白州ふるさと文庫・山口素堂資料室

芭蕉と素堂の蜜月時代

貞享 二年(1865)

 素堂と芭蕉の綿密な関係は芭蕉が死去する前年の元禄六年まで続く。死去する七年は素堂も妻を亡くしたり、前年には林家に正式に入門するなど多忙を極めていた。素堂は自らの晩年まで芭蕉を想い事あるごとに墓所を訪れたり句を詠んだりしている。芭蕉が甲斐を訪れた前後は最も交流の深い時期に相当する。

筆註 春、素堂は水間沾徳の立机を援助する。

素堂

隣家の僧行脚の出て久しく帰らざりしころ
   みのむしやおもひし程の庇より

素堂
  四月末、芭蕉が甲子吟行より帰庵。素堂は帰庵を祝して句を贈る。  
 

帰庵を待ちて
   いつか花に羽織檜木笠みん

素堂
 

『とくとくの句合』
蕉桃青たひに有をおもふ
   いつか花に茶の羽織檜木笠みん

素堂
芭蕉 甲斐山中
  甲斐山中に立ち寄りて
   行く駒の麥に慰む宿り哉
芭蕉
  甲斐山中
   山賤のおとがふ閉づる葎かな
芭蕉

「野晒紀行」道程

 『野晒紀行』の帰りに芭蕉は唐突に甲斐に訪れている。これを秋元藩国家老高山麋塒の所に再度寄寓したとの説もあるが、その道順や奇遇先は紀行には記されていない。多くある説は仮説である。
 芭蕉は貞享二年八月に江戸を出立して、伊勢に松葉屋風瀑や他を訪ねて、九月八日に故郷の伊賀上野に着、四五日逗留して亡母の墓前に手を合わせ、その後大和の国に行脚する。
 当麻寺−今須−山中−不破−美濃大垣−木因と伊勢に数日滞在−桑名−尾張国熱田−美濃路−伊賀に戻り越年−奈良−鳴滝秋風宅−伏見−大津−桑名−熱田−鳴海−熱田−四月、鳴海知足宅−四月中旬、甲斐山中−江戸帰庵

『野晒紀行畫巻』 濁子畫(幸田露伴『芭蕉真蹟集』より)

 千里に旅立て路粮をつゝます三更月下無何に入と云けむ
 むかしの人の杖にすがりて貞享甲子秋八月江上の破屋を いつる程風の聲そゝろに寒気也
野さらしを心に風のしむ身哉

  秋十とせ却て江戸を指故郷
    關こゆる日は雨降て山皆雲にかくれたり
  霧しくれ富士をみぬ日そ面白き
何某ちりと云けるは此たひのみちのたすけとなりて莫逆
の交ふかく朋友信有哉此人     
深川や芭蕉を富士に預行     ち り
 富士のほとりを行に三つ計なる捨子の哀けに泣有この川の早瀬にかけてうき世の波をしのくにたへす露計の命を待まと捨置けむ子萩かもとの秋の風こよひやちるらんあすやしほんれと袂より喰物なけてとをるに
  猿を聞人捨子に秋の風いかに
いかにそや汝ちゝに悪まれたる母歟にうとまれたるかちゝは汝を悪にあらし母は汝をうとむにあらし唯これ天にして汝か性のつたなきをなけ
大井川越る日は終日雨降けれは
  秋の日の雨江戸に指おらん大井川 ち り
  馬 上 吟
  道のへの木槿は馬にくはれけり
二十日餘の月かすかに見えて山の根際いとくらきに馬上に鞭をたれて数里いまた鶏鳴ならす社牧は早行の残夢小夜の中山に至りて忽驚く
  馬に寝て残夢月遠し茶のけふり
松葉屋風瀑か伊勢に有けるを尋音信乙十日計足をとゝむ腰間に寸鉄をおひす襟に一袋をかけて手に十八の珠を携ふ僧に似て塵有俗にゝて髪なし我僧にあらすといへとも髪なきものは浮屠の属にたくへて神前に入事をゆるさす暮て外宮に詣侍りけるに一の華表の陰ほのくらく御燈處くに見えてまた上もなき峯の松風身にしむ計ふかき心を起して
  みそかに月なし千とせの松の抱あらし
西行谷の麓に流ありをんなともの芋あらふを見るに
 芋洗ふ女西行ならハ哥よまむ
其日のかへさある茶店に立寄けるにてふと云けるをんな
あか名に発句せと云て白ききぬ出しけるに書付侍る
 蘭の香やてふの翅にたき物す
閑人の茅舎をとひて  
 蔦植て竹四五本のあらし哉
  長月の初古郷に帰りて北堂の萱草も霜枯果て今に跡たになし何 
事もむかしに替りてはらからの鬢白く眉皺寄て唯命有てとのみ云て言葉はなきにこのかみの守袋をほときて母の白髪おかめよ浦島の子か玉手箱汝かまゆもやゝ老たりとしはらくなきく
手にとらは消んなみたそあつき秋の霜
  大和の國に行脚して蔦下の郡竹の内と云處は彼ちりか舊里なれ 
は日ころとゝまりて足を休む
 わた弓や琵琶になくさむ竹のおく
           (読み下し文「尺」) 
二上山當麻寺に詣て庭上の松をみるに凡千とせもへたらるな
らむ大イサ牛をかくす共云へけむ
かれ非常といへとも佛縁にひかれて

斧斤の罪をまぬかれたるそ
          幸にしてたつとし
  僧朝顔幾死かへる法の松
獨よし野ゝおくにたとりけるにまことに山ふかく白雲峯に
  重り烟雨谷を埋ンて山賤の家
     
處々にちいさく西に木を伐音東にひゝき院々の鐘の聲は心の底にこたふむかしよりこの山に入て世に忘たる人のおほくは詩にのかれ歌にかくるいてや唐土の廬山といはむもまたむへならすやある坊に一夜をかりて
  碪打て我にきかせよ坊が妻
    西行上人の草の庵の跡は奥の院より右の方二町計わけ入ほと柴
 人のかよふ道のみわつか有てさかしき谷をへたてたるいとたふとし彼とくくの清水はむかしにかはらすとみえて今もとくくと雫落たり
  露とくく試みに浮世すゝかはや
          (読み下し文「心み」)
            若是扶桑に伯夷あらは必口をすゝかんもし是許由に告ハ耳を
  あらはむ山を昇り坂を下るに秋の日既斜になれは名ある所く
み残して先後醍醐帝の御廟を拝む
  御廟年を経て忍は何をしのふ草
 大和より山城を経て近江路に入て美濃に至るいます山中を過て いにしへ常盤の塚有伊勢の守武が云けるよし朝殿に似たる秋風 とはいつれの所か似たりけん 我も又
  義朝の心に似たり秋の風
不破   
  秋風や藪も畠も不破の関
大垣に泊りける夜は木因か家をあるしとす武蔵野を出る時野さらしを心におもひて旅立けれは
  しにもせぬ旅寝の果よ秋の暮
桑名本當寺にて
冬牡丹千鳥よ雪のほとゝきす
草の枕に寝あきてまたほのくらきうちに濱かたに出て
  朝ほのやしら魚しろきこと一寸
 熱田に詣社頭大イニ破れ築地はたふれて草村にかくるかしこに縄をはりて小社の跡をしるし爰に石をすえて其神と名のるよもきしのふこゝろのまゝに生たるそ中くにめてたきよりも心とまりける
  しのふさへ枯て餅かふやとり哉
名護屋に入道の程風吟ス
  狂句木枯の身は竹齋に似たる哉
  草枕犬も時雨ゝかよるのこゑ
雪見にありきて
  市人よこの笠うらふ雪の傘
旅人をみる
  馬をさへなかむる雪の朝哉
海邊に日暮して
  海くれて鴨の聲ほのかに白し
ならに出る道のほと
  春なれや名もなき山の薄霞
二月堂に籠りて
  水とりや氷の僧の沓の音
京にのほりて三井秋風か鳴瀧の山家をとふ
梅林
  海白し昨日ふや鶴を盗れし
  樫の木の花にかまはぬ姿かな
伏見西厳寺任口上人に逢て
   我かきぬふしみの桃の雫せよ
大津に至る道山路をこえて
   山路来て何やらゆかしすみれ草
湖水の願望
   辛崎の松は花より朧にて
水口にて二十年を経て故人に逢ふ
   命二つの中に生たる桜哉
 伊豆の國蛭か小島の桑門これも去年の秋より行脚しけるに我か名を聞て草の枕の道つれにもと尾張の國まで跡をしたひ来りけれは
  いさともに穂麥喰はん草枕
此僧予に告ていはく圓覚寺の大顛和尚今年睦月の初迂化し玉ふよしまことや夢の心地せらるゝに先道より其角が許へ申遺しける
  梅こひて卯花拝むなみた哉
杜國におくる
  白けしにはねもく蝶の形見かな
二たひ桐葉子のもとに有て今や東に下らんとするに  
  牡丹蘂ふかく分出る蜂の名残哉
甲斐の山中に立寄て
  行駒の麥に慰むやとりかな
卯月の末庵に帰りて旅のつかれをはらすほとに
   夏衣いまた虱をとりつくさす
  
