*今月のお題* 地アタマ パートU


  さて、前回の続きです。

  件の課長の取った行動はいかなるものだったか。

  まず百万円のうちから一万円だけを抜き出し、残りの九十九万
円を菓子折のなかに入れて、大物の留守中、それを秘書に預けて
帰ってきた。包みには手紙が一通添えられており、大略こんな内容
だったそうです。(だいぶ以前に読んだ話なので、少し不正確かもし
れません。その点はお許しください。)

  「お気持ちとして一万円だけ拝領しました。しかし、たとえ一万円
でも頂いたことに変わりはなく、負うべき責めは同じです。そのこと
は十分承知しております。これ以後、お気遣いは一切ご無用にして
いただきたく、何卒よろしくお願い申し上げます」

  相手の人物はその対応ぶりに感心したとみえ、結局事なきを得
た、という次第です。

  「なるほどね」と思いますけれども、ただ、相手がどういったタイプ
かによって対応の仕方は違ってくるでしょうし、一つの方策が常に
功を奏すとは限りません。要諦はむしろそこにあるのではないでし
ょうか。

  「こんなとき、こうする」というのは正にマニュアル発想であり、状
況(こんなとき)がきわめて単純である場合は有効かもしれません
が、さまざまな条件が錯綜し、時々刻々変化している状況下では、
硬直化した発想など通用しないと考えるべきでしょう。

  私はマニュアル自体を否定するつもりはありませんが、なにより
重要なのはマニュアルを運用する人間そのものであり、その中身、
いわば地アタマを鍛えていかないと、いつまでたっても当の人間が
育たないように思えるのです。

   山野美容芸術短大教授(当時)の中原英臣氏が、週刊誌の記事
のなかでこんなエピソードを紹介していました。
  ――― 「告発!<あぶない医者>を生む医学部入試の重大欠
陥」というショッキングなタイトルとは裏腹に、内容はきわめて真面
目なものであったことを強調しておきます。

  中原氏の友人が掛かっている若い医者が、出す薬をいちいち看
護婦に相談するというのですね。

  「日本の医者のレベルもここまできたか、と感じましたが、三年前
まで医学部で講義をしていた経験から、それはあり得ると思いまし
た。なぜなら、最近の医学生は本当にあぶないタイプが多いからで
す。国立医大でも私立医大でも、授業の出席率は三十パーセント
程度。つまり三人に二人の医学生が講義をさぼっていることになり
ます。今から三十年前、私が医学生だった頃の講義は厳しいもの
でした。講義を受けずに医者になれる、人の命を預かる仕事がで
きる、などとは考えてもいませんでした。医者は聖職です。命を預
かる学問、技術を習得しているからこそ聖職なのですが、その技術
を学ぼうとしないまま卒業し、医師免許を取得している人々が増え
ているのです」

  これが事実だとすれば、私はこの国の医療の将来に暗澹たる思
いを抱かざるをえません。

  いや、もしかすると、事は医療にとどまらず、日本という国家の構
造的問題に密接につながっているのかもしれませんし、そうなると
ますます憂鬱な気分が嵩じていくようです。

  中原氏はこう続けます。

  「はじめて診察を行う病院などで、薬の名前を看護婦に訊くこと
はよくあります。普段から使っている薬と効果は一緒でも、名称が
違う薬を使っていることが多いからです。そうした時には看護婦に、
『ここの病院では消炎鎮痛剤に何を使ってるの』と訊いてから処方
箋を書きます。ただし、まともな医者なら、こうした会話を患者さん
の目の前でするようなことは絶対にありません。患者さんが診療室
から出て行った後で看護婦に訊きます。これは医者としての最低
限の常識です。たとえ医者でなくとも、相手の立場を思いやる力の
ある人間なら、そうすべきだということぐらい誰でも分かるでしょう」

  そうなんですよね。その能力なんですよ。これはマニュアルには
できません。いえ、できるかもしれないけれど、こんなことまでマニ
ュアルにしなければならない社会があるとすれば、なんて脆弱で情
けない社会なのでしょうか。

  だけど、私たちが生きている「現代」、もしくは「現代の日本」は、
すでにそうとう病が進み、人間としての基本が衰えて、何かが物凄
く弱くなってしまっているような気がするのです。それが私だけの杞
憂ならばよいのですけれども…。

  私事で恐縮ですが、私の妻は1996年の1月に乳癌の手術を受
け、11月の末に亡くなるまで、約十ヶ月の闘病生活を送りました。

   彼女はちょっとユニークなところがあって、病室にいるあいだ、せ
っせと看護婦さんや担当医に手紙を書きつづけていました。言葉に
すると言いにくいことでも、手紙だと自然に表現できる ……おそらく
そんな気持ちがあったのだと思います。

  そういう行為をする患者は珍しかったようで、彼女はけっこう人
気者になっていました。

  退院してからも、ときどきは思い出していろんな人に手紙を書い
ておりましたが、秋になると痛みが激しくなり、自宅療養も困難にな
って、考えた挙げ句遠方の病院へ再入院することを決意しました。

