素堂と芭蕉それに甲斐素堂、芭蕉関連の句文(抜粋)
芭蕉庵六物 素堂著
芭蕉と甲斐 松尾芭蕉と云えば、江戸時代俳文学の中心に居た人物である。しかし全く同時代に活躍し芭蕉を始め多くの俳人を助け立机させ、さらに新風を提示してその地位を確立した山口素堂(甲斐出身とされる)については、山梨県内に於ても全国的にもその評価が低い感がする。
であるがこの「春」の日時が定かではなく、夏に甲斐国谷村に高山麋塒を訪ねて逗留し、五月には江戸に戻る。とある。 ここで芭蕉の甲斐入りについての諸説があるので掲載して、検討を加えたい。 一、芭蕉の甲斐入り 天和三年春(?)松尾芭蕉の谷村流寓については未だに諸説があり確定されていないが、明治三年、大虫の稿本『芭蕉年譜稿本』それに勝峯晋風氏の『芭蕉の甲州吟行と高山麋塒(びじ)の研究』、近いところでは小林貞夫氏の『芭蕉の谷村流寓と高山麋塒』や赤堀文吉氏『天和三年の芭蕉と甲州』(都留高等学校・昭和四十三年度版)らが見受けられる。研究者の中には資料や自説を織り交ぜて定説化を急いで居る人もおられる。 芭蕉の甲斐入りの概要は凡そ次のようである。
歴史上の人物の事蹟を追求した先人の研究には、諸説があり、どの説が正しいのか混乱するばかりである。読んで見ると解明よりさらに謎が拡大する書に遭遇する場合も多い。こうしたことは、歴史研究にはよく見られることで決して珍しい事ではない。これは資料不足の中で研究者の知識と推説が多く含まれるからで、歴史研究や、芭蕉の研究にもこれは言えることである。
芭蕉が甲斐谷村に流遇したと確説に近くなったのは、勝峯晋風氏の『芭蕉の甲斐吟行と高山麋塒』の次の記述にあると思われる。
と記されている。これ以来芭蕉の甲斐谷村流寓説は高まる。 秋元家の谷村城の地図によれば、高山傳右衛門の家は特別な位置にはなく、(註…地図参照)城を囲むように、正面には高山五兵衛の屋敷があり、右には安中大兵衛・高山源五郎の屋敷、その間の町屋に囲まれた通りを出て、土田見徳の屋敷があり、その隣が高山傳右衛門の屋敷である。地図は寛永十年から宝永元年までの絵図とされているので、家屋敷は秋元家が武州川越に移封する末年のものと思われる。 屋敷の位置から推察すれば、この時期の伝右衛門は国家老の屋敷の場所としては城中より離れていて、いささか疑問が残る。 其角の『芭蕉翁終焉記』(『枯尾花』上巻所集。元禄七年十二月刊行)によると、
とあり、この火事の後芭蕉や素堂など諸俳人は一時所在所は不詳となる。 其角の『芭蕉翁終焉記』は火事の起きた年時については天和三年と記してあり、多くの研究者は天和二年の間違いと指摘されているが、芭蕉の高弟であり、『枯尾花』は芭蕉の追善集であり、当時の門弟や俳人達の記憶も十二年前の事で、仮に其角の記憶違いがあったとしても編集時に正されているはずである。 この様な背景のなかで、芭蕉は秋元家の家老高山傳右衛門繁文(俳号…麋塒)を頼って 甲斐谷村に流寓したとの著書が見える。しかしその事実を伝える歴史資料は曖昧であり、現在も諸説があり確定して居る訳ではない。後世書されたものにはその年時を示す資料の出が不明で、著者の思い込みが強く感じられる。 それによると、 『随斎諧話』(夏目成美著。文政二年・1819刊)芭蕉深川の庵池魚の災にかかりし後、しばらく甲斐の国に掛錫して、六祖五平といふものあるじとす。六祖は彼もののあだ名なり。五平かつて禅法を深く信じて、仏頂和尚に参学す。彼のもの一文字も知らず。故に人呼で六祖と名づけたり。ばせをも又かの禅師の居士なれば、そのちなみによりて宿られしとみえり又、 『奥の細道管菰抄』(蓑笠庵梨一著。