山梨文学講座 山口素堂
なぜ誰も書かなかったのか
今封印が解かれる素堂と曾良の関係とは
素堂と曾良
素堂翁曾良は芭蕉を介しての交友ではなく、直接的の関係で結ばれていたのである。
『俳文学大辞典』によると、素堂「甲斐国北巨摩郡教来石山口に出生。二十才ころ、酒造業を弟に譲り、江戸に出て林家の塾に入り、また一時上京し和歌や書道を学ぶ。その後任官するが、延宝七年(1679)春、三十八才で官を辞し江戸上野不忍池畔に隠栖。
その後深川に住居を移して俳譜に勤しむとある。
一方曾良は「長野県諏訪郡上諏訪(信漉国上諏訪)に生まれ、本名は岩波庄左衛門正字(まさたか)と云い、高野七兵衛の長男として生れる。姉(法号、利鏡。小平家に嫁ぐ)と弟五左衛門があった。生家は弟五左衛門が継ぎ、曾良は母の実家河西家に育つ。通称与左衛門。十二才万治三年(1660)に養父母岩波久左衛門昌秀夫婦が相次いで他界したが、曾良が岩波氏を継いだ経緯や時期は、養母が伯母にあたること以外未詳。十代の頃伊勢国長島の大智院の留守借で伯父の秀精法師のもとに養われたが、二十才前後には長島藩松平佐渡守に仕えていた。二十代後半、延宝年面(1673〜81)中ごろには同家を致任、江戸に出た。既に宗因風の俳講に手を染めていたらしが、吉川是足について神道を学んだ。貞享二年(1685)深川互間堀に住み、以後ここを本拠地とする。とある。
こうした履歴書の作成は何をもとにしたのであろうか。資料の提示が欲しい。
最近書名は忘れたが「素堂と曾良は二十才前後まで共に甲斐山口と信搬上諏訪を往来して江戸に出る機会を窺い修業を積んでいた」云々
と書された本に出会った。小説かと思ったらそうではなかった。
素堂と曾良は一般には松尾芭蕉を介しての交際と伝えられるが、諸資料を細部にわたって検証すると芭蕉抜きの「素堂と曾良」の関係が見えて来る。私は仕事柄か何時も俳譜を業とする人はともかく諸芸を嗜んでいる人たちはどうやって生活していたのであろうかという疑問が脳裏から離れなかった。勿論素堂についてでもある。この疑問については最近大よそ理解できるようになってきた。
玄人と素人
しかしまだ大きな疑問がある。俳諧を飯の種とする人たちと、ひたすらたしなむ人たちの句作や作品の評価である。プロであるならば、その句において、圧倒的アマチュアとの差があると思っていたが、その作品を見ても、その優劣さが一更に理解できないでいる。
評論する先生方はそのあたりの区別をなされていないので、例えば素堂の句は淡々としすぎている。とか執着心や意欲がないなどといわれる。素堂は芭蕉と並ぶ存在であっても、その俳諧に対する姿勢は全く違っていて当然なのであり、業俳と嗜俳とは差があって当然なのである。
素堂は生涯業俳の世界には足を踏み入れることは無かったが、江戸前期に於いて俳諧や詩文などに尽くした功績は大きく、それを認めておられる先生方も多くみられる。また、多くの俳人の独立を支援したり、招いて勉強会を催していたことも資料から認められる。また序文や跋文も多く遺されていて、それは俳諧のみならず茶書の序文などもみられる。
俳聖芭蕉
さて余談であるが芭蕉も「俳聖」にまで上り詰めて、さぞあの世で苦笑して居られると思う。芭蕉の俳論にしても後世の弟子や門人と称する人々が芭蕉の口を借りて、恐山の巫女のように記述したものを、そのまま鵜呑みにして、生前芭蕉が弟子に示したものであるかのように錯覚して崇め奉る風潮は後を絶たない。
こうした風潮は、芭蕉を崇めることで、おのれの地位と知識の高さを鼓舞するもので、歴史事実と文学をゴッチャまぜにした芭蕉の姿は本来のものとはかけ離れていく。
さらに芭蕉の優位性を保つために、全ての俳人を眼下に据えて書かれるから、事実とかけ離れていく結果となる。