 『素堂跋文』    山 素 堂
 こかねは人の求めなれと求むるは心静ならす色は人のこのむ物からこのめは身をあやまつたゝ心の友とかたりなくさむよりたのし木はなしこゝに隠士あり
其名を芭蕉といふはせをはをのれをしるの友にして 十暑市中に風月とかたり三霜江上の幽居を訪ふいに し秋のころふるさとのふるきをたつねんとて草庵を 出したしきかきりはこれを送り獨葎をといふ人もあ りけり
  何となく芝ふく風も哀なり 杉 風
 他はもらしつ此句秋なるや冬なるや作者もしらす唯おもふ事のふかきならん予も又朝かほのあした夕霧のゆうへまたすしもあらす霜結ひ雪とくれて年もうつりぬいつか花に茶の羽織見ん閑人の市なさん物を
 林間の小車久してまたすと温公の心をおもひ出しや
  五月待ころに帰りぬかへれは先吟行のふくろをたゝくたゝけは一つのたまものを得たりそも野さらしの風は一歩百里のおもひたをいたくや富士川の捨子は其親にあらずして天をなくやなく子は獨りなるを往来いくはく人の仁の端をみる猿を閑人に一等のかなしみをくはえて今猶三聲のなみたゝりぬ次にさよの中山の夢は千歳の松枝だとゝまれる哉西行の命こゝにあらん猶ふるさとのあはれは其身にせまりて他にいはゝあさからん誠や伯牙のこゝろさし流水にあれは其由流るがことしと我に鐘期か耳なしといへとも猶の心とくくの水をうつせは句もまたとくくとしたゝる翁のきぬたにあれはうたぬ砧のひゝきを傳を昔白氏をなかせしは茶賣か妻のしらへならすや坊か妻の砧はいかに打てなくさめしそやそれは江のほとりなれはふもとの坊池をかゆともまたしからん美濃や尾張のやいせのや狂句木枯の竹齋よく皷うつて人の心を舞しむ其吟を聞て其さかひに座するに同し詞皆蘭とかうはしく山吹と清ししかなる趣は秋しへの花に似たり其牡丹ならさるは隠士の句なれは也風の芭蕉我荷葉ともにやふれに近ししはらくもとゝまるものゝ形見草にもよしなし草にもならはなりぬへきのみにして書ぬ
 此一巻は必記行の式にあらす
   たゝ山橋野店の風景
   一念一道をしるすのみ爰に
   中川氏濁子丹青をして
   其形容を補しむ
   他見可恥ものなり
芭蕉散翁書
 たひねして我句をしれや秋の風
   東京 大橋新太郎氏蔵

筆註

素堂の『甲子吟行』の素堂序には「波静本」のものがある。これは畫巻を写しているが、一部異なるカ所もある。また幸田露伴閲の『芭蕉真蹟集』読み下し文には原文と違う筆写もある。

   「古式之百韻」 小石川で出羽尾花沢の鈴木清風を迎え興行。  
   涼しさの凝くだくるか水車 清風
  芭蕉   青鷺草を見こす朝月 芭蕉
   松風のはかた箱崎露とけて 嵐雪
  酒店の秋を障子明るき 其角
   社日来にけり尋常の煤はくや 才丸
  舞蝶仰ぐ我にしたしく コ才
  素堂    みち記も今は其まゝ霞こめ 素堂
 『俳諧白根嶽』 甲州市川 調實編。(調實は岸本調和門)  
  寒菊の痩神農の歯朶甘し 調和
  麋塒   忘れんとすれど畚に埋し雪ぞ鳴ク 麋塒
  蝉 林下読書
  素堂   蠹とならん先木の下の蝉とならん 素堂
  ヤ肥たりむかふ手水に今朝の秋 調實
  市川に来て(歌仙)
   を雪と見て甲城の外に艶し 調和
  鍬の余力に挑ぐ寒月 調實

貞享三年(1686)

『歳旦帖』其角編  
  素堂   市に入りてしばし心を師走哉 素堂
『芭蕉庵蛙合』二十番発句合(連衆惣判)「可般図」 仙化撰  
  芭蕉   古池や蛙飛びこむ水の音 芭蕉
   (初句は、『庵桜』蛙飛んだる)
  二番 左
  素堂   雨の蛙声高になるも哀哉 素堂

素堂 夏 『一楼賦』跋 松葉屋風瀑編。読み下し(原文は漢文)

 垂虹堂風瀑英子に与ふ、予と交り有るは深く風雅に耽る孚の如し。其の道心に
  風瀑序   
達するを以て腸を薀む錦の一言を繍ひ敷く。此茲れ乙丑首夏客を楼上に待きて、 是に先達もの二子、芭蕉終日相ひ倶に賦三篇を合はす。美馨は心を澄ましめて善き塵慮を出し、雲を起 江頭は原憲が糂を残せしして霞に凝めて春秋をつつみ、筆の端々に於て野歙山天地を籠め、尺素の藻 迹蓮は素堂が蓮にして連に於て思ふ事は文質ともに備はり、殆ど謂ふ可きはつぶさに其の妙を尽し、而濂に涼む。云々て又衆子を撰びて嚢を満すは之れ佳き趣なり。以て其の名を付けて曰一楼賦と。鳴乎、致めを果せし茲の楼之れ概ね勝るが則さず狭きを恐る。泰山を跨ぎ以て四海を逍遥する乎。無窮の外の者に与ふるもの。
  山 逸 人 書(素堂)

「四山瓢名」貞享三年八月二十二日。

芭蕉が素堂に乞うて瓢に銘を求める。
  素堂  一瓢重泰山 自笑称簑山 勿慣首陽山 這中飯顆山
(莫習首陽山)
貞享三仲秋後二日   素堂山子 書

『素堂句集』「芭蕉庵六物」子光編

 大瓢 米入 号四山
  或るひと芭蕉庵にひさこを送れり。長さ三尺にあまり、めぐる四尺に
ミつ。天然みかゝすして光あり。うてハあやしきひゞきを出す。是を
  ならして謳歌しあるハ竹婦人になそらへて、納涼のそなへとし、又米
いるゝ器となして、うち無しなしき時ハ朋友の許へ投すれハ満て帰り
ぬ。予これに銘していはく
  一瓢重泰山 自笑称箕山 勿慣首陽山 這中飯顆山 
 芭蕉 「四山瓢」
 顔公の垣根におへるかたみにもあらず、恵子がつたふ種にしもあらで、我にひとつのひさごあり。是をたくみにつけて、花入るゝ器にせむと大にしてのりにあたらじ。さゝえに作りて酒をもらむとすれば、かたちみる所なし。ある人のいはく、草庵いみじき種、入べきものなりと、まことによもぎのこゝろあるかな。隠士素堂にこふて、これが名を得せしむ。そのことばは右にしるす。