安永七年・1778刊)此時仏頂和尚甲州にあり。祖師は六祖五平を主とすと一書に見えたり。六祖五平は高山氏にて秋元家の家老也。幼名五兵衛、後主税と言は通称にて、今も猶しかり。六祖の異名は仏頂和尚の印可を得しより、其徒にての賞名也。祖師と同弟なれば寄宿せられし也。今高山氏に祖師の筆蹟多し。米櫃の横にさへ落書せられしもの残れり。 『芭蕉翁略傳』(幻窓湖中著・弘化二年・1845)の一説に、甲州郡内谷村の初雁村に久敷足をとどめられし事あり。初雁村之等々力山万福寺と言う寺に翁の書れしもの多くあり。又初雁村に杉風(鯉屋・芭蕉の門人・友人・伊勢出身とされる)が姉ありしといへば、深川の庵焼失の後、かの姉の許へ杉風より添書など持たれて行れしなるべしと言う。と云う説である。 『芭蕉翁消息集』(芭蕉の真筆とされる。元禄三年説あり)北枝宛書簡(加賀金沢如本所蔵・『芭蕉年譜大成』では元禄三年四月二十四日付けとある)には自己の火災の体験を伝えている。 「池魚の災承、我も甲斐の山里に引き移り様々苦労いたし候ば、御難儀のほど察し申し候云々」 とある。北枝宛の書簡は年不詳ではあるが、芭蕉自身の口から甲斐の山里に云々とあり、彼の素堂の「芭蕉庵再建勧化簿」の著が天和三年九月である事から天和二年十二月の大火の後であろう事は推察出来るが確証はなく、芭蕉書簡の内の「様々苦労いたし候ば」は何を意味しているのであろうか。 又芭蕉の甲斐入りの折りに、寄寓されたとする万福寺境内には、万福寺住職三車によって「行駒の麦に慰むやどりかな」の句碑が建てられている。ある調査によれば真蹟であると云われている。又初狩村には芭蕉の最も信頼する杉風の姉が居たとする説も軽視するわけにはいかない。それを示す資料が見当たらないからと言って「事実が無い」ことにはならないのである。主張する説を定説にする為に他の説の抹消は避けなければならない。可能性を残して後世の研究に委ねる事が大切である。 芭蕉の甲斐谷村流寓説に大きな影響を及ぼしたのは、大虫(明治三年没)の稿本『芭蕉翁年譜稿本』の次の記載による。小林佐多夫氏の『芭蕉の谷村流寓と高山麋塒』に詳しい内容が記されているが、概略は、
大虫の説と勝峯晋風氏の説が重なり揺るぎないものとして「芭蕉の甲斐谷村流寓」が定説化に向けて進んだのである。しかし確たる資料を持たないものは、研究者の論及も仮説、推説であって定説とはならないのである。 芭蕉の来甲した時期であるが、秋元家の知行所一帯で溜まりに溜まった秋元家への不満と生活の困窮から怒りが爆発した。 延宝八年(1680)の郡内百姓一揆である。騒動は拡大して百姓総代が江戸町奉行に越訴して、受け入れられず翌九年(天和元年・1681)二月二十五日には谷村城下の金井河原に於てはりつけ及び斬首と云う極刑で幕を閉じる。当時の谷村周辺の庶民生活の困窮振りが忍ばれる。騒動が続く中でも秋元家の幕府の役職での躍進は進み増税が進み、庶民の困窮振りはさらに悪化していたと推察できる。芭蕉の谷村流寓は、そうした時代背景の中で為された事なのである。 芭蕉の火災遭遇期秋元但馬守の江戸屋敷も焼失していて高山麋塒も大変であったはずである。そんな時期に高山麋塒は芭蕉を伴いや村に向かったのであろうか。 芭蕉は決して恵まれた環境の中で甲斐を訪れたわけではない。芭蕉の書簡の「様々苦労いたし候ば」こうした時代背景を意識していたとすれば、妥当な文言ではある。 さて今栄蔵氏の『芭蕉年譜大成』によると芭蕉の天和三年の行動は次のようになる。 天和二年(1682)十二月二十八日 芭蕉庵類焼、その後当分の居所定かならず。 天和三年(1683) 一月 当年歳旦吟(採茶庵梅人稿『桃青伝』に「天和 三癸さい旦」として記載。) 元日や思へばさびし秋の暮れ(真蹟歳旦) 春 (一月〜三月)五吟歌仙成る。 【連衆】芭晶・一晶・嵐雪・其角・嵐蘭
