山梨文学講座 山口素堂素堂、曾良宛書簡元禄七年十月
解説 素堂の伝記についてはこれまで多くの過ちの中で語られてきた。今回は素堂関連の書簡の中でも重要な記述を紹介する。この書簡の原文には今だ触れる機会に恵まれていない中で下記の参考資料を継ぎ合わせて作成したものです。従って正確でない部分も含まれているかも知れません。 この書簡の内容で重要なことは、素堂の妻はこの時期まで健在であったこと。芭蕉の葬式に参加できないこと。さらに大事なことは素堂関係の書簡は、芭蕉−曾良−芭蕉と曾良を介在して成り立っていることなどです。(別の書簡数通あり、いずれ公開)
御無事ニ御務被成候哉、其後便も不承候、野子儀妻ニ離申候而、当月(十月)ハ忌中ニ而引籠罷候。 一、桃青(芭蕉)大阪ニて死去の事、定而御聞可被成候、 御同然ニ残念ニ存事ニ御座候、嵐雪・桃隣二十五日 ニ上り申され候、尤ニ奉存候。
一、元来冬至の前の年忘れ素堂より始まると名立ち候。 内々ノみのむしも忌明候ハゞ其日相したゝめ可申候、 其内も人の命ははかりがたく候へ共、云々 一、例ノ年忘れ、去年ハ嵐雪をかき、今年は翁をかき申候、 明年又たそや 曾良賀丈 素堂 参考資料 『連歌俳句研究』森川昭氏紹介 『俳諧ノ−ト』星野麦久人氏著 『芭蕉の手紙』村松友次氏著
芭蕉、十月十二日大阪にて歿。
〔芭蕉の死〕‥『芭蕉年譜大成』今栄造氏著。(掲載書名は略) 十月十一日 この朝から食を廃し、不浄を清め、香を焚いて安臥する。夕刻、上方旅行中の其角が芭蕉の急を聞いて馳せ参じる。夜、看護の人々に夜伽の句を作らせる。丈草・去来・惟然・支考・正秀・木節・乙州らに句あり。この内丈草句、うづくまる薬の下の寒さ哉 のみを「丈草出来たり」と賞す。
十月十二日 申の刻(午後四時頃)歿す。 遺言により、遺骸を湖南の義仲寺に収めるため、夜、淀川の河舟に乗せて伏見まで上る。この折の付添人は、去来・其角・乙州・支考・丈草・惟然・正秀・木節・呑舟・次郎兵衛の十人。膳所の臥高・昌房・探志ら三名、行き違い大阪に下る。
十月十三日 朝、伏見を発し、昼過ぎ湖南の義仲寺に遺骸を運び入れる。支考が師の髪を剃り、智月と乙州の妻が浄衣を縫う。埋葬は、臥高ら三名の戻りを待って明日に延期される。
十月十四日 夜、子ノ刻(午後十二時頃)葬儀。同境内に埋葬する。導師、同寺直愚上人。門人焼香者八十人。会葬者三百余人。
十月十六日 伊賀の土芳・卓袋両人、十三日に師危篤の報を得て大阪に急行。廻り道してこの日朝、義仲寺に至る。両人、師の行脚中使用の遺品を改めて伊賀の兄半左衛門のもとに送る。 杖・笠・頭陀は義仲寺奉納と決まる。
十月二十五日 この日、義仲寺境内に無縫塔が建立される。高さ二尺余の青黒の自然石の表に「芭蕉翁」背に年月日を記す。 |
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