 一瓢重泰山 自笑称箕山 勿慣首陽山 這中飯顆山 其句みな山をもてあてらるゝがゆえに、四山と呼ぶ。中にも飯顆山は
老荘のすめる地にして、李白がたはぶれの句あり。素翁李白にかはり
て我貧をきよくせむとす。かつむなしきときはちりの器となれ。得る時
は一壺も千金をいだきて、黛山もかろしとせむことしかり。
  芭蕉  ものひとつ瓢は軽き我が世かな 芭蕉庵桃青 

……筆註……このひさごは二代目市川団十郎の手に有り歴代市川宗家に伝わり、関東大震災で消失した。
 『續虚栗』其角編。
 素堂序文
 風月の吟たえずしてしかもゝとの趣向にあらず、たれかいふ、風とるべく影ひらふべきば道に入べしと、此詩いたり過て心わきがたし。ある時人来りて今やうの狂句をかたり出しに、 風雲の物のかたちあるがごとく、水月の又のかげをなすにゝ たり。あるは上代めきてやすく、すなほなるもあれど、たゞけしきをのみいひなして情なきをや。古人いへる事あり。景 の中に情をふくむと、から歌にていはゞ、

 穿レ花−蝶深−深見 點レ水蜻−〓款−款飛

 これこてふとかげろふは所を得たども、老荘は他の國にありてやすからぬと心と也。まことに景の中に情をふくむものかな。やまとうたかくぞ有べき。又きゝし事あり。詩や哥やこゝろの繪なりと、野波無レ人船自横月落かゝるあはじ嶋山などのたぐひ成べし。猶心をゑがくものは、もろこしの地を縮め、よし野をこしのしらねにうつして、方寸を千ゝにくだくものなり。あるはかたちなき美女を笑はしめ、いろなき花をにほはしむ。花には時の花有。つゐの花あり。時の花は一夜妻にたはぶるゝに同じ。終の花は我宿の妻となさむ心ならし。人みな時のはなにうつりやすく、終の花はなをざりに成やすし。人の師たるもの此心わきまえへながら、他のこのむ所にしたがひて、色をよくし、ことをよくするならん。来る人のいへるは、われも又さる翁のかたりける事あり。鳰の浮巣の時にうき時にしづみて、風波にもまれざるがごとく、内にこゝろざしをたつべしとなり。余笑ひてこれをうけがふ。いひつゞくればものさだめに似たれど、屈原楚國をわすれずとかや。われもわかゝりしころ狂句をこのみて、今猶折にふれてわすれぬものゆへ、そゞろに辨をつゐやす。君みずや漆園の書、いふものはしらずと、我しらざるによりいふならし。

こゝに其角みなし栗の續をえらびて、序あらんことをもとむ。そもみなしぐりとは、いかにひろひのこせるる秋やへぬらんこゝろべへなりとや。おふのうらなしなれば、なりもならずもいひもこそせめといなびつれど、こまの爪のとなりかくなりと猶いひやまず。よつて右のそゞろごとを、序と成とも何となりとも名づくべしとあたへければ、うなづきてさりぬ。

 春の部 改正

  • 誰やらが形に似たりけさの春     芭蕉
  • 年の花富士はつぼめるすがたかな   麋塒
  • 春もはや山吹しろく苣苦し      素堂

甲斐山中

  • 山賤のおとがい閉るむぐらかな    芭蕉
  • 烏巾を送る
     もろこしのよしのゝ奥の頭巾哉   素堂
  • 甲斐山中にさまよひける夜、
    宿かりぬべきかたもなくて
      刀さげてあやしき霜の地蔵哉   破笠
  • 芭蕉いづれ根笹に霜の花盛      素堂
  • 市入てしばし心を師走哉       素堂
  • 年の市線香買に出ばやな       芭蕉
  • 年の一夜王子の狐見にゆかん     素堂
  • 十二月九日はつ雪降のよろこび
  • 初雪や幸ヒに菴ンに籠有ル      芭蕉
         對 友人
  • 君火をたけよきもの見せむ雪まるげ  仝

参考、芭蕉庵焼失紹介文献


一、『次郎兵衛物語』芭蕉直話として、萩原羅月氏著『芭蕉の全貌』より。

  「(火焔から逃れ)川に飛込んだ所、火が波の上を這ってくるので、流れ寄った古蓑を以て火を払ってゐるうち、蓑に火が附いたので捨てゝ了った。頭だけ出してゐると、顔に火が吹きかけるので、頭をだしたり、浸けたりした。はじめは寒さを感じなかったが、後には凍へ死にさうになった。やがあて下火になって来たから浅い所へ寄らうとすると、足がフラフラして歩けない。後先を見廻すと、道具や人が澤山流れて来る。自分は首にかけた出山の佛を念じ、観音經を誦してゐると、大い櫃のやうなものが流れて来たので、それにつかまり、やうやく浅みぬ這上がったら誰かが引上げてくれた。」
     (萩原氏註…うまく想像化したものだ。)

 「次郎兵衛が江戸の大火を聞き、天和三年正月六日伊賀上野を出立し、十一に暮れ江戸へ入って深川に来て見ると、残らず焼けて了ってゐる。芭蕉庵は何処だらうと人に問うたれど知る者はない。あちこち探してる中に醫者らしい人に逢った。聞くと、芭蕉翁の事なら二本榎の上行寺に避難してゐると教へてくれた。
(萩原氏…などと面白く作ってゐる。醫者に逢ったと云って暗に其角を利かし、その菩提寺なる二本榎の上行寺を捻出する所など、脚色も巧みなものである。)

…筆者註…

芭蕉は庵焼失後は江戸の素堂を始め俳人宅を転々としていたと、これも『次郎兵衛物語』にある。

 「天和三年、朝鮮人来朝の事があるので、焼失した神社・佛閣・武家・町屋の造作を急ぐやうに申渡され、深川邊は五六十日で大半直った。芭蕉庵も四五十日には引越された。併し、芭蕉は中橋の沾徳・茅場町の其角・本所の素堂・堀江町の不卜・呉服町の調和・濱町の嵐雪等へ招かれ、庵に帰る事は稀であった。自分(次郎兵衛)も庵の留守をつとめ、四月伊賀に帰り云々」
(萩原氏註…『次郎兵衛物語』は小説らしく信じられない)

芭蕉が甲斐で詠んだ句 議仲寺『諸国翁墳記』
(『芭蕉の甲州吟行と高山麋塒の研究』勝峯晋風氏著より)

百景塚  甲斐国郡内川口 産屋ケ崎社中

雲霧の暫時百景を盡しけり

註…甲州よし田の山家の所持ノ人ありしを、今、東部下谷、□志秘蔵なるよし、行脚祇法より伝写して出ス ………『芭蕉句選拾遺』附記

勢ヒあり氷消ては瀧津魚

 その他山梨県内には多くの芭蕉句碑がある。しかし芭蕉がその芭蕉で詠んだと実証される句は少ない。猫も杓子も芭蕉を崇拝し、それによって己の俳諧の地位を保つ風勢のあったこの世界である。

二、『芭蕉一代録』

 甲州都留郡郡内谷村と云所に、白滝とて名高き名所有。久住といふ人にいざなはれて、彼所に宴す。

勢ヒあり山家も春の瀧津魚     芭蕉

 久住は磯部源左衛門と云御旗本也。知行四百八十石。爰に枕して雄歴ありとなん。云々

三、『芭蕉全集』去富著

 (芭蕉は)七月(延宝九年)再び富士に登り、冬の半まで吉田村に滞留し、甲斐国を遊歴あり。富士の自畫讃に雲霧の暫時百景を畫にけり
   甲斐に遊び、山中にて
山賤のおとがひ閉るむぐらかな
   谷村の白滝
勢ひあり氷柱消ては瀧の魚
   と聞こえは此時の事にや。

