国はあまりいい思い出の無い国になってしまいました。
 マナちゃんは「ネパールでは離婚した人に対する風当たりは日本と比べものにならないくらい強く、ネパールに帰ったらベニではなくポカラで暮らそうかな。」と言っていました。「もう結婚はしない」「レストランでもしようかな」とも言っていました。マナちゃんにはネパールに帰ったら幸せに暮らして欲しいです。
 槻木君も「今は彼女が再び戻るであろう場所に安住を見い出してくれることを望むだけです。」と手紙に書いていました。

 マナちゃんに限らず、多くのネパール人が日本人と結婚し、また結婚したいと思っているみたいですが、幸せになれるケースというのはどれぐらいのものでしょうか?
 ネパールで滞在中、日本人とネパール人の国際結婚について色々なケースを見ました。そして色々なことを考えさせられました。
 日本に行って働きたいが為に日本人と結婚するというネパール人や日本が嫌でネパールに住みたいが為にネパール人と結婚するという日本人、そういったケースも多くありました。
 世界の最貧国の一つネパールと最も豊かな国の一つの日本。貧しさから逃れ豊かな暮らしを求めるネパール人と物の豊かさの中で幸せを見いだせない日本人。そんな国の人同士の結婚は色々な問題を抱えているようです。
 カトマンドゥの日本大使館に日本のビザについて調べに行ったことがあり、その時の資料を見ると日本大使館としてはネパール人との国際結婚については否定的で(うまくいかずトラブルになるケースが多く、日本大使館としてもトラブルはできるだけ避けたいようです)一時の感情に流されず、じっくり時間を掛けて考えなさい、という姿勢でした。国際結婚が失敗に終わるケースが多いというのは悲しいことですが現実です。
 「結婚はゴールではなくスタートだ」といいますが文化も環境も違う国際結婚ではより一層そういえるのではないでしょうか?

 初めてマナちゃんのことを知ってから六年、私はネパールで旅をしていた妻・琴恵と出会い幸せをつかみましたが、マナちゃんは日本人との結婚生活に破れてしまいました。これから先、私も私の家族も槻木君もそしてマナちゃんもどういう人生を歩んでいくのかは分かりませんが、またいつの日にかイキイキとしたマナちゃんと再会を果たしたいものです。




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