インドの人々の大半はヒンドゥー教を信仰しています。ヒンドゥー教はキリスト教やイスラム教のような一神教ではなく、シバやクリシュナやガネーシャのような沢山の神様がおり人それぞれ好きな神様があり信仰しています。
なかでもシバ神(破壊の神様)は武力や力の象徴として最も人気があります。人気投票ではダントツの一番人気になるでしょう。インド版ブロマイド(色々な神様の画)に牛に乗ったシバ神の画がありますが、
シバ神がいつも乗っている乗り物が「牛」です。シバ神が乗る「牛」は聖なる動物なのです。
だから、ヒンドゥー教徒は「神様の牛」を食べることはなく、マクドナルドがインドに進出できない原因になっています。もしヒンドゥー教徒が牛肉を好んでいたら、インドは巨大なハンバーガー市場になっていることでしょう。
でも、ヒンドゥー教徒は「神様の牛」の肉は食べませんが、ミルクや糞(燃料になります)は大いに利用していますし、労働力としても欠かせない存在で、神様として信仰の対象だけではなく、立派に人々の役に立っているのです。
そんな「神様の牛」を狭い牛舎に閉じこめてしまっては罰が当たる 、と「神様の牛」は野放し(街放し)になっています。もちろん「神様の牛」は野良牛ではなく、飼い主(神の僕)はいるのでしょうが、街中を我が物顔でのし歩く「神様の牛」を見ていると、いち旅行者としては「野良牛」としか見えません。
渋滞している原因が、道路の真ん中で「神様の牛」が寝そべっていたり、国会の牛歩戦術じゃありませんが「神様の牛」がまさしく牛歩でのし歩いていたりということがよくあります。クラクションを打ち鳴らしてもそんな雑音は「神様の牛」の耳には入らず、苛立つ人々を後目にのんびりあくびをしていたりします。
交通手段が発達してきた現在では、ニューデリーなどように、都市機能を麻痺させかねない「神様の牛」を閉め出している都市もたくさんあります。
そんななか、ヒンドゥー教最大の聖地バラナシは「神様の牛」には暮らしやすい都市の一つでしょう。バラナシのメインガート(ガンジス川への入口)へと続くメインバザールでの「神様の牛」とインド人とのやり取りは見ていて飽きませんでした。
ところ狭しと野菜や果物を並べている露店のオジサンやオバサンは「神様の牛」が歩いてくると少し身構えます。「神様の牛」に商品を食べられないように注意し、近づいてきたら追い払わなければならないからです。隙あらば野菜や果物を食べてやろうとする「神様の牛」と露店の店主との睨み合いが始まります。
運が良いのか悪いのか客の集まっている露店では、客との値段交渉に気をとられ「神様の牛」の接近に気付かないで、まんまと「神様の牛」に売り物の野菜や果物を食べられてしまいます。
気が付いて血相を変えて「神様の牛」を追い払おうとするのですが、一度口に入れた物は戻ってこず、「どうせ追い払われるのだから、口に入るだけ入れてやろう」という「神様の牛」は後ずさりしながらも口の動きを止めることはありません。
「神様の牛」に向かって悪態を付く店主と、「やっぱり人間の食べる野菜はうまいのう」と早くも他の露店を物色する「神様の牛」のやり取りを見ている回りの野次馬はゲラゲラ笑うばかりです。
「神様の牛」にとって信仰心の厚い年配のヒンドゥー教徒はただただブツブツ言うだけで諦めてくれるのでやりやすいのですが、まだまだ信仰心の薄い新米ヒンドゥー教の少年は少したちが悪いのです。
いつの時代でもどこの国でも少年は無茶をするもので、「神様の牛」に向かって石を投げつけたり、棒で叩いたり、飛び蹴りをくらわしたりと「罰が当たる」事など考えずに手荒に「神様の牛」を追い払います。「神様の牛」はそんな少年が苦手です。
恐い物知らずの少年もやがて大人になり分別がつくようになると、「神様の牛」にとってやりやすい存在になるのです。
「神様の牛」が露店の野菜や果物を食べたりするのはシバ神のいたずらで、まだまだ信仰が足りない人々を試しているのかも知れませんね。 |