四、『俳聖芭蕉』(野田別天樓氏著)

 芭蕉の甲州落ち
 芭蕉が参禅の師佛頂和尚の奴六祖五兵衛といふもの甲斐に居り、芭蕉は彼をたよりて甲斐の国に暫く杖を曵かれたといふ事は信じてよいようだ。五兵衛のことはよく分からぬが、眼に一丁字なき拘はらず、禅道の悟深かりし故六祖といあだ名を得てゐたものらしい。六祖はいふまでもなく慧能大禅師のことで、眼に文字無かりしも、菩提本非レ樹、明鏡亦非レ臺、本来無一物、何處惹塵埃 。の一偈によりて五祖弘忍禅師嗣法の大徳となった。六祖の渾名を得てっゐた五兵衛と同門の因に依って、芭蕉は甲斐の国に暫く衣食念を救れたのであった。

五、『天和三年の芭蕉と甲州』

 ………六祖五平ついて………「都留高校研究紀要」赤堀文吉氏著 昭和四十三年刊。
 先年郷土史家の手により、都留市谷村の桂林寺で五平家の系譜を記した過去帳が発見され、小林友右衛門という人が「六祖五平」であり事を確認し、桂林寺に保存されていた古文書を調べてゆくうちに、麋塒から友右衛門にあてて芭蕉の世話を依頼した手紙の切れ端が発見され、それに五平の文字が出ていて、小林家が初狩の旧家であり、五平桑とよばれる桑の木までも現存しているところから、五平の家が初狩に実在したことが報道されたが、学界では取り上げられずに終わった。
   また最近では山梨県南都留郡中野村山中字堂の前のH家の祖先に五兵衛という人がおり、旧家であり、豪農であって、芭蕉が来て泊まったということが、山中湖付近の口伝として今もなお伝わっており、菩提寺である壽徳寺の過去帳に徴しても誤りなかろうという新説が出て来たが、これも断定するには未だ早急である。

総括、郡内地方の天和元年

 何時の時代でも、幕閣に参加する藩主を持つとその地域の農民や地域の住民の生活は困窮の一途を辿る事となる。秋元家にしても同じで、秋元治世が寛永十年より始まり、寛文七年には大明見の庄屋想右衛門と朝日村の惣左衛門の二人が、年貢が九公一民となり、支払い不能を谷村城内の役所に訴訟を提出するも、聞き入れられずに入獄となり、翌八年には、金井河原に斬首となり両家ともお家断絶となる。この後大騒動となり、密かに相談して四十四人の惣代が集まり七人の代表総代を選ぶ。その後も取り立ては厳しくなり、延宝八年には再度の訴訟を惣代七名と外五十六人が秋元摂津守の江戸屋敷を訪れ提訴する。江戸屋敷家老岡村庄太夫が応対する。提訴は聞き入れられずに、七人は谷村に入獄延宝九年(天和元年)二月十四日秋山村惣代関戸左近は磔刑、他の六人は斬首となる。しかし仕置はこれではすまずに、騒動に参加した者百十七人は一命を失う。屋敷の裏にて抜き打ちにされている。当時高山傳右衛門は国家老か江戸詰家老なのかは定かではないが、芭蕉の世話どころの話では無い。芭蕉が訪れたのは翌々年の天和三年であり、騒動が一段落した時期にあたるのであろうか。郡内の困窮はこれに終わらず、甲斐を揺るがす天保の大騒動に続くのである。これは郡内に留まらずに甲斐全域を巻き込んだものであるが、甲斐国内の庶民の生活の困窮振りが目に浮かぶ様である。
 文学関係の人物を扱う場合に当時の歴史背景を視野に入れない場合が多く見られる。高山麋塒の師匠であり、現在では俳聖と崇め奉る芭蕉についても、幾多の研究にも関わらずその出生や家系及び生涯は正しく伝わってはいない。俳諧などその日その日を精一杯生きる人々にとっては関係のない世界であったのである。
 高山麋塒にしても、秋元家に於ての事蹟も明確にはなってはいない。国家老となり谷村に勤めた年次や、芭蕉との関係もより追求する必要がある。当時の時代背景からすれば、芭蕉が安心して麋塒の別荘「桃林軒」に仮寓していられる環境は無かった、そこで、参考(一)の説が歴史的にはより信憑性を持つのである。それによる芭蕉が貞享二年に甲斐山中に再度訪問することも可能になり、自然に受け入れられるのである。
 初狩村についても、すべて抹消する必要もなく芭蕉流寓の可能性は残して置く事が大切である。
 山梨県内には芭蕉の句碑も多く見られ、芭蕉の詠んだとされる句も刻されているが、芭蕉が本当にその場所で詠んだ句は少ないのである。多くは後の俳諧宗匠や愛好家が建立したものである。
 都留郡には未だ多くの史跡なども残っていて、ある意味では歴史の宝庫でもある。甲斐と言えば甲府を中心に歴史を展開しやすいが、古代から富士五湖地方には豊かな歴史があり、富士山の噴火で途切れる事はあっても、東海道側から見れば甲斐の一中心地で有ったことは間違いない。古代から平安時代の甲斐を詠んだ歌には都留地方に関連した歌が詠まれていて、これは甲斐の行政が都留を中心に行なわれていた様な錯覚さえ覚えてしまう。国中から見れば甲府盆地が中心地と考えられるが、都から見れば東海道から近い都留地方が軍事的にも政治的にも要所であり、多くの書に逸話が掲載されている。郡内地方こそが、古代甲斐の歴史を紐解く鍵を握っていると言っても決して過言ではない。
 甲斐谷村の秋元家の治世についても、正面から見直して欲しい。秋元家の華々しい活躍や繁栄の一方地域住民の疲弊の生活や、圧政と戦い多くの農民の犠牲となった人達を理解しながら、一揆が何故相次ぎ郡内に度々起きたのかも視野にいれて、その中を懸命に生き抜き現在に続く繁栄をもたらした住民の思いこそ後世に残されるべきあると思われる。 芭蕉の甲斐流寓は今後も資料を積み重ね、一部の資料を偏重することなく、後世に伝える事が大切だと思われる。また芭蕉の親しい弟子とされる曾良もその出会いが谷村とする書もみえる。 芭蕉の甲斐逗留について、素堂を甲斐出身とする研究者は何故素堂を外して話を展開しているのであろうか。 当時は素堂と芭蕉は兄弟以上であり、その関係は他に類しない程のものである。今回天和二年前後の素堂と芭蕉関係を資料をもとに提示してみた。全てを出してはいないが詳細は後日発刊される拙著『素堂の全貌』を参照していただきたい。素堂の序跋文や芭蕉の書簡から、芭蕉が如何に素堂の影響を受けていたかが読み取れると思う。芭蕉が甲斐に来たことも立ち寄ったことも事実である。しかしそれは『古事記』の日本武尊の記述のように唐突の記述である。今後新たな資料が出た段階で後筆する機会を得たい。
 尚、この機会に山梨県の歴史展開に苦言を呈したい。「甲斐御牧」や「甲斐源氏」・「信玄の動向」それに「市川団十郎」・「山口素堂」など、有効な資料が無いまま定説化が進んでいる。中には真説を唱えるのに十分な資料があるのに黙認し、真説擬きを史実として繰り返し筆著している。多くの研究者は山口素堂を甲斐出身として扱っている。だったら芭蕉の甲斐入りについも素堂の関与を探るべきではないのだろうか。

   平成十七年五月吉日 書    山口素堂資料室 白州ふるさと文庫 清水三郎
   山梨県北杜市白州町白須6807

芭蕉と素堂の蜜月時代

貞享 二年(1865)