芭蕉くらいになればそんなに賛辞や美辞麗句をもってヨイショしなくても、その偉大さは理解できるもので、芭蕉に重ねて自らの俳論を上乗せして書かれると、読む人が混乱する。所謂、淡々と著すことが肝要である。
偽書・疑書扱い
また偽書や疑書もそれはそれで、何か得るところがあるもので、ある意味では真書より読んでいて面白いし、真実を知らなくてはかけないものである。
また偽作に携わる人々はある面では本人より達者である。画でも書でも同じで、自らの腕を一段さげて書かなくては駄目で、余裕こそが偽書の新骨頂で後世の人々を惑わせるものである。
私の手元には数多くの芭蕉研究書があるが、古い時代の方が心が安らぐ場合がある。それは「売らんかな」や「名声を得る」などの作為が見えないからである。
今後展開する『日本随筆全集』からの俳諧関係を抜粋してみれば、それはそれで、立派な俳諧研究書や注解書になるのである。(別述)
また私のように、全くの門外漢が他の分野のことを著す時には何の足かせもない。学閥や、師と仰ぐ人が周囲にいると、思うように書けない。遠慮が優先し、師と仰ぐ人より上にいけないのである。うっかり書くとその世界から抹殺されてしまう。私みたいに文学に何の興味もなく、師と仰ぐ人がいないほうが気楽でいい。
曽良
さて話が大分横道に逸れたが・曾良は俳譜研究書によると松尾芭蕉の門人として、又芭蕉の身のまわりの世話をしていたなどと見ることが出来るが、それを示す資料の提示は少ない。曾良は時の幕府の神道方を務めていた吉川惟足(これたり これたる)の門人と云うもう一つの顔を持っていた。
神道と曽良
吉川惟足は吉川神道の創始者で元和二年(1616)に生れ元禄七年(1694)に没している。惟足はもと江戸日本橋の商人であったが当時の古田神道(唯一神道)を唱え、吉田家の実力者萩原兼従(かねよリ)に神道や和歌を学び、その問幕府の重臣や津軽信教等の有力大名の信任を得て江戸で神道として地位を固め、ついには時の将軍補佐役保科正之の後援を取り付け寺社奉行配下の神道方に就任し幕臣に加わる。惟足の後は子息の徒長(つぐなが)や山崎闇斎・吉田兼敬と継承される。又、公儀神道方としては幕末までその
立場を維持したと言う。
曾良はその吉川惟足に師持していたのである。曾良は長島藩を致任後浪人したと伝えられるが、松尾芭蕉の『奥のほそ道』に同行の折りの七月伊離宮に於いて語義をしている一面を保持していたのである。
別に芭蕉の門人となったからといって、神道から離れたわけではなく、継続していて、それが晩年、幕府の用人として「壱岐」に行ったとしても何ら不思議はない。
彼の芭蕉でさえ「芭蕉忍者説』や「芭蕉隠密説」が取り沙太されているが、そうであっても時代背景からは少しも不思議はない。最近山本育氏著の『紀伊国家文左衛門の生涯』には文左衛門の俳諧人(号、千山)としての活躍や芭蕉との接触を記しているが、その中に次ぎのような記載がある。
……実は芭蕉翁の職業は幕府の目付けでした。先代藩の調査をしなければならなかったのです……
と記してある。こうした話を文学者は取るに足らないこことして無視されているが、当
時の時代背景として幕府御用達の商人や寺僧・山伏・修験僧などが、引き換え条件として情報収集や提供などの一面をもっていても不思議なことではなく、当然の事とも言える。
芭蕉が旅を自由にできたのもその引率者や同行者の身分や地位により、安定できた句作ができたのではないのか。
今回は、こうしたことが論点ではないので、場を改めて書くことにする。
曽良の手紙
曾良について村松友次氏の「芭蕉の手紙、曾良は幕府筋につながる特殊任務者ではなかったか」に次ぎの書簡を紹介されている。
岩波六郎兵衛殿
