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ペリー会見所跡 |
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安政元年(1854)3月、アメリカ海軍提督M.C.ペリーは、幕府との間に日米和親条約を締結し、その直後、5隻の艦船を引きつれて函館に入港した。ペリーは、この地にあった有力商人山田屋寿兵衛宅で、松前藩家老松前勘解らと会見し、市内の調査や、港内測量などを行って函館を去った。 |
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函館における検疫は、明治10(1877)年中国に始まったコレラの流行が日本にも波及する勢いをみせたため、内務省からの指示で、開拓使函館支庁内に検疫取扱事務所が臨時的に設けられたのが始まりである。しかし、当時の防疫体制は至って幼稚なもので流行を妨げなかった。そこで明治18(1885)年、内務省は防疫体制の強化を図るため、当時の主要港であった函館、新潟、横浜、神戸、下関、長崎に日本で最初の常設消毒所を設置することになり、函館は同年11月、現在地に消毒設備が建てられ、翌19(1886)年5月には隔離室が併設されて、函館消毒所として検疫業務が開始された。明治29(1896)年3月、函館消毒所は函館検疫所と改称され、その後、幾多の伝染病と闘って国内への侵略を防いできた。特に昭和20(1945)年には敗戦により樺太方面からの引揚者の検疫にあたり、多くの患者をこの配置場に収容し、医療、援護に活躍した。昭和43(1968)年、検疫所は市内海岸町に落成した港湾合同庁舎内に移転し、平成9年に小樽検疫所函館出張所と改称された。旧配置場の建物は一部しか残っていないが、これは市の景観形成指定建物となっている。 |
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安政元年(1854)に締結された日米和親条約を端緒に、伊豆下田とともに函館は諸外国との窓口として翌年開港されました。安政4年の春、合衆国貿易事務官エリシャ・E・ライスが捕鯨船に乗って来港し、浄玄寺の別堂を借り受け、星条旗を揚げ貿易事務所を開設しました。以来、ライスは函館に出入港する米国船舶の利益を守り、かつ在留する米国民の保護・取り締まりにあたり、日米間の融和を計り、のち1855年にライスは、初代米国領事に任命されました。明治9年(1876)領事館は一時閉鎖されて横浜領事館の管轄となり、その後、現在の元町4番の遺愛幼稚園(ハリストス正教会の北隣)、さらに現在の船見町3番(咬菜園(こうさいえん)跡東側)に移転し、それぞれ領事代理に委嘱された宣教師や商人たちが自宅を領事館として就務しました。アメリカ領事館が函館における役割を終え、正式に閉鎖されたのは、大正7年(1918)11月15日でありました。 |
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道内に現存する写真館では最古の建築物。明治35年(1902)神戸の写真師小林健蔵(1876〜1954)が開業、大火で類焼した同40年末に再建したのがこの建物で昭和37年まで営業した。建築時の姿を良く残しており二階が写場、北側屋根が採光用のスラントで館内には当時の用具類も保存されている。港を出入りする外国人や石川啄木も来館した。国内写真発祥の地の一つ函館の往時を今日に伝える建物である。 東京工芸大学 |
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