 素堂と芭蕉の綿密な関係は芭蕉が死去する前年の元禄六年まで続く。死去する七年は素堂も妻を亡くしたり、前年には林家に正式に入門するなど多忙を極めていた。素堂は自らの晩年まで芭蕉を想い事あるごとに墓所を訪れたり句を詠んだりしている。芭蕉が甲斐を訪れた前後は最も交流の深い時期に相当する。

筆註 春、素堂は水間沾徳の立机を援助する。

素堂

隣家の僧行脚の出て久しく帰らざりしころ
   みのむしやおもひし程の庇より

素堂
  四月末、芭蕉が甲子吟行より帰庵。素堂は帰庵を祝して句を贈る。  
 

帰庵を待ちて
   いつか花に羽織檜木笠みん

素堂
 

『とくとくの句合』
蕉桃青たひに有をおもふ
   いつか花に茶の羽織檜木笠みん

素堂
芭蕉 甲斐山中
  甲斐山中に立ち寄りて
   行く駒の麥に慰む宿り哉
芭蕉
  甲斐山中
   山賤のおとがふ閉づる葎かな
芭蕉

「野晒紀行」道程

 『野晒紀行』の帰りに芭蕉は唐突に甲斐に訪れている。これを秋元藩国家老高山麋塒の所に再度寄寓したとの説もあるが、その道順や奇遇先は紀行には記されていない。多くある説は仮説である。
 芭蕉は貞享二年八月に江戸を出立して、伊勢に松葉屋風瀑や他を訪ねて、九月八日に故郷の伊賀上野に着、四五日逗留して亡母の墓前に手を合わせ、その後大和の国に行脚する。
 当麻寺−今須−山中−不破−美濃大垣−木因と伊勢に数日滞在−桑名−尾張国熱田−美濃路−伊賀に戻り越年−奈良−鳴滝秋風宅−伏見−大津−桑名−熱田−鳴海−熱田−四月、鳴海知足宅−四月中旬、甲斐山中−江戸帰庵

『野晒紀行畫巻』 濁子畫(幸田露伴『芭蕉真蹟集』より)

 千里に旅立て路粮をつゝます三更月下無何に入と云けむ
 むかしの人の杖にすがりて貞享甲子秋八月江上の破屋を いつる程風の聲そゝろに寒気也
野さらしを心に風のしむ身哉

  秋十とせ却て江戸を指故郷
    關こゆる日は雨降て山皆雲にかくれたり
  霧しくれ富士をみぬ日そ面白き
何某ちりと云けるは此たひのみちのたすけとなりて莫逆
の交ふかく朋友信有哉此人     
深川や芭蕉を富士に預行     ち り
 富士のほとりを行に三つ計なる捨子の哀けに泣有この川の早瀬にかけてうき世の波をしのくにたへす露計の命を待まと捨置けむ子萩かもとの秋の風こよひやちるらんあすやしほんれと袂より喰物なけてとをるに
  猿を聞人捨子に秋の風いかに
いかにそや汝ちゝに悪まれたる母歟にうとまれたるかちゝは汝を悪にあらし母は汝をうとむにあらし唯これ天にして汝か性のつたなきをなけ
大井川越る日は終日雨降けれは
  秋の日の雨江戸に指おらん大井川 ち り
  馬 上 吟
  道のへの木槿は馬にくはれけり
二十日餘の月かすかに見えて山の根際いとくらきに馬上に鞭をたれて数里いまた鶏鳴ならす社牧は早行の残夢小夜の中山に至りて忽驚く
  馬に寝て残夢月遠し茶のけふり
松葉屋風瀑か伊勢に有けるを尋音信乙十日計足をとゝむ腰間に寸鉄をおひす襟に一袋をかけて手に十八の珠を携ふ僧に似て塵有俗にゝて髪なし我僧にあらすといへとも髪なきものは浮屠の属にたくへて神前に入事をゆるさす暮て外宮に詣侍りけるに一の華表の陰ほのくらく御燈處くに見えてまた上もなき峯の松風身にしむ計ふかき心を起して
  みそかに月なし千とせの松の抱あらし
西行谷の麓に流ありをんなともの芋あらふを見るに
 芋洗ふ女西行ならハ哥よまむ
其日のかへさある茶店に立寄けるにてふと云けるをんな
あか名に発句せと云て白ききぬ出しけるに書付侍る
 蘭の香やてふの翅にたき物す
閑人の茅舎をとひて  
 蔦植て竹四五本のあらし哉
  長月の初古郷に帰りて北堂の萱草も霜枯果て今に跡たになし何 
事もむかしに替りてはらからの鬢白く眉皺寄て唯命有てとのみ云て言葉はなきにこのかみの守袋をほときて母の白髪おかめよ浦島の子か玉手箱汝かまゆもやゝ老たりとしはらくなきく
手にとらは消んなみたそあつき秋の霜
  大和の國に行脚して蔦下の郡竹の内と云處は彼ちりか舊里なれ 
は日ころとゝまりて足を休む
 わた弓や琵琶になくさむ竹のおく
           (読み下し文「尺」) 
二上山當麻寺に詣て庭上の松をみるに凡千とせもへたらるな
らむ大イサ牛をかくす共云へけむ
かれ非常といへとも佛縁にひかれて

斧斤の罪をまぬかれたるそ
          幸にしてたつとし
  僧朝顔幾死かへる法の松
獨よし野ゝおくにたとりけるにまことに山ふかく白雲峯に
  重り烟雨谷を埋ンて山賤の家
     
處々にちいさく西に木を伐音東にひゝき院々の鐘の聲は心の底にこたふむかしよりこの山に入て世に忘たる人のおほくは詩にのかれ歌にかくるいてや唐土の廬山といはむもまたむへならすやある坊に一夜をかりて
  碪打て我にきかせよ坊が妻
    西行上人の草の庵の跡は奥の院より右の方二町計わけ入ほと柴
 人のかよふ道のみわつか有てさかしき谷をへたてたるいとたふとし彼とくくの清水はむかしにかはらすとみえて今もとくくと雫落たり
  露とくく試みに浮世すゝかはや
          (読み下し文「心み」)
            若是扶桑に伯夷あらは必口をすゝかんもし是許由に告ハ耳を
  あらはむ山を昇り坂を下るに秋の日既斜になれは名ある所く
み残して先後醍醐帝の御廟を拝む
  御廟年を経て忍は何をしのふ草
 大和より山城を経て近江路に入て美濃に至るいます山中を過て いにしへ常盤の塚有伊勢の守武が云けるよし朝殿に似たる秋風 とはいつれの所か似たりけん 我も又
  義朝の心に似たり秋の風
不破   
  秋風や藪も畠も不破の関
大垣に泊りける夜は木因か家をあるしとす武蔵野を出る時野さらしを心におもひて旅立けれは
  しにもせぬ旅寝の果よ秋の暮
桑名本當寺にて
冬牡丹千鳥よ雪のほとゝきす
草の枕に寝あきてまたほのくらきうちに濱かたに出て
  朝ほのやしら魚しろきこと一寸
 熱田に詣社頭大イニ破れ築地はたふれて草村にかくるかしこに縄をはりて小社の跡をしるし爰に石をすえて其神と名のるよもきしのふこゝろのまゝに生たるそ中くにめてたきよりも心とまりける
  しのふさへ枯て餅かふやとり哉
名護屋に入道の程風吟ス
  狂句木枯の身は竹齋に似たる哉
  草枕犬も時雨ゝかよるのこゑ
雪見にありきて
  市人よこの笠うらふ雪の傘
旅人をみる
  馬をさへなかむる雪の朝哉
海邊に日暮して
  海くれて鴨の聲ほのかに白し
ならに出る道のほと
  春なれや名もなき山の薄霞
二月堂に籠りて
  水とりや氷の僧の沓の音
京にのほりて三井秋風か鳴瀧の山家をとふ
梅林
  海白し昨日ふや鶴を盗れし
  樫の木の花にかまはぬ姿かな
伏見西厳寺任口上人に逢て
   我かきぬふしみの桃の雫せよ
大津に至る道山路をこえて
   山路来て何やらゆかしすみれ草
湖水の願望
   辛崎の松は花より朧にて
水口にて二十年を経て故人に逢ふ
   命二つの中に生たる桜哉
 伊豆の國蛭か小島の桑門これも去年の秋より行脚しけるに我か名を聞て草の枕の道つれにもと尾張の國まで跡をしたひ来りけれは
  いさともに穂麥喰はん草枕
此僧予に告ていはく圓覚寺の大顛和尚今年睦月の初迂化し玉ふよしまことや夢の心地せらるゝに先道より其角が許へ申遺しける
  梅こひて卯花拝むなみた哉
杜國におくる
  白けしにはねもく蝶の形見かな
二たひ桐葉子のもとに有て今や東に下らんとするに  
  牡丹蘂ふかく分出る蜂の名残哉
甲斐の山中に立寄て
  行駒の麥に慰むやとりかな
卯月の末庵に帰りて旅のつかれをはらすほとに
   夏衣いまた虱をとりつくさす
  