……此間申し入候とおり、今日此の者に門介さし添え候て本所
へつかわされ候様に門介に申し付けらるべく候、源十良殿
と申し候は吉川惟足の事にて御座候。門介さいさい参り存
じ候。
一、日本記 十三冊(三之巻より末一二は此方に有之)
一、旧事記 五冊 全部
一、故事 三冊 全部
一、のしめ袷(コウ あわせ)壱ツ
一、ふとん 裏表一ツ綿不入
一、かんなべ 一坪
右之分は十蔵殿へお預け申し上げ候。其の外は貰殿にて用
に候はゞ、御つかひこれあるべく候。紙どもは十蔵殿へ御
預け申し候物之通りにて候。此元発足日限未だ知れ申さず
候。十五六日頃かと存し候。以上
書簡は元禄二年(村松友次氏)
さてここで、素堂、芭蕉、曾良の俳書への入集状況を見てみることにする。
素堂、芭蕉、曾良の簡略年譜
○印 入集 ●入集無
素堂 芭蕉 曾良
1、 延宝三年(1675) 34才 32才 27才
「西山宗因歓迎百韻」 ○ ○ ●
2、 延宝四年(1676) 35才 33才 28才
『天満宮奉納二百韻』 ○ ○ ●
3、 延宝五年(1677) 36才 34才 29才
「六百番俳譜発句合」 ○ ○ ●
信章・桃青・信徳三吟、 ○ ○ ●
4、延宝六年(1678) 37才 35才 30才
『江戸新道』 ○ ○ ●
信章・桃青・信徳三吟 ○ ○ ●
『江戸広小路』 ○ ○ ●
5、 延宝七年(1679) 38才 36才 31才
『富士石』 ○ ○ ●
『江戸蛇之酢』 ○ ○ ●
『玉手箱』 ○ ○ ●
6、 延宝八年(1680) 39才 37才 32才
「両吟発句二組」 ○ ○
7、 天和元年(1681) 40才 38才 33才
『東日記』 ○ ○ ●
「素堂・芭蕉・木因三物」 ○ ○ ●
8、 天和二年(1682) 41才 39才 34才
『武蔵由』 ○ ○ ●
『美津和久美』 ○ ○ ●
「錦どる」 ○ ○ ●
「十二吟百韻」 ○ ○ ●
「八吟百韻」 ○ ○ ●
「高山麋塒主催の月見」 ○ ○ ●
9、 天和三年(1683) 42才 40才 35才
「芭蕉庵再建簿」 ○ ○ ●
『虚栗』 ○ ○ ●
10、貞享元年(1684) 43才 41才 36才
『冬のうちわ』 ○ ○ ●
11、貞享二年(1685) 44才 42才 37才
『古式百韻』 ○ ○ ●
『一楼賦』 ○ ○ ●
「三日月日記」 ○ ○ ●
「素堂、芭蕉和漢運句」 ○ ○ ●
12、貞享三年(1686) 45才 43才 38才
『飛登津橋』 ● ○ ○
芭蕉立句(花立歌仙】 ● ○ ○
芭蕉庵、蛙句合二十番 ○ ○ ○
素堂、芭蕉瓢の銘 ○
13、貞享四年(1687) 46才 44才 39才
『続の原』素堂、芭蕉判者 ○ ○ ●
芭蕉の旅立ち、句餌別 ○ ●
表虫の造り取り ○ ○ ●
『続虚栗』 ○ ○ ○
『鹿島詣』 ○ ○
14、元禄元年(1688) 47才 45才 40才
『柱暦』 ○ ○
「素堂亭十日菊」 ○ ○ ●
「芭蕉庵十三夜」 ○ ○ ●
「大通庵主道円居士迫善」 ○ ○ ○
「深川八貧」 ○ ○
「十吟歌仙興行」 ○ ○
15、元禄二年(1689) 48才 46才 41才
芭蕉、曾良『奥の細道』 ○ ○
書に、記述有 ○
『曠野集』 ○ ○ ●
16、元禄三年(1690) 49才 47才 42才
芭蕉、『奥の細道』道中 ○ ○
曾良同行。
素堂翁餞別句 ○
九月、芭蕉曾良宛書柑、素堂翁への伝言記述あり。
『いつを昔』 ○ ○ ○
17、元禄四年(1691) 50才 48才 43才
『其袋』 ○ ○ ●
芭蕉、曾良宛書簡、素堂翁の記載有り。
『西の雲』 ○ ○
『俳諧勧進牒』 ○ ○
『元禄百人一首』 ○ ○ ●
「素堂亨亭年会」 ○ ○
(素堂、曾良宛書簡による)
『嵯峨日記』 ○ ○ ○