夏 (四月〜六月)甲斐谷村高山麋塒を訪れ逗留。一晶同道。逗留中三吟歌仙二巻成る。 この後の五月には其角の『虚栗』刊行され、芭蕉は序文を書す。芭蕉の寄寓先の高山麋塒の句も見える。 天和二年
参考 烟の中に年の昏けるを
天和三年
《連衆…露沾・幻呼・似春・麋塒・露草・云笑・四友・杉風・嵐蘭・千春》
参考 花を心地に狸々醉る雪のくれ (『芭蕉の谷村流寓と高山麋塒』) これによれば、芭蕉は天和二年暮れの江戸大火の後、直ちに甲斐に来たわけではなく、天和三年の四月以降のことで、この火事では秋元家の江戸屋敷も火災に見舞われているので、国家老との高山麋塒にしても芭蕉の処遇どころではなかった筈である。又五月には江戸に戻り、其角編の『虚栗』の跋文を書している。 次の歌仙が芭蕉が甲斐谷村に高山麋塒を訪ねて逗流した折に巻いたものとして、芭蕉が甲斐に入った事を示す実証として用いられている。逗留中三吟歌仙二巻 『蓑虫庵小集』猪来編。文政七年(1824)刊。 「胡草」(歌仙)【へぼちぐさ】
当時は春(一月〜三月)夏(四月〜六月)秋(七月〜九月)冬(十月〜十二月)であり、『芭蕉年譜大成』の夏、甲斐谷村に高山塒麋を訪ねて逗留。五月江戸に戻るので、芭蕉の逗留期間は非常に短期間と云う事になる。さらに先述した『虚栗』には、麋塒の句も入集しているが、これらの句が甲斐に居て詠まれた句かは定かではない。さらに『虚栗』の編集期間の問題もあり、芭蕉が五月に跋文を書して、又入集句に目を通し板行する期間も短期間となり、ましたや『虚栗』は弟子其角のはじめての選集である。刊行なったのは六月であっても、準備は以前から進められていたとするのが自然で、当たり前の事であるが句作は刊行より以前となる。 私には句作の季節や句意などは分からないが、芭蕉が跋文のみで終わるという事はなく、『虚栗』の末では其角と芭蕉の連歌が記載されている。両者の句作はどの時期に行われたのであろうか。 『虚栗集』所載の句 酒債尋常往ク
(以下略) 改夏
(以下略)
(以下略) 《連衆…芭蕉・一唱・嵐雪・其角・嵐蘭》
『芭蕉年譜大成』によると、一月、歳旦吟。春、五吟歌仙 憂方知 酒聖 ・貧始覚 銭神
『虚栗』所収の秋冬の句は、刊行が天和三年六月であるから、前年、天和二年以前の秋冬(七月〜十二月)の句である。 芭蕉は夏、谷村逗留の後に五月江戸へ戻る。五月其角編『虚栗』の跋文を草す、六月刊。 さて、甲斐出身とされる山口素堂はこの芭蕉の最も親しい友である。『甲斐国志』の記載以来、素堂の伝記は大きく歪められてしまっているが。 国志によれば素堂の家は甲府でも富裕の家柄であった云う。弟に家督を譲り、江戸に出たとされる素堂ではあるが、芭蕉庵を再建する発起人となるのであれば、何故芭蕉の甲斐流寓の手助けをしなかったのであろうか。 素堂側に立って「素堂と芭蕉」の親密さを見れば、素堂は芭蕉の甲斐流寓の目的を十分理解していたと思われる。芭蕉が江戸に戻り参加した其角の『虚栗』編集には、素堂は中心的存在で参加している。後の『続虚栗』(其角撰)には素堂は「風月の吟たえずしてしかもゝとの趣向にあらず云々」で始まる序文を与えている。 素堂は、この序文の中で、諸先生方が芭蕉の唱えた説と指摘する、「不易流行」説を既に提唱している。(本文参照) 其角にとっても素堂の存在は大きなものであったのである。もちろん高山麋塒は、幕府儒官林家に出入りする素堂の知識と俳諧に於ける先駆者としての位置づけを承知していた筈である。 九月、江戸に帰リ、住む所が定まらない芭蕉をみかねて、親友素堂が呼びかけで芭蕉庵を再建する。 山口素堂の『芭蕉庵再建勧化簿』(天和三年秋九月)。