 『素堂跋文』    山 素 堂
 こかねは人の求めなれと求むるは心静ならす色は人のこのむ物からこのめは身をあやまつたゝ心の友とかたりなくさむよりたのし木はなしこゝに隠士あり
其名を芭蕉といふはせをはをのれをしるの友にして 十暑市中に風月とかたり三霜江上の幽居を訪ふいに し秋のころふるさとのふるきをたつねんとて草庵を 出したしきかきりはこれを送り獨葎をといふ人もあ りけり
  何となく芝ふく風も哀なり 杉 風
 他はもらしつ此句秋なるや冬なるや作者もしらす唯おもふ事のふかきならん予も又朝かほのあした夕霧のゆうへまたすしもあらす霜結ひ雪とくれて年もうつりぬいつか花に茶の羽織見ん閑人の市なさん物を
 林間の小車久してまたすと温公の心をおもひ出しや
  五月待ころに帰りぬかへれは先吟行のふくろをたゝくたゝけは一つのたまものを得たりそも野さらしの風は一歩百里のおもひたをいたくや富士川の捨子は其親にあらずして天をなくやなく子は獨りなるを往来いくはく人の仁の端をみる猿を閑人に一等のかなしみをくはえて今猶三聲のなみたゝりぬ次にさよの中山の夢は千歳の松枝だとゝまれる哉西行の命こゝにあらん猶ふるさとのあはれは其身にせまりて他にいはゝあさからん誠や伯牙のこゝろさし流水にあれは其由流るがことしと我に鐘期か耳なしといへとも猶の心とくくの水をうつせは句もまたとくくとしたゝる翁のきぬたにあれはうたぬ砧のひゝきを傳を昔白氏をなかせしは茶賣か妻のしらへならすや坊か妻の砧はいかに打てなくさめしそやそれは江のほとりなれはふもとの坊池をかゆともまたしからん美濃や尾張のやいせのや狂句木枯の竹齋よく皷うつて人の心を舞しむ其吟を聞て其さかひに座するに同し詞皆蘭とかうはしく山吹と清ししかなる趣は秋しへの花に似たり其牡丹ならさるは隠士の句なれは也風の芭蕉我荷葉ともにやふれに近ししはらくもとゝまるものゝ形見草にもよしなし草にもならはなりぬへきのみにして書ぬ
 此一巻は必記行の式にあらす
   たゝ山橋野店の風景
   一念一道をしるすのみ爰に
   中川氏濁子丹青をして
   其形容を補しむ
   他見可恥ものなり
芭蕉散翁書
 たひねして我句をしれや秋の風
   東京 大橋新太郎氏蔵

筆註

素堂の『甲子吟行』の素堂序には「波静本」のものがある。これは畫巻を写しているが、一部異なるカ所もある。また幸田露伴閲の『芭蕉真蹟集』読み下し文には原文と違う筆写もある。

   「古式之百韻」 小石川で出羽尾花沢の鈴木清風を迎え興行。  
   涼しさの凝くだくるか水車 清風
  芭蕉   青鷺草を見こす朝月 芭蕉
   松風のはかた箱崎露とけて 嵐雪
  酒店の秋を障子明るき 其角
   社日来にけり尋常の煤はくや 才丸
  舞蝶仰ぐ我にしたしく コ才
  素堂    みち記も今は其まゝ霞こめ 素堂
 『俳諧白根嶽』 甲州市川 調實編。(調實は岸本調和門)  
  寒菊の痩神農の歯朶甘し 調和
  麋塒   忘れんとすれど畚に埋し雪ぞ鳴ク 麋塒
  蝉 林下読書
  素堂   蠹とならん先木の下の蝉とならん 素堂
  ヤ肥たりむかふ手水に今朝の秋 調實
  市川に来て(歌仙)
   を雪と見て甲城の外に艶し 調和
  鍬の余力に挑ぐ寒月 調實

貞享三年(1686)

『歳旦帖』其角編  
  素堂   市に入りてしばし心を師走哉 素堂
『芭蕉庵蛙合』二十番発句合(連衆惣判)「可般図」 仙化撰  
  芭蕉   古池や蛙飛びこむ水の音 芭蕉
   (初句は、『庵桜』蛙飛んだる)
  二番 左
  素堂   雨の蛙声高になるも哀哉 素堂

素堂 夏 『一楼賦』跋 松葉屋風瀑編。読み下し(原文は漢文)

 垂虹堂風瀑英子に与ふ、予と交り有るは深く風雅に耽る孚の如し。其の道心に
  風瀑序   
達するを以て腸を薀む錦の一言を繍ひ敷く。此茲れ乙丑首夏客を楼上に待きて、 是に先達もの二子、芭蕉終日相ひ倶に賦三篇を合はす。美馨は心を澄ましめて善き塵慮を出し、雲を起 江頭は原憲が糂を残せしして霞に凝めて春秋をつつみ、筆の端々に於て野歙山天地を籠め、尺素の藻 迹蓮は素堂が蓮にして連に於て思ふ事は文質ともに備はり、殆ど謂ふ可きはつぶさに其の妙を尽し、而濂に涼む。云々て又衆子を撰びて嚢を満すは之れ佳き趣なり。以て其の名を付けて曰一楼賦と。鳴乎、致めを果せし茲の楼之れ概ね勝るが則さず狭きを恐る。泰山を跨ぎ以て四海を逍遥する乎。無窮の外の者に与ふるもの。
  山 逸 人 書(素堂)

「四山瓢名」貞享三年八月二十二日。

芭蕉が素堂に乞うて瓢に銘を求める。
  素堂  一瓢重泰山 自笑称簑山 勿慣首陽山 這中飯顆山
(莫習首陽山)
貞享三仲秋後二日   素堂山子 書

『素堂句集』「芭蕉庵六物」子光編

 大瓢 米入 号四山
  或るひと芭蕉庵にひさこを送れり。長さ三尺にあまり、めぐる四尺に
ミつ。天然みかゝすして光あり。うてハあやしきひゞきを出す。是を
  ならして謳歌しあるハ竹婦人になそらへて、納涼のそなへとし、又米
いるゝ器となして、うち無しなしき時ハ朋友の許へ投すれハ満て帰り
ぬ。予これに銘していはく
  一瓢重泰山 自笑称箕山 勿慣首陽山 這中飯顆山 
 芭蕉 「四山瓢」
 顔公の垣根におへるかたみにもあらず、恵子がつたふ種にしもあらで、我にひとつのひさごあり。是をたくみにつけて、花入るゝ器にせむと大にしてのりにあたらじ。さゝえに作りて酒をもらむとすれば、かたちみる所なし。ある人のいはく、草庵いみじき種、入べきものなりと、まことによもぎのこゝろあるかな。隠士素堂にこふて、これが名を得せしむ。そのことばは右にしるす。