18、元禄五年(1692) 51才 49才 44才
『一字幽蘭集』 ○ ○
素堂、母喜寿の賀宴 ○ ○ ○
『和漢俳譜両吟』 ○ ○
『韻塞』 ○ ○ ○
「素堂亭忘年会」 ○ ○ ○
19、元禄六年(1693) 52才 50才 45才
素堂、林家の門人となる。(升堂記、記事 筑波大学黄東遠氏調査、発表)
(素堂翁の記載有り。一席への誘い)
苗蕉、曾良宛書簡
(素堂の書物の事など。苗蕉、素堂に面会できず。(芭蕉、許六宛書簡)
苗蕉、絵色紙のこと。(芭蕉、許六宛書簡)
「素堂菊宴」 ○ ○ ○
20、元禄七年(1694) 53才 51才 46才
素堂、妻死去。
芭蕉、歿 素堂妻の忌中につき、葬儀に参加できない。
曾良も勤務中で葬儀に参加しない。
素堂、曾良宛書簡 ……野子儀妻に離れ申し候て……(後述)
依水、曾良宛書簡 ○ ○ ○
『枯尾花』 ○ ○
21、元禄八年(1695) 54才 47才
素堂の母夏歿。(竹洞日記)
22、元禄九年(1696) 55才 48才
『陸奥衡』 ○ ○
『韻塞』 ○ ○
『翁草』 56才 49才
23、元禄十年(1697)
24、元禄十一年(1698) 57才 50才
『続猿蓑』 ○ ○
25、元禄十二年(1699) 58才 51才
『伊達衣』 ○ ○
26、元禄十三年(1700) 59才 52才
『冬かづら』 ○ ○
27、元禄十四年(1701) 60才 53才
『きれぎれ』 ○ ○
曽良消息
ここまで俳書への入集句を中心に素堂、芭蕉、曾良のそこはかとない関係が窺うことができる。今回は提示を控えるが、素堂と曾良は曾良の晩年まで交流して形跡を示す書簡が存在する。これは周囲の調査を進めているので、結果が出たら報告したい。
さて曾良は、宝永七年(1710)六十二才し幕府は巡国使の諸国派遣を決めた。曾良は本名岩波庄左衛門に返って随員に加えられ壱岐に赴いたが、病で壱岐謄本にて生涯を終えた。素堂はこの折りに餞別吟を贈っている。(俳譜『雪丸げ』)
このあたりのことについては、さまざまな研究書があるので、今後一括して提示していきたいと考えている。
『奥のほそ道』の中で曾良が腹痛を訴えて苗蕉と離れ伊勢長鴫に先立つ箇所があるが、その時の曾良の句は、
行き行きて倒れ伏すとも萩の原である。この句を素堂は
「すなはち行きゆきてたとへ倒れふすとも萩の原に命終らんとは、風流の騒人かくあるべきことにや」
と誉めていると、野麦久人著の『俳人ノート』に見える。
春風に見失うまで婁省かな 素堂
汐千しつゞけ今日品川をこゆる人 素堂
今後提示する素堂、曾良宛書簡(その他)によると素堂翁と曾良は宝永七年、巡国使として旅立つ時までその交友が続いていたことが判る。俳人素堂、曾良として見ればそれまでだが、曾良が巡国使としてまた幕府の役人として旅立つ事を素堂は承知していたのであって、その書簡は長くなるので別の講座で提示したい。その真意を含めて大いに議論していただきたい。
私は誰も触れていない芭蕉抜きでの素堂と曾良の交友は俳譜活動のみのものではないことだけではないことが書簡などによっても知ることが出来る。
曾良は本当は宝永七年には死んではいなかったのではないかとする説がある。これについては渡辺徹氏の労作『曾良停存疑』があり、非常に興味深い説である。内容は正徳六年(1716・正徳六年は六月改元、享保元年)曾良のかつての同僚が椿名山の山中で出会った白髭の老人が曾良ではなかったかという説である。
詳細は別述する事として十分有り得る話ではある。壱岐謄本に墓石があると云うだけでは死んだという確証にはならない。そこに何らか作為があれば時代証拠を創作することなど容易なことである。自らの家系を偽り又、偽系図を作る専門家が居た位なのだから。墓石にしても同然である。墓石に年代を遡り該当する年代を刻書すれば、後世の人々には判らずそれが正しいとされてしまうものなのである。
