山梨文学講座 山口素堂
『芭蕉俳諧の精神』赤羽学氏著より抜粋。
素堂と芭蕉
素堂と芭蕉の「蓑虫」まつわる句・句文・書簡の遣り取りは素堂と芭蕉の交友は単なる俳友としてゞはなく、人間としての深い交わりがあったことが推察される。
素堂と芭蕉の関係が今一つその論証が欲しかった。そんな折、馴染みの古本屋さんから「芭蕉の研究書」が入荷したとの連絡があり、仕事を途中でやめて直行した。
そして手に入れた本が、赤羽学氏の「芭蕉の精神」全四巻である。値段も高く躊躇したが、内容を見て購入することにした。素堂の研究書は非常に少なく、芭蕉や他の俳諧人の書物や研究書から素堂の事蹟を探し出すことが多いし、そうした資料を繋ぎ合わせないと素堂の事蹟が点になってしまう。
今だ見たい書の十分の一にも満たない。芭蕉関係の書物は部屋に充満している、如何に芭蕉の本が多いか、それにつけても素堂の関係書物の少ないことか。しかし赤羽学氏の『芭蕉の精神』に素堂と芭蕉の親交が克明に著されている。
ここではその中の「四山銘の瓢」の部分を引用させて戴くことにする。
※『芭蕉の精神』第三節
「似合しや新年古き米五升」とその改作 (抜粋)
芭蕉が甲斐流寓を終えて江戸に戻ったのは、天和三年(1683)の五月である。前年冬の大火に荒廃した江戸のどくに居を定めたかは明らかではないが、住むに家なき状態で、経済的な窮乏は、もとの深川草庵時代とは比較にならないひどさであったろう。これをみかねた素堂は、その年の九月、芭蕉庵の再建を促すべく、「芭蕉庵再建勧化簿」を知友の間に廻し、芭蕉の窮状を「これを清貧とせんやはた狂貧とせんや。翁みずからいふただ貧也と貧の又貧許子之貧それすら瓢一軒のもとめ有。雨をささへ風をふせぐ備なきば鳥にだも及ばず。誰かしのびざる心なからむ。」と訴えた。
〔芭蕉の生活を積極的に打開しょうとする素堂の暖かい友情が思われる。〕 「勧化簿」のことばは、人生上の不幸とか貧賎に対する 芭蕉と素堂の考えの微妙違いを示している。芭蕉は自分の極貧を「ただ貧也」といって、それ以上なにも求めないが、素堂は「清貧とせんや狂貧とせんや」といってほとんど常識では考えられない生活であると極言する。
不幸な人がつとめてそれから脱れようと思い、周囲の人々もこれに援助するのが世間の常識であるが、芭蕉の態度はこれを絶している。『虚栗』その他にみえる当時の芭蕉の言動から察すると、こういう芭蕉の立場は、貧賎を自分の運命として享受しようとするいわゆる造化髄順の思想に基ずくものと考えられる。芭蕉の俳諧は、私心を去った運命髄順の生活の所産であって、恣意的な生活からはけっして生まれるものではない。草庵の焼亡も、甲斐流寓も、その後の極貧も、それ自体絶対の俳諧精神の場であった。これに対する素堂の立場は、世俗的な生活との妥協の上に風雅を求めるきわめて常識的なものであった。
これは後に素堂の書く「四山銘」の内容にかかわる問題である。その年の冬、素堂の勧化簿によって、草庵が再建が実現する。
(中略)
筆註…この後芭蕉の吟についての論や、芭蕉の「似合しや新年古き米五升」の 吟についての諸論の比較と 赤羽氏の論が記されている。)四山の瓢は、 素堂の「石川丈山翁の六物になぞらへて芭蕉庵六物の記」によると、石川丈山の詩仙堂の六物にならって芭蕉庵に所持された六物の一つである。
「丈山の詩仙堂」は「木下長嘯子の歌仙堂」に由来するから瓢も長嘯子所有の名高い「はちたたき」に源を発すると考えられる。(中略)
筆註…「はちたたき」に対する論あり、又、長嘯子の「はちたたき」はその後 転々とし、芭蕉の頃(赤羽氏天和元年夏と推察)は河野松波老人宗対州
公茶道也。