 一瓢重泰山 自笑称箕山 勿慣首陽山 這中飯顆山 其句みな山をもてあてらるゝがゆえに、四山と呼ぶ。中にも飯顆山は
老荘のすめる地にして、李白がたはぶれの句あり。素翁李白にかはり
て我貧をきよくせむとす。かつむなしきときはちりの器となれ。得る時
は一壺も千金をいだきて、黛山もかろしとせむことしかり。
  芭蕉  ものひとつ瓢は軽き我が世かな 芭蕉庵桃青 

……筆註……このひさごは二代目市川団十郎の手に有り歴代市川宗家に伝わり、関東大震災で消失した。
 『續虚栗』其角編。
 素堂序文
 風月の吟たえずしてしかもゝとの趣向にあらず、たれかいふ、風とるべく影ひらふべきば道に入べしと、此詩いたり過て心わきがたし。ある時人来りて今やうの狂句をかたり出しに、 風雲の物のかたちあるがごとく、水月の又のかげをなすにゝ たり。あるは上代めきてやすく、すなほなるもあれど、たゞけしきをのみいひなして情なきをや。古人いへる事あり。景 の中に情をふくむと、から歌にていはゞ、

 穿レ花−蝶深−深見 點レ水蜻−〓款−款飛

 これこてふとかげろふは所を得たども、老荘は他の國にありてやすからぬと心と也。まことに景の中に情をふくむものかな。やまとうたかくぞ有べき。又きゝし事あり。詩や哥やこゝろの繪なりと、野波無レ人船自横月落かゝるあはじ嶋山などのたぐひ成べし。猶心をゑがくものは、もろこしの地を縮め、よし野をこしのしらねにうつして、方寸を千ゝにくだくものなり。あるはかたちなき美女を笑はしめ、いろなき花をにほはしむ。花には時の花有。つゐの花あり。時の花は一夜妻にたはぶるゝに同じ。終の花は我宿の妻となさむ心ならし。人みな時のはなにうつりやすく、終の花はなをざりに成やすし。人の師たるもの此心わきまえへながら、他のこのむ所にしたがひて、色をよくし、ことをよくするならん。来る人のいへるは、われも又さる翁のかたりける事あり。鳰の浮巣の時にうき時にしづみて、風波にもまれざるがごとく、内にこゝろざしをたつべしとなり。余笑ひてこれをうけがふ。いひつゞくればものさだめに似たれど、屈原楚國をわすれずとかや。われもわかゝりしころ狂句をこのみて、今猶折にふれてわすれぬものゆへ、そゞろに辨をつゐやす。君みずや漆園の書、いふものはしらずと、我しらざるによりいふならし。

こゝに其角みなし栗の續をえらびて、序あらんことをもとむ。そもみなしぐりとは、いかにひろひのこせるる秋やへぬらんこゝろべへなりとや。おふのうらなしなれば、なりもならずもいひもこそせめといなびつれど、こまの爪のとなりかくなりと猶いひやまず。よつて右のそゞろごとを、序と成とも何となりとも名づくべしとあたへければ、うなづきてさりぬ。

 春の部 改正

  • 誰やらが形に似たりけさの春     芭蕉
  • 年の花富士はつぼめるすがたかな   麋塒
  • 春もはや山吹しろく苣苦し      素堂

甲斐山中

  • 山賤のおとがい閉るむぐらかな    芭蕉
  • 烏巾を送る
     もろこしのよしのゝ奥の頭巾哉   素堂
  • 甲斐山中にさまよひける夜、
    宿かりぬべきかたもなくて
      刀さげてあやしき霜の地蔵哉   破笠
  • 芭蕉いづれ根笹に霜の花盛      素堂
  • 市入てしばし心を師走哉       素堂
  • 年の市線香買に出ばやな       芭蕉
  • 年の一夜王子の狐見にゆかん     素堂
  • 十二月九日はつ雪降のよろこび
  • 初雪や幸ヒに菴ンに籠有ル      芭蕉
         對 友人
  • 君火をたけよきもの見せむ雪まるげ  仝

参考、芭蕉庵焼失紹介文献


一、『次郎兵衛物語』芭蕉直話として、萩原羅月氏著『芭蕉の全貌』より。

  「(火焔から逃れ)川に飛込んだ所、火が波の上を這ってくるので、流れ寄った古蓑を以て火を払ってゐるうち、蓑に火が附いたので捨てゝ了った。頭だけ出してゐると、顔に火が吹きかけるので、頭をだしたり、浸けたりした。はじめは寒さを感じなかったが、後には凍へ死にさうになった。やがあて下火になって来たから浅い所へ寄らうとすると、足がフラフラして歩けない。後先を見廻すと、道具や人が澤山流れて来る。自分は首にかけた出山の佛を念じ、観音經を誦してゐると、大い櫃のやうなものが流れて来たので、それにつかまり、やうやく浅みぬ這上がったら誰かが引上げてくれた。」
     (萩原氏註…うまく想像化したものだ。)

 「次郎兵衛が江戸の大火を聞き、天和三年正月六日伊賀上野を出立し、十一に暮れ江戸へ入って深川に来て見ると、残らず焼けて了ってゐる。芭蕉庵は何処だらうと人に問うたれど知る者はない。あちこち探してる中に醫者らしい人に逢った。聞くと、芭蕉翁の事なら二本榎の上行寺に避難してゐると教へてくれた。
(萩原氏…などと面白く作ってゐる。醫者に逢ったと云って暗に其角を利かし、その菩提寺なる二本榎の上行寺を捻出する所など、脚色も巧みなものである。)

…筆者註…

芭蕉は庵焼失後は江戸の素堂を始め俳人宅を転々としていたと、これも『次郎兵衛物語』にある。

 「天和三年、朝鮮人来朝の事があるので、焼失した神社・佛閣・武家・町屋の造作を急ぐやうに申渡され、深川邊は五六十日で大半直った。芭蕉庵も四五十日には引越された。併し、芭蕉は中橋の沾徳・茅場町の其角・本所の素堂・堀江町の不卜・呉服町の調和・濱町の嵐雪等へ招かれ、庵に帰る事は稀であった。自分(次郎兵衛)も庵の留守をつとめ、四月伊賀に帰り云々」
(萩原氏註…『次郎兵衛物語』は小説らしく信じられない)

芭蕉が甲斐で詠んだ句 議仲寺『諸国翁墳記』
(『芭蕉の甲州吟行と高山麋塒の研究』勝峯晋風氏著より)

百景塚  甲斐国郡内川口 産屋ケ崎社中

雲霧の暫時百景を盡しけり

註…甲州よし田の山家の所持ノ人ありしを、今、東部下谷、□志秘蔵なるよし、行脚祇法より伝写して出ス ………『芭蕉句選拾遺』附記

勢ヒあり氷消ては瀧津魚

 その他山梨県内には多くの芭蕉句碑がある。しかし芭蕉がその芭蕉で詠んだと実証される句は少ない。猫も杓子も芭蕉を崇拝し、それによって己の俳諧の地位を保つ風勢のあったこの世界である。

二、『芭蕉一代録』

 甲州都留郡郡内谷村と云所に、白滝とて名高き名所有。久住といふ人にいざなはれて、彼所に宴す。

勢ヒあり山家も春の瀧津魚     芭蕉

 久住は磯部源左衛門と云御旗本也。知行四百八十石。爰に枕して雄歴ありとなん。云々

三、『芭蕉全集』去富著

 (芭蕉は)七月(延宝九年)再び富士に登り、冬の半まで吉田村に滞留し、甲斐国を遊歴あり。富士の自畫讃に雲霧の暫時百景を畫にけり
   甲斐に遊び、山中にて
山賤のおとがひ閉るむぐらかな
   谷村の白滝
勢ひあり氷柱消ては瀧の魚
   と聞こえは此時の事にや。

