山梨文学講座 山口素堂の俳諧蕉封俳諧の先駆者 山口素堂 信章(素堂)と桃青(芭蕉)時代の幕開け 山梨大学教授清水茂夫氏著(故人) 『微典会』 会報第6号 1966 はじめに 清水茂夫先生は過年逝去されました。山口素堂や松尾芭蕉を含む俳諧の研究では、全国でも有数な研究者であり、一度お目にかかりたいと思っていたが、その時は入院をなさっているとのことで、その機会を逸してしまった、その後お目にかかりたいとの思いは募るばかりであったが、ついにその機会に恵まれず今日に至っている。 先生の著作は早くから拝見させていただいていたが、私なんかには専門過ぎて理解できないことが多く、またその洞察力の深さには圧倒され、また専門すぎて理解できないことも多かったのも事実です。 先生の著者の中でも、山口素堂の研究は特に多く熱心で、それは『山梨大学研究紀要』や論文集の中に収められている。 先生の多くの研究著書の中で、たまに先生の山口素堂の伝記の箇所の筆勢が弱まる時があり、またそっと意識づけをする著書も拝見した。 その一つは素堂の伝記の部分であり、また素堂の濁川改修工事に関わる記述である。そのあたりに先生の人に言えない苦しさを感じ取ることができる。 先生は多くの人に本を刊行するように懇願されたようでしが、断固として研究者の信念を貫かれた。 今回はそうした清水先生を研究を偲ぶとともに、俳句の研究に役だっていただければと、先生の講演資料から引用紹介をさせていただきます。 なお、便宜上先生の著述にはない上記の項目を設けて紹介します。 蕉封俳諧の先駆者 山口素堂 清水茂夫 目には青葉山郭公はつつ鰹 (『江戸新道』延宝六年) この句には「鎌倉にて」とい前書がついている。延宝六年といえば、素堂三十七才あったが、そのころ鎌倉に赴いて吟じたものであろう。一見名詞の羅列に終っているが、實は最初の「目には」で、以下「耳には」「口には」を類推させたことが、手腕のあるとところで、それと警戒なリズムとによって有名にな句となった。初鰹を上リあげた点も人気を博する所以であろう。当時俳壇に談林風が勢をふるっていた時代で、素堂もまた親友芭蕉とともに、檀林俳諧に熱中していたのである。 寛文の初年二十才ごろ江戸に出た素堂は、林春斎について漢学を学び、同門の人見竹洞(貞享三年に木下順庵と共に「武徳大成記」を編述した幕府の儒官)などと親交をもって朱子学を学ぶと共に、当時中流以上の町人の社会的教養であった俳諧や茶の湯に心を傾けた。素堂が最初に学んだのは、貞門俳諧で特に北村季吟の影響を強く受けている。延宝二年十一月二十三日江戸から京都に上った素堂を迎えた季吟は、九人で百韻を興行している。その時の発句と脇は次の句である。 いや見せじ富士を見た目にひへの月 季吟 世上は霜枯こや都草 信章(素堂) ところがその翌年延宝三年五月には、江戸に下ってきた西山宗因を迎え、素堂は桃青(芭蕉)と新風ある談林俳諧を興行して、貞門俳諧から談林俳諧へと転向した。素堂と芭蕉との出会いはこれが最初で、この後終生暖かい友情が二人を支をしていた。延宝四年には、西山宗因に対する熱狂的な鑽仰が高まって、二人は『江戸両吟』を興行して、端的に談林風を謳歌する叫びを表わしている。 梅の風俳諧諸国に盛んなり 信章(素堂) 「梅の風」で、「梅翁」すなわち宗因を表わし、その俳風が全国に流行する姿を賞讃し、それに共鳴する自分等の満足感を力強く歌っている。『江戸両吟』の付句などには、当時の町人の願うところ欲するところが、極めて大胆に率直に表わされていて、町人の風俗詩として談林俳諧の面目躍如としている。 