  移動中に痛みが激しくなってはどうしようもありませんから、私は
仕事の合間をみて担当医を訪ね、なんとか痛み止めをくれるように
頼んでみたのです。

  まだ三十代後半のその外科医は、快く頼みを聞いてくれ、何錠
かのカプセルをくれたのですが、ふと、こんな言葉を漏らしました。

   「医者は患者さんに情を移してはいけないんですが、関さんのこ
とは他人事とは思えなくてね。なんていえばいいのか、関さんみた
いな患者さんに出会ったのは初めてのような気がして―――」

  私は、そうか、医者は患者さんに情を移してはいけないんだと、
そのときはっきり思い知らされたのでした。

  外科医の仕事は大変で、その病院でも次から次へと患者がやっ
てきます。手術日には何時間ものオペをこなし、術後も経過を診て
処方を下し、学会だの海外出張だのと、息をつく暇がありません。
しかも患者の死の瞬間に立ち会い、臨終を宣告し、残された家族
の嘆き苦しみに直面しなければならないのです。

  たしかに、いちいち患者に共感したり同情したりしていたのでは
やっていけない仕事でしょう。その大変さは理解できるつもりです。

  だがそれでも、人間としての情を消し去って務めなければならな
い仕事って、いったい何なんだろう、と思います。

  まさか「患者に情を移してはいけない」と大学で教えているわけ
はないでしょうが、果たしてどうなんでしょうね。仮にそう教わったと
しても、インスタントに洗脳されてしまうのではあまりに情けない。そ
れでは地アタマの欠乏を通り越してただのロボットじゃないですか。

  中原氏の記事に戻ります。

  前記の指摘以外にも、私が知らなかった事実がいくつも書いて
あって、たとえば全国五十一の国公立の医学部のうち、入試の際
筆記試験で面接のないところが二十二大学(四十三パーセント)も
あるとか、高校で「生物」をまったく勉強しなくても医学部に入学でき
るシステムになっているとか、知れば知るほど問題意識は大きくな
り、正直言って「これから医者に掛かるのは考えものだな」と思って
しまいました。

  「生物学に興味をもたないような学生は、医者になる資格がない
といっても過言ではありません」

  そう中原氏が断じるのはもっともです。

  「ほんとうにどういった医者が求められるのか、という視点を抜き
に、単に暗記する能力だけが高い学生を選抜する現在の入試制
度のもとでは、いい医者は育ちません」

  まことにその通りでしょう。

  しかし問題は、制度の欠陥だけではなく、医者を志す側の人間
にも、また、それを支える社会全体の体質にも存在しているので
す。

  つまり、「これしかないわけではないけれど、一つの職業選択とし
て医者を選ぶ」という程度のアタマからは、仕事に対する使命感な
ど生まれてくるはずもなく、逆境に在って自分で自分を制御し切る
だけの逞しさも生まれてはきません。痩せ細ったアタマからは、ス
マートな生き方は出てきても、けっして執念深い生き方は生まれ
ず、要領のよさやバランス感覚に磨きはかかっても、けっして強烈
なオリジナリティーは生まれてこないのです。今こそこの国にはそ
れが切に希求されているにもかかわらず、です。

  私は「教育・コンサルティング」という自らの仕事をあらためて考
えます。

  この仕事において「地アタマ」の良さとは何を意味しているのだろ
う、と考えるのです。

  昨今はご受講者の方々もバランス感覚に優れておられるせい
か、その場にふさわしい的確な「言葉」で「自己の決意」を表明して
くださったりします。

  でも我々の仕事は、ご受講者の「行動」を変えることです。いや、
そのためのお手伝いをすることです。自分から変えようとする意欲
を持たない限り、人間の行動は変わらないのですから。
  いずれにせよ「理屈」や「知識」を教えることが我々の役割ではな
いのです。そして、まかり間違っても、言語操作能力に長けている
人が評価されるような教育・研修にしてしまってはならないのです。

  困難であろうと、その人の行動を変える。その人の生き方に踏
み込む。その人の根底の価値観と対峙する。そのためには自分自
身をさらけ出す。インストラクターほど、ご受講者から「人間」を見透
かされる仕事はないのですから、逃げず、ひるまず、全身全霊をこ
めて他者の生き方と真剣に向き合う。

  それが私たちの仕事なのだ、と思うのです。

  それが私たちの使命なのだ、と思うのです。

  外科医のお仕事とはかんたんに比較などできませんが、少なくと
も人間の大きさや豊かさ、そして「地アタマ」の強靭さにかけては負
けたくないと思います。まず、「人間」として地金や素地が本物にな
らないかぎり、いかなる仕事であっても、プロフェッショナルの柱は
きちんと立ちようはずもありませんから。

  そういえば、とても尽くしていただいたとは思うけれど、治療者の
側の人たちが私の妻に与えてくれたものよりも、私の妻が治療者
の人たちや、ともに病を得た周囲の人々に与えたものの方が、は
るかに祝福の光に満ちて豊かだったように感じます。身贔屓に過ぎ
ないと言われても、そう感じてしまうのです。――― 彼女はきっと苦
笑しながら否定するでしょうけどね。

  ひょっとすると、あの担当外科医の人生だって、彼女は変えてし
まったのかもしれない。

  やっぱり「地アタマ」のええ女やったんや…なんて、最後に少々
のろけさせていただきました。ごめんなさい。

  ではまた次回。
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