曾良の基石の戒名の中に「刃」という一文字があると伝える書もある。これは「自害・切腹」の意味を含んでいるとその道の人は語っている。
曾良は、芭蕉の門人とされているがその末裔とされる河西周徳や素檗の句集には何故か素堂の生存中には見られなかった句も編入されている。曾良の逸品の中に含まれて居たと思われるが、これは素堂と曾良は俳誌や研究書以外の太い絆で結ばれていたと思われる。
また、芭蕉と接近した貞享三年(1686)以後俳譜に勤しむ反面、吉川惟足の幕府神道方の要員としてもその職を離れること無く務めていたと推察することも十分可能であり結論を急ぐことは避けたほうがよい。
有名な芭蕉の「奥のほそ道に随行した曾良は帰ると直ぐに吉川惟足の所に報告に行っている。「紀行文しは芭蕉のものではあるが、「曾良旅日記】に見られる曾良の行動は正しく調査の仕事内容である。「奥のほそ道」は俳諸活動を除けば芭蕉が主ではなく曾良が主役なのである。曾良が芭蕉に随行した紀行はそれぞれ調査や神道方としての目的が含まれていると考えるのが無理のない解釈である。
しかしそうした事に芭蕉が承知していたか、或いは参加していたかは資料からは窺い知ることは出来ないでいる。(推察はできる)
さてここで素堂と曾良の関係を示唆する書簡を検討して見ると、そこには……
1、元禄三年(1690)九月十二日、執筆。
一、芭蕉、曾良宛書簡(抜粋)
《引用》 今栄蔵氏著『苗蕉年譜大成』P264〜5、6。
近況・近作を報じ、新刊『ひさご集』で意図した作風にふれるほか、素堂・安適・沾徳・嵐蘭・其角・嵐雪・宗波・道因,道意・夕菊・苔翠などの江戸門人・知友、猪兵衛・桃印とその家族、勘兵衛(桃隣)など縁類の者の消息をただし、言伝てなど託す。茶入事件を起こした路通の問題にも言及。
一、素堂へ御伝へ下さるべく候。大津尚日大望の間、
菊の句芳意にかけられべくと、御頼み中すべく候。
字賀神・弁天両天神神書の旨、並びに神徳の事典、あ
らあら御書き付け成され、菅沼氏迄遺はされ下さるべく候。
縁起がましき事を書き申さで成り申さざる故、此の如くに
御座候。「幻住庵の記」も書き申し候。文章古く成り候ひ
てさんざん気の毒致し候。
○素堂なつかしく候。かさねてひそかに清書御目に懸く
べく候間、素堂へ内談承るべく候。
嵐蘭より二月の状、頃日(けいじつ)相達し、加右衛門身
代の事共委しく申し参り候ひて、大悦に存じ候。「蚊を焼
くの辞し一巻相達し、感入せしめ候。去来、文集に入れ申
し度きと申し候。
○素堂文章、此の近き頃のは御座無く候也。
なつかしく候。
九月十二日
曾良様 ばせを
元禄三年(1690)九月二十六日
曾良、芭蕉宛書簡。
《引用》 今井然天氏著『河合甘良の旅日記と其の俳句』
江戸在住の曾良が当時大津に居た芭蕉に送った書簡で、芭蕉庵付近が変わってしまったことや、自分や門友の近況など報告。
(前略)
嵐雪集出来其袋と申候、自序にて御座候。中
々出来申候、素堂手伝と承申候。
発句・歌仙等不面白候。
○素堂去年名月十三句入申候。巻頭吟にて御座候。
字賀神弁財天の事書懸御目候、別御覧不分かと無心元
奉存候、
○素堂きくの句之事得其意候、此間かゝせ中候而、
重而上せ申候、幻住庵之記之事長入存候。拝見仕度候。
参考
元禄六年(1693〉一月十二日付け。芭蕉、去六宛書簡。
《引用》今栄蔵氏著『芭蕉年譜大成』より。
去六来庵当日の不在を詫び、年初持病気気味の事、昨日淡州公邸参上の事など告げ、十五日、六日頃去六亭訪間を約す。
(前略)
先日は草々御入来候ひて又忝く、
○少しの問素堂に罷り有り、御意を得ず、