其角の俳文「瓜の花」に芭蕉・言水・麋塒・其角の四人が連れだって拝 見にいった等の記述あり。又、その記述の中に
〔床の上に無弦の琴を居(すえ)てある。
とある。
筆注…『連俳睦百韻』の巻頭には素堂の木像が木像が描かれいて、素堂がこよ なく愛した琴が抱かれて居る。
米入れの瓢に、素堂によって四山という銘がつけられたことは周知の事である。 次にこの意味を考えてみよう。
一瓢重岱山
自笑称箕山
莫習首陽山
這中飯顆山 (素堂家集)
筆註…『髄斎諧話』…「岱山」が「黛山」第三句が「莫慣首陽餓」・〔『蕉影 余韻』(貞享三仲秋後二日・1686)所集の素堂自筆の瓢銘は、第三
句が「勿首陽山」〕となっている。
(中略)四句のそれぞれにすえらえた四つの山は、いずれ中国の隠者に関するもので、漢詩趣味に傾倒する天和年中の芭蕉の生活が忍ばれる。(中略)瓢の価値は、五升の米を満した時の価値である。
瓢の米が芭蕉の生活に岱山より重い位置にあることを素堂は説いたのであり、芭蕉もすなおにその友情に謝し、「かつ空しき時は、塵の器となれ。得る時は一壺も千金をいだきて、黛山も軽しとせむこと然り」と述べている。
次の「自笑称二箕山一」の「岱山」は芭蕉の貧賎に超然たる態度を述べたものであろう。天下を譲るという堯の要請を聞き、耳が汚れたといって潁川に許由の潔癖さを受けて、芭蕉は、野晒し紀行の途中、吉野の山中に西行のとくとくの清水を尋ね、「もしこれ許由に告げれば、耳を洗はむ」といった。
また素堂の勧化簿の「翁みずからいふただ貧也と。貧の又貧許子の貧それすら一瓢一軒のもとめ有」という言葉は(中略)俳諧一筋にきびしい精進を続ける芭蕉に対する(素堂)の尊敬と協力のあらわれとみなければならない。(中略)
「莫習首陽山」(中略)素堂は観念的には許由や佰夷の貧賎にならうことを理想としながら、現実の生活としては憚りを感じている。「莫習首陽山」は素堂の現実肯定的な立場を示すものであって、俳諧を生活の一環として推進しようとする芭蕉の実践主義と大きな隔たりをもっている。
結句の「這中飯顆山」は二句三句許由は佰夷の貧賎に対して、食事をまかなう程度の物質生活の必需性を説いたもので、初句の一瓢が岱山より重いという論理に照応している。「這中」は米入れの瓢をさし、「飯顆」はめしつぶのことである。(中略)
飯顆山頭逢杜甫。頭載笠子日卓午。貸間何来太痩生。総為従前作詩苦。
これは「王香園近世叢書本事詩」によった。(中略)素堂が「本事詩」に基ずいたことはたしかである。
これについて芭蕉は「四山瓢」において、
「飯顆山は老杜のすすめる地にして、季白がたはぶれの句あり。素翁(素堂)りはくにかはりて我貧をきよくせむとす」
と述べた。
(中略)素堂はこういう詩歌伝の伝統とは反対に、芭蕉に「飯顆」をすすめる。その真意は、詩に痩せる詩人の本来の使命を否定したのでなく、芭蕉のあまり厳格な物質生活拒否の態度を、軽妙な洒脱をもって和らげたものであろう。芭蕉は素堂の忠告をすなおに受けた。「米五升」を「似合しや」と狂ずる気持がそれである。
素堂は名利に追従する卑俗な人物ではないが、芭蕉のように理想を現実に実践しょうとする厳格さに欠けている。(中略)素堂は通俗的な漢詩趣味と混同し、生活に矛盾しない限りにおいて、理想の追求を認容する。
注五…長嘯子が無弦の琴を愛したことは、「西山山家記」に「琴をあやつるわざをしりはべらねど、みるにもなぐさむここちすれば、いとむつまじくかたはらにおけり。
(中略)緒は絶行くままにさながら晋の微士、無弦の琴にたらん
(『挙白集』六)とみえる。
筆註…素堂翁の琴は人見竹洞老人より贈られたものである)
|