山椒つぶや胡椒なるらん 桃青(芭蕉) 素堂の付句「小枕」は女の髪の髢(かもじ)の根に用いるもので、紙を固く束ね、また黄楊(つげ)などでつくり、その上を紙や絹で包んだものである。 一句は髪も乱れて小枕のころころころぶ様に、女がころころころび臥す様を表わしている。女の臥す様、男の引き倒す様は、前句の山椒粒や胡椒粒の散乱した状態にも比すべきであろうと前句に応じている。つづく付句も場面は異なっているが、まったく町人的な愛欲の様相を露骨に表わしていて、人間自然の愛欲を肯定する姿勢が見られる。肉体を罪悪の府ともる中世的なき仏経的な人間感からの脱却に文学としての意義が認められよう。 延宝七年長崎旅行から帰った後、素堂は上野の移居して致任退隠の生活に入った。 東叡山のふもとに居市中より居をうつして 鰹の時宿は雨夜のとおふ哉 (『武蔵曲』天和二年刊) 池はしらず亀甲や汐ヲ干ス心 (『武蔵曲』天和二年刊) 前の句の鰹は既述のように江戸においても初鰹として人々に賞味されていた。世間で鰹をもてはやす時、自分は草庵に降る夜の雨音を聞きながら豆腐を食べていると言うのである。裏面には自分の退隠生活を官途にある友人の栄達と対比させている。白氏文集十七の 「蘭省ノ花時錦帳ノ下、廬山ノ夜雨草庵ノ中」 を踏まえながら、その痕跡を少しも残さず淡々と表現している。後の句では、「汐ヲ干ス」が春の季題で、春暖のころ水際に出て来た亀が、折りからの春光を浴びて甲を干している嘱目の情景であろう。極めて静かなあたたかい満ち足りた世界である。そこに退隠生活の中に生き甲斐を感じ安堵している素堂が、まざまざと象徴されている。 芭蕉は延宝八年に門弟杉風の深川下屋敷にあった生州(いけす)の晩小屋を改造して入居した。芭蕉はこの芭蕉庵入居を機縁として、自己の俳諧を真に文学的自覚をもって反省するようになり、漢詩文調であるいわゆる天和調を経て、蕉風樹立へと向かうのであるが、その芭蕉庵入りは、前年退隠した親友素堂の隠者生活に動機づけられるところがあったではなかろうか。芭蕉は嵯峨日記卯月廿二日の条に 「長嘯隠士の曰、客半日の閑を得れば、あるじ半日の閑を失ふと、 素堂此の言葉を常にあはぶ。予も又うき我をさびしがらせよか んこどりとはある寺に独居して云ひし句なり」 と記しているように、閑静を愛好する素堂の生活に心ひかれていたわけであって、遠く芭蕉庵入りの動機の一つに素堂の退隠生活があったと見てよかろう。 天和時代は漢詩文調によって行き詰まった談林俳諧から脱皮しょうという時代であった。放埒な通俗性にのみ走って文芸性の支柱をを喪失した談林俳諧が、漢詩文調の文芸性を採取すると共に、漢語や漢詩文調によって調子を強化し、一種の新鮮味を出そうとした。この時に漢学に造詣の深い素堂が指導的手腕を発揮したのは当然である。 その様子を記述する遑(いとま)はないが、『三冊子くろざうし』(土芳著)に、
とあるので実証できるであろう。素堂の漢詩文調の代表作としては、天和三年刊の『虚栗』(みなしぐり/其角編)に見える荷興十唱(中、五句を揚げた)をあげることができる。 浮葉巻葉此蓮風情過ぎたらむ 鳥うたがふ風蓮露を礫てけり そよがさす蓮雨に魚の児踊る 荷をうって霞ちる君みずや村雨 連世界翠の不二を沈むらく 素堂が漢学的なバッグボ−ンの所有所であったことは、単に漢学の知識があったと言うことにとどまらず、故郷である甲斐の国に来て濁川の土木工事に従事したことに結実している。『甲斐国志』は代官触頭の桜井政能の苦心と素堂の協力とについて、次のように記している。 この項終り |
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