千万例残リ多く存じ候。
年不詳
芭蕉、羅月宛書簡(羅月は不明)
《引用》 『芭蕉全集・江戸文芸』(昭和四年刊)P383
夏花集豚筆書抜は御仰候へ共、名前次第之跡書直し可申と
存候へ共、其儘と有之、いづれにも近日書添へ可仕候まゝ、
まづまづ御まち可被下候。
素堂主に別書申上候まゝ是もきぬせつ下され。
書写し之事被仰越候へば、ちかき内口口又々口口此通に
御座候。
朝顔は酒盛知らぬさかり哉 はせを
年不詳
芭蕉、素堂宛書簡。(古瓦硯之銘一
引用『苗魚全集・江戸文芸』(昭和四年刊)P365
此間御咄中置候通勸學院古硯
之銘足下其角・愚老三人との
一軸に認ほしき由。一両日に
御書可被下候。且又京都上御
霊神主小栗栖大炊頭七十賀、
是は御詩作頼来候。兼で御存
のごとく醍醐内大臣様御門弟
にて、和歌も出来中候。委は
期拝一頻候。
二十四日 芭蕉庵
素堂索堂先生
この書は多くの俳請文学研究者により偽書又は疑書とされている。又、素堂が元禄三年に著した『松の奥・上下』も偽書とされているが、後世それを筆写した夏目成美が居る事からも一概に偽書とは云えない。(なぜ抹消するのか疑問)
又、『信濃略人伝』(高井蒼風氏著)によると、小林一茶(素堂歿後に葛飾蕉門の傍系の二六庵竹阿の門人とされれる)は寛政四年(1792)〜寛政十年(1798)まで西日本・四国・九州行脚の旅行中の寛政五年(1793)には葛飾派の俳祖山口素堂から二六庵竹阿に伝わった仮名口決なる《歌道の虎の巻》を書写した。
云々と記述されている。
残念ながらその場所については記されてはいない。
又、四国俳讃史(『日本文学大辞典』所集)によると、素堂・芭蕉・其角の書画三幅一対を見て感激したと記している。(これは別述あり
ここで前述した『俳講雪丸げ』(はいかいゆきまるげ)所集の素堂の句を見てみる。
『俳講雪丸げ』 元文二年(1738)信浪河西周徳編。
君火をたけよきもの見せん雪丸ケ はせを
大井川桃の雫や石ひとつ 素堂
春風にみうしなふ迄ハ雲雀哉 素堂
『長月集』所集、素堂の句。 文化十二年(1815)信濃素檗(そはく)編
唐土に不二あらば後の月見せん 素堂
此のたひは月に肥てやかヘリなん 素堂
不二つくば二夜の月を一夜哉 素堂
袖につまに露分衣月いくつ 素堂
椋の木のむく鳥ならし月と我 素堂
たのしさや二夜の月に菊添て 素堂
《素堂書簡》
元禄七年(1694)十月二十六日付け 山口素堂、曾良宛書簡
《引用》 『連歌・俳護研究』三十八号。森川昭氏紹介。
《引用》 『芭蕉の手紙』村松友次氏著所集。
《引用》 『俳讃ノート』星野変五人民著。」
御無事ニ脚務被成候哉。其後便も不承候。
野子儀妻に離申候而、
当月ハ忌中ニ而引籠罷有候。
一 桃青大阪にて死去之事
定而御聞可被成候。
御同前ニ残念ニ存事ニ御座候。
嵐雪・桃隣二十五日ニ上リ中され候。
尤ニ奉存候。
内々ノミのむしも忌明候ハゞ
其日相したゝめ可申候。
内も人の命ははかリがたく候へ共…云々
例ノ年わすれ、去年ハ嵐蘭ヲかき、
ことしは翁ヲかき中候
而、明年又たそや
この素堂の手紙は先述した森川昭氏の『連歌・俳譜研究』に紹介されたものを村松友次氏が『芭蕉の手紙』に引用されたものである。
素堂の資料を求めて大阪・大津に出かけた折りに知人により星野麦久人氏の『俳譜ノート』の存在を知り、早速取り寄せた。それには素堂の取材当時のこと。(写真掲載)句の解釈それにこの手紙の後半が記載されていた。
又、
「芭蕉は素堂から学ぶところがあり、素堂はまた芭蕉によって俳壇にその名を残した。」
とも述べている。
大智院に伝わる曾良関係の文書 『曾良の生涯』久富哲雄氏著
元禄二年(1689)八月十五日。奥の細道紀行中。