天和三年秋九月 竊汲願主之旨 濺筆於敗荷之下 山素堂 さらに、芭蕉庵の造作は進み、
となっていく。 又芭蕉の甲斐流寓に同道したとされる芳賀一晶は、天和三年、歳旦帳を出してその春に江戸に下り、芭蕉等と一座し誘われてその夏を甲斐国に過ごした(『俳文学大辞典』、一晶の項……白石悌三氏著)と記載されている。 芭蕉の甲斐流寓について触れている研究文献は多く見られるので、ここでそれ等を整理してみたい。 芭蕉の谷村流寓については次の地域の研究文献がある。それは『都留高校研究紀要』である。 都留高校『研究紀要』(「天和三年の芭蕉と甲斐」)によると、
又、研究者の論議については、
前述、 赤掘文吉氏『都留高校研究紀要』の論述のまとめとして、 「芭蕉は麋塒を頼って谷村に来た。その根拠…『真澄の鏡』所集、麋塒の子息が書いた〔芭蕉真蹟軸箱の裏書〕他による、とされ六祖五平を頼ったとされる『随斎諧話』・『奥細道管菰抄』の説は高山家の五平衛や高山伝右衛門繁文の次男五平衛が麋塒と混同され芭蕉歿後八十年或いは百二十五年の後に六祖五平として登場したと思われる」。赤堀氏は諸説や谷村・秋元家の研究を通して右記のように結論を出されて居る。そして学会には認められなかった説として次の郷土史家(不詳)の研究文を揚げられている。 さらに、
二、芭蕉の再来甲 貞享二年芭蕉と甲斐郡内のかかわりはもう一件ある。『芭蕉年譜大成』によると、 貞享二年四月中旬頃 甲斐の山中を訪れる 甲斐の山中に立ち寄りて 行く駒の麦に慰む宿り哉 甲斐山中 山賎のおとがひ閑づる葎かな 貞享二年四月末甲州街道経由で江戸に帰省。(木曾路経由の予定を東海道に変更) とあり、この「山中」についても「さんちゅう」か地名「やまなか」と読むかが論争点になっている。 四月九日には鳴海の知足亭を訪れ一宿、四月十日には知足亭を出発、帰路は東海道を下った可能性が大である。と今栄蔵氏は推察されている。がこれさえも定かではない。諸説があり又、芭蕉の身辺についても記述された部分(甲斐の)が少なく推論でしか語れない事になる。「推説」は「定説」にはならない。 今氏によると東海道から甲斐山中に立ち寄ったことになり、天和三年(1683)に続いて貞享二年(1685)の甲斐入りは年代も近く、全く無関係ではあるまい。天和二年の甲斐流寓が確実なものであれば貞享二年の芭蕉の行動も先年の謝礼のために甲斐山中に立ち寄る事情があった事は人間としてごく自然であり、その関連を追求すれ天和三年の甲斐逗留も明確になる可能性が有り、研究の余地が残されている。絶対的な資料が無い限りは今後も定説はないままに諸書に著述されて行く事になる。是非小林貞夫氏の『芭蕉の谷村流寓と高山麋塒』赤堀文吉氏の『研究紀要』所集の「天和三年の芭蕉と甲州」の御一読をお薦めする。 天和二年の『武蔵曲』・『錦どる』には芭蕉・麋塒・素堂翁も参加している。芭蕉と麋塒もだが麋塒と素堂翁も前述の谷村城主秋元但馬守と素堂の関係も官職を通じ深い繋がりがあったと思われる。素堂は晩晩年、川越を訪れている。この天和二年当時は芭蕉・三十九歳。麋塒三十四歳。素堂四十一歳である。もっとも芭蕉の生まれたとされる正保元年(1644)は寛永二十年十二月十六日に改元があり十二月十六日〜三十一日までの十六日間が正保元年となり、芭蕉はこの間に生まれた事になるとの見解を示す研究者もおられる。 