四、『俳聖芭蕉』(野田別天樓氏著)

 芭蕉の甲州落ち
 芭蕉が参禅の師佛頂和尚の奴六祖五兵衛といふもの甲斐に居り、芭蕉は彼をたよりて甲斐の国に暫く杖を曵かれたといふ事は信じてよいようだ。五兵衛のことはよく分からぬが、眼に一丁字なき拘はらず、禅道の悟深かりし故六祖といあだ名を得てゐたものらしい。六祖はいふまでもなく慧能大禅師のことで、眼に文字無かりしも、菩提本非レ樹、明鏡亦非レ臺、本来無一物、何處惹塵埃 。の一偈によりて五祖弘忍禅師嗣法の大徳となった。六祖の渾名を得てっゐた五兵衛と同門の因に依って、芭蕉は甲斐の国に暫く衣食念を救れたのであった。

五、『天和三年の芭蕉と甲州』

 ………六祖五平ついて………「都留高校研究紀要」赤堀文吉氏著 昭和四十三年刊。
 先年郷土史家の手により、都留市谷村の桂林寺で五平家の系譜を記した過去帳が発見され、小林友右衛門という人が「六祖五平」であり事を確認し、桂林寺に保存されていた古文書を調べてゆくうちに、麋塒から友右衛門にあてて芭蕉の世話を依頼した手紙の切れ端が発見され、それに五平の文字が出ていて、小林家が初狩の旧家であり、五平桑とよばれる桑の木までも現存しているところから、五平の家が初狩に実在したことが報道されたが、学界では取り上げられずに終わった。
   また最近では山梨県南都留郡中野村山中字堂の前のH家の祖先に五兵衛という人がおり、旧家であり、豪農であって、芭蕉が来て泊まったということが、山中湖付近の口伝として今もなお伝わっており、菩提寺である壽徳寺の過去帳に徴しても誤りなかろうという新説が出て来たが、これも断定するには未だ早急である。

総括、郡内地方の天和元年

 何時の時代でも、幕閣に参加する藩主を持つとその地域の農民や地域の住民の生活は困窮の一途を辿る事となる。秋元家にしても同じで、秋元治世が寛永十年より始まり、寛文七年には大明見の庄屋想右衛門と朝日村の惣左衛門の二人が、年貢が九公一民となり、支払い不能を谷村城内の役所に訴訟を提出するも、聞き入れられずに入獄となり、翌八年には、金井河原に斬首となり両家ともお家断絶となる。この後大騒動となり、密かに相談して四十四人の惣代が集まり七人の代表総代を選ぶ。その後も取り立ては厳しくなり、延宝八年には再度の訴訟を惣代七名と外五十六人が秋元摂津守の江戸屋敷を訪れ提訴する。江戸屋敷家老岡村庄太夫が応対する。提訴は聞き入れられずに、七人は谷村に入獄延宝九年(天和元年)二月十四日秋山村惣代関戸左近は磔刑、他の六人は斬首となる。しかし仕置はこれではすまずに、騒動に参加した者百十七人は一命を失う。屋敷の裏にて抜き打ちにされている。当時高山傳右衛門は国家老か江戸詰家老なのかは定かではないが、芭蕉の世話どころの話では無い。芭蕉が訪れたのは翌々年の天和三年であり、騒動が一段落した時期にあたるのであろうか。郡内の困窮はこれに終わらず、甲斐を揺るがす天保の大騒動に続くのである。これは郡内に留まらずに甲斐全域を巻き込んだものであるが、甲斐国内の庶民の生活の困窮振りが目に浮かぶ様である。
 文学関係の人物を扱う場合に当時の歴史背景を視野に入れない場合が多く見られる。高山麋塒の師匠であり、現在では俳聖と崇め奉る芭蕉についても、幾多の研究にも関わらずその出生や家系及び生涯は正しく伝わってはいない。俳諧などその日その日を精一杯生きる人々にとっては関係のない世界であったのである。
 高山麋塒にしても、秋元家に於ての事蹟も明確にはなってはいない。国家老となり谷村に勤めた年次や、芭蕉との関係もより追求する必要がある。当時の時代背景からすれば、芭蕉が安心して麋塒の別荘「桃林軒」に仮寓していられる環境は無かった、そこで、参考(一)の説が歴史的にはより信憑性を持つのである。それによる芭蕉が貞享二年に甲斐山中に再度訪問することも可能になり、自然に受け入れられるのである。
 初狩村についても、すべて抹消する必要もなく芭蕉流寓の可能性は残して置く事が大切である。
 山梨県内には芭蕉の句碑も多く見られ、芭蕉の詠んだとされる句も刻されているが、芭蕉が本当にその場所で詠んだ句は少ないのである。多くは後の俳諧宗匠や愛好家が建立したものである。
 都留郡には未だ多くの史跡なども残っていて、ある意味では歴史の宝庫でもある。甲斐と言えば甲府を中心に歴史を展開しやすいが、古代から富士五湖地方には豊かな歴史があり、富士山の噴火で途切れる事はあっても、東海道側から見れば甲斐の一中心地で有ったことは間違いない。古代から平安時代の甲斐を詠んだ歌には都留地方に関連した歌が詠まれていて、これは甲斐の行政が都留を中心に行なわれていた様な錯覚さえ覚えてしまう。国中から見れば甲府盆地が中心地と考えられるが、都から見れば東海道から近い都留地方が軍事的にも政治的にも要所であり、多くの書に逸話が掲載されている。郡内地方こそが、古代甲斐の歴史を紐解く鍵を握っていると言っても決して過言ではない。
 甲斐谷村の秋元家の治世についても、正面から見直して欲しい。秋元家の華々しい活躍や繁栄の一方地域住民の疲弊の生活や、圧政と戦い多くの農民の犠牲となった人達を理解しながら、一揆が何故相次ぎ郡内に度々起きたのかも視野にいれて、その中を懸命に生き抜き現在に続く繁栄をもたらした住民の思いこそ後世に残されるべきあると思われる。 芭蕉の甲斐流寓は今後も資料を積み重ね、一部の資料を偏重することなく、後世に伝える事が大切だと思われる。また芭蕉の親しい弟子とされる曾良もその出会いが谷村とする書もみえる。 芭蕉の甲斐逗留について、素堂を甲斐出身とする研究者は何故素堂を外して話を展開しているのであろうか。 当時は素堂と芭蕉は兄弟以上であり、その関係は他に類しない程のものである。今回天和二年前後の素堂と芭蕉関係を資料をもとに提示してみた。全てを出してはいないが詳細は後日発刊される拙著『素堂の全貌』を参照していただきたい。素堂の序跋文や芭蕉の書簡から、芭蕉が如何に素堂の影響を受けていたかが読み取れると思う。芭蕉が甲斐に来たことも立ち寄ったことも事実である。しかしそれは『古事記』の日本武尊の記述のように唐突の記述である。今後新たな資料が出た段階で後筆する機会を得たい。
 尚、この機会に山梨県の歴史展開に苦言を呈したい。「甲斐御牧」や「甲斐源氏」・「信玄の動向」それに「市川団十郎」・「山口素堂」など、有効な資料が無いまま定説化が進んでいる。中には真説を唱えるのに十分な資料があるのに黙認し、真説擬きを史実として繰り返し筆著している。多くの研究者は山口素堂を甲斐出身として扱っている。だったら芭蕉の甲斐入りについも素堂の関与を探るべきではないのだろうか。

   平成十七年五月吉日 書    山口素堂資料室 白州ふるさと文庫 清水三郎
   山梨県北杜市白州町白須6807

コンテンツ


明徴探題



アクセスカウンタ

この個人サイトの著作権は、特に断りのない限り清水三郎にあります。©1999-2005