芭蕉翁伊勢長鴫大智院旅泊之時節は元禄二己辛之秋也。
武奥羽よリ三越路ヲ経回、夫より濃州勢州、其秋両宮
御迂宮ニ参詣申され候迄の旅日記ヲ奥の細道と申俳書
アリ。
其行脚ニ同行二人と笠の書付モアリ。其壱人は曾良と申
而俗名惣五郎と申候。右惣五郎なる者には其時之大智院
住持八伯父也。其縁をもちて、はせを(芭蕉〉翁此寺に
止宿申され候事ニ御座候。
元禄六年(1693)五月四日付け。
《引用》今栄蔵氏著『芭蕉年譜大成』P376より。(抜粋)
芭蕉、許六宛書簡。
○ 絵色紙、素堂へいまだ今
に得違はし申さず候問、
明日一所に之を進ずべく
候。秋み箱へ御入れ成さ
るべく候。
元禄七年(1894)五月十六日付け。
《引用》今栄蔵氏著『苗魚年譜大成』P411より。(抜粋)
芭蕉、大雨で大井川の渡しが止まリ、同所に滞留、曾良宛書簡
を執筆。(追伸に素堂の記載有り)
尚々、余波老へ預け置き申し
候素堂の書物、草々かへされ
候様に頼み申すよし、御中し
下さるべく候。浄久へも御伝
へなされ下さるべく候。
ソラ様
ばせを
前記の手紙の文章の中に出てくる「浄久」であるが、曾良にも関係があるので触れておく。
元禄七年仲夏初の八日(素龍跋による。)
《引用》『江戸文芸・芭蕉全集』P734Z35昭和四年刊。
俳諧書『別座敷』(子珊編)所集。
(芭蕉を)箱根まで送りて
ふつと出て関より帰る五月雨 曾良
深川の辺に浄久といへる道心有。愚智文盲にして、正直一
扁の者也。常に翁(芭蕉)につかへて、ちいさき草の戸を
得たり。朝夕芭蕉庵の茶を煮る事妙也。門人餞別の句を聞
居て、愚も一句せんと云て指折文字を算て、斯と言。各笑
ひあへる事やまず。され共愚成者の心を量量てしるし得る。
はなむけや綜やさらば柏餅 (粽=ちまき)
これによると芭蕉の晩年には芭蕉庵のそばに居て生活の世話をしていた浄久という人物が存在していた事が判る。『俳講雪まるげ』によると「きみ火をたけよきもの見せん雪丸ケ】の前書きには曾良がこの役をしていたと記してある。この浄久が何時から芭蕉の世話して居たかは定かではないか、曾良が芭蕉の身辺を世話をしたのは一時期だった可能性もある。
諸文献によると、素堂と曾良の関係は芭蕉死後、曾良の歿年まで続くのである。素堂の書簡や著書は非常に少なく、又あっても一部は疑書とされている。確かに芭蕉は偉大である。しかし芭蕉を支えた素堂をはじめ多くの俳人たちの存在を歪めたり、又、忘れてはならない。
素堂翁関連書簡
元禄七年(1694)
曾良宛依水書簡元禄七年(1694)三月七目付。
《引用》 『芭蕉全集』書簡集補近P383より
『芭蕉年譜大成』今栄蔵氏著P400
依水ら四、五人同伴で上野の花見に赴き、酔余、「野々宮」
「熊坂」を謡い、且つ句あり云々。『苗蕉年譜大成』よリ
明日の日をいかが碁らさん花の出
来る十八日に翁も参られ候
筈に御座候。一席催し候間
素堂子御誘ひなされ候様に
待ち奉り候。
貞享四年十二月一日付け。(抜粋)
《引用》 『芭蕉年譜大成』今栄蔵氏著P119
落梧・蕉笠宛芭蕉書簡
素堂餞別、一字二字忘れ候。
言葉書きなども御座候。
失念いたし候。
江戸より書き揃え、
寄せ申すべきよし申し候故、
写し参らず候。
尚来春御意を得べく候。
和柳御坊え(五十嵐竹沢氏所蔵)
夏花集豚筆書抜は御仰候へ共、名前次第之跡書直し
可申と存候へ共、其偲と有之、いづれにも近日書添
へ可仕候まゝ、まづまづ御まち可被下候。
素堂主に別書申上候まゝ是もきぬせつ下され、
書写之事被仰候へば、ちかき内□□又々□□此通に
御座候。
(素堂と曾良については継続します、別項にて、文中の素堂そ曽良宛書簡を含めて)
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