『夏草道中』では貞享二年の芭蕉の甲斐入を次のように明言している。 《芭蕉の第二回の入峡は、貞享二年初夏四月ことである。貞享元年八月から二年四月までの「野晒紀行」 の途次で、二年の春「思ふ立つ木曾や四月の桜狩」と熱田で吟じて、木曾路に入り塩尻、諏訪を経て、甲州道中信州路を東に下った。初狩村の杉風の姉の許に立ち寄って、一昨天和三年暫く世話になった礼をも述べたことであろう。 追而申入候。此中にふじに長々逗流、其上何角世話に成候へば、別而御内方御世 話に候。いそがしき中に、うかうかいたし居候而きのどくに候。長雨にふりこめられ候事、とかうに及びがたく候。 行駒の麦になぐさむやどりかな いずれへもよろしく御まうし可被給候。くはしきは重而々以上 十三日 桃 青 空 水 様 そして(書簡の日付は)帰庵後の五月十三日と思われる甲斐の俳人、空水宛ての此の書翰でも明らかのように、空水(『夏草道中』筆者注−不明)のところで、雨に降りこめられなどしたが、今度は、甲州道中二十五次を踏破して、四月末に深川の芭蕉庵に帰った。》 とあるが、その論拠は何を基にしているであろうか。 芭蕉は熱田からの帰路に木曾路から甲州街道に入り、郡内に至る道筋を踏破した事は文献資料には見えず、諸説混迷しているのが現状である。 『芭蕉傳記考説』「行實編」(阿倍正美氏著)によると、芭蕉は四月九日熱田を出立して、鳴海へ、十日江戸へ下る(『知足齋々日記』)。その後の芭蕉の行動は不明である。木曾路なのか、東海道を通ったかは資料不足で決定していない。それに関する書簡などがあっても、『野晒紀行』には甲斐の途中吟などは見えず、 甲斐の国山中に立寄て 行駒の麦に慰むやどりかな の記載となる。阿倍正美氏『芭蕉傳記考説』によると、この「山中」のは
とありその読み方も「やまなか」か「さんちゅう」か意見が別れる所ではあるが、芭蕉が鳴海から東海道経て、御殿場から須走を通り籠坂峠 山中 谷村(流寓か) 甲州街道を通過して江戸に戻ったか、木曾路をへて諏訪から甲州街道を経て郡内谷村に入ったのか、資料文献からは決定することはできない。 しかし先述の『夏草道中』には芭蕉は甲州街道を利用し江戸へ戻ったと明記してある。こうした確説のような話は、後に比較資料を持たずにその書を読む人には真実として伝わる事となるのである。 『芭蕉年譜大成』(今栄蔵氏著)には、 四月中旬頃、甲斐の山中を訪れる(経路未詳) 甲斐の山中に立ち寄りて 行駒の麦慰む宿哉 (紀行) 甲斐山中 山賤のおとかひ閉づる葎かな(『續虚栗集』) 《註…葎やえむぐらなど、繁茂してやぶをつくるつる草の総称》 四月末、甲州街道経由で江戸に帰着。 卯月の末庵に帰りて、旅の疲れをはらすほどに 夏衣いまだ虱を取りつくさず (紀行) 資料を繕いながら推説を広げることは小説ではよくあるが、史実を伝える事蹟文献については、一考を要するのではないか。 萩原蘿月氏著の『芭蕉の全貌』には次の記載がある。 『芭蕉翁略傳』には 自書云、甲斐の国郡内と云所に至る途中の苦吟 夏ほくほく我を繪に見る夏野哉 此句ばかりかと存候 柏水丈 はせを 又、松瑟の「水の友」(享保九年刊)には畫讃と題してこの句が出ている。 『句選年考』には芭蕉の、 瓜の花雫いかなるわすれ草 を掲げて、その註に、 天和末、貞享の初の吟なるや。類柑子に其角が瓜の花の一花の文あり。其文に曰、河野松波老人(宗対馬守公の茶道)一物三用の器をもてあそべり、長嘯子のめで給へる記あり、ほとゝぎすまた聞はえする此、かの鉢たゝき所望して見んと、芭蕉翁高山何がし言水等是かれ訪ひ侍りけるに云々。 とあり、この句は貞享元年か二年の句としている。 さらに芭蕉の 木曾の情雪や生えぬく春の草 の句の註には 『芭蕉傳』を見るに、深川六間掘と云ふ所に庵を設けて、天和二年迄在住ありしに、其冬回禄の災にあひて、暫く甲州に赴き、彼国に年を越え、翌三年の夏末ならんか、深川の舊地へ帰ぬ。もしや此甲斐遊杖天和三年の春の吟なるや。 『枯尾花』序には、天和三年深川庵焼亡、翌年(四年)夏甲斐が根、帰府、庵再建芭蕉野分けしての吟有りと記せり。是を見る時は夏秋のみにして、春甲斐遊杖あらざる故春の句有る可きにあらず。又『枯尾花』の天和三年焼亡翌年とあるは天和四年即ち貞享改元の年なり。此元年の秋は古郷伊賀へ旅立ち「野ざらし紀行」あり。是を見彼れを察するに、秋庵再建直ちに旅立もいぶかし。もしや『枯尾花』に、天和二年を三年と印板を書損にや。 この様に芭蕉句の解説文には様々な文言が飛び交い、読む人はどの説が正しいのか悩むばかりである。 『續虚栗集』には甲斐を詠んだ歌が記載されている。そして山中も 甲斐山中にさまよひける夜、宿かりぬべき かたもなくて
秋 山
『續虚栗集』「春の部」改正には
《連衆…釋任口・芭蕉・自悦・杉風・・去来・千春・其角・以下略》 安部正美氏著の『芭蕉伝記考説』「行実編」は芭蕉の生涯を克明に浮かび出しているが、このあたりの行実解明は捗々しくない。 元禄三年四月二十四日附、北枝宛。芭蕉書簡の、 「池魚の災承、我も甲斐の山ざとにひきうつり、さまぐ苦労いたし候へば、御難儀の程察申。」 や其角の『芭蕉終焉記』には、 「……爰に猶如火宅の變を悟り、無所住の心を発して。其次の夏の半に、甲斐が根にくらして富士の雪のみつれなければと、それより三更月入 無我 といひけん昔の跡に立帰りおはしければ、……」 とあり、芭蕉が甲斐に行ったのは夏の半とあるから五月のことである。芭蕉の甲斐逗留の時に秋元藩国家老高山傳右衛門(麋塒)がどう関与したかは後説であり、史実とするには資料が足りないことだけは間違いない。 また当期間に芭蕉の詠んだとされる句や、地域に残る芭蕉句を無理に谷村逗留中の句とすることもどうかと思われる。芭蕉の甲斐谷村逗留を史実としたい研究者の意図が見え隠れして気になる。 素堂と芭蕉 私の研究する山口素堂と芭蕉の関係は蜜月時代に入っている。延宝三年に「西山宗因歓迎百韻」に同席し、延宝四年には信章(素堂)との「天満宮奉納二百韻」、延宝四年には出入りする内藤風虎主催の「六百番俳諧発句合」、冬には京都の伊藤信徳・信章との「三吟百韻」を興行、延宝六年春には「三吟百韻二巻」を興行している。さらに『江戸広小路』。『江戸新道』にも両者が入集、延宝七年か八年には「両吟発句脇二組」や夷宅を交えての「三吟三物一組」成る。天和元年には木因との素堂亭訪問の打ち合わせをし、七月には素堂・木因・芭蕉との三物、天和二年春には京都の望月千春が東下、十二吟百韻に同席、同じ頃の「七吟世吉」にも同席している。二年八月十四日には高山麋塒の主催の「月見」に京都の信徳、素堂と共に臨み、素堂は「月見の記」を書く。そして大火災に遭遇する。素堂は天和三年九月には前述の「芭蕉庵再建勧進簿」と続く。風律の書には素堂は秋元但馬守に蚊足を世話している。素堂抜きには芭蕉の甲斐逗留は語れない。 尚、森島弥十郎基進の『甲斐国志草稿』には素堂の和歌が掲載されて居る。(『甲斐国志』には記載なし) P69 俳諧師素堂 此人手沢ニ希也故 此ニ出 歳暮 素堂 「春の日も夜も長月もあすか川 ながれて年のけふもくれぬる」 |
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